インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

昭和のディスコ・ムゲンの定番チークナンバー

2016-04-30 19:16:44 | ラッパー子息・音楽ほか芸能
七十年代の新宿のディスコ・ムゲンでよくかかっていた「メリー・ジェーン」、何年か前にも紹介したことがあるんだけど、とてもいい曲なので再紹介したい。
以前は歌詞入りの動画を紹介したが、今回は歌手つのだひろ(漫画家のつのだじろうと兄弟とは、知らなかった)がムードたっぷりに歌っている動画をどうぞ。

メリージェーン つのだ☆ひろ

ウイキによると、
作詞:Christpher Lyn(クリストファー・リン=蓮見不二男)、作曲:つのだ☆ひろ、編曲:成毛滋・葵まさひこ。
1971年6月につのだの所属したバンド「ストロベリー・パス」(1970年に結成されたバンドで、当時日本のトップギタリストとして人気を得ていた成毛滋がフード・ブレイン脱退直後のつのだ☆ひろ(当時は角田ヒロ)と結成)のアルバム『大鳥が地球にやってきた日』に収録された。この時のタイトルは「Mary Jane On My Mind」であったが、直後に現タイトルに変更した上でシングルカットされ、田原総一朗監督の映画『あらかじめ失われた恋人たちよ』(桃井かおりのデビュー作。共に岩波映画出身、劇作家の清水邦夫と、当時気鋭のテレビディレクターとして知られていた田原総一朗による傑作青春ロードムービー)の主題歌に採用された。
1972年7月に同一音源から間など数小節に編集を加えたバージョンがつのだ名義でのシングルとして再発された。
本楽曲は爆発的に売れたことはなく、発売から7年で50万枚を売り上げ日本フォノグラム (現:ユニバーサルミュージック) 主催「ゴールデン・ミューズ賞」を受賞した。
2005年現在で一説には累計売上は200万枚以上とも言われるが、レコード会社の改組や移籍後の再録音盤等があったため所属のレコード会社でさえ把握できておらず正確には不明である。


11年前で累計200万枚以上ってことは、今はもっと売れてるってことだな。

以下、赤坂ムゲンについてのページを引用。
伝説のディスコ「赤坂ムゲン」がオープンしたのは、今から40年前の昭和43年(1968年)の事でした。その当時はディスコとは呼ばれず、ゴーゴークラブと呼ばれていたように思います。その3年くらい前からモンキーダンス、ゴーゴーダンスが流行し新宿、赤坂、六本木、横浜にはゴーゴークラブが乱立し始めました。

そんな中での「ムゲン」のオープンでしたが、ムゲンが他のゴーゴークラブと違ったのは生の黒人バンドを出演させた事です。その当時、新宿ではグループサウンズが出演していたり、六本木ではフィリッピンバンドが主流だったので、「ムゲン」の黒人生バンドのR&Bの迫力には皆、圧倒されました。

店の内部もサイケデリックなイメージなのに大人っぽく豪華、フロアはそんなに広くはなっかたように記憶しています。

その当時の「ムゲン」に詳しい方の話によると来ていたお客さんが超一流の有名人ばかりで、三島由紀夫、川端康成、渋澤龍彦、渡辺美佐、丹下健三、小沢征治、横尾忠則、篠山紀信、三宅一生、コシノジュンコ、加賀まりこ、安井かずみ、沢田研二などなど、紀伊国屋書店社長の田辺茂一氏もステージに上がって踊っていたとの事、すごい顔ぶれですね。こうなるとディスコというより一種の日本の文化サロンですね。


私が七十年代後半通っていたのは、新宿ムゲン。当時ディスコがはやっていて、会社の飲み会の二次会なんかでもよく行ってた。父が急逝したショックから一人でやけくそに踊ってたら、ミュージックマガジンの編集者というひげ男にハントされたっけ。
「メリー・ジェーン」でチークを踊った人とは結ばれなかった。どうしているかなあ。ハンサムで誠実な人だったから、いいお父さん、いや、おじいさんになっているだろう。
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復活の手探り

2016-04-29 17:00:17 | 私の作品(短編・エッセイ)
今朝、文芸思潮誌のエッセイ投稿原稿を送付した。
書き下ろしでなく、ストックしてあった未発表の原稿を改筆したもの。戻ったのが17日で、今回はさすがに投稿は無理かと半ばあきらめていたのだが、未発表のもので出せそうなものはないかとチェックしていて、恰好のものを見つけたので送ることにしたのだ。

昨年もエッセイ賞の佳作に輝いたので、年中行事の一環として締め切りぎりぎりでも出せてよかったと思う。
ぼんやりと短い小説を金沢の地元紙が発行している文芸誌に送ってみようかと思っているのだが、募集要項など本誌の末尾に載っていただけで、ネットで大々的に公募していないので、締め切りもうろ覚え、必要個人情報は何を記せばいいのかあやふやだが、年に何回か募集しているようなので、行きあたりばったりに送ってしまってもなんとかなりそう。

