インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

帰国日誌26.東京8/井荻

2010-01-31 01:14:18 | 
<12月7日>
今日は午後一時に、一週間前三十年ぶりに再会したJの開業する整形外科クリ
ニックで診てもらうことになっていた。すでに金沢で診察済みだったが、先般
会った元ボクシングチャンピオンKからMRI検査をした方がいいとせかされていた
のだ。彼は首のヘルニアのせいで引退を余儀なくされたのだった。Jに問い合わ
せてみたところ、その検査は不要だが、なんなら診察してあげるよということに
なったのだった。元々、セカンドオピニオンとして診察を受けようかと考えてた
矢先でもあり、この際診ておいてもらおうと決めた。それに井荻にあるというク
リニックも見てみたかった。

指示されたとおり荻窪で下りてバスで向かった。地図はネットから印刷してあっ
たので、すぐわかった。受付には奥様らしき女性が立っていて、にこやかに応対
される。明るい雰囲気のゆったりしたソファ様の長椅子に座って待つことしばし、
名前を呼ばれた。
前回の個人的な会合とは違い、医者と患者として向き合う。
模型を使って丁寧に説明された後、触診。
レントゲン検査はすでに金沢で済ませてあったのでパス。
診断結果は、私のはヘルニアでも比較的軽症だろうとのことだった。
手術しないなら、MRI検査も不要とのこと。
ほっとする。

         

診察後、奥の院長室に通された。
ソファに腰掛ける私に、Jが七年前自費出版した小説、
「東京砂漠をふうーらふら」(神土亜夢/文芸社)
*ちなみにこのユニークなペンネームは、若いころ私が主宰していた同人誌に
自作の詩を掲載させてもらったときそのまんまである)
http://www.amazon.co.jp/dp/4835540174

と、彼の今は亡き高校時代の級友がやはり自費で出した、
「狂歌宣言」(黒部猿田彦/論創社)
http://www.amazon.co.jp/%E7%8B%82%E6%AD%8C%E5%AE%A3%E8%A8%80%E2%80%95%E5%85%88%E5%8D%83%E5%AF%BF%E7%8B%82%E6%AD%8C%E9%9B%86-%E9%BB%92%E9%83%A8-%E7%8C%BF%E7%94%B0%E5%BD%A6/dp/484600144X/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1265036945&sr=1-1

の二冊のハードカバー書を贈呈された。私もお返しに、拙著
「お気をつけてよい旅を!」(モハンティ三智江/双葉社)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4575290688/qid=1063182646/249-742

をお渡しする。
「東京砂漠をふうーらふら」は、Jの東京での医学生時代の恋、友情をつづった青
春小説。女子大生Aに入れ込んで狂おしく追いかけ回すうちに、ぐうたら医学生
だった彼は転落の坂を転げ落ち、ついに賭けマージャンで五百万もの借金を作っ
てしまう。やくざに見込まれたのが運の尽き、にっちもさっちもいかない窮状は、
高校時代の元級友の郷里の両親への進言で救われる。父親に郷里の医科大に入り
なおすことを条件に、全額返済してもらえることになったのだ。
それまで突っ張ってきた主人公が親を前にして弱さを晒し、東京を去る感慨の覗
くラストがほろりとさせられる。

                         

本を戴いた後、院長自ら、クリニック全体を案内してくださった。陽光あふれる
待合室は明るくゆったりしているし、リハビリ室も広くてびっくり。私のたって
の要望で奥様にも紹介された。留年を繰り返している出来の悪い医学生息子につ
いて愚痴をこぼされる。ご主人が立派なお医者様になってるのだから大丈夫です
よとお慰めして、太鼓判を押す。
奥様も脊椎狭窄症とかで、同病ではないが同じ腰痛同士、相哀れむ心地にも。さ
すがによくできた方と、Jの今あるはまさしく内助の功との思いを強くした。

ちょうどお昼休みに入ったとかで、Jには近くのお寿司屋さんで高価な握りまで
ご馳走になった。一時間ほど歓談した後、篤く礼を行って別れた。
バス停の背後にショッピングセンターがあったのでついでに物色、荻窪ではブッ
クオフを覗いて、東小金井駅に戻り、南口の漫画喫茶でメールチェックして、夫
の待つ宿に帰った。

           



後日、Jの小説を読んで、狂おしく追い掛け回していた永遠のマドンナとは肉
体関係がなかったと判明、そういえば当時そのようなことも聞いた記憶はある
が、私の脳裏からはすぽりと抜け落ちていた。男女関係の進展度を示すのにA、B
という言い方が昔あったが、Bくらいまではいっており、最後の一線を彼女がど
うしても許さなかったとのこと。
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帰国日誌25・東京7/銀座2

2010-01-31 00:27:50 | 
<12月3日>
今日は、夕刻五時からアポが入っていたので、二丁目の一階にメルサの入ってい
る銀座貿易ビルに向かった。
この地下二階にSの主宰するネット新聞、銀座新聞社があるのだが、今日は彼に
薦められて、お隣のファイナンシャル会社が売り出している英国のミューチュア
ルファンドについての説明を聞くためにやってきたのだった。
ゴージャスな応接室に通された後、担当者からまず紙袋に入った贈り物を渡され、
恐縮。もらっていいのかなという感じ。ほかに二人の社員を紹介され、早速本
題に入った。学業中の息子を持つ身の私には月4万の掛け金は無理そうだった
が、知人に紹介し加入した場合手数料も支払われるとのこと。経済音痴の私も近
年、投資には興味を持ち出していたので、聞いておいても損はないだろうと、会
合を受け入れたのである。
日本語と英語のパンフレットを見せられ丁寧に説明される。インドでホテルを経
営している経歴に目をつけられたようで、お客さんに薦められないかと打診され
る。一時間弱お話を伺って、パンフレットも読みたいし、夫にも相談する必要が
あるので、しばらく時間をいただけないかとお願いして、そこを後にした。

                                    

