インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

続ゆきのした秘恋3(短編小説)

2017-11-09 15:14:47 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)
   終章(四年後・昭和四十六年冬)

百合子は、あれほどにも焦がれた憲治と、雪深い山奥のお社(やしろ)で、二十年ぶりの再会をようやっと、果たせた。
「憲治さん、逢いたかった」
「百合ちゃん、ぼくもや」
不思議なことに、あの最後の逢瀬となった川原で手を握られたときから一刻もたっていなかったように、二人ともがあのときそのままの二十代の若々しい美顔だった。しかし、憲治の目は哀しそうで、百合子が差し伸べる手をいっこうに引き寄せようとしない。
「憲治さん、抱いて」
百合子は女の自分からは大胆な言葉をこらえきれず、発していた。
「百合ちゃん、ぼくに触ったらあかん」
憲治は少しずつ、百合子の視界から遠ざかろうとする。
「なんで、せっかくこうして再会できたんやに」
百合子はじれったそうに、距離を置こうとする憲治ににじり寄る。
お社(やしろ)のなかは、外の猛吹雪が嘘のように、不思議に暖かい香気に満ちていた。火の気はないのに少しも寒くなかった。
「百合ちゃん、これだけは忘れんといて。ぼくはいつでも必ず、君を見守ってるさけ。遠い空の上からでも」
「待って、憲治さん、行かんといて、私も連れてって」
豆粒のように小さくなる憲治を追って、百合子は駆け出そうとするが、体が金縛りにあったように動かない。いや、私をこのまま、地獄に置いとかんといて。あなたのいる美しい世界に連れてって。百合子の瞳からどっと涙が噴き上げる。

その涙の温かさではっと目覚めた。見覚えのある少女の潤んだ瞳が自分を覗き込んでいた。ぽつりと温かいものが百合子の頬を濡らす。また一粒落ちて、手首の包帯の上に染み入る。百合子はそれが、千鶴のものであることを知った。長女の涙が、自分をこの世界に呼び戻したのだ。
天井に漂う憲治の幻影が、自分を見下ろし、哀しげに微笑むのが一瞬まぶたの奥をよぎった(了)。
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続ゆきのした秘恋2(短編小説)

2017-11-09 15:12:26 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)
   二 

 駆け出しの事業家の夫は結婚指輪は安いオパール、新婚旅行も芦原温泉と質素なものだったが、何より優しかった。粗末な平屋が軒を並べる下町・勝見は田舎の閑静な春江に比べると、ごみごみしていたが、庶民的で気さくな雰囲気に溢れていた。舅の買ってくれた古い二階家が新居だったが、百合子はすぐに周囲に溶け込んだ。夫は前の工場に妻の手弁当持参で夜遅くまで詰め、夕飯時になるとキンさんを伴って裏の家に駆け込むのが日課となっていた。百合子は腕を振るっておいしい馳走を作り、結びの神の共同経営者にも喜ばれた。真っ黒になった夫の繋ぎや、汚れがしみ込んだ下着を裏の川でごしごし揉み洗いするのが大変だったが、愛する夫のためと思うと、苦にならなかった。夫婦仲は、周囲が羨むほどよく、百合子は幸せだった。
一年後、女児を産み、母になった。初産を憂慮した母から里帰りさせられての、実家でのお産だった。難産の末産婆によって取り上げられた赤子は、震災で亡くなった妹千鶴子の頭二文字をとって、千鶴と名付けられた。母は六年たっても溺愛していた三女のことを忘れられないらしく、百合子も利発で愛らしかった妹の供養の意味でもそれがいいだろうと賛同した。
 産後の肥立ちがよくなかったため、百合子は夫のことが気になりながらも、長いこと実家にとどまる羽目を余儀なくされた。母は亡くなった三女名譲りの初孫が可愛いくてならないらしく、せっせと代わりにおしめを取り換えたり、母乳の出がよくなかったため粉ミルクを作って哺乳瓶を飲ませたりと、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。百合子も体が弱っていたため、母の介添えはありがたく、住み慣れた実家ということもあって居心地がよく、 すっかり甘え頼りきっていた。
 結局、勝見に戻ったのは五ヶ月後だった。家に入った途端、なぜなのか違和感を覚えた。百合子は思いのほかきれいに掃除された居間に赤子を下ろすと、家中見て回った。洗濯籠に真っ黒の繋ぎが一枚投げ込まれていた。妻がいなくて、何かと不自由かけたと思うと、すまない気持ちが湧き上げてきた。仕事中は危ないから工場には来るなと言われていたため、久々に腕を振るって馳走を作り、夫の帰りをじっと待った。夫は、夜遅く酔っ払って帰ってきた。うとうとしかけていた百合子はあわてて起き上がって、出迎える。夫はさすがに意表を衝かれたようだった。「なんや、帰ってたんか」。千鳥足で舌ももつれていた。「長いこと、すみませんでしたの」と詫びると、「体はもういいんか。もうちょっと実家で静養しとった方がよかったんでないかの」と返ってきて、百合子は、なぜなのか夫が自分をあまり歓迎していないような気がした。が、揺り籠に眠っている赤子を愛しげに覗き込んでいるのにほっとし、気のせいだと思い直した。
 夫は以前と変わらず、妻の作った好物のじゃがいも入りおつゆをうまそうに啜って朝飯を終えると、手弁当持参で前の工場に出ていった。一度夕食を食べに帰ってきたが、キンさんは伴ってなかった。そそくさと済ますと、「今夜は徹夜作業やさけ、おまえは先に寝とけや」と言い残して出ていった。百合子はなぜなのか、急に訳のわからない不安に襲われた。夫の態度が五ヶ月前と微妙に違うのだ。気のせいだと言い聞かせても、不安や疑惑は募るばかりだった。
 
 ひと月ほどたったある日、夫に急用があって、二階の窓を開けると、目と鼻の先の事務所に詰めている若い女子社員に、呼んでくれるよう頼んだ。高校生のような童顔の女の子は百合子の顔を見るなり、なぜか大いにうろたえ、「はい、ちょっとお待ちくださいの」と応じ、すぐに呼びに駆けていったものの、百合子の胸に不審の影を残した。夫はすぐさま家にやってきたが、なんだかそわそわと落ち着かなげだった。用件を告げた後、「あの若い女事務員さん、確かえっちゃんとか言うたの、勤めてどのくらいになるんけの」とさりげなく尋ねると、夫は何食わぬ顔で、「二年くらいになるかのう、よう働いてくれての」と返したが、百合子には取り繕った顔の裏に男のずるさが仄見えた。女の本能ともいうべき直感だった。
その日以来、それとなく悦子の動向を偵察するようになった。ある日、彼女が去った事務所に二階の窓越しに忍び込んだ百合子は、何か証拠物件はないものかと探し回って、偶然一番下の引き出しに鍵のかかった日記帳を見つけた。家に戻って、金鎚で鍵を壊し、広げて読んだ百合子は、そこに妻子ある男への恋情を綿々と綴った文章を見いだし、やはりそうであったかと、がくりと肩の力が抜ける思いであった。胸中を千々に思いが駆け乱れ、五歳年下の二十歳の小娘に灼けつくような嫉妬を覚えた。夫が、あの若い体に触れたと思うと、嘔吐が込み上げ、目の前が真っ暗になる心地だった。そのまま長いことほうけたように畳に横座りになっていたが、夫が夕食に戻るのを待ちかねたように、力任せに鍵の壊れた日記帳を叩きつけていた。
信頼していた夫に裏切られた衝撃は大きく、母になったばかりの百合子の幸福はいっぺんに吹き飛んだ。子どもが生まれる前はあんなに仲がよかった夫婦関係には亀裂が生じた。毎晩のごとく、夫を詰っては応酬に明け暮れる陰惨な夫婦喧嘩が始まった。感極まると泣きながら、夫に歯向かっていった。赤子がぎゃーぎゃー喚いているのもほったらかしで責め続け、逆上した夫が物を投げる暴挙に出ることすらあった。
百合子は自分が心から望んでいない結婚を強要した父をいまさらながら恨めしく思い、進学を許されていれば、婦人記者は無理でも、先生くらいにはなっていたのにと口惜しかった。それから、従兄の憲治にもぼんやり思いを馳せた。少なくとも、意中の人だった従兄と結婚してれば、こんな思いはせずに済んだと思うと、最後に握られた手の温もりが蘇ってきて、切ない感傷に浸された。百合子は、憲治に逢いたい、と思った。逢ってこの苦しみを洗いざらいぶちまけたいと。憲治は、結婚前好きになれないと言っていた妻との仲はうまくいっているのだろうか。
 いったん嫁いだ以上、実家に迷惑をかけてはいけないとの長女心から、百合子はしばらく夫の浮気については伏せていたが、ある日とうとうこらえ切れなくなって、母に打ち明けた。「なんで、今まで黙ってたんや」と母は娘の苦悩を知ると、率先して援助の手を差し伸べ、強い味方になってくれた。事あるごとに春江から駆けつけ、不徳な婿を諫め、今すぐ手を切るよう厳しい口調で何度も勧告してくれた。母の前では子どもに戻って、弱く頼りっぱなしの自分だった。「実はの、若い頃、お父はんもの、芸者に手を出し、女遊びに苦しめられたことがあったんや」と思いがけない逸話も母は明かした。百合子はあの温厚な紳士面した父がと信じられなかった。「男はみな、おんなじや。一種のはしかみたいなもんやで、すぐ納まるわ、あんたもあまりぎゃーぎゃー騒ぎ立てんときなや。かえって、意固地になってこじれるだけやさけの」。
 母の尽力にもかかわらず、若い娘に入れ揚げた夫は愛人を社から退かせると御幸町のアパートに囲って、外泊を頻繁に繰り返した。一年後の夏、長男が産まれたが、不倫はまだ続いていた。妊娠中精神的に不安な状態にあったせいか、夫の戦死した兄慎一郎から頭二文字をとって慎一と名付けられた男児はぜんそく持ちだった。百合子は夫似の長女と違って自分似の長男が病弱なだけになおさら愛しく、溺愛した。
結局、悦子との仲は二年続いた挙げ句に、母の直談判が功を奏し、終結を見た。貧しいながらも信心深かった悦子の父母は娘の悪徳に耐え切れず、無理矢理田舎に連れ戻すと、強引に見合い結婚させてしまったのである。長い苦しみから解放された百合子はほっとしたが、一度胸に刻みつけられた夫への不信感は容易に拭いえなかった。

 波乱の二十代を過ぎて、百合子は三十代に突入し、春には次男が産まれた。社名のひと文字をとって国広と名付けた夫は、長男と違って血色のいい健康優良児にほっとしたようだった。夫の事業は順調に進んでおり、新婚当初に比べ、少し贅沢もできるようになっていた。しかし、翌二月には舅が他界し、毛嫌いしていた姑の梅との同居生活が始まった。結婚前の親との同居はなしとの約束をほごにされた百合子はたてついたが、老齢の母親を独り吉野の山の中に住ませるわけにはいかないと、夫は頑として譲らなかった。以来、嫁姑戦争は日常茶飯になった。
 移住先の北海道から義姉の節子一家が帰福して、亭主の沢村が国栄モータース社長の座に納まったのは、百合子が三十三歳の時、夫が町屋に新築工場を落成する一年ほど前のことだった。夫婦仲が険悪になった頃から、江田の親族とは没交渉に等しかったのと、小姑の節子に苦手意識をもってていたため、反感を覚えたが、接待術に長ける義兄の手腕を買ってと、組合折衝に力を発揮してもらえそうとの読みからだけでなく、義兄を立てたということらしかった。事業は好調、市内を走るようになった乗り合いバスも、夫が東京の大手自販から仕入れたものと知ると、不仲であっても、妻としては誇らしく思うこともあっただけに、親族に会社をのっとられやしないかと心配したのだ。
 国広を産んで三年後、またしても身籠もった。四人目の子どもでもあり、さすがに百合子は堕胎しようかどうしようかだいぶ迷った。が、意志疎通のない夫に相談する気にはなれず、ずるずる決断を引き延ばすうちに、とうとう中絶不可能な時期に突入してしまった。お腹が大きくなって、さすがに夫は唖然としたようだったが、何も言わなかった。三男にはほとんど無関心で、命名も正しく幸福な子で、正幸やとおざなりだった。けれど百合子は、自分似の肌白の美しい男児に、やっぱり産んでよかったと思った。この年の冬はニメートル以上に達する豪雪に見舞われ、夫は雪でエンストした多数の車の出張サービスにてんてこまいだった。
残雪がほぼ消えかけた翌春、夫は幾久に九十坪の土地を購入し、家を新築し始めた。一年とたたぬうちに完成したが、百合子は住み慣れた勝見から離れるのが嫌で、ぐずぐずしていた。夫は家ができた頃から、勝見には生活費を渡すだけに現れ、梅も一足先に越していたため、別居同然の日々が続いていた。そうするうちに、三十六歳の冬を迎え、夫の二度目の不倫が発覚する。会社の女子社員に手をつけて以来、九年近い歳月が流れていたため、百合子も油断していた部分もあった。何やら元酒場の女給とかで、素性のよくない玄人女らしかった。新居にどうも得体の知れない女を引き込んでいるようだとの噂は又聞きしていたため、母に頼んで調べてもらったところ、案の定紛れもない事実であった。逆上した百合子はその足で、四人の子の手を引いてタクシーで新居に乗り込んだ。 
 夫は居間でのうのうと、妾の膝枕でテレビを見ていた。が、突如現れた本妻の怒髪天を衝くような凄まじい形相を目の当りにすると、がばっと跳ね起きた。
「新しい家に女を引き込むとは、あんた、ようも非常識なことしてくれたもんやのう」
 百合子は腹立ちが納まらず、さまざまの感情が津波のように押し寄せるまま、妾に荒々しく躍りかかっていた。「人の亭主を騙し取りやがって」と口汚くののしると、女は、「うちに来んかと誘ったのは、あんたの亭主の方や」とずる賢く愛人に責任転嫁しようとした。百合子が力任せに髪を引っ張ると、悲鳴をあげて応酬し始めた。夫がおろおろと中に割って入る。一部始終を台所の陰から、四人の子が恐る恐る覗き見ていた。
 夫が二階に子どもを寝かせて戻ってくるまで、百合子は居間でぎりぎり、さとと睨み合っていた。険悪ムードが充満する中に、夫がすごすご入ってきた。妾は夫の顔を見るなり、あてつけのように甘ったるい声で、「あんた、蒲団敷いてやろうか」と言った。本妻を前に堂々といちゃつく性根の悪さに、百合子はほとほと呆れ果てた。のみならず、亭主まででれっと眼尻を下げただらしない顔つきで、怒りはとどまるところを知らなかった。夫はまるで、自分を中に二人の女が対決しているのにいい気になっているような不謹慎な節すら窺えた。先ほどから、「とっと出てかんか」と威嚇するのにも、面の皮が厚い妾は平気の平座、「まぁまぁ、今日は夜も遅いし、明日でええやないか」といなす愛人を味方につけて完全に開き直っていた。
 一睡もせずに、夜が白みかけるのを待って、百合子は女を乱暴に叩き起こすと、玄関から着のみ着のままほうり出した。夫は狸寝入りをしていたが、女が追いだされたのは元より承知にちがいなかった。それから百合子は家じゅう調べ回って、鏡台やタンスに女の化粧品、衣類・装飾品がぎっしり詰まっているのを見つけると、根こそぎ摑みだした。二階の廊下奥の納戸にまで、衣装ケース箱がびっしり積み重ねられているのを見つけた百合子は、蓋を開けて、高級洋品店の名札の付いたスーツやワンピースが入っているのに、呆れ返った。百合子はそれらの品を抱えてどどっと下に降り、玄関から威勢よくほうり投げた。背後で夫が悄然と、前庭に乱雑に積み重なった衣類の山のてっぺんに黒いパンティがテントを立てているのを、ガラス戸が引き開けられたままの玄関から盗み見ていた。千鶴もこの騒ぎに起き出して、後方から一部始終を暗い目つきで見つめていた。
 数日中に、実家の両親を含めた親族会議が勝見で催され、父に「そもそもは、おまえがぐずぐずしとってすぐ引っ越さんからあかんのや」とたしなめられたこともあって、百合子は即座に転校届けを出すと、小学五年の長女と小学三年の長男の学年が終わるのを待って、幾久に移転した。が、姑は当然のことながら、嫁と孫を歓迎しなかった。一時期の別居状態は解消されたものの、夫は相変わらず多忙口実の深夜帰宅で意志疎通はほとんどなかった。

