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本好き人の365日

『沙石集』

2017-08-15 10:30:45 | 日本人作家

鎌倉時代に書かれた仏教の説話集に『沙石集』(しゃせきしゅう)というのがあります。

無住という東国の僧が書いたといわれています。

その中で、よく思い出すのがこんな話・・・(自分流に意訳しています)

 

ある僧が山の中を歩いていた。

すると年老いた農夫が畑を耕している。

かたわらには息子らしき若者が倒れており、よく見ると毒蛇にかまれ死んでいた。

農夫は僧に「あなたの行く先に私の家があります。伝言を頼めますか?」という。

「家の者に飯を持って来るように伝えて下さい。しかし今息子は死んでしまいましたので一人分でいいとお伝え下さい」

僧は農夫にたずねた。

「息子が死んでしまったというのに、なぜあなたは嘆かないのですか?」

農夫はこうこたえる。

「人間の親子というのは僅かの間の契(ちぎり)にしかすぎません。ちょうど烏たちが夜になると体を休めるために林の木に止まったりしますが、朝になればそれぞれの方向へ飛び去るようなものです。だから少しも嘆いてはおりません」

 

僧がしばらく行くと家があった。

若い女が二人分の食事を持っていたので、先ほどの農夫の伝言を伝えると、女は「そうですか」といい。一人分の食事を家に置きに戻った。

家の中には老婆がいたので、僧は「畑で死んだのはあなたの息子ですか?」とたずねると「そうです」とこたえる。

僧が老婆に「なぜ悲しまないのか?」ときくと老婆はこうこたえた。

「どうして悲しむ必要がありましょう。母子の契(ちぎり)とは、ちょうど河の向こう岸に着くまでは同じ船に乗って行くけれども、到着すれば皆、ばらばらになるようなものです。それぞれは、自らの行いに任せていくものなのです。少しも驚くべきことではありません」

 

僧は若い女にもたずねた。「死んだのはあなたの夫ですか?」女は「そうです」とこたえる。

僧は若い女に「夫が死んで悲しくはないのですか?」ときくと女はこうこたえた。

「夫婦の情は、ちょうど市(いち)で人々が行き会って用事を済ませれば方々へ帰って行くようなものです。何の悲しみがありましょうか」

 

これをきいたこの僧は「この世の因縁は仮のものであり、執心するべきではない。しかし在家の中にすら、このような心の持ち主がいるとは」と感心したという。

 

 

執心、執着って、なかなか捨てられませんよね〜

この話を読んで「冷たい」と思う方もいるかも知れません。

でも、私は時々思い返しては自分の生き方の参考にしています。

悲しみも怒りも、その大半って、自分が相手に期待しすぎて勝手に失望したり、勝手に裏切られた、という思い込みだったりするんじゃないかと思うので。

執着しなければ腹も立たないわけですし。

どんなに期待したって、しょせん他人、しょせん人間だから。

この場合の「しょせん」というには、笑いながら「そんなにたいしたものじゃないよ」「肩の力抜こうよ」という「しょせん」

どこかで人間を過大評価していて、自分と同じように考えたり思ったり、気を使ったり思いやったりしてくれるのが当然、なんて思っちゃっている時があるんですよね。

エスパーでも無い限り、あなたの心なんて誰にもわかりません。期待のかけすぎ。

そんな人間が、一時とはいえ親子になり、夫婦になり、友人となり、いろんな関係性でつながる。

だからその一時を大切にする。

その関係をずっと続けたい、維持し続けたい、変わらない明日を過ごしたい、というのは執着。

この気持ちをずっと感じていたい、傷つきたくない、変わりたくない、というのは執心。

変わらないものなんてない。未来永劫続くものもない。

自然界はそうなってはいない。それはかなわない。

無理なことを押し通そうとすると苦悩が生まれる。

心静かではいられなくなる。

諸行無常。

この世の一切はすべて移り行く。

 

 

まぁ、私なんて時には怒ることも必要だし、欲に正直になることもあっていいと思っているので、仏教の目指す「悟り」には縁遠い人間です(笑)

それでいいと思っています。

しょせん人間なんだし。

ただ、あまりに執着しすぎて身動きが取れない人に接したり、他人を自分の思い通りに動かそうとする人に出会ったり、自分自身、心のやわらかさを失いかけている時なんかに、このお話を思い出します。

移り行くことは変化すること。

いつまでたっても変化できる自分でいたいから。

 

 



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