その後、Sに隣室の銀座新聞オフィスに案内された。
リーマンショック以降、人が雇える余裕のなくなってしまったSはたった一人で、
この事務所を切り盛りしている。新聞なので日刊、毎日終電で帰宅の超多忙さ。
オフィスは想像してたよりずっと立派だった。とにかく、銀座に事務所を抱える
というだけでも、すごいもんである。ファイナンシャル会社からの贈り物を預け
て、私は叔父と、六時に高島屋の前で約束していたので、いったんそこを後にし
た。八時にはS主催で、三ヶ月ほど前うちの安宿にお泊りいただいた元ライト級
ボクシングチャンピオンKさんとの会合がもたれることになっていた。そのため、
またここに戻ってこなければならないのだ。

                         

高島屋前に叔父の姿はなく、中を見ると、休憩用の椅子に座っていた。
昨年同様、六階のそば・天ぷらの名店に連れて行かれた。
美味な天ぷらやお寿司をつまみに日本酒をご馳走になりながら、親族同士の会話
が弾んだ。彼の兄に当たる、もう一人の叔父の訃報についてはすでに聞いていた
が、まずその話題が出て、しんみりムードになる。食道がんで、いったん持ち直
したのだが、今回帰ったときにはもうこの世の人ではなかった。最後に病床に見
舞ったとき、俺も寿命かなあと、弟である叔父に洩らしたそうだ。
弟の方の叔父は65歳になる今も元気に勤務、壮年期勤めた広告代理店から転職、
現在は人材派遣会社の顧問として活躍している。やり手の広告マンだったのだが、
社長が廃業を告げたため、畑違いを歩むことになったのだ。インテリでしゃれた都
会派の叔父には、東京の学生時代から私淑し、若いころはよく自宅にも遊びに行っ
たものだ。美人の奥様とは社内結婚、双生児に恵まれたが、二人ともすでに成長
し、うち一人は所帯持ちとか。甥の伴侶がヨガインストラクターと聞いて、イン
ドでヨガ信奉者の私は不思議な因縁を覚える。
お小遣いをもらうような年でもないのに、最後にはお札まで出され、昨夏の帰京
時も息子にと頂いただけに、恐縮するばかりだった。

歩いて銀座二丁目に逆戻り。銀座新聞のオフィスに電話すると、元ボクシングチャ
ンピオンKさんは現在、こちらに向かっているとかで、表で待って見張ってくれる
よう指示された。おりしも雨の降りしきるうすら寒い陽気、傘を差しながら通路を
見ていると、Sもほどなく上がってきた。どうやら迷っているらしい。千葉出身
というから銀座の地の利のない人にはわかりにくいだろう。二人で数寄屋橋方面
まで歩いて探したが見つからず、また表通りに戻ってきて、やっと当人を見つけ
た。

  

まず、オフィスにいざない、Sは初対面の挨拶、缶ビールを飲みながらのインタ
ビューが少し続いた。Kさんは現在、以前所属していたジムのトレーナーをして
いるとかで、インド旅行中は無職だったのが、晴れて稼げる身分になったわけで、
よかったなと思った。チャンピオンになっただけの技量の持ち主なのだから、カ
ムバックはないとはいえ、ここでボクシングとの縁が切れてしまうのはもったい
ない。トレーナーなら願ってもないだろう。
Sは、Kさんのボクシング時代のエピソードをコラムにできないかと考えており、
このたびの会合となったのだ。
ちなみに、Kさんをご紹介いただいたのは、以前うちにお泊りいただいたサン
トーシーさんからである。彼女はKさんの熱烈なファンだったのだ(インドに
ぞっこん入れあげておられたサントーシーさんはすでにデリーに移住、長年の
夢を果たされた)。

                 

オフィスを出て、昭和通りの中華料理店「悟空」で会食。去年経済出版社同窓
会の会場となった店でもある。ボリュームたっぷりでおいしく、リーズナブルな
お値段。私はすでに叔父にご馳走になっていたので、箸をつけるのは二人の男性
のみ。紹興酒のボトルを一本入れたが、明日があるせいか、Kさんは一杯飲んだの
み。
Sはさすがプロの記者、核心に迫ったインタビューが延々続く。おかげで、チャン
ピオン育成までのジムの裏事情も少し飲み込めた。
結局閉店まで居座り、東京駅に歩いてたどり着いたときには零時を過ぎていた。
明日があるのに、長いことお引止めして申し訳なかったとおわび申し上げる。K
さんは今日は自宅に帰らず、ジムのある大塚に泊まるから大丈夫と言って、乗り
場のプラットホームへ去っていかれた。
Sも元チャンピオンの飾り気のない朴訥な人柄におおいに好感を抱いたらしく、
会合は成功に終わった。

                                       
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帰国日誌24・東京6/高円寺

2010-01-30 22:50:43 | 
<12月2日>
午前九時半、夫同伴で高円寺駅に下りると、構内にはすでにわが安宿の昔の常連
さんだったU子さんがお子さん連れで待ち受けていてくださった。寒い中三十分
も待たせてしまった私は大恐縮。駅から電話してU子さんがいらっしゃるまでこ
ちらが待つつもりでいたので、つい油断してインド時間で行ってしまったのだ。
平謝りに謝ったが、U子さんはにこにこいささかも気にかけておられない。南3
丁目のご自宅までいっしょに歩いて案内された。去年も阿佐ヶ谷のご自宅アパー
トに招かれたが、すでに高円寺の一軒建てに引っ越されていたのだ。昔、この界
隈のアパートに下宿していた私にはやたら懐かしかった。

                                   

幼稚園に通う女児と二歳の男の子の二児のお母さんであるU子さんに、カルカッ
タ空港で買ったチョコレート土産を手渡す。熱いコーヒーのたっぷり入ったマグ
を供していただき近況を交わす。だんな様がやはりヘルニア持ちというU子さんは、
私の検査結果を聞いて安心なさったようだった。いろいろと気遣ってくださり、
ありがたいことである。そのうち、話題は昨年亡くなったAちゃんに移った。
中国系マレーシアのご主人と国際結婚なさって男児一人に恵まれ、現地でレスト
ラン経営なさっていたAちゃんは、不幸にも自ら命を絶たれたのである。実はAちゃん
はU子さんと同時期、わが安宿にお泊りいただいたこともあったため、私も人事と
思われず、同じ海外移住者であることからも、なんとか助けてあげることはでき
なかったものかと人知れず悔やんだ経緯があったのだ。