 私生活の破綻と裏腹に会社はどんどん伸展し、開発町に新工場まで設けていた。高度経済成長期の車社会の波にうまく乗ったと百合子は思い、夢中になれる仕事がある夫に引き換え、自分はどうだろうと卑下した。手に職を持たず経済力のない自分はせいぜい育児や買い物で気を紛らわすのみと思うと、情けなく、いまさらながら女に生まれた身が呪われた。自分は家庭的でなく、良妻賢母型ではなかったのに、時代が望まぬ状況に投げ込んだのだ。戦中戦後の激動期に翻弄されたといえるかもしれない。百合子は、いまさら社会を恨んでみても始まらないと思いながらも、間違ったときに生まれた、せめてもう少し後の時代に生まれてさえいればと、ないものねだりすらした。
  
 あくる年の盆休み、里帰りした百合子は予想外に、初恋の男(ひと)の訃報を知らされる。久々に顔を合わせた妹の栄子が、応接間に二人だけになった頃合を見計らって、「お姉さん、さすがお洒落やのう、その洋服、素敵やわぁ」と新調したばかりの藤色のレースのスーツを口を極めて誉めそやしたあとで、傷ましい小声になって、「ほう言えば、近藤の憲治さん、亡くなったの、知っとるか」と思いがけないことを口にしたのだ。裏庭の大木から降ってくる蝉時雨のせいで聞き違えたのかと一瞬思い、今一度確認すると、栄子は少し大きめの声で紛れもない同じ言葉を繰り返した。さすがに意表をつかれていると、「若い頃から病弱やったけどの、どうも胸をやられてたらしいわ」。百合子は思わず知らず、胸元の真珠の首飾りをまさぐっていた。このネックレスこそはまさしく、憲治がプレゼントしてくれたものだった。さすがにルビーの指輪を付ける勇気はなく夫のくれたオパールが常に自分の左手薬指を飾っていたが、二十年近い歳月が流れた今ですらアメジストのペンダントや真珠の首飾りは気に入って大事に身に付けていた。高級品質の本物だけに、時がたつほど肌に馴染んで少し柔らかめの光沢を発し、愛用者独特の色合いでかえって美麗さは増しているかのようだった。
それにしても、四十を少し出たばかりの若さで逝ってしまうとはショックだった。もし自分が憲治と結婚してたら、今時分は未亡人になっていたということかもしれなかった。その反面、自分がいっしょになっていたら、憲治をおめおめその若さで死なせはしなかったとの思いもあった。妻の麗子とはうまくいっていたのだろうか。結婚来とんとご無沙汰で、こっちはこっちの事情に忙しく、互いに人の妻、人の夫であると思うと、実家に戻っても憲治の音沙汰を面と向かって伺うのははばかられた。
親族間の談話から耳にした情報だと、憲治には、確か女児が一人いたはずである。「そう言えば、女の子が一人、おったと思うたけど」とさりげなく問うと、「ほや、十三歳やて」と栄子は答えた。千鶴と同い年かと百合子は、父に他界されたまだ中学一年の遺児がいたわしかった。突然栄子が、「ここだけの話やけどの、奥さんの麗子さん、家を出てしまったらしいわ。なんや、伯母ちゃんが育てとるんやと」と潜め声で明かした。百合子は意外な話にびっくりしたが、それ以上のことは突っ込めず、無言で栄子の次の言葉を待っていると、「私も詳しくは知らんのやけどの、派手なお人らしいから、この先未亡人で生涯を通すのに我慢し切れんかったんと違うか」と口もごりながら付け加えた。
 それにしても子どもを置いて出てしまうとは、なんということだろう。子が足枷になって身動きの取れない自分と大違いで、世間は麗子のことを悪母と言うのだろうが、その大胆なほどの思い切りのよさ、行動力が反面羨ましくもあった。自分も罵られてもいい、四人の子をほうり出して、 思い切ってどこかに逃げてしまえるだけの行動力があったなら。百合子はそう思い、麗子の出奔を真っ向から否定し切れなかった。
  
 憲治の死で、百合子は何かが確実に終わったと思った。自分の青春の後腐れに今はっきりと終止符が打たれたのだ。これまで気張って精一杯美しく見せようとしたのは何のためであったのか。愛人に負けたくないという女心だけでなく、いつか親族同士の会合でひょっこり憲治に逢わないとも限らない、そのとき最高に美しい自分でありたい、二十代前半の美貌には優らずとも、年輪を重ねた成熟が備わった年相応の輝きでありたいと、高級しわ取りクリームをせっせとなすりつけ、美しい衣装を身に付け、美を保つことに懸命になってきた。里帰りの折は、もしかしてという気持ちからお洒落にもいっそうの身が入った。でも、それもこれも、今となっては虚しい徒労だった。誰のための、美の磨きだったのか、夫を呼び戻すためか、憲治にいつか逢えることを期待してか、とにかく何かが終わったのだ、自分もあと一年ちょっとで四十代に突入する。夫とさとの仲はいまだに続いている、金と体の絡みついた他人が斧を振るうのも難しい腐れ縁、百合子は不意に諦念からくる、何もかもがどうでもいいような懈怠感に襲われた。すべてが虚しい、夫がいつ本妻のもとに帰ってくるかもわからなかった。そして自分はこのまま、寡婦と変わらぬ境遇で子どもの犠牲になって忍び続けるのだ。それなら、いっそのこと、憲治と結婚して、死なれていた方がまだましだった。夫と過ごした幸福な日々の美しい想い出を胸に今後も生きていける、これでは蛇の生殺し、飼い殺しと変わらなかった。未亡人同様の境遇に投げ込まれながら、現実に夫は生きていてその不貞に悩まされ続けなければならないのだ。私に欠けているのは一体、なんなのだろう、色気? 夫の欲望を満たす肉体? 夫には会社もあり、愛人を囲っても男の甲斐性と持ち上げられるだけの社会的地位や成功もものにした、それに引き換え、私にあるのは四人の子どもというがんじがらめの足枷、重荷だけ……。
 洗面所の鏡に映る自分の貌はその昔才色兼備ともてはやされた藤堂百合子でなく、打って変わって幽鬼同然の醜女、江田百合子であった。

につづく)
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続ゆきのした秘恋1(短編小説)

2017-11-09 15:09:07 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)
続ゆきのした秘恋 
                              李耶シャンカール


    序章

 昭和四十六年冬、子ども四人を学校に送り出したあと、江田百合子は気抜けした面持ちで座敷にどかりと座り込んだ。末の正幸もはや小学二年と手が離れたことから、子どもたちがみな出ていってしまったあと、虚脱感ともつかぬ虚しい心地に襲われることが多くなっていた。何時間もこたつに入ったまま物思いにふけって、気がつくと、日が落ちかけており、子らの矢継ぎ早のただいまーという声ではっと我に返る日々が続いていた。三年くらい前までは公民館に源氏物語の講義を聴きに行ったり、生け花を習ったりと、子どもたちが出払ったあとの余暇をそれなりに楽しんでいたのだが、それもいつしかぱたりと止んでいた。三十代のころは、やれ海水浴だ、山だとよく子連れで旅を楽しんだものだったが、今ではそれもすっかりご無沙汰していた。 
 このごろ、朝起きると、頭痛と吐き気がひどく、四人の子を学校に送り出す慌ただしさにいっとき紛れても、みな出払ってしまうと、ぶり返し、自分を苦しめていた。夫の修造は滅多に家には寄りつかず、意志疎通はもっぱら子どもを通してだった。生活費の催促にまで、中学三年の慎一と小学六年の国広を会社にやるようになっていたのだ。夫が新田塚の別邸で、新しい女と住んでいることはわかっていた。三人目の妾が、以前総務部で働いていた一回り年下の元社員ということも。夫婦仲はもう取り返しがつかないところまで来ており、三人目の女を囲っていると知っても、半ば諦めの境地だった。姑の梅も、二番目の女、さとのとき同様その家に同居し、実家の吉野と行ったり来たりしていると聞く。会社が繁盛していたこともあって、九年前北海道から弟を頼って帰福していた義姉一家は、義兄が社長の座に納まったこともあって、とっくに市内に豪邸を建てて引っ越していた。
 不意に百合子は強い憤怒に襲われる。『まったく自分の親姉弟ばっかりよくして、うちら家族には冷たいんやからのう。会社を大きくするために 実家・藤堂の人脈を散々利用したくせして、ほんと薄情なもんや』。すると、首から上がぽっと火照って、顔が真っ赤になり、脂汗がにじみだしてきた。またいつもの気持ちの悪い症状が始まったと、百合子は落ち着かなくなる。かれこれ三ヶ月余りも続いている体調の異変であった。洗面所に走って、水に浸した手拭いを頬から首元に押し当てると、冬で凍えるような冷たさがかえって気持ちよかった。三十分ほどすると、いつものように火照りは退いていった。 
 昼食時になっていたが、食欲が湧かなかった。なぜなのか、この頃食べものが喉に引っかかるようになり、食道の通りも悪くなっていた。生理も不規則で、二ヶ月くらい止まったかと思うと、またあったりで、出血量が少なくなっていた。百合子は四十二歳になった自分の年齢を改めて鑑み、愕然とする心地だった。これまで、夫と別れようと何度も思いながら、四人の子のことを考えると決心がつかず、経済力のなさもあいまって、ずるずる決断を引き延ばしてきた。そうするうちに徒らに年を重ねてしまったと思うと、悔やんでも悔やみ切れない思いで、歳月の移ろいが恨めしかった。離婚するなら、せめて三十代の時にしておくべきだった。四十を越した今では、別れる勇気は到底なく、本妻の地位にしがみついている自分が我ながら情けなかったが、母の菊乃に、正妻の立場の有利さや、子どもの籍の問題を憂慮されると、不精不精納得するのみだった。父も、はっきり口外せずとも、子どもが四人もいるだけに、やはり離婚には賛同しかねるようだった。
 別れて再出発することもままならず、この先、子どもが成長し巣立ってしまえば、自分は一体、どうやって暮らしていくのだろうと、老後の孤独を思うと背筋が嘘寒くなる心地だった。父の鶴の一声で望まぬ結婚をさせられて、うまくいったならまだしも、夫の度重なる浮気に苦しめられて、四人も子供を産んで、名ばかりの夫に疎まれ寡婦同然の生活、これでは、私の人生、おしまいというものではないか。虚しさと強い後悔に襲われ、百合子はほぞを噛む。私の人生、そもそもどこから誤ったのだろうと、幸福の絶頂だった少女期につと思いを馳せる。

    一
 
昭和四年十二月十八日、福井市内から八キロ離れた春江町江留中の広壮な屋敷で、百合子は当主・藤堂紘三郎とその妻菊乃の長女として、生を授かった。初子で父似の肌白の器量よしということで両親に溺愛され、地主の旧家で何不自由なく育った。尋常小学校に上がってからは、勉強がよくできるのみならず見目麗しい女児というので、先生にえこひいきされ、級友からもちやほやされた。が、六年生の二学期末には太平洋戦争が勃発し、暗い時代の風潮に投げ込まれる。翌春隣町にある丸岡高等女学校に上がったが、女王様扱いする教師と学友は増える一方で、二年に進級した頃から、下級生のみならず上級生からもよく恋文が舞い込むようになった。当時流行っていたSで、下足箱を開けると、白い封筒がどさりとこぼれ落ちてきたものだ。男女交際がままならなかった時代ゆえ、少女同士の交友を擬似交際に見立てて、他愛もなく楽しんでいた時代の風潮でもあったのだ。
 昨十七年六月のミッドウェー海戦で日本がアメリカに敗北して以来、戦局は悪化する一方で、百合子はせめてもの慰めのように文学書を読みふけったが、翌十八年に入ると、学業を免除され、軍衣の縫製工場に動員されることになってしまった。戦況はいよいよ悪化し、本を貸し借りすることすらままならなくなってきた。制服もだいぶ前から、スカートは禁じられ、もんぺに変わっていた。何不自由なく育った令嬢だった百合子は初めて、ミシンを踏んで兵隊さんのための被服を縫製する苦労を余儀なくされる。
敵機の本土上陸を防ごうと硫黄島で奮戦していた兵隊さんの努力も虚しく、十一月に入ると、内地で空襲が激化してきた。戦争が烈しくなるにつれて、紡績の町・福井を狙った空爆があるとの恐ろしい噂も飛び交い、平和で幸福だった少女時代は一転して、恐怖の青春に塗り替えられた。もうお嬢様とちやほやされ、悠長に楽しんでいるゆとりなどなくなっていた。学徒出陣で文科の学生まで駆り出されていき、若い男たちの姿は村からいっせいに消えた。
翌二十年七月十二日、ついに火の手が県内に及んだときは、絶望のあまり目の前が真っ暗になる心地だった。そして、敦賀空襲の一週間後には、福井市内をB29の焼夷弾が雨霰と降り注ぐのである。一晩中家族といっしょに防空壕に息を潜めてうずくまりながら、生きた心地もしなかった。空襲が終わった翌午後、百合子は実家の屋根に昇って、真っ赤に焼け焦げる福井市街を涙をはらはらこぼしながら見下ろしたものだ。十六歳の時だった。このとき、死に対する不安はこれまでのどのときとも違って、より身近に現実性のある恐怖として迫り、自分も家族も、これから先の生死はわからないと、暗い悲壮感に打ちのめされた。戦災で受けた心の傷は長いこと自分の中に名残り、ひょっこり、夢の中に真っ赤に焼ける市街が現れ、うなされることもあった。
 八月十五日正午の玉音放送、意味は半分くらいしかわからなかったが、父ががくりと肩を落として、「日本は戦争に負けたんや」と虚ろな眼差しでつぶやいた。その瞬間、瞼からどっと噴きこぼれるものがあった。
十七歳、やっと平和が戻ってきたが、戦後のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による農地解放政策で、地主だった家は没落、これまで旧家と崇められてきた藤堂家にあっては、180度の転換を迫られる大事件だった。家の没落は自分にとっては非常に哀しい出来事だったが、反面学業再開の喜びには救われた。最終学年に復帰した百合子は、スカートと靴というまた以前通りの制服姿に戻って、女学校に通い始めた。いよいよ進路を決めるにあたっては、先生も女子大進学を熱心に薦めてくれたが、戦後まもない混乱期で家も没落していただけに、父母にそんな経済的ゆとりはないと退けられてしまった。百合子は泣く泣く、進学を断念せざるをえなかったのである。