まだ復帰体制は完全に整ったわけでないが、毎日ブログを書いているのだから、短いものだったら、なんとかなりそうな気がする。

というわけで、漠然とストーリーを練ったりしている。

当地は曇天で、今日はわりと涼しめ。
四月中は、酷暑期でも当地の場合、耐えられる暑さである。

来月早々には息子が帰郷する。
しかし、動画のロケで超多忙そうだ。
フォーシーズンというインド産の赤ワインを州都で買い置きしてあるので、夜は酒盛りだ。グロヴァーという割とおいしい白ワインも冷えているのだけど。

今日あたり、暑いし、久々に缶ビールを呑もうか。

音楽は、クラシック、ピアノの詩人、ショパンが感性に合う。
The Best of Chopin

フランスの女性作家、ジョルジュ・サンドとのマヨルカ島(地中海西部のバレアレス海に浮かぶバレアレス諸島にある最大の島)への逃避行が有名だが、これを小説化したのが平野啓一郎(三島由紀夫の再来と喧伝される作家)の「葬送」(2002)
物語の舞台は19世紀中盤のパリ。1846年11月から天才音楽家ショパンの死まで、2月革命前後の約3年間に焦点が当てられる。パリの社交界を舞台に、ショパンと愛人のジョルジュ・サンド夫人との愛と確執や、ショパンと友人の画家ドラクロワという2人のロマン主義者の関係を中心に物語は進行していく。深刻な病に身をむしばまれながらも、故国ポーランドへの愛を抱き続けながら、芸術家としての道をまい進するショパン。一方、下院図書館の巨大な天井画を完成させ、画壇に確たる地位を築きあげていくドラクロワ。2人の芸術と人生への思いが、精密な心理描写によって活写されていく。

圧倒的な筆力と高度な方法意識によって紡がれる『葬送』は、長編小説を読むことの喜びを改めて感じさせられる作品である。ショパン臨終に向けての劇的な展開は、感動を超えて、ある種の崇高な感情を覚えさせられる。年譜的事実を踏まえた歴史小説として、また、ショパンとドラクロワという2人の芸術家の交流と友情を描いた伝記小説として、ショパンとジョルジュ・サンドの関係を描いた恋愛小説として、19世紀中盤のパリの社交界を描いたサロン小説として、パリの都市風俗を活写した都市小説として、2月革命前後の時代状況を描いた政治小説として…。つまりは普遍的な「小説」として、『葬送』の作品性は傑出している。まさに、読まれるべき長編小説である。(榎本正樹)

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情痴小説か純文学か

2016-04-29 14:48:38 | 私の作品(短編・エッセイ)
昨日、青空文庫で近松秋江「黒髪」(1922)を読んだ。
この作品について知ったのは、日本滞在時読んだ「小説家の四季」(佐藤正午、佐世保在住の著者が岩波書店の月刊誌『世界』に2008年から年4回連載した随想を編纂、カバーにもなっており本書中にもあるイラスト絵が素敵)を通してである。
同書で黒髪論のようなことが展開されていて、大正11年の古い小説だから、青空文庫でただで読めるだろうと、戻って早速見つけて読んだのである。

短いものなので、三十分くらいで読めたのだが、これを情痴小説とはずいぶんひどい言い方だと思った。京都の廓の美人芸妓に入れ揚げる東京在住の主人公が、落籍(ひか)すにあたって、女の優柔不断な反応にやきもきしたり、逢えない時間が長いためいろいろよからぬ憶測をする話だが、古都の自然描写が匂いたつように美しい。京都の情緒がよく出ており、京都愛好家の私は、惚れぬいた芸妓が思いのままにならぬじれったさ、苛立ちなどの心理描写と重ねてのしっとりと古雅な自然描写に脱帽であった。

女性の容姿も事細かに描写されており、はんなりと美しい京女のイメージが浮かび上がってくる。
やきもきしたわりには、女が母と別のところに所帯を構え、花柳界から足を洗う覚悟でいるのを知ってほっとする落ちだが(とはいえ、仏壇の後ろに未知の男性の写真が見つかったりという穏やかならぬ伏線もあるが)、実は黒髪には連作(「黒髪」、「狂乱」、「霜凍る宵」の三連作からなる)があり、そのほかの作品は全集を紐とかないことには、読めそうもない。
後続の二編を読めば、情痴文学と通称されるわけも納得するのだろうか。

次の金沢滞在時、図書館にあったら読んでみたい。

以下関連記事。
情痴小説へのいざないー「黒髪」「狂乱」「霜凍る宵」近松秋江

東京大学文学研究会公式ブログ
近松秋江『黒髪』読書会


以下、ネットページから一部引用。
恋愛の究極の成就は、「心中」だと「秋江」が何処かで書いていたようにおもいます。本名は「徳田」ですが、近松浄瑠璃(近松門左衛門)に心酔するあまり「近松秋江」に改名したそうです。近松浄瑠璃の「道行き」や「心中」に究極の「愛」を見つけていたのでしょう。亡くなった時、胸に「黒髪」のモデルの写真を抱いていたそうです(朝日新聞参照)。何人かの女性を愛し追いかけていた経験を作品にしているので、信じられない気持ちでしたが、「黒髪」の芸妓は、何十年も思い続けていたのですから、よほど好きだったのですね。