                            

Aちゃんの生前のお写真や、僭越ながらお母様からのお手紙も拝見させていただ
いた。よほどの覚悟の上の自殺だったらしく、日本の家族には遺書のようなメモ
も残されていたとか。母でありながら、異国に住む娘に助けの手を差し伸べてや
れなかった親としての無念さが文面には切々とあふれていた。
一時間ほどAちゃんの思い出話をしんみりと交わした後で、引き上げる。恐縮する
ことに、駅近くまで見送ってくださった。

                      

商店街を物色して特安の女物ジャケットを見つけたので、姪用に買った。お昼は
ケンタッキーで。ここのフライドチキンは夫の好物なのだ。
腹ごしらえした後、秋葉原まで出てインクリボンをピックアップ、時計を二個土
産用に求め、息子に頼まれたキャリーバッグも買った。
これでもう秋葉原には来ないですむと思うとほっと一息。
夫の秋葉原もうでに付き合うのはもうごめんだ。
やれやれ。

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帰国日誌23・東京5/吉祥寺2

2010-01-30 00:11:41 | 
<12月1日>
今夜は、わくわくするような楽しい出会いが待ち構えていた。
なんと三十数年ぶりの再会をJと果たすのである。
Jは福井出身で、私が学生のころ知り合った。当時文学少女だった私は、彼に稚
拙な小説も読んでもらったことがあったのだ。手作りの同人誌を出していたのだ
が、詩人を自称する彼に「駱駝ちゃん」というユニークな詩も掲載してもらった
こともあった。

            

同じ東京で学んでいるよしみ、新宿に呑みに行ったり、彼の目白にあるアパート
に遊びに行ったりしたが、男女の関係ではなく、私はもっぱら彼の熱烈なる恋愛
武勇の聞き手だった。文学肌でもあったが、眼医者と歯医者の父母を持つ彼はN大
芸術学部から医学部へ転入、そこも中退後、金沢の医科大学に入学しなおし、遠
回りしたが今は立派なお医者様になっていた。

                         

三十数年ぶりの再会なったいきさつは、数年前更年期症状に悩まされていた私が
Jのことをふと思い出し、とっくにお医者さんになってるはずだが、何科かなと
ネットチェックしたのが、始まりだった。
彼の本名でチェックすると、T整形外科、井荻のクリニックが出た。その時点で、
整形外科関連の症状を患っていなかった私は、ホームページをざっとチェックし
ただけで終わった。土台このクリニックの院長が、自分が昔見知ったJとは限ら
ない、同姓同名なんていくらもあるものだ。整形外科というのも少し意外だった
し、顔写真含め院長についての経歴がなかったので、そのままになっていた。

ところが、近年くしくも坐骨神経痛に見舞われる事態が起きたため、再度T整形
外科をネットチェックする羽目に陥らされた。なんと、更新されたHPには院長の
顔写真が掲載されており、紛れもなく、私が昔交流のあったJであったことが判
明した。頭は禿げ上がっているが、昔の面影を如実に宿すあのJである。オック
スの赤松愛に似ているといわれた紅顔の美少年もいまや、貫禄十分のクリニック
院長、当時ふさふさとしたおかっぱ髪だったきのこヘアは消えてしまっても、あ
のJに変わりなかった。懐かしさで胸が震えた。運命とはまこと不思議なもの、
若いころ文学でつながり合った同士が三十数年後、まさか整形外科医と患者とし
てまみえようとは。
メールアドレスは載ってなかったので、早速クリニックの住所宛に手紙を送り、
簡略にわが症状を記し、専門家のアドバイスを求めた。
十日ほどたって、折り返しメールで返事が届き、ちょうど帰国を控えていた折で
もあり、晴れてこのたびの再会へとこぎつけたわけだった。

     

東急デパートの一番大きなクリスマスツリー前で午後八時に待ち合わせたが、ほ
どなく通りの向こうからやってくるJとご対面、感動の再会だった。
奥様ご推薦の「蔵」という日本酒のおいしい、裏通りにある店に連れて行かれた。
店内はジャズが流れ、いかにも女性好みのしゃれた雰囲気。
私は最初白ワイン、Jは冷で日本酒、おつまみは自家製豆腐と、鴨のロース焼き。
若いときと変わらず、弁舌家の彼はよどみなくとうとうと近況を語る。
話は、彼が当時付き合っていたAに及んだ。
破局の後も異常な執念で追いかけまわしていた、永遠のマドンナである。
何年か前に再会したらしかったが、縒りが戻るようなことはなかったとのこと。
あまりに変わってないのに、がっくり来たとか。彼の中のイメージの若く美しい
ままだったのだそうだが、現実に自身は成熟し女性の好みも変わっていたため、
食指が動かなかったらしい。
狂おしい妄執の虜となって血道をあげた元恋人だったのに、である。Aは離婚後
再婚し、すでに二児の子持ちだったという。

今の奥様は実はAとは大学で同級生、学内の係りにAの居所を問い合わせたとき、
何かの間違いで、別の女性を照会され、くしくもそれが縁で結婚したいきさつ
があった。
自身も言うように、薬剤師だった彼女と結ばれたのがラッキーで、やり直す転
機を賜ったのだった。Aを狂ったように追い掛け回し、マージャンでン百万の
借金を作って首が回らなくなったころの破滅的な生活から一転して、立ち直っ
たのである。親に金沢の医科大に入り直すことを条件に、借金は全額返済して
もらうことになったのであった。
内灘で医学生だったときに結婚、女児が生まれたところまでは、私も知っていた。

                           