 十九歳、戦後三年がたって、少し混乱も納まり、民主主義社会の自由な風潮を楽しみ始めた、忘れもしない六月二十八日、マグニチュード7の大地震が福井を襲う。震源地は丸岡だったため、春江の被った打撃も甚大だった。一時間遅らせた夏時間の午後五時ごろだったと記憶しているが、台所で夕食の準備の手伝いをしていた百合子は、床にどしんとものすごい衝撃を覚え、あわてふためいた。間髪を入れず母が、「地震やーっ」と声高に叫び、ぐらぐら揺れる中、悲鳴をあげながら、手近の桶に貯めた水をすかさず竈の火に投げ入れると、母と手を取り合って、あたふたと弟妹の救出に向かった。
総勢で逃げ出ししばらく行って背後を振り返ると、門の内側にそびえていたはずの立派な旧屋敷は跡形もなく失せていた。「千鶴子―っ、千鶴子―っ」、末娘の姿が見えないと、ぐらぐら震盪する地面の上で母は取り乱し、ぼろぼろ涙をこぼした。百合子はとっさにその背に手を押し当て、うずくまらせた。どれくらいの間余震が続いたろうか。
 ようやく納まった頃合を見計らって、恐る恐る立ち上がったとき、周囲は一面土煙と瓦礫の山と化していた。母は千鶴子の名をなおも半狂乱で呼びながら、危険を顧みず残骸を掻き分けて捜索し始めた。百合子もほかの弟妹たちといっしょになって、必死に行方を捜したが、捜索の甲斐も虚しく、どこにも見当たらなかった。市内で勤務していた父の安否も同様に気遣われたが、ほっとしたことには、その日のうちに無事が確認された。
 後日、柱の下敷きになった三女の遺体が発見された。ほぼ諦めていたとはいえ、家族の哀しみは深かった。家の全壊と、可愛いがっていた妹の急死、この事件は空襲のさらなる上塗りとして、百合子の胸内に深い傷をえぐった。立派な邸宅と三女を一気に奪い取られた両親の衝撃は大きく、半年後当座の仮住まいが再建されても、母はふ抜け状態で、立ち直るのに長い歳月を要した。
  
 二十歳の成人式、百合子は母のお下がりの紫の縮緬地に鶴の模様の入った華麗な振袖を着付けさせられ、お祝いしてもらった。まだまだ親がかりだったが、十代を卒業し、急に大人びたような気がした。文殊山のふもとにある二上村の素封家・近藤一家が雪の中、春江までお祝いに駆けつけてくれた。母の姉、百合子の伯母にあたる絹が嫁いだ山地主の名門で、戦災も地震も免れえただけに、高価な書画や掛け軸、壺・皿など、家そのものが財宝の山、近藤家は裏の山全体を所有し、山中にあるお社も管轄していたのだ。百合子は高蔵の保存された由緒ある旧家に遊びにいくたび、地震前春江の家にあったのより一等立派な純金尽くしの大仏壇に陶然とならずにはおれなかったものだ。従兄弟の憲治は文学青年で、やはり本が好きな百合子とはうまが合った。百合子のひそかな意中の男(ひと)でもあった。
久々に逢う憲治は華麗な振袖姿の百合子を目の当りにすると、目を丸くして見とれた。黒のオーバーコートでめかしこんでおり、いつも以上に洗練された雰囲気を漂わせている。明治期に仏蘭西に遊学した祖父の血を引いて、負けず劣らずハイカラで、こんな田舎では珍しいことだったが、素封家だけにできる贅沢ともいえた。
応接間で一同そろっての歓談後、母が百合子と憲治の二人だけを残して、伯母になにやら目配せのような意味深な素振りをすると、伯父や父、弟妹らを伴って、ぞろぞろ奥の間に引っ込んでしまった。二人きりにされた百合子は途端にぎこちなくなり、そわそわし始めた。気まずい沈黙が流れる。やっとのことで、文学の話題に糸口を見つけた百合子は、かれこれ憲治とは一時間近く話したろうか。いよいよ会話が行き詰まったとき、折よくドアが叩かれ、お膳の用意が整ったと知らせる母の声が響いた。百合子はとっさに着物の裾を整え直すと、立ち上がった。同時に憲治も腰を上げかけたが、はたと思い直したようにまた座って、「あ、これ、忘れるとこやった、ぼくからのささやかな成人祝い……」と手元のコートのポケットを探って、赤いリボンのかかった小函を取り出した。意表を衝かれた百合子はすかさず礼を言って、その贈り物をそっと八つ口に忍ばせる。 
 客人がハイヤーで退き上げた後、百合子は二階の自室に上がって憲治からの贈り物をそうっと広げた。青いビロード張りの美しい小函の中には、透明な薄紫のペンダントが納まっていた。百合子はうろ覚えの記憶の底から、これはきっとアメジストとかいう珍しい石にちがいないと思い、その美しさに見とれた。それから、金の鎖を摑みだし、止め金を外して首に掛けてみた。手鏡で確かめると、白い胸元に納まった淡い紫の菱形の珠玉は自分を惹き立ててくれるように思え、口元から笑みがこぼれた。
 このときの会合が実は見合いであったことを知らされたのは、翌日のことだった。が、二十代に突入したばかりでまだ幼さの抜け切らなかった百合子は、従兄本人には心惹かれながらも、結婚はまだ早いとのためらいがあって、母の促しにもはかばかしい返事ができずにいた。以後、伯母に伴われて、憲治は以前より頻繁に藤堂家に顔を出すようになったが、百合子は東京に出てあこがれの婦人記者になりたいとの夢を捨て切れず、ぐずぐずと返事を引き延ばし続けた。いとこ同士といっても、伯母の絹は後妻に入って、憲治は亡き先妻の息子だったため、直接の血のつながりはなく、結婚になんら支障はなかったのだが、母と違って、父も病弱でぶらぶらしている憲治を懸念し、留保を示していた。そのうちにこの縁談はいつとはなしにお流れになってしまった。
 
都会に憧れながら、現実にはその夢はいっこうに叶わず、家事手伝いに明け暮れる日々が続いた。思い切って父母に打ち明ける勇気もでないまま、徒らに歳月だけが流れ、気がつくと、田舎の春江では嫁き遅れの二十三歳になっていた。村の若者の大半は戦死していたため、しかるべき家柄の婿候補がなかなか見つからず、両親も苦慮していたようだった。
 江田修造との見合い話が持ち込まれたのは、そんなさなかのことだった。さすがの百合子もこのころには県外に出る夢は断念しかけていたときだけに、初めて興味を持った。戦前小作人頭として家にもよく出入りしていた西出家の長男、欣一の紹介だった。何やら、二年前欣一と組んで市内に自動車修理工場を立上げたばかりとかで、福井工業専門学校(現福井大学工学部)出の優秀な男とのことだった。百合子は、見合い写真に写った黒ぶち眼鏡の角顔の青年をしみじみと眺めた。美男子だった憲治に比べると、お世辞にも男前と言いかねる風貌だったが、誠実そうに思えた。
 後日、その当人がうちに訪ねてきた。現実に見合い相手を目の当りにしたときの、百合子の落胆といったらなかった。写真よりももっと不細工で、158センチと当時にしては長身だった自分と背丈がさして変わらなかったのである。裏腹に、江田修造は自分のことが痛く気に入ったようで、翌日には早々に娘さんを戴きたい旨の申し入れがあった。母は娘が乗り気でないのをいいことに、懲りずに三年もたって、近藤との縁談を蒸し返そうとの魂胆らしく、任せておくよう請け合った。が、すでにほかの名門との間に縁談話が持ち上がっていた近藤家は色好い返事をしなかった。気むずかしいところのある伯母は、密かに土百姓と侮っていた藤堂から足蹴にされたと、誇りを傷つけられていたようだった。
一方、江田修造は、ひと月待っても承諾の返事が届かないと知ると、焦ったものか、仕事の合間を縫ってほぼ毎日のごとく、春江邸に押しかけるようになった。押しの一手の熱意が百合子にはうっとうしかったが、父に相手をするように言われると、向かい合って会話を交わすしかなかった。
 季節は夏から秋へと移ろい、あるうららかな昼下がり、昼食の後片づけをしている百合子の耳に、何やら物々しい騒音が届いた。皿を洗う手を止めて、玄関口に向かうと、一足先に外に出ていた母が愉快そうにあわてふためいて戻ってきて、「江田さん、でっかいバス、運転してきたわ」と告げた。その言葉を聞いて、弟妹たちもいっせいに外に飛び出していく。呆れることには、先頭で物珍しげに、大型バスを眺め回しているのは、父だった。その傍らで小学五年の久志が、「わぁい、バスやー、バスやー」とひとしきりはしゃぎ回っていた。表では作り笑いをしながらも江田の訪問をいつも心から喜んでいない母まで、今日は例外で大喜びだった。青い文字で「荒潮」と銘打たれた白い観光バスに百合子も思わず、目を丸くして見とれた。運転手は西出欣一こと、キンさんだった。
 応接間に通された修造は、「百合子さんを、これから芦原温泉まで連れ出したいんやけど、ご許可願えませんやろか」と拝み倒した。父はしばし考え込む顔つきになったが、すぐ相好を崩し、承諾した。脇から久志が、「なぁ、ねえちゃん、ぼくもいっしょに行っていいやろ」とせがみだし、答に困った百合子に代わって、修造が二つ返事で承諾、結局総勢四名の貸し切りバスピクニックとなった。終戦当時はまだ木炭バス主流で、ガソリンに切り換わったのが二年ほど前だったから、五十人も乗れるでっかいバスは春江のような田舎ではもの珍しかった。百合子のみならず、父母にも強い印象を刻みつけたバスデート作戦は先方の目論見通り、大成功を納めた。 
 芦原から戻った後、父は、百合子をすかさず座敷に呼びつけたからだ。「なかなか見所のある青年やのう、これから事業を大きく発展させるかもしれんのう。誠実で熱意もあるし、百合子のことも大事にすると言うとるし、おまえ、江田さんにもらってもらえや」。父の鶴の一声には逆らえなかった。

 百合子の縁談が調ってまもなく、憲治の結婚も決まった。互いの長子の縁組みが調ってしまえば、古いもつれ話など水に流すしかなく、二年ぶりに近藤一家が訪ねてきた。めでたい、めでたいと応接間でしきりに盛り上がる親たちを差し置いて、百合子は憲治に目配せされ、楓が色づき始めた庭に出た。
「このたびはおめでとさん」と、憲治は百合子を真正面から見つめず、ぶっきらぼうに祝った。笑ってない面差しを百合子は盗み見し、やや窶れただけにかえって青白い男ぶりが惹き立つようで、つい婚約者と比べずにはおれなかった。百合子はおうむ返しに祝福を返しながら、長身の従兄の後について、鶏小屋の少し先を行った裏の川べりまで歩いた。小さな石段が下りていて、薄青い水を湛えたせせらぎまで降りていけた。憲治は先に立ってどんどん降りてゆく。百合子もちょっと逡巡したが、後に従った。狭い川原に腰掛けた憲治からやや距離を置いて、座る。
「なぁ、百合ちゃん、結婚前に一つだけ、訊いときたいことがあるんやけどの」
 と改まった口調になって憲治は前置きした後で、少し言い澱んで、
「百合ちゃんは、ほの江田さんとかいう婚約者に、惚れておるんか」
 と単刀直入に訊いてきた。百合子はなんと答えたものやらわからず、もじもじしていた。「ぼくの婚約者は麗子さんというお人やけどの、親が勝手に 決めたもんや。ぼくは、麗子さんのことはなんでだか、いまだに好きになれんのや」
 と思いがけないことも明かした。
「なぁ、もういっぺん聞くけど、百合ちゃんは、ほの男のこと、ほんとに好きなんかや」
 百合子は思いのほか真剣な面持ちの憲治に真っ向から問い詰められて、かすかに首を横に振っていた。
「ほなら、なんで結婚するんや」
「お父はんが、江田さんを見込んで、行けというんや」
「その男は、病弱でぶらぶらしているぼくと違うて、なんやら若い身空で会社を興したそうやの」
 憲治の自分を卑下する言い方に、百合子は哀しく思った。
「ほやけど、憲治さんには別の才能がありますやろ」
「どんな才能や」
「詩を書くのがお上手やし。難しい本もたくさん読んでますがの」
「百合ちゃんやったら、どっちの男に惹かれるんや」
 大胆な問いに百合子は答えられず、うつむくばかりだった。
「ぼくのう、前から、妻にする人とは、共通の趣味をもった、お互い高め合うような関係でありたいと、理想かもしれんけど、思うてきたんや。百合ちゃんとは、文学好きで趣味も合うし……」
 一体憲治は何を言おうとしているのだろう、百合子の胸は不穏に高鳴ってきた。
「もうあかんのかの、取り返しがつかんのかの」
 憲治がいきなり手を伸ばして、自分の指を摑み取った。
「あきません、あきません」
 百合子は抗い、手を離そうとしたが、憲治の握力は思いがけず強かった。そのとき、百合子は憲治が泣いているのを知った。「もう遅すぎるんかの、後戻りはできんのかの」と、涙声でつぶやく従兄に百合子は次第に抵抗する気力が失せていった。初めて触れ合った異性の掌の思いがけない温もりに胸が詰まる思いで、次の瞬間、百合子はわっと泣き崩れていた。

につづく)
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読者に人気のE全集収録小説

2017-10-12 15:37:08 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)
一時帰国に際して、16日出港地である南のバンガロールに向けて発つので、これがインドでの最後の投稿になる。たびたびで恐縮だが、記事が途絶えがちになる不在期間中(年末までほぼ休筆との解釈をしていただければ幸いである)、すでにアップした以下のE全集収録の小説やエッセイをお読みいただけると、幸甚に存じます。

▼最近アップした五作品はどれも人気が高く、甲乙つけがたいが、以下順位をつけてみました。

東京・山谷のホームレスをモチーフにした異色の傑作です。
読み出したら止められない面白さ、まもなく未公開になりますので、お早めにご一読ください。
「家なき神」

ネット時代のラブストーリー、舞台はスリランカ・タイ・京都とエキゾチック、名前も素性も知らない男性とメール交換だけで恋に陥った海外在住人妻の独白体によって展開される異色の恋愛ファンタジーです。
著者会心の一作、ぜひご一読くださいますように。
「ヴァーチャルラブ」

インドを舞台にした精神世界物、ヒマラヤ山奥に住む500歳のヨギ(行者)が登場、オカルト雑誌取材班は果たして、空中浮揚術の特ダネをものにできるか?
「邂逅」

架空の国の架空の宗教の奇習がテーマとなっています。
三言離婚通告された二組のカップルが、離婚撤回の復縁を求めて、妻の入れ替えによる契約結婚、第二夫から三言離婚通告をもらえれば復縁が可能になる宗教制度のせいであるが、さて、二組のカップルは首尾よく、復縁できたのでしょうか。
「スワップ婚」

著者自身の体験を投影したファミリー物で、息子の恋人への母親の複雑な感情、微妙な心の綾が描かれた短編。
「息子の恋人」


旧作で読者に人気のベスト5は以下、
アラマンダの追憶
マハラジャ王宮にトリップ
再帰(カムバック)
還暦バンドの魔術
春雷

旧作で著者の一押しは、
祭のない原野へ第一部第二部
新作で一押しは、
「ヴァーチャルラブ」
「家なき神」(まもなく未公開)

受賞作でお薦めは、
ゆきのした秘恋
虹の魔窟のブローカー
ダブルマリッジ
ジャパニーズドリーム
インド移住まで-天の配剤(エッセイ)

です。

以下、現時点までの全作、再度掲げておきます。


★未発表作品一覧(現時点で14作品)

*インドの王宮ホテルが舞台の異色のオカルトミステリー作品。
「マハラジャ王宮にトリップ」

*六十半ばの落剥した男性主人公の再起と、同年代のグループサウンズ(ザ・タイガースがモデル)の四十二年ぶりのカムバック、再結成物語を重ね合わせた作品(音楽小説第一弾)。
「再帰(カムバック)」