逃げる女を追いかける、今でいうならストーカー小説、しかし最初の内妻にはほかの男の元に逃げられたが、正式に籍を入れた二番目の奥さんとの間には子を設け、体が不自由になったとき家族の看護を受けている。娘さんが「お父さん、若い時散々遊んだけれど、お母さんと結婚してよかったでしょう? こうして私達が一生懸命看病しているんだから」と言うと「うん、うん」と頷いていたとか。
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不幸を売り物にした七十年代の怨歌スター(動画)

2016-04-28 15:06:29 | ラッパー子息・音楽ほか芸能
日本滞在時、昭和の歌謡曲関連のエッセイを何冊か読み込んだが、藤圭子がモデルと思われる五木寛之若かりしころの小説、『涙の河をふり返れ』<(作品集)文藝春秋 1970年、のち文春文庫>がよかった。

五木寛之は六十年代、クラウンレコード創立に際して専属作詞家(のぶひろし)として迎えられ、童謡や主題歌など約80曲を作詞していた経歴があり、その頃の体験を基に書いたものだった。新人演歌歌手を売り出していく過程で、不幸を売り物にプロデュースして大衆の機微に触れ大成功する逸話は、藤圭子を産んだ親といわれる石坂まさを(2013年3月9日、長年の闘病生活の末にこの世を去った。71歳没。また、同年の8月22日には藤圭子も高層マンションから飛び降り自殺した。享年62歳。奇しくもこの翌日は関係者有志による『石坂まさをを偲ぶ会』が都内の会場で開かれる予定日となっていた)が一読して影響を受けたといわれ、著者自身は藤圭子モデル説を否定しているが、藤圭子の歌は演歌でなく怨歌といい、LPレコードを夫人とともに聞いて凄みのあることは認めていた。

事務所から笑うなといわれ暗く不幸な少女を演出した藤圭子の生い立ちは大衆の同情を引くに恰好のものだった。岩手県一関市生まれ、北海道旭川市育ちで、幼い頃から浪曲師の父と三味線瞽女だった盲目の母に同行、旅回りの生活で自らも歌っていたが、家は貧しく(冬に着る上着さえ持っておらず、寒さに震えているとき、二度も見知らぬ他人から上着を与えられたという)、成績優秀にもかかわらず高校進学を断念せざるをえなかった。17歳の時に岩見沢で行われた雪祭り歌謡大会のステージで歌う姿が当時売れない作詞家だった石坂まさを(沢ノ井龍二)の目に留まり、上京。約1年間、初代林家三平宅に下宿し、1969年9月25日、RCAレコードより「新宿の女」でデビュー(20週連続1位で88万枚)。続いて間をおかずして「女のブルース」がヒット(17週連続1位で110万枚)、三曲目の「圭子の夢は夜ひらく」(1970)はそれを上回る120万枚となって大ブレークした(初期のヒット曲はすべて、師の石坂まさをの作詞によるものだった)。
石坂が藤にぞっこん入れ揚げたのは、自らも母子家庭で不遇時代が長かったことの共感があったからかもしれない(「悲しき歌姫」も読んだが、藤圭子の伝記というよりは、石坂まさをがいかに尋常でない熱意でもって<それこそ気違いじみた>藤を売り出したかということに目を見開かされる、半分彼の伝記ともなっている)。

藤の京人形のような美少女振り、笑わない玲瓏な美顔からハスキーなどすのきいた歌声が洩れると、そのギャップが聴衆を魅了、ミリオンセラーの演歌アイドル歌手へとのし上がっていく。

ちなみに、作中(「涙の河を振り返れ」)の「艶歌の龍」として登場するレコード界の一匹狼・高円寺竜三は、音楽ディレクター・馬渕玄三(島倉千代子、小林旭、美空ひばりを日本コロムビアからプロデュース、後年日本クラウン設立)がモデルとなっているのは通説である。

それでは、悲劇的な最期を遂げた藤圭子の1969年のデビュー曲をどうぞ。
新宿の女

もうひとつ、極めつけはこれ、120万枚の大ヒット(1970)。
圭子の夢は夜ひらく

*藤圭子の伝記では、自殺の二ヶ月後に発表された、三十四年お蔵入りになっていたといういわくつきの、高層ホテルのバーで火酒(ウオッカ)を呑みながら、杯を重ねるごとに章が区切られる洒落た設定で、会話だけで進行していく新形式のノンフィクション、「流星ひとつ」が秀逸(藤圭子<当時28歳>と沢木耕太郎<当時32歳>は異性として惹かれあっていたとの説もある。藤圭子は引退後<喉のポリープの手術を受け、声の質が変わったことが理由で、それはインタビュアーの沢木にも述べている>、渡米したが、現地で沢木を待っていたともいわれる。確かに同書で展開される会話はインタビュアーと取材相手というよりは男と女のもの、それだけにスリリングなのだが。引退直前の歌姫が沢木に次第に心を開き、内奥にあるものをさらす過程がただならぬ緊密さに思われる。これだけの本音を引き出した沢木ならではの手腕である。
なお、沢木がこの作品を封印したのは、自分のニュージャーナリズムという新趣向のために藤を利用しただけではないかとの疑念にとらわれたせいだが、藤の自死を知って、彼女のかつての水晶のように硬質で透明だった精神、清潔に匂いたつ烈しさ、藤圭子の最も美しい瞬間を、精神の病に苦しんでいたと発表した娘の宇多田ヒカルに知ってもらいたいとの意図から、刊行を決めたそうだ)。