その後男児にも恵まれ、今は成長して埼玉の医学生というが、血は争えないも
んで(失礼!)、留年を繰り返し、出来がよくないらしい。自分だって留年組に
もかかわらず立派なお医者様になってるのだから、大丈夫と念を押す。
話変わって、整形外科医になった理由を聞くと、地元で内科を開業している兄に、
「人が死なないから」という理由で薦められたそうで(誤診で患者が亡くなると、
医者も訴えられたりして大変らしい)、東京に舞い戻ったのは、結婚前の奥様と
の約束を果たしただけとのこと。
芳醇な地酒においしいつまみ、とくに薄緑色をした自家製豆腐は美味だった。          

開業して20年近く、クリニックは大繁盛し、多忙な毎日を送っているJ、合間を
縫って野球チームまで作り大活躍、とても還暦間近とは思えぬ若々しさだった。
 
                                       

30年という時の流れも忘れて、医者にならなかったら咄家、芸人人生を歩んでも
それなりに成功していたかもしれないJの話術の妙に酔いしれた。
気がつくと閉店、時計は零時を回っていた。
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帰国日誌22・東京4/九段下

2010-01-29 22:50:47 | 
<11月28日>
午前11時九段下駅にたどり着いた私は、今日会うことになっている旧友Fに電話
を入れた。
三番窓口と言われ、階段を上がった入り口で待っていると、懐かしいFが自転車
にまたがって現れた。
昨年会えなかったので、三年振りである。元気な笑顔を見てほっと一息。
不況のせいで事業が思わしくないと嘆いていたのだ。

                          

そもそものFとの馴れ初めは21年前にさかのぼる。私がインドに移住する前のこと、
以前勤めていた出版社の元同僚Tの紹介によるものである。当時、FはTと組んで
海外赴任者向けのガイドブック第一号として台湾編を創刊、私も少しだけお手伝
いした経緯があったのだ。
以来、移住後も付き合いが続き、今に至っている。
昔彼が京橋に事務所を構えていたときは、よくそこの倉庫にトランクを預けさせ
てもらったものだ。
帰国のたびにご馳走にもなってきた。

      

彼の経歴は異色で、前身は茨城の大病院の理事長、選挙に立候補して政治家を目
指すが、選挙違反で捕まりそうになって、香港へ逃亡、逃亡先では日本料理店を
経営していたのであった。
ほとぼりが冷めたころ戻って、事務所を立ち上げ、出版業界に乗り出したのであ
る。
赴任者向けガイドブックの草分けでもあり、台湾編は朝日新聞にまで取り上げら
れ、そこそこ売れた。引き続き、香港、シンガポールと出して、今はガイドブッ
ク業はやめて、ネットビジネスに手を染めている。

以前飯田橋にあった事務所には何回か訪問したことがあったが、今回は移転した
新オフィスに案内された。月33万の賃料を払ってるだけあって、立派なオフィス、
奥には会議室兼応接間まであった。
が、大不景気の昨今、内情は苦しいらしい。
借金王との異名すらあるF、借りまくってなんとか切り盛りしているとか。
しかし、借金にしろなんにしろ、月100万以上動かしているというのがすごい。
転んでもただでは起きない、したたかなFである。病院時代は看護婦ン百人斬り
の蛮勇も馳せた。
アイディア力抜群でもある彼は、今何かいい商売はないものかと必死で知恵を振り
絞っている。ヴァイタリティあふれる彼だ、近い将来きっとこの苦境を潜り抜け
ることだろう。人なっつこい一面もあり、債権者もしょうがねえ野郎だと愛想尽
かしながらも、憎めない笑顔を見ると、ついまた貸してしまうという奇特な性格
の持ち主だ。

               

ひとしきり近況を交わすうちに、女房役のTA女史が現れた。Fがガイドブック版
元の中堅出版社から引き抜いた女史はやり手、彼女のおかげで、会社は成り立っ
ているようなものだ。
すでに十年以上二人三脚のコンビを組んでいる。

ひとしきり雑談した後、お昼をご馳走するというFの案内で、「雅楽」という手
打ちうどん屋に連れて行かれた。昼食時で込んでいたが、手前のテーブル席が空い
ていたので腰掛ける。私がオーダーしたかき揚げ付きうどん830円は超美味だっ
た。女史の冷やしセイロもおいしかったようだ。Fがオーダーしたセットにはうどん
のほかにじゃこごはんが付いてきたので、要らないという彼からあつかましくい
ただいてしまった。
料理の達人で美食家の彼はうまい店をたくさん知っているのだ。

                             

飯田橋までてくてく歩いて、駅が見えてきたので、そこで二人と別れた。
私はついでに駅前のショッピングセンターや本屋を物色、裏通りにネットカフェ
をかねた漫画喫茶があったのでメールチェック、1時間40分で600円だった。飲み
物はフリーなので、アイスコーヒーヤホットコーヒー、ポタージュ、かごの中に
あった飴も三個もらって、インドのわが安宿について問い合わせメールを甥に
送ったり、息子や友人にもメールした。

帰途、Tの門前仲町のマンションに寄って不在のところ合い鍵で入り、電話を拝
借させてもらった。わが安宿ラブ&ライフの日本人のお客さん第一号だったAさ
んは今帯広で指圧院をなさってるのだが、その関係で、私の坐骨神経痛の持病に
関して何度かお手紙でアドバイスいただいていた。その御礼もかねての検査報告、
ありがたいことにさらなるアドバイスをいただいた。
高校時代のクラスメートKにも電話、福井で会えなかった顛末をわびる。Kの懐
かしい声が聞けて、うれしかった。お互い長生きして、おじいさんおばあさんに
なっても末永く交流が続くことを祈るのだ。

                                 

帰途近くのブックオフで8冊文庫を買占め、小金井の外人ハウスに戻った。


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帰国日誌21・東京3/銀座

2010-01-29 00:22:45 | 
<11月27日>
今夜は一年余ぶりに、「銀座新聞ニュース」というネット新聞を主宰しているS
と銀座で会うことになっていた。