*インドの有名聖地ベナレスでホテルやレストラン業に携わる三人の日本人妻間の敵対意識や友情を描いた作品。
「撫子戦争」

*著者二十代後半の雑誌取材記者時代をほぼ忠実に再現した、原点とも言うべき恋愛私小説。
「祭のない原野へ」

*17歳年齢差のある男女の修羅にも似たインド行脚譚。一部とがらりと趣を変え、主人公の男女は匿名の「女」、「男」で登場。一・二部に通底するテーマは文学で、後年インドに移住して書いていくことになる予兆が仄見える、著者の原点とも言うべき私小説。
「祭のない原野へ」第二部

*昭和の二大イケメン、ジュリーとショーケンをミックスした主人公(ミュージシャン)を造型、舞台は京都、東京、タイ、インドと変わり、歌手から求道者へ転身した主人公が、十六年ぶりに帰国し、十代のころのバンド仲間と再結成・カムバックするまでを描いた、音楽小説第二弾。
「生まれ変わったメッセンジャー」

*著者が東京の女子大生時代関わった郷里福井の同人誌と、文学を目指す若き仲間たちがモデルの、恋・友情あり、涙・笑いありの青春小説。
「春雷」

*経歴42年の日本一長命バンド、ジ・アルゴ(ジ・アルフィーがモデル)が脇役で登場する、初老の男女の再婚譚(音楽小説第三弾)。
「還暦バンドの魔術」

*ネット紙・銀座新聞ニュースに2009年11月から連載された、著者にとっては希少なミステリー作品。再公開にあたって、ネット新聞では削除されていた6章と9章を復活させ、新たな装いで生まれ変わった娯楽作品、西インドの一大ビートリゾート地・ゴアが舞台の、現実の事件がべースになった異色の強姦殺人ミステリー。
「ドラッグ天国殺人事件」

東京・山谷のホームレスをモチーフにした異色の傑作。まもなく未公開になりますので、お早めにどうぞ。
「家なき神」

ネット時代のラブストーリー、舞台はスリランカ・タイ・京都とエキゾチック、名前も素性も知らない男性とメール交換だけで恋に陥った海外在住人妻の独白体によって展開される異色の恋愛ファンタジー。
「ヴァーチャルラブ」

インドを舞台にした精神世界物、ヒマラヤ山奥に住む500歳のヨギ(行者)が登場、オカルト雑誌取材班は果たして、空中浮揚術の特ダネをものにできるか?
「邂逅」

架空の国の架空の宗教の奇習がテーマ。三言離婚通告された二組のカップルが、撤回の復縁を求めて、妻の入れ替えによる契約結婚(第二夫から三言離婚通告をもらえれば復縁が可能になる宗教制度のせい)、果たして二組のカップルは首尾よく復縁できたか。
「スワップ婚」

著者自身の体験を投影したファミリー物。息子の恋人への母親の複雑な感情、微妙な心の綾が描かれた短編。
「息子の恋人」


受賞小説全作品(8作品。年代順に列記、なお移住前の二受賞作は除く)

*当地プリーに伝わる奇習、デヴァダシ制度、赤子もしくは幼女時ジャガンナート寺院に引き取られ、ユニバースロード、宇宙の主であるジャガンナート神に嫁いで、一生人の男と交わらず、歌舞をささげる巫女的存在がテーマになった異色作。
「ガッドワイフ奇譚」(2010年度銀華文学賞第三次選考通過作品)

*日本女性ツーリストと八十年代のカルカッタの安宿街を闊歩するブローカーたちの友情を描いた作品。
「虹の魔窟のブローカー」(2011年度銀華文学賞奨励賞作品)

*イスラム教徒の重婚制度がテーマの、日本女性とイスラム教徒インド男性の国際結婚から第二現地妻の登場で離婚を余儀なくされるまでを描いた異色作。
「ダブルマリッジ」(2012年度やまなし文学賞最終選考作品)

*八十年代のカルカッタが舞台の、日本女性ツーリストと19歳のインド学生の日本駆け落ち譚。
「ジャパニーズ・ドリーム」(2012年度銀華文学賞佳作作品)

*男性遍歴を重ねる女主人公と、伊勢崎町の路地裏で春をひさぐ心の浄らかな街娼を対比した私小説。
「聖娼婦」(2013年度銀華文学賞佳作作品)

*著者の母がモデルの、戦前戦後の福井を舞台にした名家の男女の秘められた純愛小説。
「ゆきのした秘恋」(2013年度福井新進文学賞佳作作品)

*夫のなきがらが横たわる槙に未亡人が身を寄せてともに焼かれていく儀式サティ、インドの残虐極まりない風習、寡婦殉死制度をテーマにした作品。
「焼かれる花嫁」(2014年度銀華文学賞佳作作品)

*カクテルを空ける回数とともに会話だけで筋書きが展開する、架空の異国が舞台の新趣向の恋愛劇。
「アラマンダの追憶」(2015年度銀華文学賞佳作作品)


エッセイ受賞全作品(5作品)

「日印の狭間で」(2012年度文芸思潮エッセイ賞佳作作品)

「インド移住までー天の配剤」(2013年度文芸思潮エッセイ賞奨励賞作品)

「投稿歴三十四年─私の文学彷徨」(2014年度文芸思潮エッセイ賞佳作作品)

「22分に一件のレイプ地獄」(2015年度文芸思潮エッセイ賞佳作作品・社会批評部門)

「タラーク(離婚)、タラーク、タラーク」(2016年度文芸思潮エッセイ賞入選作品・社会批評部門)

<現時点で全27作品>
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スワップ婚4(中編小説)

2017-10-10 18:51:05 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)
        エピローグ

 自宅にたどり着いたフェローズとディヤは、冷蔵庫に冷やしてあったシャンパンで盛大に祝杯した。この日を待ちわびて三ヶ月も収納されていたシャンパンはきいんと鼻の奥が詰まるほどよく冷え込み、暑さと旅の疲労でくたくたになった二人の体に染み透っていった。
 冷たい喉越しにフェローズは目を細めて、妻をからかう。
「で、アミールは一体どんな風にして、君を抱いたんだい。早々と三言通告を取り付けた後、色仕掛け戦術で陥落させ、甘い蜜の睦夜をたっぷり味わったのか、それとも」
「顔に似合わず、あの男、意外に堅物だったわ。なかなか打ち解けなくて、落としたのはつい十日前よ」
 ディヤは一部始終を詳細にパートナーに話した。その間中、フェローズの手はディヤの体をまさぐり続けていた。
「あの男の一物はどうだった、俺より大きかったか、よかったか、言ってごらん」
 微に入り細に穿った性描写に興奮をあおられたフェローズはディヤの耳に熱く囁きながら淫靡な言葉を吹き込んだ。
「サイズが小さすぎて、今一つだったわ。でも、あいつのほうはすっかり私の体に夢中になっちゃって、しつこいのなんのって、普段よっぽど妻に満たしてもらってないのね。昼となく夜となく求めてくるんで、さすがに辟易したわ」
「この淫売めがっ。わかってるんだぞ、おまえのここが男という男をうわばみのように呑み込んでしまうことは」
 フェローズの手が、とっちめるように股間を深くえぐり、ディヤは嬌声を洩らす。
「あんたこそ、聖人君子の面して大した助平野郎のくせして。あの良妻気取りの澄ましくさった女をどうやって落としたの」
「いやあ、なかなか手強かったよ。結局、常套戦術で三言通告を餌に吊るしかなかった。まったく付け入る隙を見せないんだからな、大した玉だよ。しかし、いったん交わった後は、呆気なかったよ。俺のテクニックにめろめろさ。ご貞淑が聞いて呆れる淫蕩ぶりだったぜ」
「取り澄ました聖女の仮面を剥いでやったというわけね。すーっとするわ。で、あの女のあそこはどうだった」
「俺の一物には、ちょっと窮屈だったよ。充分に濡れるまでの前技に一時間もかけたんだぜ。俺のテクニックで、固い体がやっと花開いたように蜜で潤ったんだ。ちゅうちゅう愛液をすすってやったら、はしたないほどの歓喜の声をあげ続けてさ、やあ、痛快、痛快、これだから良妻の仮面を剥ぐのは楽しくてやめられないんだ」
 フェローズの一物はぱんぱんに腫れ上がり、もうこらえ切れないようにディヤの濡れそぼった茂みの奥にぐいと性急に挿入された。二人の興奮は絶頂に達していた。
 延々と貪り尽くした挙げ句、フェローズは体を離し、仰向けになって煙草をくゆらせながら、うそぶいた。
「次はどのカップルを手込めにかけてやろうか。スワップ遊びは楽しくてやめられんよ。俺たちの性生活のなくてはならぬ刺激と触発剤、他人の妻を抱くときの罪の意識と綯い交ぜになった快感と来たら、ぞくぞくするよ。おまえだって、そうだろう。人の亭主を盗む、この淫売盗っ人め。よその男のあそこをくわえ込んだおまえの底無し沼が、どくどくあふれるような潮を噴き上げると想像するだけで、情欲はあおられっぱなしだ。ああ、いかん、また興奮してきたよ」
 二人は第二戦を、初戦以上に烈しく淫らに交えた。そして、一晩中腰が立たないほど淫蕩の限りを尽くした挙げ句、泥のように眠りこけた。

 そもそも最初は、三言通告撤回求めての真剣なスワップ契約だったのだが、一度他人の配偶者と交わるという旨味を味わってしまった、この人並み外れて性欲の強い夫婦は以後、スワップゲームを編み出したのである。まず復縁を求めているカップルをネットで捜し、面会する、交渉が成立した段階で、フェローズがディヤに三言通告、二人は離縁する。そして、また元の鞘に納まるというお遊びをすでに幾度となく繰り返していた。
 リスキーなゲームだったが、刺激と快感の強さから止められなかったのだ。
 翌昼、精力をすっかり使い果たしたかのような物憂い土気色の顔で目覚めたフェローズは、傍らの全裸のまま大の字に寝そべっている妻を見下ろしながら、「今回は俺も危うかったな。フィザにくらくらと本気で惚れるところだった。柄にもなく、贈り物までしてしまったものな。昼は聖女、夜は娼婦という、男にとってあんな完璧な妻はいない。大きな魚を逸したかもしれんな。フィザの料理は本当に天下一品だった」と述懐した。
 口中にじわじわよだれが噴き上げてきた。それはフィザの混ぜご飯恋しさだけでなく、あそこの穴が放つ芳しい香りと絶妙な風味を思い出したからでもあった。ちょうどよい締まり具合で、ぶかぶかの妻とは大違いだった。その瞬間、ほんとは三言通告したくなかった自分の本音、このままアミールとディヤが現れなければいいと思っていた偽らざる気持ちを覗いたようで、フェローズは少しあわてた。「そろそろこの危ないお遊びも終止符を打つときに来ているのかもしれんな」
 一方すでに目覚めていたディヤは目をつむったまま、アミールとの三ヶ月を反芻していた。「今回はやばかったわ。結構本気になるところだった。アミールはやさ男すぎたわ。私がくらっと来るタイプ、で、つい、最初に三言通告の保証をとる策略も忘れて、本気で迫ってしまったわ。私としたことが、一刻も早くあの男の体を試したくて。思ったよりてこずったけど、ついに落ちたときはサイコー、むしゃぶりつくように私を味わう男の可愛さときたら。アミールが私の体に無我夢中だったことは知ってるわ。でも、あの男は、私があんなに離婚通告を撤回するようすがったにもかかわらず結局、肉欲より、元の安定した生活を選んだのね。かわいそうに。夫を満足させられない妻なんて、なんの価値もないことをなぜ悟らなかったのかしら」
 ディヤはほんとはアミールが離婚通告を撤回してくれることを望んでいた自分の本音につと突き当たった。いまさらながら、フィザに対する燃えるような嫉妬が胸を焦した。「私としたことが、本気で惚れちまったのかしら」。ぎくりとして、そろそろこの危ないお遊びは止めなければとの思いが萌した。その瞬間、夫の手が伸びてきた。二人は互いの脳裏に別の男と女を浮かべながら、烈しく交わった。入り乱れて乱交しているような錯覚に陥り、興奮はとどまるところを知らなかった。
 スワップゲームの後は決まって激化する性交だったが、今回はスペシャルだった。究極の刺激にあおられて昇天した二人はぐったりベッドに身を横たえた。あまりにも奔放苛烈な交わりに、シーツがくしゃくしゃになり、床に剥がれ落ちかかっていた。夫も、妻も、じいんと痺れたような下半身の余韻に浸っていた。

* *

 二年後、よちよち歩きの男児の手を引いて繁華街を歩いていたフェローズとディヤは、街でばったり、同じ年頃の女児の手を引くフィザとアミールに鉢合わせした。一瞬、四人の間の空気が凍りついたが、すぐにポーカーフェースを装うと、何事もなかったような顔で行き違った。すれ違う一瞬、フェローズの目の端をあどけない女の子の顔がよぎった。あれは俺の子だと直感で悟り、愕然となる。ほかの男の子供を亭主の子と偽って幸福な復縁生活を送っているフィザという女の魔性ぶりがこのときほど、身に染みたことはなかった。
 それから、我が身が手を引く男児にいまさらながらのように目を落とした。この子は本当に俺の子なのかとの疑念が急激に萌して脳天を打ちのめされるような衝撃に見舞われていた。避妊具をつけることは二人の間の了解になっていた。しかし、自分は避妊具を要求するフィザにパイプカットを済ませており、妊娠の心配はないと偽って、生(なま)で交わったのだ。ディヤももしかして、安心日だからとでも偽って生で行なった可能性もなくはなかった。
 つまり、もしそうとするなら、どちらの男の子かもわからぬということになる。この先、この子の父親は果たして俺なのかとの疑心暗鬼を抱いたまま、苦しめられることになるのか、それが神を冒涜して俺が楽しんだセックスゲームの代償かと、フェローズは天のしっぺ返しに愕然とし、いまさらながらおのれが犯した罪業を悔いた。妻が身籠もったと知って以降、きっぱりこのゲームからは足を洗ったが、遅きに失したかと地団駄踏まずにはおれなかった。
 内心の狼狽に気をとられて歩みがのろくなっていたフェローズの手を、子供がむずがるように引っ張った。とっさに抱きかかえてあやすと、無邪気に父を見つめ返すあどけない面立ちが、アミールの整った特徴をそっくり引き継いでいるように思われ、思わずよろける足元をかろうじて持ちこたえた。
 子を抱えたまま歩道にぼうっとたたずむフェローズを、一足先を歩いていたディヤが振り返って、促した。もう先刻のきわどい一瞬は忘れ去っているかのような風情だった。
 が、ディヤはその実、内心ひやりとした狼狽を気取られないため、とっさに父子を背後に残して先に歩き始めたのだ。アミールは確かにこの子を一瞥し、一瞬で悟った。ふっと、彼らが連れていたあの女児ももしかしての疑惑が黒雲のように膨れ上がってきていた。
 一方、フェローズは女というのは魔物だとしみじみ思い、亭主二人の裏をまんまとかいた母親二人の自己防衛本能の見事さに絶句していた。男二人、自分とアミールがひときわ憐れな生き物に思えて、悄然としたまま、力のこもらない足元をかろうじてよろよろと前に押し出した(了)。


※著者注/この物語はあくまで架空の国の架空の宗教にまつわる奇習という設定で創作されたフィクションで、現実の宗教や実在人物とはいっさい無関係であることをお断りしておきます。
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スワップ婚3(中編小説)

