以前少し触れたヴィパッサナー瞑想体験記、Vipassana: The Journey of A Thousand Steps(38歳の二児のインド人母ライターが著者)を三日前読了したので改めて書評を掲げさせていただく。
キオスクで手に取ったとき、直感で今の私が求めている答が見つかりそうと買い求めたのだが、その閃きにたがわず、スピリチュアルな気づきがいくつもあった。
著者の深い懊悩が伝わってくる良書で、具体的に何で悩んでいるかは記されていないが、とにかく過去の傷、感情の重荷から解き放たれるため、男友達推奨のヴィパッサナーアシュラムを、アラヴァリヒルに訪ねたわけだ。
アシュラムの所在地もはっきりとは記されてないのだが、おそらくラジャスタン州のアブ山である。デリーからさほど遠くない、私も過去一度訪問歴のある避暑地だ。
そこで完全な沈黙を保って一日十時間半の瞑想(休憩や食事を挟んで何回かに分けて行われる)を十日間という厳しい修行を課され、ほとんど瞑想の初心者だった著者が、白い光を見たり、滝のようなエネルギーの流れを体感し、如来(Tathagata)になったと有頂天になる。
無論、実際にはそんな生易しいものでなく、長時間の瞑想ゆえにひざや腰が悲鳴をあげて激痛を訴え(蓮華座で坐れず痛くなると崩したり伸ばしたり、腰を心持浮かせたりと、ひっきりなしに座型を変えて施行)、中日には孤独と絶望感を覚えたり、娘が恋しくなったりと、感情の嵐を体験するわけだが、苦しんだだけの糧はあり、奇跡現象を体験するのである。
過程で、アシュラム敷地内の孔雀や、遠目に望めるアラヴァリヒルなど、自然の美しさや、出入り禁止の本堂の神々しい美麗さも描かれ(四日目に本堂の小部屋での瞑想が許可される)、激痛を伴う苦行の中途で護符と目した孔雀の羽、雨に濡れた薄汚いものだったが、お守りと思い定めた物質現象に遭遇し欣喜雀躍する。
ヴィパッサナーアシュラムでの最初の体験を本にするという意図のもとに、初日は禁じられているペンと紙も盗んだりした著者だが、結局罪悪感に駆られて戻し、同時進行でメモをとることはあきらめる。そして、脱落者が出たり、掟を破って会話したりという、ルール違反もいるほかの受講者に混じって沈黙を貫き通し、激痛にもがくひざと腰に耐え瞑想し続ける。
沈黙を課されているためほかの仲間との会話も禁じられているのだが、そんななかで著者がソウルシスターと心中ひそかに名づけたアメリカやイタリア、パンジャブ州からの参加者女性との結びつきも描かれる(男女別の行法)。
しかし、これが最初で最後と、アドバイザー講師にも公言していた著者だったが、八ヶ月後に再訪、それも夏の盛りの五月に救いを求めるようにアシュラムを訪ねる。
下界に戻って以降、試練に見舞われ、決してたやすい人生でなかったことが示唆され(手術したとあって、健康を害していたようだ?)、前回の経験で瞑想中外科手術的に抉り出した心の傷のはずだったが消失しておらず、救いを求めての再来だったのだ。が、初回と裏腹に奇跡現象は一切起こらず、避暑地といってもうだるような暑さの中へとへとになりながら、結局のところ、如来になるにはまだ何度も生まれ変わらなくてはならないようだとの諦観と共に、アシュラムを去るのである。
奇跡現象は起こらなかったが、二度目は深い知恵を賜ったと納得して。
このページにすれば短い、エピローグ的な再訪部分が、生きている。
最初の体験だけだったら、長時間の瞑想をして、悟りに近い奇跡現象に見舞われたと天狗になって終わってしまうところだが、結局、奇跡はマヤ、幻想で、悟りには程遠い、今も苦悩のさなかにある煩悩の自分への諦観と共に、にもかかわらず、深い知恵を得たといって去っていくのである。
著者の悩みがもう少し具体的に書かれていると、もっとリレートできたような気もするが、ある意味生まれて老いて病を得て死んでいく人間誰しもが持つ根源的な苦悩とも言え、そうとらえると、あえてプライバシーを保ったのは効果的だったのかもしれない。
私の想像では、夫との関係に問題あるように思われたのだが。といっても、夫は初回幼い娘連れで、妻をアシュラムまで車で送ってくれたのである。が、最終日にアシュラム体験について、長々と電話で話したのは、ここに来るよう薦めてくれた男友達だった。それと、ライターとしての経歴に不満を持っていたようにも思える。
己に重ねあわせての、うがちすぎだろうか。
過去自分が他者によって傷つけられたこと、また反対に自分が意識しているいないにかかわらず傷つけたこと、そうした古傷が癒されていくことを望む箇所があり、著者が深いトラウマを背負っていたことがわかる。
ちなみに、ヴィパッサナーとは、実業家としても大きな成功を納めた故ゴエンカ師が教唆する、釈尊の編み出した原初の行法にのっとった瞑想形式で、在家聖者ながら巨万の富を惜しげもなく捨てて、無明の民に教えを垂れることを決意したことといい、カリスマ性のあるグルである。本書の随所にビデオ越しのグルの講義内容が出てくるが、含蓄に富み、立ち止まって考えさせられるものがある。
仏教国である日本の日本人にはわりとしっくり来る教えかもしれない。かつ瞑想もインパクトがありそうである(日本にも、京都などに同協会がある)。釈尊の原初の瞑想と聞いたら、敬虔な日本人仏教信奉者は興味を持つのではなかろうか。