約束の午後八時に現地に着いたが、銀座はクリスマス前というのにあまり活気が
なかった。不況のせいだろうか。並木のライトアップも、金沢の繁華街に比べる
とちゃちな感じで、拍子抜け。銀座というと、ゴージャスさや華やかさの代名詞
なのに。
コージーコーナーの向かいの公衆電話ボックスからオフィスに電話すると、松屋
から手前に少し行った銀座貿易ビル前まで来るよう言われた。方向音痴の私はよ
くわからずうろうろ、三越前のお花屋さんで聞いて、二丁目のメルサのあるビル
とわかった。すでに15分以上たっていたせいか、ビルの前に目指すSの姿は見えず、
オフィスに直接行こうとエレベーターに向かったが、地下二階まで降りずあれ?
 再度電話を入れた。こういうとき携帯を持たない身にはつらい。

                           

すれ違いはあったが、やっと懐かしい顔に出会えた。オフィスには従業員用の玄
関口から入るそうで、初めて来た人にはわかりにくいという。
週末は水泳とマラソンの体力強化に励んでるだけあって、昨夏に比べると、やや
スマートになったようだ。180センチ以上ある長身である。
Sとのそもそもの馴れ初めは三十年前にさかのぼる。当時私が勤めていた八重洲
の経済出版社で、彼は先輩同僚だったのだ。私が中途入社してしばらく後に彼は辞
めて業界新聞社に転職してしまったので、正味半年くらいの付き合いしかないが、
ほかの若手同僚含めよく飲みに行ったものだ。当時は新卒でへまばかりして上司
に叱られていたSもいまや記者歴三十年の立派なベテラン、プロの世界で鍛えら
れただけに文章力も目を見張るほど上達、政経の記事を書かせると、うならせる
ほどだ。何せ、霞ヶ関クラブに所属していたこともあるエリートなのだから。
週三回送ってくる銀座新聞ニュースのメルマガで、日本の政経財界情報を読んで
いつも感心させられている私なのだった。

  

ジャーナリストとしての良心を体現したような正義漢でもある。
昨夏の帰国時、私が同出版社の同窓会の幹事を買ってで、三十年ぶりの再会なっ
たわけだった。

一品料理は1500円と値は張るがボリュームたっぷりという中華料理店に連れて行
かれたが、あいにく満席だったので、「さくら水産」へ。
金曜の夜なので、安いと評判のこの飲み屋さんは大賑わい。
焼酎のボトルを入れてお湯割りで、再会を祝して乾杯。
久々の対面に話は尽きず、あっというまに時間は過ぎていった。気がつくと閉店
と催促されていた。
さしみ盛り合わせ、ポテトサラダなどのつまみで、四千円ほど。京橋寄りとはいえ、
銀座の端っこなのだから、この値段はお安い。

               

東京駅が歩いていける距離なので共に向かったが、駅の時計はすでに12時を回っ
ておりびっくり。中央線はまだ終電の余裕があるので大丈夫だったが、一人お留
守番の夫はとっくに眠りこけているだろう。
京葉線のSは超多忙の身上、毎夜終電でご帰宅とか。
フリーの校正者の奥様と大学生の息子の三人家族だ。
駅でもすれ違ってしまい、別れの挨拶をしそこなったが、まだ日はある、これか
ら何度か会うことになるのだから、ま、いいかと一人プラットホームに向かった。

                                            
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帰国日誌20・東京2/秋葉原

2010-01-28 00:52:18 | 
<11月24-25日>
翌24日ははるばる秋葉原に出て、夫の時計を物色。前に秋葉原で買ったカシオの
安時計が壊れてしまったのだ。千円でまたしてもカシオ製を購入。ムーブメント
で、たいてい中国かマレーシア、香港製だが、品質は悪くない。甥のマネージャー
や夫の友人用にあと二個買わないといけないが、どうせ一回では終わらないのだ
から、今日は下見にとどめる。息子からも、キャリーバッグを頼まれていたが、
今日は見るだけ、途上リュック式でないデイパックが店頭で千円で売られていた
ので買った。

インドではいまだにワープロを使っている私は石丸電気本店にも足を伸ばし、三
本セットのインクリボンも四個オーダーした(ワープロは製作中止となっている
せいで、リボンは一万を越す高級品)。帰途、トランクを引き上げるため、門前
仲町の友人のマンションに立ち寄る。いつも不在のTが在宅、三年ぶりくらいに
元気な顔を見れた私は大喜び。前回はすれ違いになって会えなかったのだ。
相変わらず、銀行の会報誌作成に忙しい毎日を送っているTは、パソコンの画面
の原稿とにらめっこ。お仕事の邪魔になるといけないので、金沢で買った菓子折
りを渡して、トランク手に早々に引き上げた。

                         

二日出ずっぱりでさすがに疲れたので、翌日は休養。朝ゆっくり起きて、朝食と
シャワー後、階下のコインランドリーでお洗濯、お昼はコンビニでサントリーの
白ワインと、から揚げチキン、お弁当などを買って、小金井公園に向かった。
20分ほど歩くと、公園の入り口が見えてきて、白や黄、紫のすみれが愛らしい花
壇の脇を通って、憩いの広場へ。なんという花木か、ピンクのかわいらしい花が
咲き乱れていた。
その先に広大な芝ガーデンが開けていた。
平日の午後は人手も少なく、犬を散歩させる飼い主、子供とボール遊びに興じる
主婦ら、だだっ広い敷地を少数が独り占めしていた。

紅葉の見ごろで、イチョウの大木が金色にそそり立っていた。その周囲は扇形の
黄金の落ち葉でびっしり敷き詰められている。桜も、赤、橙、茶ときれいに色づ
いて、錦のじゅうたんを形作っていた。
中央の木のベンチに座って、白ワインを開け、ランチとしゃれ込む。私はお弁当、
夫はチキンのから揚げだ。柿の種とさつま揚げがおつまみ。

                  

まだ四時半なのに、日が傾き始めた。
冬の日の暮れるのは早く、オレンジがかった木漏れ日が漏れ入る。次第に杏から
暗赤へと木々は色を変えて、シルエットを浮かび上がらせる。辺り一帯の空は薄
い茜の暮色を帯びていた。中秋の名月、冬の冴えた空に白い半月がくっきり浮き
上がる。宵の明星が右斜め下方に。薄闇にシルエットを描く杏のもみじ、鬱金の
いちょうもまた乙なもの。
飼い主が放ったボールを懸命に駆けてくわえて持ち帰る子犬がかわいい。
が、からすに気をとられボールがそのままなんてへまも。オーナーは子犬がボー
ルを持ち帰るたび、ごほうびのビスケットを手ずから食べさせ、頭をなでていた。