2017-10-10 18:49:08 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)
       三.四人の再会

 約束の期日の夕刻間際に海辺の町にたどり着いたフィザとフェローズは、あらかじめ予約してあったホテルにチェックインした。三ヶ月前、四人で相談して決めた海沿いの中級ホテルだった。カウンターでアミール・ディヤ組が既にチェックインしているか問い合わせたが、それらしきカップルは泊まってないとのことだった。

 その瞬間、フィザの胸に一瑕の翳が差した。もしアミールが現れなかったらどうしようとの不安が萌したのである。それは道中、ひそかに畏れていたことでもあった。夫に秘密を持ってしまったおのれが後ろめたかったこともあったかもしれない。自分さえ口をつぐんでいれば洩れることはないとわかっていても、背徳を犯したことを寝屋の交わりで敏感に嗅ぎつけられてしまうのではないかと恐ろしかった。今まで通り感じてない振りをすれば済むことだと、自分の中に目覚めた女がそそのかした。
 フィザの憂慮を敏感に嗅ぎとったフェローズが、
「列車が遅れているのだろう。今日中には必ず顔を見せるよ」
 となだめすかしたが、フィザの疑心暗鬼は深まるばかりだった。三ヶ月にもわたる同居生活で、アミールがつい魔が差してディヤにふらふらとなびかないという保証はどこにもなかった。現にこの自分ですら、最終局面にはフェローズに体を明け渡してしまったのだ。だが、それはひとえに第一夫と縒りを戻したいがゆえしかたなくであって、三言通告を勝ち取るため渋々従ったともいえた。
 最初は本意でなかったが、交わった後でこれまでにない強い快感が生まれ、初めて女としての悦びを味わったのは一種の事故のようなものだ。自分にはうまく隠し通せる自信があった。再婚保留期間の三ヶ月が過ぎれば、再々婚、つまり復縁し、元通りの生活に戻れるのだから、なんとか知らんふりを通してやり遂げるしかなかった。
 しかし、もしこのままアミールが顔を見せず、ディヤとの再婚継続を選びとったらと思うと、ぞっとし、膝から下の力がへなへなと抜けていくようだった。自分は二度も三言通告を突きつけられた憐れな女と化して路頭に迷ってしまうのだ。フェローズもどことなく落ち着かなそうだった。ディヤの貞操を疑っていることは間違いなかった。身持ちのいい自分が落ちたのだから、鼻先に三言通告をぶら下げられれば、派手な悪妻がいとも易きに落ちることは容易に想像がついただろう。
 果たして互いの復縁生活は何の支障もなく、また元通りになるのだろうか。それとも、常に配偶者の婚外交渉を疑いながらの、ぎこちないものに変わってしまうのか。
 それよりも何よりも、二人が顔を表わさなかったら、どうするのだ。改めて、ディヤはこのスワップ婚が大きなリスクを孕んだギャンブルだったことに愕然とした。
 フィザの畏れを読み取ったように、
「心配するなよ。必ず現れるから」
「万が一来なかったら」
 と口にするのも恐ろしい可能性を憑かれたように唇に乗せると、
「その場合は、ぼくの三言通告を取り消すため、また同じ問題で悩む別のカップルを見つけだし、スワップ契約すればいい」
 なんという大胆なことを言うのだろう。これ以上神前で結婚を偽る冒涜罪は犯せるはずもなかった。もし第三夫が同じ顛末で三言通告を餌にぶら下げて脅迫すれば、我身はまた穢されるのだ。これでは娼婦と変わらない。
 わなわな震えだし、涙をほろほろこぼすフィザにあわてて、フェローズは前言を撤回し、「大丈夫だよ。ディヤは必ずぼくの元に戻ってくるし、アミールも間違いなくあなたの元に戻る」と念を押してみせた。

 二人はいつ彼らが到着するかわからないので、どこにも出かけず室内で待機することにした。時計の針は遅々として進まず、フィザはじりじりと焦燥感に駆られる思いで、第一夫の出現を今か今かと待ちわびていた。受付に彼らが到着した旨電話するよう頼みかけたフェローズだったが、慎重を期して止めたのだ。彼ら自身がこちらのルームナンバーを確認後、直接訪ねてくるはずだった。
 フィザは落ち着きなく、部屋を行ったり来たりし、フェローズが勧めるルームサービスのスナック類やジュースも喉を通らないほどだった。長針が九時を指したとき、ほとんどパニックに等しい恐怖に襲われた。まさか……。絶叫に近いうめき声を洩らす自分にフェローズがとっさに駆け寄ってなだめた。 
「大丈夫だよ。今日中に間違いなく、戻ってくるから」
 さっきはそわそわした風情だったフェローズが今は、張り詰めた緊張でパンクしそうになっているフィザに比べ、やけに落ち着き払っていた。フィザにはかえって、その無神経さが癪に触った。第一妻をアミールに永久にさらわれるかもしれないとの畏れがなぜ、いささかでも萌さないのだろう。それほどにも、ディヤのことを頭から信じ切っているというわけか。自分たちより、彼らの絆のほうが強いということか。それとも、先刻洩らしたように、どっちに転んでも、フェローズには大差ないということか。そのとき初めて、ディヤはフェローズの仮面の下に隠された恐ろしさを覗いたような気がした。この男はもしかして、ディヤが現れないことを暗に望んでいるのではないか。
 ぶるぶる震えるフィザを落ち着かせようと、フェローズが肩に手をかけ、再三大丈夫だと言い聞かせた。フィザは納得しなかった。涙がはらはらこぼれた。フェローズが頬に落ちるしずくを優しく拭ってくれ、なだめるように軽く抱擁しようとした。その刹那、フィザは弾けたように飛びのいていた。
「触らないで」
 ヒステリックに叫んでいた。フェローズはその剣幕にたじたじと、あとじさる。そのとき、ドアが控え目にノックされた。フィザはあわてて布の端で涙を拭い、平静を装う。やっと、彼らが到着したのだ、今泣いた烏が笑った風情で笑みがひとりでにこぼれる。ヒステリーを起こした自分が恥ずかしかった。
 が、フェローズが開けたドアの外には、白い制服姿のボーイが一人立っているのみだった。夕食の注文を取りに来たのだ。フィザは一転して絶望のどん底に突き落とされる。ドアが閉められたとき、へなへなとその場に座り込みそうな脱力感を覚えた。かろうじて持ちこたえると、ふらふらと椅子に倒れ込む。フェローズのどんな慰めの言葉ももはや通用しなかった。 

 これから、自分は一体、どうしたらいいのだ、二度も夫に離婚通告された憐れな女の烙印を捺され、路頭にさまようのか。両のまぶたからどっと涙が噴き出した。フェローズは、元第二妻の深い嘆きをはらはらと見守っていたが、刺激しないように手は出さなかった。
 そうして、のろのろとまた一時間が過ぎていった。フィザは涙も涸れてほとんど放心状態になっていた。
 十時を十五分回った頃、ドアが甲高くノックされた。フィザの体がその刹那、ぴくりと痙攣した。今度こそという思いと、またスタッフの用聞きかという思いが交錯し、ぬか喜びに終わりたくないとの緊張で身が極度に強ばった。
 フェローズがおもむろに放ったドアの外に、三ヶ月ぶりに見る懐かしい第一夫の顔が覗いた。その途端に、フィザは日頃の慎ましやかさも忘れて、椅子を乱暴にはねのけ、思わず飛びついていた。脱落と放心状態から蘇ったようにフィザは満面に喜悦をみなぎらせながら、ひしとアミールに抱きついた。
 この五時間余りは本当に、何年、何十年にも相当するような長い長い時間だった。今やっと、その拷問は終わったのだ。散々泣いて赤い目をしている自分が恥ずかしかったが、今は喜びと感動の涙に満たされていた。夫は妻の泣き腫らした目はあくまで、うれしさ極まってのせいと何の疑問も抱かないだろう。悲痛の極みと絶望の極致の涙から一転して、烈しい喜悦の涙と、極端な気分の落差を経験したフィザはへなへなとその場に折れ伏しそうな安堵感を覚え、かろうじて持ちこたえながら、夫にひしとしがみついていた。
 傍らで同様にディヤを愛情深げに抱き止めていたフェローズが、ドアが開いたままの、人目を気にし、フィザとアミールをとっさに中へ促し、内鍵を頑丈にかけた。
 両組は元のカップル同士に戻って心ゆくまで抱き合った後、ベッドと椅子に分かれて会話を交わし始めた。
 椅子に座ったアミールが向かいの妻に、遅ればせながら弁明した。
「列車が途中で事故に遭ったんで、大幅に遅れたんだよ。道中、はらはらし通しだったよ」。その実、正午近くまで、ディヤと戯れていたアミールは後ろめたい思いを拭い切れなかった。遅れると、フィザによけいな心配をかけることはわかっていたが、これが最後と思うと、ディヤの名器を味わい尽くしておこうと貪欲に精力が尽きず、ぎりぎり間際まで睦み合うことを止められなかったのだ。
 フェローズはそんな顛末には何も気づいていないそぶりで、ベッドから腰を上げると、アミールに近づき、すくと喜ばしげに右手を差し出した。アミールは立ち上がってフェローズの手を握り、男同士、がっちり握手し合う。
「無事、スワップ契約が完結したことを祝して」
 フィザもほぼ同時に差し出されたディヤの手を握り返していた。その実、内心の後ろめたさが付きまとって離れなかった。つい笑いが強ばるのにひやりとしたが、ディヤは何も勘づかぬようで満面に笑みを弾けさせていた。外見上は派手なディヤだったが、夫を契約にしたがってきちんと元に返してくれたのだ。それに比べると、貞操観念の強かったはずの自分は、なんという過ちを犯してしまったことだろう。しかし、それもひとえにフェローズが悪いのだと、三言通告を餌に釣った男にあくまで責任転嫁しようとした。なんという恥知らずの懇願をしてきたものかと、いまさらながらフェローズが憎たらしくなる。そうして、この自分は離婚欲しさに、体を明け渡す羽目になってしまったのだから。アミールなら、よもやそんな卑怯な真似はしないだろう。紳士協定を守り、契約通り、三言通告を言い渡したのだ。忸怩たる心地だったが、ひとえに第一夫への愛あっての妥協、通告を勝ち取るためしかたなかったのだと言い聞かせた。いわば、不可抗力ともいうべきものだと、罪悪感を覚えている自分をなだめすかす。それから、肉が自分の心に反して強い悦びを覚えてしまった顛末が悪夢のようによぎって、後ろ暗さを完全に拭い切れず平静を保つのに苦労した。
 娼婦のように見える女が聖女で、聖女のように見えた女が娼婦だったとの逆説に、フィザは苦い人生の真言を見る思いだった。貞淑だったはずの自分が別の男と交わって強い快感を覚えたことで、急にふしだらな女になったような気がした。しかも、最後の瞬間まで、心に反して、肉はフェローズを求めていたのだ。我身の穢らわしさを思うと、震撼する思いだったが、とにかく何食わぬ顔で芝居を続け、夫に疑われないようにしなければならなかった。復縁生活を円満に守るために化された義務と考えることにして、大胆に乗り切るしかなかった。
 一方、フェローズもフィザに優らずとも劣らず、実に見事な役者ぶりを全うしていた。にこにこと屈託ない顔で妻の肩に手を回し、アミールとの軽い雑談に興じていたが、一時間後思い立ったように、
「ホテルで互いの妻を入れ替えると、スタッフに怪しまれる。今夜はチェックインしたときのままの夫婦の振りを装って眠り、明日の早朝時間差チェックアウト、妻を交換するのは駅の雑踏にしよう」
 と警告して、いったん元に戻ったフィザとディヤをまた入れ替えた。フィザは戸口でディヤとともに足早に去っていくアミールと名残惜しげな目配せを交わし合った後、室内に戻った。 

 翌朝、駅の雑踏に紛れて素早く妻を入れ替えた両組は、何食わぬ顔で右と左に分かれた。誰も何も気づかなかった。ドラマは完璧に締め括られたのだ。

につづく)
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スワップ婚2(中編小説)

2017-10-10 18:05:04 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)
 二アミールとディヤの再婚

 アミールはD市中心部に急きょ借りた2LDKの家具付きアパートメントの一室で、眠れぬ夜を過ごしていた。どうにか一日目が過ぎようとしていることにほっとする。新たに妻の座に納まったディヤの料理下手は救いようがなく、朝は焦げたトーストとぐちゃぐちゃのオムレツを食べさせられたし、ランチボックスの用意もできていなかった。仕方なしに昼は外食、夜もどうせろくでもないものを食わせられることは目に見えていたので、外で済ませてきたのだ。いまさらながら、第一妻フィザの家庭料理が恋しかった。
 この先三ヶ月も、この家事の滅法苦手らしい女と暮らせねばならぬと思うと、暗澹たる心地になった。
 まったく、契約上とのこととはいえ、とんでもない女を第二妻にしてしまったものだ。幾度も寝返りを打って舌打ちする。緊張を和らげるには酒が一番なのだが、フィザにディヤとの同居期間中の飲酒を固く禁じられていた手前、帰途行きつけの酒屋を誘惑をこらえて素通りしたのだ。
 こんなことなら、ウィスキーの小瓶を買ってくるんだったと、大いに悔やまれた。隣室にあのいまいましい女が眠っていると思うと、落ち着かない気持ちだった。
 それにしても、あの滅法気弱そうに見えるフェローズはいったい、この悪妻にどう対処していたものろう。どう見ても、水と油の似つかわしくないカップルだった。我慢を強いられていた第一夫が気の毒になり、三言離婚通告したのももっともとうなずかれるのだった。
 しかし、美人と言えば美人で、容貌だけは十人並みのフィザより、ずっと器量がよかった。やせっぽっちのフィザに比べると、服の上からも胸や腰の大きさは窺え、いかにも男の食指をそそる豊満な体つきをしていた。フェローズも大方、外見にめくらませられたものか。まあ、家事は出来なくても、あっちのご奉仕がすごくて、手放せなかったのだろうが、ある日大人しい夫もついに切れるような粗相をやってのけたにちがいない。
 良妻フィザの唯一の欠点はからきし色気がないことだった。体に関しては、結婚一年になるも、いまだ満足を得られていなかった。性欲の強い自分は毎晩でも抱きたいのに、片やのフィザは淡泊で、セックスを除いてはまこと申し分ない妻が、夜だけ落第点に堕すのだった。求めると、渋々ながら応じるが、人形のようで反応がなく、アミールは機械的に便器に処理するような味気ない事後感に見舞われるのだった。
 あの夜、酔っ払って帰った自分は妻を求め、拒否された腹いせに思わず三言通告を吐いてしまったのだ。悔やんでも後の祭りだった。しかし、フィザがもう少し性のことに成熟して、夫を快く迎えてくれたなら、完璧な妻なのにと口惜しく思う気持ちもないでもなかった。日頃の不満が浴びるほど飲んだことで、一度に噴き出したともいえる。
 自分だって完璧な亭主とはお世辞にも言えない手前、フィザに100%を要求するのはおこがましいとは承知していたが、性に対する不満は澱(おり)のように重なっていたものと見える。
 しかし、こういう予想外の顛末になって初めて、いかに自分が恵まれていたかを悟ったというわけだった。とにかくディヤと三ヶ月同居して三言通告する交換条件を満たさないことには、第一妻をこの手に戻せないのだから、ここはじっとこらえてやり過ごすしかなかった。可能なら、今すぐにだって三行半を突きつけたい気持ちで、最終的に三ヶ月という期間で同意したが、やはり三月はいくらなんでも長すぎたと悔いるのだった。だから、俺は一月で充分だと反論したのに、やけに慎重派のフェローズが三月を主張するもんで、渋々折れたのだ。
 あれこれ思い煩っているうちに夜が白んできた。アミールは物思いをやめて、強いて眠ろうと努めた。が、無理だった。