以下、関連ネット記事。
それは恋だったのか。沢木耕太郎と藤圭子の濃密な時間『流星ひとつ』

*蛇足ながら、沢木に触発されて、私も会話体だけの短編小説、「アラマンダの追憶」(文芸思潮主宰銀華賞佳作)(アラマンダは熱帯の紅紫の漏斗状の花のこと、写真はこちら、花言葉は恋に落ちる前、隠された美、楽しい追憶)を書いた。州都のバーで空けるカクテルの杯数とともに、昔深い仲にあって破局を迎えた男女の再会劇が展開される。「涅槃ホテル」(李耶シャンカール)の最後に納めましたので、興味のある方はご一読ください。
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還暦と厄

2016-04-27 14:02:30 | 私・家族・我が安宿
昨年一年は怪我や病気で散々だった私、菊水庵(犀川の雅号が菊水川で、犀川のほとりの隠れ処的小部屋という意味で、自称菊水庵、昨年七月に入手)の近くの小神社で、なんと厄年だったことに気づき、愕然としたものだ。鳥居の脇に立て看板が出ており、男女の厄年が生年とともに記され、お祓いを薦めていたのだ。
2016年が明けたことの初詣に行ったそこには、男女とも数えで61歳が厄と記され、昭和31年生まれが本厄とあった。

私は1954年(昭和29年)生まれなので、昨2015年は後厄ということになるようだが、昭和29年でも末の12月の生まれで、ほぼ一年くらいの誤差があるから、やっぱり去年が厄だったのである。なんだか、還暦で子供還りというおめでたい側面しか見なかったが、ひとつには、数えの61歳は男性の厄年と流布されていたこともあろう。

女性の厄は19歳、33歳、37歳が通念で、過ぎたと思い込んでいたようだ。
ウイキで調べてみると、地域によっては、61歳も女性の厄とあって、なるほどである。
時代とともに寿命は延びてきているので、遠い昔の風習がそのまま当てはまるとは一概に言えないし、女性は更年期の四十代後半ごろも汲みいれられるべきと思うのだが、ウイキには
平安時代の『色葉字類抄』では「厄 ヤク 十三 廿五 卅七 (四十)九 六十一 七十三 八十五 九十七 謂元事[1]」、鎌倉時代に成立した『拾芥抄』下末八卦では清原枝賢等筆永正7年(1510年)写本では「厄年 十三 廿五 卅七 四十九 六十一 七十三 九十九、寛永9年(1632年)の刊本では「厄年 十三 二十五 三十七 四十九 六十一 八十五 九十九とある。『仏説灌頂菩薩経』では七、十三、三十三、三十七、四十二、四十九、五十二、六十一、七十三、八十五、九十七、百五」とする。

とあるから、49歳も入っていることになる。

一般的に男性と女性の厄年は異なり、本厄は男性の場合は、数え年で25歳、42歳(死に)、61歳、女性の場合は19歳(重苦)、33歳(散々)、37歳とされている。特に男性の42歳、女性の33歳は大厄と呼ばれ、凶事や災難に遭う率が非常に高いので十分な警戒を要するとされている。 いずれの厄年にもその前後1年間に前厄(厄の前兆が現れるとされる年)・後厄(厄のおそれが薄らいでいくとされる年)の期間があり、本厄と同様に注意すべきとされる。また、地域や宗派などによっては61歳の還暦を男女共通で厄年とする場合もある。

ところで、還暦厄だが、赤いものが魔よけになるとのことで、赤いちゃんちゃんこで還暦を祝うのは有名だが、そうと知ってたら、菊水庵のカーテンも赤にすればよかったと後悔しても後の祭り。
体が弱っていたので、赤いカーテンは気持ち的にきついなと避けて、結局無難にベージュを選んだのだが、部屋の配色から言えば、赤かブルーがよくて、後で後悔したものだった。

厄年の風習は平安時代から続いているようだが(文化人類学者の小松和彦は、「平安時代は貴族は毎年厄払いをしていた。江戸時代に入って暦の普及とともに厄年も普及し神社仏閣での厄除けが流行した。現代は成人儀礼として行われている」と述べている)、私個人の例をとっても、19歳、33歳、37歳とも、大変な年だったし、経験則・統計学的なものもあるのだろう、当たっているような気がする。19歳は青年期の目覚めの年で懊悩、33歳は肝炎まっただなかの難産で九死に一生を得(結婚・出産が厄除けになったかも)、37歳のときはインドに失望し、帰国を真剣に考える苦悩にさらされた(実験的に三ヶ月ほど夫婦で帰国、共稼ぎ)。