宿の近辺にこうした憩えるパークがあるのはいいもんだ。
途上、私は古本市場で本を物色、夫はひと足先に戻った。

                                   


*   *   *


*追記
後日、小金井パークを訪れる機会がもう一度あったが、花小金井の標識に従って、
後方に伸びている路地を突き抜けて大通りに出て、まっすぐ行って途中曲がった
突き当たりにある駅まで約四十分の散策を楽しんだ。
新興街といった感じの西武新宿線駅周辺を物色し、ショッピングセンターでイン
ドから持参した米が切れていたので、買って戻った。未知の場所を探検するのは
楽しかった。
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帰国日誌19・東京1/吉祥寺

2010-01-26 23:05:44 | 
<11月22-23日>
翌早朝、新宿駅にたどり着いた。
いつものように待合室で、カップコーヒーを飲んだり、駅のトイレで洗面を済ま
せ、時間つぶし。東小金井の常宿の外人ハウス、「アップルハウス」は午後10時
チェックインなのである。
時間に合わせて、中央線に乗り目指す駅に着いたのが、15分前。時間まで北口の
スーパーで買い物をすることにした。一年ほど前99円ストアのあったところは、
ローソンの100円ショップに変わっており、びっくりしたが、店内はほとんど同
じ仕様だった。
十時になったので、オフィスに電話、車で迎えに来てもらった。
毎年泊まっているので、さすがに気心が知れている。

                          

アップルハウス名物のサイケデリックなペインティングが施されたバンで、これ
またサイケデリックなオフィスに向かう。60年代のヒッピーの乗りである。オー
ナーはどうやらその世代のようだ。
毎度のごとく長々と説明されるのが難だが、前払いも終わって、昨年と同じ、裏
の林の奥にある「ビッググリーン」に案内された。ちょうど紅葉の季節で、樹木
が美しく色づいており、地面は枯葉のじゅうたんだった。
布団は有料で一式4000円、布団込みで月ぎめ64900円のお値段だ。25日しか滞在
しないのだが、日割りで行くと高くなってしまうので、いつも月ぎめの私たち。
夏だと布団は不要で持参のシーツで間に合ってしまうのだが、冬では一つ借りる
しかない。が、今回は初めて二階の角部屋を提供された。
共同バス・キッチン、冷暖房完備の六畳フロアリングの室内は冷蔵庫&TV、簡
易ベッド一つのみの安仕様、快適すぎた金沢のアパヴィラホテルとは大違いで、
10日の滞在ですっかり贅沢癖が染み付いていた私はややがっくり。ああ、金沢は
よかったなあ。まぶたにちらつく兼六園の幻想的な紅葉……
しょうがない、これが私たちの現実だ、アジャストしないと。

                                   

たいてい着いた夜は、飲みに行くのだが、夜行バスでよく眠れなかったこともあ
り、疲労がたまっていたので、日中から昼寝を決め込み、夜も早々と就寝につい
た。
よく眠った翌日、すっかり元気を取り戻した私は夫を伴って吉祥寺に繰り出した。
まず駅前の商店街でショッピング、トレーナーを親子三人分と夫の友人向けのジャ
ケットを買い求める。しめて4000円、デフレで日本は格安で、ほくほく。
活字飢餓の私はブックオフで本を物色したかったので、一足先に夫を井の頭公園
まで送り出すと、単身向かった。夫は延々、店内で待っているのが大の苦手なの
だ。で、思いついた苦肉の策。公園ならベンチもあるし、気分転換にもなるし、
長いこと待っていても気がまぎれる。一時間半後、文庫が五冊詰まった黄色いナ
イロン袋を手に、夫の待っている公園へと急いだ。
園内の樹木は色づき、とくに池のほとりにしなだれかかったもみじのワインレッ
ドが目にしみた。家族連れ、カップルで群れる園内、足こぎ式の白鳥ボートもた
くさん池に出ていた。ナイフを投げながらりんごをかじる見世物芸や、親子三人
による楽器演奏などが繰り広げられる中、鴨や鯉が悠々と泳ぐ池を渡って向こう
岸のベンチまで。手持ち無沙汰に座っていた夫は私の姿を認めるや、うれしそう
な面持ちで立ち上がって手を振った。

    

さあ、お待ちかねのドリンキングタイムだ。
おりしもクリスマスシーズン、日の落ちた駅前は美しくライトアップされ、七彩
のツリーが浮かび上がっていた。

東急デパートの前を過ぎて、路地の奥にある東京一安い居酒屋、「一休」に向か
う。
居酒屋大好きのインド人夫はわくわく顔。
月曜日と9のつく日は全品半額になる二人のカードが切れていたので、新たに各
100円で作る。二人で飲んで食べていつも3000円前後。つまみが今ひとつだが、
これ以上安く飲める店を私は知らない。
今日は月曜で全品半額デーだったが、100年に一度の大不況のせいか、お客さん
は少なく、店内はいまいち活気に欠けた。が、インドに暮らす安宿オーナー夫婦
は不況どこ吹く風、無事東京に戻れたことを祝して乾杯、私は白ワインと梅酒、
夫は日本酒の熱燗が進んだ。
夫のお気に入りのつまみは、コロッケ、焼きそば、から揚げチキン、焼き鳥など。

いよいよ、楽しい東京の夜が始まった。

                        
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帰国日誌18・金沢7/兼六園ライトアップ

2010-01-25 01:10:54 | 
<11月21日>
夕刻、始発の野町駅に着いて、バスで片町を素通りして、兼六園に向かった。
11時20分の新宿行き夜行バス出発までゆうゆう時間があるので、ライトアップさ
れて無料公開になる兼六園を見に行くことにしたのだ。
すでに入場料を払って日中の紅葉は満喫していたので、夜のライトに照らされる
幻想的な紅葉を楽しもうとの算段だった。
たどり着くころには、冬の日はあっというまに暮れて、ライトアップには願って
もない時間帯になっていた。