 二日目は、ディヤはアミールが出勤する時刻に起きても来なかった。元より期待していなかったので、早めに出て途上の簡易食堂で朝食をとることに決めた。その夜、アミールがポケットにウィスキーの小瓶を忍ばせて戻ったことはいうまでもない。
 居間ではディヤがしどけない夜着姿で、メロドラマに耽溺していた。テーブルの上にはテイクアウトのピザの箱が開き、コーラの中瓶が半分ほど空になっていた。アミールが戻ってきたのに気づくと、
「あら、お帰りなさい。夕食はピザをとったの、あなたの分は冷蔵庫に入ってるから、勝手に温めて食べてね」
 とテレビの画面から目を逸らさずに、上の空で投げた。
「それには及びませんよ。済ませてきましたので」
 アミールは慇懃無礼に返し、自分の部屋に逃げようとした。一刻も早く独りになって、むしゃくしゃする気持ちを酒で紛らわしたかった。
「あら、そう」
 ディヤはいっこうに意に介さなかった。
 アミールはキッチンから氷をとってきたかったが、ディヤの目に触れることを憂慮し、あきらめて廊下の奥の角部屋に入った。
 小瓶はすぐに空いた。中瓶を買ってくるべきだったと悔やんだ。時計の針は十一時前を指していた。居間からはまだテレビの音が聞こえてくる。まだ間に合うかもしれない。帰途、アパートの近くに酒屋があることをめざとく見つけたアミールはそう思った。テレビに夢中になっているディヤの後ろをそっと擦り抜けて外に出た。酒屋は今まさに閉める直前だった。駆け込むと、迷ったが、中瓶を求めた。ポケットに入らないので、シャツの腹の部分に包むようにして戻り、何食わぬ顔で、ソファの背後を擦り抜けた。
 その拍子にディヤが振り向いた。アミールはぎくりとする。が、ディヤはただにんまり、意味深な笑いを洩らしただけだった。ほっとして、室内に駆け込む。瓶が三分の一ほど空いたとき、テレビの音が止んだため、これ幸いとばかり、氷を取りにキッチンに向かった。
そのとき、意表を衝くようにディヤが顔を覗かせた。
 製氷皿をもろに見られた。焦ったが、そ知らぬ振りで盆に乗せ横を素通りしようとした。その拍子に酔った体がぐらりとかしぎ、盆が手から滑り落ちそうになった。すかさず、女の手が伸びて押しとどめていた。
「飲んでるんでしょう」
 ディヤは共犯めいた笑みをうっすらと口の端に湛えると、狼狽しているアミールの顔をいたずらっぽい目つきで覗き込むようにした。
「隠しても駄目よ、酒くさい息がここまでぷんぷん匂ってくるもの」
 アミールは酔いのにじんだ赤いまなじりでたてついた。
「ああ、飲んでいますよ。それがどうした、これが飲まずにいられるかってんだ」
「気持ちはわかるわ。私だって、男なら一杯やりたい気持ちだもの」
 身を擦り寄せるように近づいてくるディヤの薄いレモン色の、衿ぐりの深く開いたナイティ(夜着)から、白い胸元が露わに覗いていた。ディヤは下着を着けておらず、こぼれるように豊かな肉の谷間が目を射る。アミールはあわてて目を逸らした。
「ねえ、協定を結びましょう」
「協定? それは承知の上ですよ」
 少しもつれる舌で言い返した。
「そうじゃなくて、私とあなたの同居生活の協定」
 この女は一体、何を言おうとしているのだ、赤い目の縁で疑い深げに探る。
「どうせ三月いっしょに暮らさなきゃいけないなら、楽しくやりたくない」
 それは異論のないところだ。しかし、料理のりの字も知らぬ女とどうやって折り合っていくというのだ。
「あなたのファーストワイフが家事万端の良妻だったことは、外見からも想像できたわ。セカンドワイフの私にそれを期待するのは無駄よ。でも、ファーストワイフが与えられなかった別のものを私はご提供できると思うの」
 ほくそえみながら、故意に胸元を誇示するように反らせつつ、アミールの目許にちらちら提示する。さすがのアミールもあからさまな誘惑の姿態に、その手に乗るものかと、乱暴に振り払うと、キッチンを後にしようとした。フィザの哀しげな顔がとっさに網膜によぎったせいだ。裏切ることは断じてできなかった。
「ねえ、楽しくやろうと言っているだけなのに、なんでそんなに冷たいのお」
 翻した背をディヤの不満気な声が追いかけた。まったく、売女のような女だと毒突きながら、足音荒く立ち去った。

 かろうじてディヤの誘惑を逃れた三日目から、ディヤは次第に本性を露にし始めた。せっかくの週末だったが、四六時中顔を合わせるのが気まずくて、アミールは日中外出した。仲良くしようだって、まったくとんでもない娼婦だ。体の関係を持つことは契約違反を百も承知の上で三日とたたないうちに誘ってくるとは、大した玉だった。フェローズはこの女の本性を知っていたにちがいない。なのに、なんで復縁したがるのだ。つまり、体がよっぽどいいということか。あんな堅物の顔をしてるけど、妻の肉体に溺れているのだ。だから、つい悪妻ぶりに耐え兼ねて三言通告してしまったものの、なんとしてでも取り戻したいにちがいない。それから、アミールはディヤのあそこはそんなにいいのかと、卑しい想像をつと馳せた。フィザでは求めて得られないものが、奇しき因縁で第二妻に祀り上げられたディヤからは与えられるかもしれないと思うと、下半身がむずがゆいような感触を覚えた。いつしか勃起していた。
 性欲に駆られるまま、アパートに戻ると、ディヤはいなかった。拍子抜けする思いだった。そんなに俺と遊びたいなら今ここで押し倒してやると、意気込んで帰ったのに、肩すかしを食わされたようだった。膨れ上がった海綿体が急速に萎んでいった。あの女は一体、俺を弄んでいるのか。あんなスケの誘惑に乗っては駄目だ、気を取り直して、自分に幾度となく言い聞かせる。
 フィザのような貞淑な良妻は二人といない。セックスのことだって、まだ未熟なだけだ。これから、俺が少しずつ教え込んでいけば、そのうち開花するだろう。女の悦びを知るのも、今後の亭主の教育次第だ。
 アミールはディヤが不在だった顛末に、天の配剤と感謝していた。
 
 そうして一週間が過ぎていった。最初誘惑してきたディヤも、アミールが予想以上に慎重なことを目の当りにさせられ、下手に誘いかけることは得策でないと警戒したものか、こちらの出方を窺うように中断していた。互いの動向を横目で探りあうような、居心地の悪い七日間だった。
 二週間めもそれは変わらなかった。そして、打ち解けないままのひと月近くがたったある日、バスタオルを巻きつけただけの露わな姿で、ディヤが自室から出てくるところにばったり鉢合わせした。アミールは目のやり場に困り、あわてて自室に取って返した。
 なんという奔放な女だろうと、あきれた。それとも、故意にだろうか。誘惑は頓挫したはずが、再挑戦か。その手に乗るものか、気を引き締めなければとアミールは新たに思い直した。触らぬ神に祟りなし、と警戒を強める。しかし、その夜の酒で脳裏にちらつくディヤの豊満な肢体を追い払うことができなかった。酔いに霞んだ網膜のスクリーンでディヤは露わなバスタオル姿で悩ましげなポーズをとり、はっと息を呑んでいる自分にこれ見よがしにそろそろと、タオルを剥ぐ真似をするのだ。
 ちらりと、乳首の黒い部分が過った。目玉をぎょろつかせている自分に、ディヤはさっとまたタオルで隠してしまうと、今度は腿の部分をそうっと持ち上げる。黒い縮れ毛が束の間目前をよぎり、アミールはごくりと唾を飲む。そうして散々気を持たせた挙げ句、ついにタオルを剥いで、まぶしい全裸でストリップティーズを繰り広げるのだ。
 アミールの鼻先に、開脚したあそこの淫らな部分が突きつけられる。その瞬間、こらえ切れずに射精していた。
 下着を着替えた後、アミールは少なくとも現実の性行為は行なわれていない、あくまでも想像上の行為だから、裏切りのうちには入らないと、自らの暴走を正当化した。想像上だったら、第二妻と何度でも交わっていいのだ。口にできないようなサディスティックな陵辱し放題だっていい、あの女はマゾッけがありそうだから、嬉々と応えるだろう。現実のディヤではない、仮想上の魔娼だ。

 そうして、毎晩、まぶたの裏の第二妻を犯し続け、二ヶ月が過ぎていった。
 その頃には、あまりにも頻繁に空想で交わったため、ディヤの肉の隅々まで精通しているかのような気にすらなっていた。
 卑しい想像のせいで、現実のディヤを見る目も、もろ男のものになっていた。虚々実々の境で、アミールは毎晩酒を食らって、想像の女を穢し続けた。相変わらず、架空上の行為が背徳になるとは露だに思っていなかった。
 アミールはこのまま三ヶ月が過ぎていき、三言通告の日が来ることをひたすら待ち望んでいた。場合によっては、少し早めでもかまわない。現実に法律上は第二妻にちがいない女と同居しながら、肉体的交渉は持てず、想像でしか交われない拷問のような日々に一刻も早く終止符を告げたかったのだ。
 
 そのため、八十日を過ぎたとき、だらしない胸元をはだけた寝間着姿でソファにのさばってテレビを見て馬鹿笑いしているディヤに、
「離婚、離婚、離婚!」
 と意表を衝かれている先方に委細かまわず、一気に三言通告してのけたのだった。酒は既に入っていた。気付け薬として生(き)で一杯あおったのだ。
 ディヤは一言も発せず、まじまじと呆気にとられたように、すでに離婚通告した元第二夫の顔を見やるばかりだった。
 アミールはすっと溜飲をさげる心地だった。これで、晴れてフィザのもとに戻れると、喜びがじわじわ胸内を押し上げる感動とともに込み上げてきた。
 体勢を立て直したディヤが胸の前で大仰に両手をパンパン打ち合わせるしぐさをした。拍手は、テレビの音を掻き消すように大きく鳴った。
「これでめでたく夫婦関係は解消ってわけね。この日を待ちわびていたのよ。とにかく、乾杯しましょう」
 今度はアミールが呆気にとられる番だった。ディヤはキッチンに引っ込むと、シャンパンとグラスを二つ持って戻ってきた。いつのまに買い置きしたものだろう。透明な金色の液体の納まった瓶は一面に霧が噴いていた。ディヤは慣れた手つきで瓶を傾けてよく振ると、スクリューのネジ巻をくるくる解いた。その拍子に小気味いい音を立ててコルク栓がぽんと弾け、瓶の口からしゅっと泡が湧き上げたてきた。吹きこぼれる白い液体がディヤの手を汚す。ディヤは濡れた手のまま、グラスに等分に注いでアミールに差し出した。
「チアーズ!」
 いたずらっぽい目つきでウィンクし、グラスをかち合わせる。一気に飲み乾し、まだ呆気にとられているアミールに空けるよう促した。
「長ーい二ヶ月半だったわねえ」
 感慨深げにディヤが振り返る。
「どうやら、私の悪妻作戦は成功したようね。ほんとはもうちょっと早いかと期待してたんだけど」
 アミールはぽかんとして第二妻を見守る。瓶が半分空いた頃合を見計らったように、ディヤがまたキッチンに引っ込んで、皿がいくつも載った盆を運んできた。豪勢な料理がテーブルの上に披露された。
「召し上がって。全部私の手作りよ。二ヶ月半に突入した頃から、この日を待ちわびて毎晩準備してたのよ。結局目論見より五日遅れたこともあって、独りでは食べ切れず、野良犬の餌になったけど、今日はせっかくの晩餐を無駄にせずに済んで幸いだったわ」
 こぼれるような笑みで明かす。アミールは狐につままれたような面持ちで、混ぜご飯のひと匙を口に持っていった。フィザが得意とする料理でアミールの好物だった。
味はフィザの腕前に勝るとも劣らぬくらい、天下一品だった。
「本当に君がこれを?」
 アミールは半信半疑で問い質していた。
「もちろんよ。私、ほんとはお料理が大好きなの」
 それでは、あれは全部芝居だったというわけか。売女のような悪妻の振りをして、こちらの貞節を試していたというわけか。なんという大胆な女だ。
「もし、俺が本気であなたの誘惑に乗ったら、どうするつもりだったんだい」
 アミールは半ば呆然と訊いた。
「そのリスクはあったわ。でも、私、そうしたら、うまくかわす術を心得ていたの。つまり、じらしてあげない戦法だったのよ、ウフフ」
「何も色仕掛けでこなくても、家事全般不得手の芝居だけで、俺には充分だったと思わないかい」
「そうねえ、ちょっと試してみたかったところはあるかもね。あなたがほんとにファーストワイフへの操を立てられるか、女として気をそそられたの。それというのも、あなたがとても魅力的だったからよ。芝居が本気にならないように自分を抑えるのに苦労したわ」
 アミールは、俺が毎晩想像上のあなたを穢していたことを知ってるかいと告白しそうになる誘惑をかろうじてこらえた。
「君の仕組んだ作戦は大成功だったというわけだ。ようし、今夜は酒盛りだ。めでたくぼくたち夫婦の再婚の解消を祝って!」
 空虚勢を張って投げたが、アミールは大きな魚を逸したようなしくじりを自分がしでかしてしまったことの悔いすら感じていた。ディヤは結局のところ、フィザ以上に完璧な妻だったということだ。体を味わったわけではないが、きっとあそこも名器、フィザと違って自分を満足させてくれたことだろう。しまったと、再度苦い悔いが湧き上げてきた。せめて、なぜ最初に誘惑されたとき、欲情のままに突っ走ってしまわなかったのだろう。一度体験しとけば、名器や否やもわかって、思ったほどでなければ、一長一短と妥協できたのに、ついにその肉体を知りえなかったことで、想像はいいほうにばかり走り、据え膳食わなかった男の恥を悔いていた。
 アミールはじっとり血走った目つきで、元セカンドワイフの体を嘗め回した。透けるように薄い夜着をまとったのみの体は扇情的で、見ているだけでくらくらした。
「今、あなたが何を考えているか、言い当てましょうか」
 ディヤが大胆に挑戦するような言葉を投げた。アミールが提供したウィスキーの中瓶もほとんど底を尽きかけ、酔いの回った女の舌は怪しげにもつれていた。
「私が欲しい、でしょう」
 図星だった。アミールはごくりと唾を飲み込む。
「でも、だめ、私はもうあなたのセカンドワイフじゃないから、あなたは抱ける当然の権利を既 に放棄したのよ」
 ディヤはうっすらからかうような笑みを湛え、今にも襲いかからんばかりの体勢でいる、狼か らするりと身をかわす。
「頼むから。俺はまだ三言通告していないよ。二言吐いただけだ。君の耳が間
違って、三言目を 聞いたんだ。だから、離婚は無効だよ。ディヤはまだ俺の妻
で、俺には妻の体を我がものにする当然の権利がある。なあ、そうだろう、君は二言しか聞いていないよな」
「そうねえ、聞いたような気もするんだけど、私、ぼんやりしているから、よく覚えてないわ。 でも、つまるところ、私があなたの妻であってもなくても、それはどうでもいいことなんじゃない。大事なのは、男と女が求めあっているとき、正直になることじゃない。
私はあなたを知りたいと思ってるし、あなたも結局は、そうなんでしょう。魅惑的な男女が肉体 的に惹かれあうのはしょうがないわ、自然の摂理よ」
「そう、その自然の摂理にしたがって、今こそ俺は心の底から、君が欲しいと
思っている」
「うれしいわ。アミール、あなたときたら、なんてアトラクティヴなのかしら。なんの面白味もない堅物のフェローズとは比べものにならないくらい欲情をそそるわ。フェローズは私の肉欲を満足させることができないのよ。ほら、私たちって、もしかして、あの性の不一致というやつかも しれないわ」
「それは俺だって同じだ、フィザは不感症だ」
「と思ったわ。私たちは不幸な同じ穴のむじななのよ。お互いの欲求不満を解消するために肉体 交渉を持つのは正当じゃなくて。私もとっても、あなたが欲しいのよ」
 アミールはその一言で箍が切れたように、ソファのディヤに挑みかかっていた。