体が変調をきたしやすい節目という意味では、初老期に入る六十代はまさに男女問わず、そうである。
のんきな私はそうとも知らず、初の小説本(「涅槃ホテル」の購入はこちら。アマゾンでは残り一冊となりました。お早めにどうぞ、以下は星五つのレビューです)を還暦記念に出したりして、おめでたいことであった。

赤いものが魔よけになる(厄年と還暦祝いの関係と注意点)と知った今は、息子の恋人が仕事で中国に派遣され、お土産に買ってきてくれた「福」という赤い字が円形の透明なプラスチック板に記されている赤い房付きの吊るしものを書斎に飾っておこうかなんて、考えている。
遅ればせながら、夏に日本に戻ったら、率先して赤いものを買いたい。

厄年の方、これから厄年を迎えられる方、迷信と退けずに、用心なさってくださいね。
厄だから悪いことが起きるとは限らないけど、お祓いもやってもらったほうがいいかも。気休めにしかならなくても。
それから赤いグッズで身の回りを飾りましょう。

私は気づくのが遅すぎたので、今からその年齢周辺の読者諸氏に警告させていただく。


●厄年一覧(日本国内の一般例)
前厄  本厄  後厄 
(男性)
24歳  25歳  26歳
41歳  42歳 43歳
60歳  61歳 62歳

(女性)
18歳  19歳  20歳
32歳  33歳  34歳
36歳  37歳  38歳


厄年の根拠(ウイキ
厄年は出典が無い事から迷信ともされているが、それを踏まえた上で厄年の説明なども行われている。19歳、25歳は青春期に当たり、また33歳、42歳は青春期を過ぎ、中高年期への過渡期に当たる事から、人生のうちでも曲がり角でもあり、男性の場合は社会的にも責任が重くなり、それゆえ精神的・肉体的にも疲労などが多く、女性の場合は子育てあるいは主婦として非常に多忙な時期でもあり、不慮の事故やけが、病気なども起こりやすいとしているが、統計的にはそのような物は存在しない。 本厄の年に「厄祓い」・「厄除け」を行い、神仏の加護を受けて凶事や災難を未然に防ぐ慣習もある。また、凶事が起こらなくとも、大厄の年齢では肉体的にも体力の低下や反射神経の鈍化など、衰退が顕著になる時期でもあり、医師の診察を受けた際に体調不良を訴えやすいともいう。健康管理などの面でも注意が要される年頃でもあるともいう。


ウイキの末尾に、厄除けで有名な神社仏閣一覧も掲載されているので、興味のある方は本文をご覧ください。
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アジアの歌姫二十周年

2016-04-26 14:29:33 | ラッパー子息・音楽ほか芸能
日本滞在時、生前アジアの歌姫として隆盛を博した、テレサ・テンの伝記を読んだ。
「テレサ・テンが見た夢―華人歌星伝説」(1996、平野 久美子 )がそれである。
二つの中国に引き裂かれた運命の歌姫、いつかは中国大陸でコンサートをと夢見ながら天安門事件の民主主義弾圧で失望、夢を断たれたテレサの苦悩がにじむ力作で、後日金沢市の街中の玉川図書館でたまたま彼女のCDを見つけたので、いそいそと借りてきたのだが、これがいろいろ借りた曲の中では一番よかった。

お馴染みの「愛人」「つぐない」「時の流れに身を任せ」はじめの日本での全ヒット曲が納まった名盤でうっとり聞きほれたものだ。

そんなわけで、だいぶ前にこのブログでもアジアの歌姫というタイトルで、テレサを紹介したことがあるが、改めて取りあげさせていただくことにした。

国民党の軍人の娘として、台湾で生まれ、最後まで「一つの中国」を願ってやまなかったテレサ・テン、最後はタイで客死、数奇な人生を終えた(1995年5月8日、静養のためたびたび訪れていたチェンマイのメイピンホテルで気管支喘息による発作のため死去。42歳歿、同月28日に台北で国葬が執り行われ、世界各国から3万人ものファンが詰め掛け、棺は中華民国の国旗と国民党党旗で覆われ、台湾での国民的英雄ぶりがうかがえた)。

以下、透明感のある美しい歌声をどうぞ、懐かしんでください。

テレサ・テンDVD 「テレサ・テン メモリアルTV」
45分ごろのラストソング「悲しい自由」を歌う前の片言の日本語の挨拶が胸を打つ。天安門事件に胸を痛めていたテレサは自由でいたいと自由を誰よりも重んじる発言、時間がなくて全編観れない方もこの部分はお見逃しなく。

テレサの波乱万丈の人生の感動的なドラマもどうぞ。
麗君的故事~~

ウイキから一部引用。
テレサ・テン(Teresa Teng、1953年1月29日‐1995年5月8日)、中華圏で使用された名前は麗君(普通話:デン・リーチュン、台湾語:テン・ルクン)は、台湾出身の歌手。日本、中国(80年代には大陸でもひそかにテープが出回るようになり、「昼は小平、夜は麗君(テレサの中国語の芸名)が支配する」とまで言われるようになった)、香港、タイ、マレーシア、シンガポール、北朝鮮等でも絶大な人気を誇り、「アジアの歌姫」の名声をほしいままにした。
作品の累計売上は、控えめに見積もっても1億枚を超える。