                 

無料のせいか、真弓坂口を昇る見物人が連なっていた。小雨がちらついたせいで、
市内も冷え込みが厳しい。が、雨が通過したせいで、夜気は清涼、冬の冴えた空
にはくっきりと白い三日月が浮かんでいた。
濡れた石畳を伝って、行灯のともった園内に足を進める。さすがに夜の名園は昼
とはまた違った趣で、ムード満点。カップルの姿も多い。みな白い息を吐きなが
ら、ぞろぞろ中へ向かう。

  

噴水池にしなだれかかったもみじが白光に妖しく浮かび上がっていた。デジカメ
を向ける列に混じって、暗い赤金(あかがね)に光り輝く枝振りをパチリ。
さらに行くと、一番大きな池、霞ヶ池の前に出た。灯のともった琴柱(ことじ)
灯篭(支えの足が琴の足に似ていることからこの名がある)の向こうに黒く澄ん
だ池が開け、向こう岸の真っ赤なもみじや金色のいちょうの大木など三本がライト
アップされて浮かび上がり、水面にくっきりと反映していた。幻想的な美しさに
思わず見ほれる。まるで、池の底にも紅葉があって、立体的に浮かび上がってき
そうだ。
りんご吊りといわれる一番ポピュラーな雪吊り方式で放射状にロープをたくさん
張られた唐松の若緑も蛍光色を帯びて浮かび上がり、真下の池は妖しい緑色に発
光していた。三日月がゆらゆら白い光を流している。みなもに映し出された月に
紅葉、松の緑は風流の一言に尽きた。

ほどなく、池に浮かぶ蓬莱島でクラシックコンサートが始まった。石川が誇る
オーケストラアンサンブル金沢メンバーと特別名勝兼六園の夢のアンサンブル
である。夜気を伝わる吹奏楽はムード満点、幻想的な紅葉にまこと似つかわし
いBGM、あまりのみやびやかさにしばらくその場を動けなかった。まさしく古都
金沢ならではの風流さ、こういう日本の美から長いこと遠ざかっていた私には、
繊細美に酔いしれるあまり、感嘆の息が漏れるばかりだった。甘美な時間はゆっ
くりと過ぎていった。

まぶたに焼き付けるように何度も妖しく光り輝く紅葉を堪能した後、金沢の街並
みの夜景が一望の下に見下ろせる場所を過ぎて、露天テントのおもてなしカフェ
へ向かった。ここでは、雪吊りをかたどった洋菓子がでカップコーヒー付き200
円で売られているのだ。早速買って試食、ヨーグルト風味のパイ菓子は、和風金
沢にはそぐわないような気がしたが、おいしく戴いた。

                             

石川門に向かう帰途、通路から伸びた橋を渡って、ライトアップされた金沢城し
公園にも立ち寄った。やぐら窓のある白い土塀が周りをとり囲み、高い石垣が築
かれた上に、お城が聳え立っていた。ライトに浮かび上がった土塀は黒いお堀に
照り映えて青白い光の帯を流す。休憩所でオーケストラグループとすれ違った。
どうやらここでもライヴ演奏が催されるようだったが、時間切れで惜しみつつ後
にする。橋の袂に整列した小楽団は、チェロ演奏を奏で始めるところだった。
時間ぎりぎりまで堪能し、ライトアップバスに乗って、美術館や香林坊の銀色に
輝く並木など、光に浮かぶ見所を楽しみながら片町に戻った。夕食はまたしても
王将で。安くてボリュームたっぷりのおいしい中華に舌鼓を打ったあと、アパ
ヴィラホテルに荷物をピックアップに。お世話になったことの礼を言って、近く
のバス停に向かう。
ちょうど駅行きのが来たので、あわてて飛び乗った。着いたのが十時半近く、出
発までまだ一時間弱あったので、東京の友人たちへのみやげも物色。
夫は早々と、菊姫酒造の小瓶をラッパのみ、私も一口味わったが、けちを起こし
てスーパーで買ったせいか、気の抜けたような味でがっくり。日本酒でありさえ
すればなんでもいい夫は構わず飲んでいたが、こんなことなら、萬歳楽の梅酒で
も買っておくんだったと、後悔、しかし後の祭りであった。

                                         


*兼六園・命名の由来
日本三大名園のひとつでもある兼六園は、広大、幽邃、人力、蒙古、水泉、眺望
の六勝をかね備えた庭園ということで、この名が振られた。十万㎡余の広大な敷
地で、江戸時代の代表的な林泉回遊式庭園の特徴を今に残す名園である。唐崎松
や、菊桜をはじめ一万本を越す木々、池、滝や橋など見所にはことかかない。
春の桜、秋の紅葉、冬の雪景色と四季折々の風情も美しい。
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帰国日誌17・金沢6/鶴来

2010-01-23 00:47:07 | 
<11月21日>
午前十一時に十泊したアパヴィラホテルをチェックアウト、精算時思わぬお年玉
があった。5000円のキャッシュバックである、ワーイ! 医者の弟のコネで半額
の7000円にしてもらったのみならず、最後にこんなうれしいサービス付きとは。
毎朝、本格挽き豆入りコーヒーパックも堪能したし、地方新聞も独り占め、丹念
に隅から隅まで読ませてもらった。向かいのシスターホテル、アパホテルの展望
温泉もトライしたし、何より広めの室内はバストイレが別で、快適なホテルライ
フを満喫させてもらった。お礼を言って、フロントで荷物を出発まで預かっても
らう。

                                 