蛇足ながら、扉に著者写真があったが、美人である。
これなら婚外交渉もありそうとは、またしてもうがちすぎだろうか。
キオスクで手に取ったとき、直感で今の私が求めている答が見つかりそうと買い求めたのだが、その閃きにたがわず、スピリチュアルな気づきがいくつもあった。
著者の深い懊悩が伝わってくる良書で、具体的に何で悩んでいるかは記されていないが、とにかく過去の傷、感情の重荷から解き放たれるため、男友達推奨のヴィパッサナーアシュラムを、アラヴァリヒルに訪ねたわけだ。
アシュラムの所在地もはっきりとは記されてないのだが、おそらくラジャスタン州のアブ山である。デリーからさほど遠くない、私も過去一度訪問歴のある避暑地だ。
そこで完全な沈黙を保って一日十時間半の瞑想(休憩や食事を挟んで何回かに分けて行われる)を十日間という厳しい修行を課され、ほとんど瞑想の初心者だった著者が、白い光を見たり、滝のようなエネルギーの流れを体感し、如来(Tathagata)になったと有頂天になる。
無論、実際にはそんな生易しいものでなく、長時間の瞑想ゆえにひざや腰が悲鳴をあげて激痛を訴え(蓮華座で坐れず痛くなると崩したり伸ばしたり、腰を心持浮かせたりと、ひっきりなしに座型を変えて施行)、中日には孤独と絶望感を覚えたり、娘が恋しくなったりと、感情の嵐を体験するわけだが、苦しんだだけの糧はあり、奇跡現象を体験するのである。
過程で、アシュラム敷地内の孔雀や、遠目に望めるアラヴァリヒルなど、自然の美しさや、出入り禁止の本堂の神々しい美麗さも描かれ(四日目に本堂の小部屋での瞑想が許可される)、激痛を伴う苦行の中途で護符と目した孔雀の羽、雨に濡れた薄汚いものだったが、お守りと思い定めた物質現象に遭遇し欣喜雀躍する。
ヴィパッサナーアシュラムでの最初の体験を本にするという意図のもとに、初日は禁じられているペンと紙も盗んだりした著者だが、結局罪悪感に駆られて戻し、同時進行でメモをとることはあきらめる。そして、脱落者が出たり、掟を破って会話したりという、ルール違反もいるほかの受講者に混じって沈黙を貫き通し、激痛にもがくひざと腰に耐え瞑想し続ける。
沈黙を課されているためほかの仲間との会話も禁じられているのだが、そんななかで著者がソウルシスターと心中ひそかに名づけたアメリカやイタリア、パンジャブ州からの参加者女性との結びつきも描かれる(男女別の行法)。
しかし、これが最初で最後と、アドバイザー講師にも公言していた著者だったが、八ヶ月後に再訪、それも夏の盛りの五月に救いを求めるようにアシュラムを訪ねる。
下界に戻って以降、試練に見舞われ、決してたやすい人生でなかったことが示唆され(手術したとあって、健康を害していたようだ?)、前回の経験で瞑想中外科手術的に抉り出した心の傷のはずだったが消失しておらず、救いを求めての再来だったのだ。が、初回と裏腹に奇跡現象は一切起こらず、避暑地といってもうだるような暑さの中へとへとになりながら、結局のところ、如来になるにはまだ何度も生まれ変わらなくてはならないようだとの諦観と共に、アシュラムを去るのである。
奇跡現象は起こらなかったが、二度目は深い知恵を賜ったと納得して。
このページにすれば短い、エピローグ的な再訪部分が、生きている。
最初の体験だけだったら、長時間の瞑想をして、悟りに近い奇跡現象に見舞われたと天狗になって終わってしまうところだが、結局、奇跡はマヤ、幻想で、悟りには程遠い、今も苦悩のさなかにある煩悩の自分への諦観と共に、にもかかわらず、深い知恵を得たといって去っていくのである。
著者の悩みがもう少し具体的に書かれていると、もっとリレートできたような気もするが、ある意味生まれて老いて病を得て死んでいく人間誰しもが持つ根源的な苦悩とも言え、そうとらえると、あえてプライバシーを保ったのは効果的だったのかもしれない。
私の想像では、夫との関係に問題あるように思われたのだが。といっても、夫は初回幼い娘連れで、妻をアシュラムまで車で送ってくれたのである。が、最終日にアシュラム体験について、長々と電話で話したのは、ここに来るよう薦めてくれた男友達だった。それと、ライターとしての経歴に不満を持っていたようにも思える。
己に重ねあわせての、うがちすぎだろうか。
過去自分が他者によって傷つけられたこと、また反対に自分が意識しているいないにかかわらず傷つけたこと、そうした古傷が癒されていくことを望む箇所があり、著者が深いトラウマを背負っていたことがわかる。
ちなみに、ヴィパッサナーとは、実業家としても大きな成功を納めた故ゴエンカ師が教唆する、釈尊の編み出した原初の行法にのっとった瞑想形式で、在家聖者ながら巨万の富を惜しげもなく捨てて、無明の民に教えを垂れることを決意したことといい、カリスマ性のあるグルである。本書の随所にビデオ越しのグルの講義内容が出てくるが、含蓄に富み、立ち止まって考えさせられるものがある。
仏教国である日本の日本人にはわりとしっくり来る教えかもしれない。かつ瞑想もインパクトがありそうである(日本にも、京都などに同協会がある)。釈尊の原初の瞑想と聞いたら、敬虔な日本人仏教信奉者は興味を持つのではなかろうか。
蛇足ながら、扉に著者写真があったが、美人である。
これなら婚外交渉もありそうとは、またしてもうがちすぎだろうか。