2015年5月23日「テレサ・テン(トウ麗君)メモリアルコンサート~ 没20年追悼チャリティ音楽会~」が、 渋谷公会堂で行われた。司会は、徳光和夫で、3Dホログラム映像でテレサ・テンの中国語版「時の流れに身をまかせ」「月はわが心」の2曲が再現された。


*最後の恋人は15歳年下のフランス人男性(カメラマン)だったが、母親の反対があって結婚できなかったようだ。それ以前の若いときに(81年)、香港の富豪男性との熱愛、婚約解消が話題になったが、恋愛に関しても波乱に富んだ人生だった(上記ドラマを鑑賞ください)。
没後20年のテレサ・テン、最後の恋人と結婚しなかったのは「母親の反対」―香港紙
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ファッショナブル・アルフィー(動画)

2016-04-25 18:48:21 | ラッパー子息・音楽ほか芸能
アルフィーの記事を書いたら、読者数が急増してびっくりした。
アルフィーの隠れファンて、意外に多いのかも。
高校生バンドでスタートしたのが、プロとして41年も続いているなんて、只者じゃない。

それに私と同い年なのも親近感を覚える。
還暦過ぎて、ここまでパワフルな現役バンド、応援したくなる。

で、引き続きアルフィーの動画を覗いていて、とてもいい曲を見つけたのでご紹介。
THE ALFEE - 太陽は沈まない
(2002、フジテレビ系ドラマ『ショムニ FINAL』主題歌。大阪国際女子マラソンイメージソングでもある。アルフィー五十枚目のシングルで売り上げ十万枚を記録したのはこれが最後とか。作詞作曲はリーダーの高見沢俊彦、詞はこちら

メンバーのファッションに注目!
ソバー(sober)な桜井(ベースとボーカル担当。高校時代にアルフィーを作った男、アルフィーの元祖といわれる。高見沢ほどではないが、自身も変形ベースギターの持ち主であり、F-1マクラーレン・ホンダベースや自らの顔がキングになっているトランプ柄のベース・王将ベース、エルヴィス・プレスリーの顔が描かれているものをもっている)、坂崎さん(アコースティックギター担当だが、ドラムやベース、ピアノほかの多彩な楽器を自在に弾きこなすマルチ奏者で、ロックの奏法しか出来なかった高見沢にはフォークに欠かせないスリーフィンガー・ピッキングを教えた。軽妙かつ面白いトークで"God Of DJ"の異名を取り、かつ物まねの達人、自身のラジオ番組をもちソロとしても活躍)がここではとてもおしゃれ。

桜井さんの黒の別珍ジャケットなんて、サイコーである。
坂崎さんのワインレッドのストライプ柄のツーピースとピンク&紫のスカーフの取り合わせもグー。
タカミー(高見沢の愛称、1982年、アルフィーが行ってきたフォーク路線から、高見沢主導のロックバンド路線へ転向、それに伴い、自身がリーダーとなり、メンバーの曲の殆どを担当する。ソロ活動も行う。『ドラえもん』の主題歌とウルトラシリーズの主題歌を両方歌ったアーティストは彼だけ)はいつも派手派手ファッショナブルだが、フリル一杯のホワイトブラウスにブルーのロングジャケットもグッドルックスに一段と映える。紫色のエレキギターに注目、マニキュアも紫だ。
坂崎さんも合わせて、紫のギター。

三人の色のコーディネートが決まっている。

それに歌がとてもいい。
歌の合間のタカミーのソロギター演奏もグー。
必見の動画です。
ビューも65万人以上。

お楽しみください!

THE ALFEE - 太陽は沈まない

こちらのおなじみヒット曲のトリオファッションもご覧ください。
星空のディスタンス THE ALFEE 2005
タカミーのエンジェルギターと、お引きずりの派手派手ロングジャケット(黄色地に大輪の紅薔薇)に注目! 終盤のトリオの楽器演奏がすごい(タカミー、衣装代大変だろうな、年収は1500万近くというけど。華があって見ていて楽しい)。
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金沢ライフを振り返って

2016-04-25 15:37:05 | 
金沢での生活の端々がちらりと脳裏をよぎる日々、四ヶ月という初の日本長期滞在を終えて戻ったが、三十年居住している移住地なのですぐ順応し、また日常の懈怠が戻りつつある。
熱帯地なので、心も体も緩む感じで、寒くて緊張していた金沢と違い、心身が伸びやかに広がっていくようである。住居の広さいかんも、精神に関係してくるのだろう。

かといって、海外生活を謳歌しているのとは程遠く、実は飽き飽きしていたといったほうがよい。だから、金沢での長期滞在はいい気分転換になったし、活字飢餓も癒せてよかったのである。難は冬で寒かったこと。狭い一室のみのマンションで心身ともに縮かんでいた感じ。しかも、家族と離れての独居、厳しい一面もあったが、学ぶことは多かったと思う。
犀川の近くなので、雄壮な川と上流の彼方に聳える雪山、春にかけては土手の桜並木と、環境のすばらしさも堪能できた。