 それからの十日間は酒池肉林の生活となった。週末ともなると、朝から晩までベッドに入り浸 りで、互いの肉を貪りあった。時間がないために、二人の交わりはいっそう烈しく、燃焼極まったといえるかもしれない。どうもディヤの罠にまんまと陥ったように思えてならなかったが、体のことが予想以上にすばらしかったため、あの夜の料理が結局のところ高名なレストランから 取り寄せたものだった真実が割れても、怒りの気持ちも起きなかった。女の本性なんて、わからぬものだ。わずか三ヶ月の同居で、ディヤが悪妻か良妻かは決められなかった。体のことだけとれば、ベストワイフともいえた。もし、罠なら、あえて嵌まってよかったとすら思った。この 名器を知らずして別れてしまうとは男として、なんというとんまな過ちをしでかすところだったのだろう。フェローズがこの女を手放したくな いのも当然だと、納得するのだった。
 お互い、ファーストマリッジが解消されるにいたった顛末も違反だったが、残らず分かち合っ てしまった。やはり、フェローズは家事のできないディヤにほとほと往生していたようだ。自分のほうは泥酔の挙げ句の失態だが、それも元はといえば、フィザが性的欲求を満たしてくれなかったところに根本の原因があったことを、ディヤは即座に悟った。
 最終日、アミールはよっぽど、このままディヤととんずらしてしまおうかとの誘惑をかろうじて持ちこたえた。三言通告はなされていたし、結局、第一妻の元に戻る選択しか残されていなかった。ディヤは二言しか聞いていないと何度も泣いてしがみつきながら、このまま再婚生活を続けようとすがったのだが、さすがに神を偽る行為はできなかった。土台契約スワップ婚というだけで、大変な冒涜罪だ。フィザにしろ、ディヤにしろ、一長一短で、すべてを満たしてくれる完璧な妻などいない現実に妥協したのだ。娼婦 の役目だけのディヤには最初はよくても、いずれうんざりする顛末も見えていた。長い目で見ると、いずれ性のことは衰えていくし、家事万端に手抜かりのないフィザのほうがいいような気がした。
 とりあえず、ディヤの肉体を最後の十日間、思う存分満喫できた。その甘美な想い出だけで、 フィザとの元の生活に戻っていけそうな気がした。向こうの
カップルも予定通り、三言通告ですでに再婚を解消していることだろう。
 海辺の町での再会が目前に迫っていた。

につづく)
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スワップ婚1(中編小説)

2017-10-09 20:28:02 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)
スワップ婚

                  李耶シャンカール


 一フィザとフェローズの再婚

 本来なら新婚初夜という記念すべきその一夜、フィザは熱気を重苦しく掻き回すのみの天井扇風機の鈍い旋回音が今夜に限ってやけに耳にこびりついて離れず、一睡もできずにいた。酷暑季の寝苦しさよりも何よりも、これまでの慣れた生活から一転してまったく新しい生活に投げ込まれた不安と緊張で目が冴えて眠れなかったのだ。いつも傍らにいたはずの第一夫アミールの姿はなく、たった独りであることと、一階のゲストルームで、第二夫フェローズが眠っていると思うと、落ち着かなかった。
 協定を結んであるので、よもや違反を犯すとは思えなかったが、フィザは念には念を入れて内鍵を厳重にかけて床に就いたのだが、安眠は訪れるはずもなかった。
 ぎんぎんに見開いた目で闇を見つめながら、奇しき因縁で二番目の夫の座に納まった男、必然的偶然で第二夫に祀り上げられたフェローズと、これから三ヶ月もの間寝起きを共にしなければならないと思うとぞっとして、輾転反側、まぶたが塞がらなかったのだ。
 三ヶ月はあまりに長すぎる、拷問だった。しかし、嫌疑をかけられないためにも、アリバイは完全でなければならなかった。三ヶ月後には、すべてが元の鞘に納まるのである。
 居住地D市郊外に急きょ借りた二階建ての家具付き貸家は、すぐに生活可能な日用品までそろっており、不自由はなさそうだったが、住み慣れた我が家が恋しかった。

 翌朝から、世間一般でいうところの新婚生活がスタートしたが、当然のことながら、フィザにとっては、甘さなどいささかもない、苦役のような同居生活となることは間違いなかった。二人の関係はいうまでもなく、ぎこちなかった。フィザは差し当たって、フェローズの心証を害さないように、従順な第二妻役に徹することに決めた。
「朝食は、どんなメニューがお好みでしょうか」
 おずおずとフィザは、すでに起きていたフェローズに、ミルクティーのカップを手渡しながら、訊いた。トーストとオムレツの洋風が好みだったアミールと対照的に、フェローズはお国料理を所望した。
 食卓の準備が整って促すと、フェローズは少し居心地悪げにダイニングの椅子に腰を下ろしたが、皿に揚げパンや豆スープを給仕すると、旺盛な食欲でむさぼり始めた。次々にお代わりを載せるフィザに、そこまでという風に手で制すと、盛られた分だけきれいに平らげた。
 食後、「おいしかったです」と控え目な口調でフィザの労をねぎらい、立ち上がった。おいしいなどという感想をアミールに一度も洩らされたことのなかったフィザは意表をつかれ、フェローズに対して漠と抱いていた恐れの感情が少し和らいだ。
 二十五歳のアミールよりやや年上と思われる二十代後半、銀行か役所勤めのお堅く真面目な男性、それがフィザがフェローズに抱いた初印象であった。Tシャツ&ジーンズが定番の広告会社勤務の第一夫とは性格をとっても容姿からいっても、まったく正反対だった。外向的で現代派のアミールに比して、二番目の夫は堅物の保守派、寡黙でどちらかといえば内気な自分と似通っているように見えた。容貌もアミールがくっきりした彫りの深い美形の長身なのに比して、十人並みの平凡な顔立ちで中背だった。つまりどこからとっても、陳腐の典型、あまり面白味のない男だったが、その分誠実さがにじみ出ていたことは確かだった。が、反面、厳格そうな一面も秘めているように思えて、何となく恐かったのである。
 フィザはフェローズの第一妻ディヤの顔や性格をつと思い浮かべた。水と油のようなこのカップルがどんな縁(えにし)で結ばれたのだろうと不思議に思ったものだが、しかし、水と油と言えば、そういう自分とアミールだって、そう言えなくもなかった。自分たちは見合い結婚だったが、フェローズとディヤも親の命令に否応なく従わされたものかもしれない。ディヤはフィザとさほど変わらない年頃に見えたが、容姿や性格は対照的で、派手なくっきりした顔立ちの積極的な女性だった。既婚婦人の日用着である体に巻きつけるタイプの長い布地ではなく、あでやかな真紅の民族服パンツスーツをまとい、化粧も濃く、ぱっと惹き立つような華やかさがあった。濃い紫色の布をまとって、布の切れ端で頭上を覆っていたフィザは引け目を感ぜずにはおれなかった。お互いの素性は明かせないし、紹介しあった名も偽名だったため、すべては外見上の印象からのみのものだったが、四人で額突き合わせて相談後、ほどなく合意が整ったのだ。
 入れ換え期間について、ひと月で充分とするアミールと、三月はいっしょにいないとまずい、疑われる可能性があるとする慎重派のフェローズとの間で意見が対立したが、最終的に三ヶ月ということでまとまった。それから、互いの妻を交換すると、分かれて別々の聖堂に向かい、再婚したのだった。

 最初の一週間は、問題なく過ぎていった。第一夜、眠れず煩悶したのが取り越し苦労と笑われるほどだった。もちろん、依然ぎくしゃくした関係は続いていたが、フェローズは癇癪持ちのアミールと違って、温和で扱いやすい男で、フィザも半ばほっとしていた。このまま儀礼上の関係を三ヶ月保つことはさほど困難でないように思われたのだ。フェローズは礼儀正しく距離を置いたままフィザの領域に割り込んでくることはなかったし、昼間は何の仕事かわからなかったが、勤めに出払っているので、フィザも自由に過ごせた。しかし、必要以上に親密になることだけは避けねばならなかった。最低限の事務的な会話を交わすのみで、距離を保っておかねばなるまい。無論、それは向こうとて百も承知だろう。夫婦としての同居というのはあくまで表向きで、がゆえの、一軒家に住みながらの一階と二階の別居生活なのだ。ただし、家事だけは自分が引き受けなければならなかった。使用人はプライバシー保持のため、雇えなかったからである。
 フィザはときどき、この羊のように大人しい男がどのような段取りで、かの三言離婚通告を妻に下したものかと、いぶかられてならなかった。が、三行半を突きつけるにいたった内々の事情をあけすけに聞く仲でもなし、余計な会話を交わして親しみが深まるのもやっかいだと、依然最小限の言葉しか交わさないよう気をつけていた。ただ時折フェローズが向ける目色で、最低限自分に対して嫌な感触だけは抱いていないようだと察することはできた。それはフィザも同じで、いってみれば、似た者同士の共感をそこはかとなく共有していたといえるかもしれない。
 フェローズは何より、フィザの作る食事を愛した。言葉少なながら、そのうち今日はあれが食べたいとリクエストするようになり、フィザはそれによく応え、第二夫を失望させることがなかった。 
 そうして二週間が過ぎ、いつしかひと月の歳月が流れていった。

 穏やかな水のような生活で、居心地の悪さはほとんどなかった。確かに本人と立ち向かうときの気まずさは多少あったが、この調子ならあと二ヶ月何事もなく過ぎて、約束通り期限末に三言通告を勝ち得るのは間違いなさそうな気がした。フェローズが信頼を裏切るような顛末はよもや、疑えなかった。
 その日の夕食後、フェローズは銀紙に包んだ矩形の箱をフィザに差し出した。
「いつもおいしい食事をご馳走になっているお礼、せめてものぼくの気持ちです」
 フェローズは少し照れて言った。フィザはおずおず受け取ったが、開けるよう促されて包装を解くと、美しい深緑色の人絹の長布が納まっていた。縁取りは金色(こんじき)で、目が覚めるようなあでやかさの、手のこんだ刺繍入りだった。しかし、この贈り物を受け取るわけにはいかなかった。第一夫アミールのことがつと頭を過った。
「とても美しいですわ。でも、これは私にではなく、贈られる人を間違えていますわ」
 フェローズの穏やかな眉が曇った。
「あなた用に買い求めたものだが、色がお気に召さなかったかな」
 フィザは俯いてもじもじしていた。なんと答えていいものかわからなかった。しかし、この厚意は断じて受け取ることのできないものだった。
「わかりました。今度は物でなく、何か食べるものを買ってきましょう。好物のものがあったら、遠慮せずに言ってください」
 フェローズは箱を引き取ると、努めて明るさを装って投げたが、とっさに背けた背には失望が表れており、フィザも気になった。
 それにしても、アミールから一度も贈り物と称するものをもらったことがなかったフィザはその実、フェローズの気遣いが嬉しかった。フェローズらしい濃やかな気配りで、普段妻とはかしずくものと傲慢で、釣った魚に餌をやらない呈のアミールとは大いに違っていた。美しいサリーだったなと、フィザは夢見るような瞳を泳がせた。なんで、私の気に入りの色がわかったのだろうかと、不思議でならなかった。初めて、フェローズに対して温かいものが流れ出すのを感じたフィザはあわてて、その感情を塞き止めた。フェローズに情を抱くことは厳禁だった。たといそれが友情から出たものにしろ、三月後にはまた他人に戻る運命、後腐れない事務的な関係で別れたかった。

 フェローズとの共同生活は思ったより快適だったが、深入りしないようにと気を配るがゆえの緊張感は常にあった。そのため、二ヶ月がやっと過ぎたとき、フィザはさすがにこれまでの緊張が溶けるような、安堵感を半ば覚えた。二ヶ月半めに突入した頃からは、せかせかと逸る思いで、息を詰めたように三言通告を待ちわびるようになっていた。何もきっちり三ヶ月でなくともいいのだ、ちょっと早めに通告してくれたっていいと、じりじりした。どうしたことか、フェローズは、肝心の一言をじらすようになかなか口にしてくれなかった。まさか約束を忘れたわけでもあるまい。フィザははらはらと、第二夫の意向を疑わしげに探るばかりだった。
 フェローズはフィザが何かを言いかけそうな期待のこもった顔つきになると、すうーっと視線を逸らして、その場を立ち去ってしまうのだ。
 すでに五十日が過ぎていた。が、フィザは慎重だった。まだ十日ある。杓子定規なフェローズはきっちり三ヶ月目に通告するつもりでいるにちがいない。なにせこの男は自分たち元夫婦にとっては、神にも等しい存在なのだ。救世主をせっついて怒らせては身も蓋もない。自分とアミールが復縁できるや否やは、すべてこの男、フェローズにかかっているのだから。そのため、本物の妻のように甲斐甲斐しく奉仕し、じっと時期の来るのを待ち続けることしかできなかったこの五十日間だった。
 しかし、約束の期限まであと三日という瀬戸際になっても、フェローズはじらすようにフィザがただひたすら待ちわびる三言通告を口にしてくれなかった。

 が、五十八日目に至ってついに、朝食の席上で、荒潮のように高まる第二妻の期待に耐え兼ねたように、フェローズがその一言を発した。
「離婚」
 弱々しい言葉だったが、フィザは内心狂喜した。ああ、やっとこの嘘の生活から解放されると思うと、顔中に喜びの泉が噴き上げた。
 あにはからんや、束の間の喜悦は一転して、落胆に変わった。
 第二夫は、離婚と一言発しただけで、突如席を立つと、顔を背けて足音荒くその場を去ってしまったのだ。
 フェローズにいったい、何が起こったのか。なぜ、一思いに三言通告して、自分をこの嘘の生活から解放してくれないのだ。フィザはもどかしさでいっぱいだったが、かろうじて落胆から立ち直ると、自分を鼓舞した。
 少なくとも、離婚の一語を吐いてくれたのだ。あともう一息、明日か明後日には間違いなく一気に残りの二言通告され、自分は解放され、アミールと晴れて復縁できるのだ。確実にその日はやって来ると、フィザは信じて疑わなかったので、楽観的だった。