片町の王将で昼食後、白山麓の表玄関、鶴来に小旅行としゃれ込む。北鉄線の新
野町駅から電車が出ているのだ。地図によると、徒歩で行ける距離なので歩き出
したが、途中迷ってしまい、倍の三十分以上かかって到着。かわいらしい電車に
乗って、ものの三十分とたたぬうちに到着。
小さな田舎駅に降りると、色づいた白山が背後に迫ったひなびた町は曇り空の冷
え冷えした空気に満ちて、ぞくっと身震いするほどの寒さだった。山があるため、
冷え込みが一段と厳しいようだ。夫は毛糸の帽子の上からさらにジャケット付き
のフードまで被って、ぶるぶる震えている。
まずは、地図を見ながら市役所と中学校を過ぎて、一閑寺に向かったが、途中で
迷って美容院で尋ねる羽目に。ガイドブックの地図を見せて、もうひとつ向こう
の通りの奥と判明したが、地元民すら知らないような知名度の低さにちょっと拍
子抜け。

                     

雨がちらつきだしてきた。山の天候は変わりやすい。
1631年に創建された古いお寺は自由に拝観できるようになっており、ガラスの引
き戸を開けると、だだっ広い畳敷きの大広間が現れ、奥に摩崖仏が祀られていた。
自然岩を削って造成した不動明王尊で、高さ8メートルという勇ましい風体、お
線香とろうそくを燃して合掌する。眼病治療と商売繁盛に霊験あらたかとされる
のだ。人気のない本堂は静まり返り、冷え冷えした空気が漂っていた。

        

小雨煙る中、前の道を、駅の方角に向かって反対方向に歩き出す。しばらく行く
と、高架道のレールから下の町並みを見下ろせ、青黒い瓦屋根が軒を並べる、小
さな温泉街といったひなびた風情が奥ゆかしかった。山の端に白い雲がたなびい
ている。雨中の散策は寒いけど、雨にかすむ背後の色づいた山並みも乙なもの。
車道を回りこんだ先に、紀元前95年に崇神天皇が創建したという古びた神社、金剱
宮があった。本堂のほかに、白いお神酒が二つ供えられた夫婦円満のお宮、商売
繁盛のお宮なども拝観する。数えると、小さな宮が七つもあった。うっそうと樹
木の生い茂る古色蒼然とした境内には樫などの神木が赤や黄色に色づいていた。
物々しい本宮ではどうやら葬儀のセレモニーが行われているようだ。
本堂を過ぎてさらに行くと、地下段が降りていたので伝って下ると、女段といわ
れる南参道に出た。右脇の細い路地を行くと、大きな石段が駆け上がっており、
これが表門、男段だった。

                   

南参道を下ると、小さなお社があり、聖水汲み場と、小さな滝の落ちるたまり池
が現れ、錦鯉が泳いでいた。落ち葉の敷き詰められた泉水は風趣にあふれ、不動
滝との標識があった。
一段上の平らな丘の上は、桜の大木から落ちる、柿色、渋茶、渋緑の葉っぱや、
赤、臙脂、緑、黄緑、茶色のもみじの葉で敷き詰められた華麗な錦織のじゅうた
んだった。
いちょうともみじの赤と黄の葉にうずもれた石段を踏みしめながら一番下に下りる
と、ひなびた温泉街が現れた。旅館が数軒あるのみで、うらびれた雰囲気、さら
に行くと、広い通りに出て、マルエーストアが一階に入っているビルが右側に
建っていた。

暖をとるつもりで、中に入る。休憩所があったので、座って缶コーヒーを飲む。
周囲を見学すると、スーパーで450円300ミリリットル入りの菊姫酒造の日本酒の
小瓶を見つけたので、夜行バス用に買い求めた。通路の一角に小さな泉水コー
ナーがあり、菊水のいわれのト書きがあった。岩の菊、龍の菊のふれた水とのこ
とで、菊仙人がこの菊を使って病人を治したとのいわれのあることから、霊水ら
しい。加賀の菊酒は、白山のピュアな雪解け水を用いた名酒で、太閤記には、豊臣
秀吉が醍醐の花見で振舞うためわざわざ取り寄せたとあるほどだ。そんな伝統の
酒を今に伝える酒造がこの鶴来には何軒もあるらしく、体も暖まったことだし、
早速見学に出かけることにした。

                                

あったあった、すぐ向かいに「萬歳楽」との古い木の看板がかかった、瓦屋根の
しもた屋風老舗酒造が由緒ありげなたたずまいを見せていた。早速入ってみた。
店員さんが試飲用の甘酒をお客さんに振舞っており、こちらにも回ってきた。か
すの香りが香ばしい濁り酒を飲むと、ほんのり体がぬくまった。夫は初めて飲む
甘ったるい白酒に、奇妙な面持ちをしていた。梅酒も薦められたが、買う気はな
かったので、遠慮して辞退、陳列棚に展示されている銘酒を眺めたあと、人づて
に聞いて、かの有名な菊姫本舗に向かった。スーパーで一足先に小瓶を買い求め
た、菊酒NO1の老舗である。

前の道を右にまっすぐ行って途中曲がり込むと、白い土塀作りの古蔵が見えてきた。
背後に「菊姫酒造」と看板の掲げられた大きな白いビルが建っている。
曲がり込んだ角に、千年以上の歴史を誇る老舗中の老舗、いかにも由緒ありげな
たたずまいの店があった(写真)。往年そのままなのがなんとも奥ゆかしい。
店名抜きの白暖簾のかかった玄関から入ると、土間があり、店内目いっぱい観光
客用に美しく品々を陳列していた萬歳楽と違って、窓口のそばに一升瓶その他の
日本酒が数本陳列されてるだけだった。どうやら、窓口の奥に酒瓶が収納されて
いるようだ。全国清酒鑑評会で何度も金賞を受賞している、名の知れた銘酒と聞
いていたが、やや拍子抜け、すでにスーパーで小瓶は買ってあったので、はりに
かかっている天狗のお面を記念撮影したのみで後にした。

駅に戻る途上、手作りパン屋や、骨董品店を冷やかして、通行人に聞いた道を、
小川沿いにてくてくたどると、見慣れた駅舎が現れた。鉄道関連の古い展示物が
ガラスケースに納められていたので、時代物電話など、ものめずらしげにチェッ
ク。三十分後ホームに入った電車に乗った。
正味三時間半の小旅行だったが、なかなか興趣ある旅になった。

             


(続く)

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