整備された広大な緑地が河原に広がり、散歩にはもってこい。寒さが厳しくなると、さすがに冷たい川風が吹き付ける河原に降りるのは億劫になったが、それでも、極力外出して橋の上からの絶景を楽しんだものだ。

120日余の滞在で200冊以上読破したが、小説・エッセイではまったのは五木寛之、なかにし礼、石原慎太郎、西村賢太はじめ、古井由吉、色川武大、水上勉、吉行淳之介、川端康成、車谷長吉、玄有宗久、宮本輝、渡辺淳一、伊集院静、白川道、田中英光、津村節子、瀬戸内寂聴、高樹のぶ子、山田詠美、桜庭一樹、桐野夏生、DHローレンス、町田康、荒川洋治(母校藤島高校の先輩で詩人かつ文芸評論家)、窪川誠二郎(水上勉の私生児)、高田浩(石川県大聖寺生まれの自然愛好エッセイスト)、清川妙、下重暁子、井上雪(金沢在住のローカル作家だったが故人)、精神世界書では斉藤一人、日野原重明、ロンダ・バーン、思いつくままに順不同で挙げてみたが、雑食で終盤は新着図書や写真集も手にとったりした。

泉野図書館付設の喫茶室・なでしこカフェで、図書室から拝借してきた写真集や興味ある評論集(三島由紀夫の「豊饒の海」論など)を180円のホットをちびちびやりながら二時間内にぺらぺら見終えて返すのがほぼ日課と化していた。あえて借りるまでもないが、ちょっとめくってみたいという図書を拝借し、喫茶室に持ち込むのである。

その後で本命を借りて、地方紙二紙をざっと読んで戻ってくるのが常だった。
上菊橋を行き帰りに経由するので、絶景を眺めながらの散歩がてらの図書館通いで、金沢生活のリズムともなっていた。

当地に戻ってきて、日課は海辺への散歩に戻ったが、平地と比べて歩きにくいし、散歩時間も半減、その分ヨガで補っているが、やっぱり片道三十分くらい歩かないと、歩いた気がしない。大体一時間三十分くらいで一万歩(7.5Km)というから、それくらいが望ましいのだろうが、金沢ウオーキングは往復一時間で三十分足りないけど、河原に出てぶらぶらするともあったから、そうすると一万歩くらいになるだろうか。

当地では往復三十分で全然足りないなあ。
悪路で狭い道に車やオート三輪、バイク・自転車があふれているので、メイン道路を歩く気にはならないし。
そう考えると、やはり、川辺の遊歩道というのは理想的だ。平坦な舗道というのは足にも優しいし。

私は大のウオーキング党。
若いときから二、三時間の気ままな逍遥に身を任せてきたが(目的のない、ぼんやり物思いにふける散歩)、金沢は道路が美しく整備されているので歩きやすかった。夫も高血圧のため、早朝のウオーキングを日課としているが、犀川緑地の遊歩道にはきっと満足するだろう。

金沢の古書店、香林坊のhttp://www.oyoyoshorin.jp/%E5%BA%97%E8%88%97%E3%81%AE%E3%81%94%E6%A1%88%E5%86%85/109ビル裏のせせらぎ通りの尽きる角のオヨヨ書林(変わった店名は小林信彦「オヨヨ」シリーズから)で買って持ち帰った二冊(「私の宇野千代」(瀬戸内寂聴)、「赤目四十八瀧心中未遂」(車谷長吉)は、東京のブックオフで求めた文庫十冊より面白かったことも付け加えておこう。

*以下はオヨヨ書林についてのネットページ(店の写真入り)から。
店舗はもともと大正時代に鉄工所として使われていたレトロな建物を改装したもの。約100平方メートルの店内は、高い吹き抜けの開放的な空間に高さ3メートルの本棚が設置されています。建物の外観はさすがに年季が入った印象だが、一歩店内に足を踏み入れると柱や梁は黒系のシックな色調に塗り替えられ、落ち着きと開放感あふれる雰囲気。
営業時間は11時~19時。年中無休。〒 920-0865 石川県金沢市長町 1-6-11 tel/fax:076-255-0619 文芸書、思想、社会科学、絵本など扱っているが、今のところジャンルとしては、文芸・思想・詩などがメイン、タテマチ店のほうはアート系が充実。

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ラッパー子息の新作予告編

2016-04-25 15:16:35 | ラッパー子息・音楽ほか芸能
南インドのバンガロールで、ITエンジニアの傍らラップミュージック活動に従事している息子サミール(芸名はビッグ・ディール、27歳)から、新作の予告編が届いたので紹介したい。

Don't Worry Teaser | Three Little Birds Remake | Big Deal Official

七月にはマレーシアでのショーを控え、大忙しの息子。
日産の新車キャンペーン曲も依頼され、ラッパーとしてのキャリアは順調。
今インドはラップブームなので、この波にうまく乗り切れるといいと、祈るばかり。

先般帰印時は息子の元に立ち寄って、ベストアーチスト賞のトロフィーも見せてもらったが、ウイングをかたどった真鍮はずしりと重く、授賞式会場でこんな重いものをよく持ち上げてキスできたなと変なところで感心した。


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懐かしい名曲パレード(動画)