 そもそもは、泥酔して帰ったアミールが悪かったのだと、フィザはつと事の顛末を振り返る。酒くさい息を吐いて求めてくる夫を反射的に退けたフィザに烈火のごとく怒り狂って、亭主の要求に応えられない女など、妻じゃないと三言通告を吐き捨てた挙げ句、酔い潰れて眠りこけてしまったのだ。フィザはおろおろと大変なことになってしまったと、無論眠るどころではなかった。
 今さっき離婚通告したばかりの事の重大さも知らずに、のんきに眠りこけている夫が恨めしかった。もう、自分はアミールの妻でないのだと思うと、涙がはらはらこぼれた。
 翌日、事の次第を知らされた夫はさすがに泡を食った。しかし、いくら悔いたところで後の祭りだった。宗教法廷に出向いた夫は、聖職者に復縁するにはたった一つの手立てしかないことを示唆される。それは妻が再婚した第二夫から三言離婚宣告されること、そうして初めて第一夫との復縁が許されるという。
 しかし、いったいどうやって? ほとんど不可能に等しい解決策だった。ただ離婚通告するがために結婚してくれる男など果たしてどこにいるというのだ。そもそも、結婚歴のある女との再婚に承諾してくれる男を探すのだって、至難の業だった。なおかつ三言通告もとなったら、金で雇えとでもいうのか。それにしたって、妻の貞操の問題はどうなる。第二夫の性の餌食になってしまう可能性がないとは言い切れない。不貞を犯した妻を、自分がどうして受け入れられよう。夫は煩悶した。
 窮余の策としてネットで当たって、同じ問題で悩む夫婦がたくさんいることを知った。証人不要の夫の側からの一方的な離婚通告はその安易さから、濫用されていたのだ。アミールと似たような、泥酔の挙げ句詰られてついというケースが多かったが、中には、愛人と再婚したいがためにメールやSMSの簡易通報で済ませる浮気亭主もいるようだった。
 根気よく調べていくうちに、名案ともいうべき解決策にぶち当たった。復縁を望むカップルとの合意契約のもとの入れ換え婚である。互いが互いの問題解消の最善策、金銭を介す必要もないし、ベストの妙案だった。
 そして、交換条件に見合う夫婦が運よく、見つかったのである。偽名であることは間違いないが、フェローズ&ディヤというカップルで、互いの離婚通告を撤回するための、妻取り替え作戦の段取りが整ったというわけだった。

 翌日の夕食後、思った通り、フィザの期待のこもった上目遣いの促しに、フェローズがふらふらと椅子から立ち上がって、
「離婚」
 とかろうじて二言目の通告を発した。フィザは昨朝のぬか喜びに終わった顛末のせいですぐには反応を示さずに、息を詰めて三言目を待った。
 第二夫はなぜか苦しそうに歪めた顔つきの下から、消え入りそうな三言めをひねり出そうとしながら、間際に来て声を呑み込んでしまった。まるで嫌々ながらのおざなりのような二言めであったが、喜びの表情に沸き返ったフィザだっただけに落胆はひとしお深かった。しかし、ここでせかしては元も子もない。じっと、辛抱強く三言めが発されるのを待つしかなかった。ああ、もう少しで、第一夫のもとに戻れるのだ。フィザは緊張の頂点で、張り詰めた空気の中微動だにせず三言目をひたすら待ちわびていた。
 立ち上がったままのフェローズの唇の動きを、すがるような目で追い続ける。唇がつと動いた。フィザは息を詰めて、その瞬間を待った。ああ、ついに……。
 しかし、次の瞬間、フィザのどくどくと心臓が破裂しそうなくらい高鳴っていた動悸は、一気に凍った。
 第二夫はついに三言目を発することなく、気弱そうに口をつぐむと、背を背け、居間に去ってしまったのだ。
 フィザは愕然とした。二言目までの通告は撤回可能で、無効なのだ。きちんと三言通告しないと、離婚は成立しない。
 深い落胆からかろうじて立ち直ると、フィザは気を取り直し、明日に期待することにした。

 約束の最終日、息を詰めて待ちわびるフィザにフェローズは終始避け通し、食卓でも目を合わすのをかわしてとうとう三言通告せず仕舞いだった。翌日、さすがにたまりかねたように、
「あのう、お約束の期限を過ぎているのですが、まさかお忘れになったわけではないでしょうね」
 とそれとなくせつくと、フェローズは顔を真っ赤にし、口をもごもご動かし、
「ぼくはフィザさんの作る食事の大ファンになってしまったのです。もうあと一日だけ、ぼくの妻としてのあなたの手作り料理を楽しませていただけませんか」
 フィザは折れた。多分、フェローズの元妻ディヤはアミールから既に三言通告を勝ち取っているはずだと思うと焦ったが、一日くらいは大目に見るしかない。アリバイを完璧にするため、アミール・ディヤ組とは三ヶ月間音信不通、六十五日後に、さる海辺の町で再会の約束を交わしてあった。
 ところが、翌日になっても、フェローズはまた同じ言い訳で通告を避けようとするので、「三日後のS町での四人の再会をお忘れになったわけでないでしょう。あなたの第一妻のディヤさんはこの日をどんなにか待ちわびていることでしょう」
 とやむをえず、タブーの相手の妻の話題を持ち出すと、
「ディヤの手料理というのを、ぼくは一度も食べたことがないのです。食事だけでない、あいつの体にも満足していなかった」
 と日頃のフェローズに似つかわしくなく、あからさまに内々の事情を暴露する。
 フィザは聞こえなかった振りをして、
「私の側の用意は出来ています。どうぞ即刻通告してください」
 と引導を渡した。そのとき、
「あなたのお望み通りに。ただし、ひとつ条件があります」
 とフェローズが交換条件を持ち出してきた。
「もしぼくの三言通告が欲しいなら、一晩だけぼくの相手をしてください、お願いします」 
 耳にするもおぞましい要求に、さすがのフィザも裏切られたような思いを禁じえなかった。この顛末をすぐにアミールに告げなければと思ったが、契約婚が聖典と唯一絶対主への冒涜罪になることを懸念して、三日先のS町での四人の再会までは連絡不能なのだ。いわば鉄壁のアリバイ作りにも似ていた。がために、アミールとディヤがD市のどこで三ヶ月間の同居生活を送っているものかも知らなかった。一瞬勤め先に電話しようかと俊巡したが、かろうじて思いとどまった。そんなことをしたら、事態がいっそうもつれるだけで、結局のところ、復縁のチャンスを逸してしまうだけだと悟ったからだ。
「卑怯だわ」
 フィザはさすがに腹に据えかねたように、語気荒く投げた。
「なんと言われても、ぼくはあなたとの短い再婚生活の想い出に、一夜の記念を持って帰りたいのです。それがあれば、悪妻ディヤとの今後の復縁生活も続けられそうな気がするんです」
「それはあなたの側の事情でしょう。私の気持ちはどうなりますの」
「胸のうちに秘めて黙っていれば済むことですよ。あなたなら、できるはずだ。それとも、このままぼくと暮らし続けますか。永劫に三言通告をもらえずに。願わくば、ぼくにはそのほうが都合がよいんだが。ぼくたちは、真の夫婦になれるのだから」
 フィザはあわてた。
「何をおっしゃるの。私は必ず、アミールのもとに戻ります。このまま、あなたとここで暮らし続けるわけにはいかないわ」
「それなら、たった一度の不貞です、一夜をぼくにください。並の夫にはできない熱く燃える夜をあなたに提供します」
 よくもいけしゃあしゃあと図々しくと、フィザは怒りが納まらなかった。控え目で優しいどころでない、とんだ食わせものだった。ぎりぎり最後の局面で、体を求めてくるとは。フィザは憤然と背を翻すと、二階に駆け上がった。

 煩悶の夜が続いた。一睡もできず、寝返りを打っては、思い悩み続けた。いったい、どうすればよいのだろう。絶体絶命の危機だった。部屋から一歩も出ずに何か名案はないかと頭を捻ったが、何一つ思い浮かばなかった。これまで甘い顔をして、付け入る隙与えたことが真に悔やまれた。家事はいっさい放棄していた。思えば、料理を褒められるうれしさにせっせと丹精込めた食事を作り続けたのが間違いの元だった。最初から、そういう意図の作戦に、ナイーヴな自分はまんまと引っかかったのだ。口惜しくて、涙が振り絞っても振り絞ってもあふれた。そうするうちにも、いたずらに時は過ぎていくばかりで、なんの解決案も見つからなかった。 
 いよいよS町での約束の期日が明日に迫った夜、寝室のドアが控え目にノックされた。無視し続けたが、ノックはきつつきが木に穴を掘るように根気よく鳴り通し、観念したようによろよろと起き上がると、震える手で錠を解いた。
 フェローズは盆に食事を運んできていた。
「食欲はありません」
 やつれた顔でフィザは盆を押し退けた。
「さっさと私をものにしたらいいじゃないの」
「あなたが苦しんでいるのを見るのはつらいのです。お願いだから、少しでも食べてください」
 とパンを千切って、ルーに浸してフィザの口に運ぼうとする。フィザは顔を背けた。その拍子に涙がつーっと目の縁から頬の脇にこぼれ落ちた。しばらく放心したように泣き続けたが、嗚咽を止めると、言った。
「もう一度確認させてください。私があなたのひと晩のお相手をすれば、必ず三言通告はもらえるのですね」
「間違いなくお約束します。あなたの貞節の明け渡しの代償として」
「承知しました。どうぞなんなりとお好きなようになさってください。今宵、私はあなたのものになります」
 フィザはその瞬間、長い布をくるくると剥ぐと、ブラウスと腰巻き姿になってベッドに横たわった。

 嫌々ながらの譲歩のはずだったが、フィザの体はフェローズの巧みな愛撫に火照り始めた。そんな自分の反応にあわてて抑えようとしても、ほとばしり出すものをこらえ切れず、うめきが洩れそうになるのを唇を噛んで必死に封じた。夫との交渉では一度も感じたことのない肉の喜びが奥深くから湧き上げてきて、いつしか我知らず細かく痙攣し始めていた。 
箍が外れたように、あえぎが洩れ出た。それから先は、自分がどうなったのかわからない、一度禁制を解かれた体は奔放に燃え上がった。気がつくと自分から男の体にしがみつき、あられもない声を挙げていた。フェローズは一夜しかない時間を無駄にすまいと、飽くことない性欲で責め果ててきた。
 いつしか夜が白みかけ、汗みどろになって髪を振り乱した情婦に変わり果てた自分がしわくちゃのシーツの波間に埋もれていた。

 フェローズはすでに目覚めていた。
 昨夜の烈しい情交のせいで、二人の関係は一夜にして変わってしまっていた。均衡が破れ、男と女になった今、羞恥と気まずさでフィザはフェローズに対する。体の奥に消えやらぬ澳が名残り、官能のうずきにまだ肌は火照っていた。
「三言めの通告が今、欲しいかね」
 フェローズが言った。
 フィザは今しばらく、夢見心地で熱い夜の名残りに浸っていたかったため、
「いえ、朝食後で結構よ」
 と物憂げに答えた。その拍子にフェローズの腕が伸びてきた。一夜だけのはずが、求めに応じてフィザはあっけなく体を開いていた。
 朝食を急いで作り、食卓に座るフェローズの前に給仕した。これが最後のご奉仕だ。もうまもなく、仮の第二夫との別れが訪れる。フェローズはわざともたもたしたそぶりで食べていたが、食べ終わると、洗面に立った。
 戻ってきた彼にタオルを渡す。目の合図で促され、食卓に向かい合って座る。
三言目が発されるまで、数分沈黙が漂った。二人の間に張られた緊張は弓弦をぎりぎり一杯絞ったように膨れていた。
「離婚」
 聞き取れるか取れないくらいの弱々しい小声だったが、ついに音が外気に乗った。フェローズはそのまま顔を上げなかった。その瞬間、フィザは涙をこぼしていた。その涙は果たして、喜びからなのか哀しみからなのか、フィザ自身にもわからなかった。三言目を下されることはもしかして、自分の中に目覚めた女は望んでいなかったのではあるまいか。
 とにもかくにも、フェローズに抱かれる選択を未来永劫に我が手で封じてしまったことになるのだ。
 そして、何食わぬ顔で自分は、第一夫のもとに戻っていく。無味乾燥な夫婦の毎日がまた始まる。性欲の捌け口の便所でしかない家政婦代わりの妻とは名ばかりの日々、子宮が初めて知った女の喜びにきゅうっと収縮し、うずきを伝えるのを静かに泣きながら、フィザは感じていた。

につづく)
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拙著「インド人にはご用心!」売り切れ間近

2017-10-07 19:45:16 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)
2012年8月に上梓した拙著「インド人にはご用心!」が、版元の三五館が10月5日事業停止に追い込まれたことで(出版不況下、25年間奮闘した功績をたたえたい)、書店での購入が危ぶまれている。同社発行の書籍はすべて回収されるらしい。
ただし、ネット書店ではいまだに購入可能なので、売り切れないうちにぜひご購読をお願いする次第である。
「インド人にはご用心!」(モハンティ三智江)

アマゾン部門でトップに輝いた業績を持ち、八重洲ブックセンターでは一番目立つ棚に立てかけてもらった、著者にとっても思い出深い書だ。


内容に関しては賛否両論あるが、テーマが各国のご用心シリーズの一環で、辛口の批評論となったことは致し方なく、そこに反感を覚えた読者もいるようだが、私としてはテーマに沿ってユーモラスにインド人をやっつけた!つもりである。
コテンパンと思われるかもしれないが、愛情の裏返しなんですよ。

ここまで非常識なインド人に万歳!
いい加減で雑で、大雑把な私には住みよい国です。
ただ、汚いのだけはどうにかならないかなあ。
当地プリーの変貌も嘆かわしい。
美しいベンガルの浜もごみとくそだらけ。
おまけに、前の道は車がひっきりなしに行きかうし、平和な穴場的静けさはとうに失われた。
気持ちが、日本の副ベース・金沢に向くのもむべなるかな。

でも、何はともあれ、三十年暮らした第二の祖国です。
インド人を面白おかしく徹底解剖した辛口評論エッセイ、楽しめること請け合いです!!!

※以下は、ネットで見つけた割と最近の批評、ご購読の参考にしていただければ幸甚です。

本ナビ:本のソムリエの一日一冊書評
「インド人には、ご用心!」モハンティ三智江


しろやぎさんの里親日記
【読書】インド人には、ご用心!


書いとかないと忘れちゃうから「読書記録」
『インド人には、ご用心!』 モハンティ三智江(三五館)《前編》


最後の書評は前・中・後編と三回に分けて続く長編、ここまで細かく読みこんで分析してもらえれば、著者としては本望。ありがとう!!!

☆本屋で購入するのはもう無理かもしれないが、ほかにもネット書店を当たってみていただければ、中古本も出回っていると思うので、お得です。版元倒産で著者には印税はもう入ってこないものの、売り切れないうちに少しでも多くの人に読んでもらいたいと思う。
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邂逅6(中編小説)

2017-10-04 19:41:55 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)
   エピローグ (2005年)

 私が、この秘められたエピソードを作品に書き下ろすまでには、それからさらに長い、二十年という歳月を待たねばならなかった。
 五十代という人生の一大転換期に差しかかった私は、更年期特有の症状に悩まされ、以前にもましてヨガや呼吸法、瞑想に熱心に励むようになっていた。そうしたある日、はたと、書くべき機が熟したことを悟らされたのである。 
 長かったインナートリップの終着点が彼方にかすかに点滅していた。

 五十歳の大台に乗った誕生日、私は新しい原稿用紙を開くと、まっさらな一枚の冒頭に、脳裏につと閃いたタイトル、
「邂逅」
 と記し、下段に、この二十年間一度たりとて忘れることのなかった、師から賜り大事に温めてきたペンネーム、
「李耶シャンカール」
 と一語一語丁寧に綴った。
 旧い殻を脱ぎ捨てて蘇った、再生のシンボルでもある新名におののくような生の悦びを覚えながら……
 私は長年にわたる内面の探索が結実するような感慨ともに、枡に力強く文字を埋めていった。

『己を虚しゅうして、竹笛に神の御言葉を通すごとく想像の音楽としてほとばしらせることじゃ』
 鼓膜に蘇る懐かしい天声に導かれるように……。(了)      
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