2016-04-24 19:19:08 | ラッパー子息・音楽ほか芸能
戻って一週間、南インドは空前絶後の旱魃で水不足にあえいでいるが、当オディッシャ州の内陸部でも47度の高温地帯が出て、水飢饉、当地プリーにあってはいまだ過ごしやすいが、そのうち蒸し風呂になることは覚悟している。

大気が熱せられ、オーヴンの中にいる状態となるのだ。まだそこまでの炎暑じゃないので、冷房もフル稼働でなく、ちょっとつけて消したりと、飲料水のほうも問題なし、まあ当地は恵まれているといえば恵まれているほうなのだろう。

本日は文芸思潮のエッセイ賞に出す原稿をチェックした。過去に書いた未発表の原稿を改筆したもの。前回の佳作作品もそうだったが、今回も新たに書き起こす気力がないので、そうした。長いことご無沙汰で編集部にはすっかり不義理をしているが、投稿時に手紙を添えて詫びるつもり。

合間を縫って、日本の歌もユーチューブでチェックしている。金沢滞在時、音楽関係のエッセイ(五木寛之<昔のぶひろしのペンネームで作詞を書いていた>、なかにし礼、久世光彦らをかなり紐解いて、そのとき気になっていた曲を帰って来てネットタイムが無制限になった今、チェックしているのだ。

以下、チェックした曲をどうぞ。

黄昏のビギン(水原弘)

以下はちあきなおみ版黄昏のビギン。

故水原弘のシングル「黒い落葉」(1959)のB面に入っていた「黄昏のビギン」は中村八大作曲、永六輔作詞の六八コンビによる名曲だが、作詞も実は八大だったことを永は後年明かしている。

ちなみに、「ビギン(beguine)とは、カリブの労働歌カレンダーを母体としてマルティニーク島で生まれたダンス・ミュージック。ボレロに似ているが、頭の部分に符点音符がついてハネるところが異なる。これをエレクトリック・バンドでモダンにアレンジしたものをズークという」とコトバンクにはあった。

お次はスキヤキソングとして全世界で当たった、故坂本九の空前のヒット曲「上を向いて歩こう」(1961)。
Sukiyaki - 上を向いて歩こう (Kyū Sakamoto, 坂本 九)歌詞はこちら

上記六八コンビの作詞作曲に歌手の九を付け加え、六八九トリオといわれる。
ウイキによると、ビルボード(Billboard)誌では、1963年6月15日付に、現在においても日本人のみならずアジア圏歌手唯一となる週間1位を獲得。同誌の1963年度年間ランキングでは第10位にランクイン。後に数多くのアーティストによってカバーされ、いまだに外国人によるモノマネのネタにもされる。坂本の突然の航空機事故死のメモリアルソングとしてもよく用いられる。

日航機123の墜落事故で悲劇的な最期を遂げた九ちゃん、ネットによると、彼は全日空びいきで間際まで全日空に振り替えできないかと同乗のマネージャーが打診していたらしいが、お盆の時期と重なり満席でとれなかったとのことだ。運命を感じてしまった。全日空が空いていたら、事故にはあわなかったわけだから。または、新幹線で行くとか、どうにかならなかったものだろうか。メモ帳に遺書を遺した人もいたが、九ちゃんの場合はなかったようだ。機内は失神していた人も多かったという。

佐藤剛による同曲にまつわるノンフィクション「上を向いて歩こう」は綿密に調べてあり、屈指の面白さだ。

君こそわが命

水原弘、改めて聞いてみると、うまい。彼が歌っている間はステージの隅でほかの歌手がじっと耳を傾け、勉強していたとか。ご本人はアル中で身を持ち崩したなんて知らなかったな。破滅的芸術家の人生を地でいったわけだ。村松友視がファンで「黒い花びら」という伝記を書いている。「昭和歌謡界黄金時代を疾風の如く駆け抜けた、無頼の歌手・水原弘の壮絶な生涯。酒、博打、借金に満ちた破天荒な歌手生活とは? 関係者からの綿密な取材を重ねつつ、波瀾万丈の人生を描く感動のノンフィクション」とアマゾンにあるが、残念ながら私はまだ読んでない。著者は大の金沢びいきでもあり、金沢にまつわるエッセイ本は読んだが、五木寛之とはまた違った視点で面白かった。

歌のほうも、どうぞ。
黒い花びら

極めつけはちあきなおみのこの曲、「夜へ急ぐ人」(友川かずき作詞作曲)、なんかすさまじい表現力である。恐いという人もいるけど。狂気と妖美の熱唱もの、ちあきなおみは1992年に夫の郷治が亡くなってから一切の芸能活動を休止して引退同然、元々人嫌いのこともあって長年引きこもっているらしいが、近年見直されてきているとのこと。歌唱力では、美空ひばりに匹敵する技能の持ち主で、惜しい。

次に志村けんのコミカルな物まね版で(これって、思わず笑っちゃうよなあ)。必見!
夜へ急ぐ人(志村けん)

最後に、ちあきなおみのこれ、なんといっても名曲、歌唱力を心ゆくまで満喫してください。
喝采
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