十二
2012年秋、待望の二冊目の本が出た。前回の帰国時、松井に薦められた通り、いくつか心当たりのある出版社に「インド安宿日誌」の企画書と原稿を送り、幸運にもそのうちの一社から企画が通ったとの返事が来て、以後編集作業に入り、「インド安宿奮戦記」とタイトルを変えて晴れて刊行にこぎつけたのである。
本の宣伝もかねて、翔子は帰国した。出版社から寄贈された新刊書の一冊を携えて、後日松井のオフィスを訪ねると、ひとしお成功を喜んでくれた。
「このエッセイは半分は松井さんの編集力あって昇華されたものだから、こうして本になったことはとてもうれしいし、改めて松井さんのご尽力に感謝します。ありがとうございました」
と翔子はあらたまって礼を述べ、トランジットで通過した香港の免税店で買った洋酒と共に手渡した。
「おっ、高級ウィスキーとは気張ったねえ。ありがとう。いや、ぼくも、インド安宿日誌が立派な本になってうれしいよ。おめでとう」
その夜は前にも行った東京駅近くの居酒屋チェーン店でお祝いしてもらった。出版記念だからといって、松井の奢りだった。
翔子は野島や、都築、蔵元にも本を郵送することにした。ちょうど届いた頃、礼状メールが次々と入り、元仲間たちは翔子の二冊目の本出版を心から祝福し喜んでくれた。
翔子はふと、木戸にも送ってみようかと思い立ち、電話番号から住所を割り出し、持参した前著と併せて二冊送った。昔の仲間との交流復活に神経を尖らせているという奥さんに、元仲間とわかると、そのまま捨てられてゴミ箱行き、本人の手元に渡らないのではと心配したが、一か八か送ってみることにしたのである。メールアドレスその他の連絡先の詳細は本の奥付に載っているし、うまく本人の手に渡れば、連絡しようと思えばいつでもできるはずなので、あえて手紙をはさむことは差し控えた。下手に同封して、妻に誤解されたらと思うと、恐かった。
木戸は果たして幸せ、なのだろうか。夫婦二人きりで身を寄せあうようにして生きている二人所帯の豪邸がふっとまぶたに浮かぶ。丹精した庭には、見事な枝ぶりの松や、高価な石の置物が並び、一家の主人は春には桜、秋には紅葉を満喫している。白髪混じりの短髪で和服を着こなす風流人、かつての若さからは考えられずに枯れた風情、翔子は嘆息を洩らす。
二度目の同窓会案は四年たってもいっこうに具体化せず、それどころかますます遠のいてゆくようだった。結局はみなそれぞれの生活に忙しく、あえてそう何度も旧交を温めようという気にはなれないのかもしれなかった。翔子は金沢への帰郷がてら、京都にも立ち寄り、真っ赤に色づいたもみじ撩乱の秋を堪能し、また東京に戻ってきた。
アズマヤ・インのパソコンを一週間ぶりにチェックすると、未知の差出人からメールが届いていた。
torimakoto、誰だろう、ウイルスメールかと危ぶみながら開けて、翔子は愕然とした。
「河津翔子様
このたびはご高著を二冊、お送りいただき、ありがとうございました。無我夢中であなたがたどってきた足跡を読ませていただきました。楽しかったですよ。あなたが、インドという不思議の国に魅せられていく過程がわくわくとスリリングで、ご主人との馴れ初めや、宿開業にいたるまでのいきさつ、心温まるお客さんとのエピソード、ハンサムな息子さんを含めた家族のこと、あなたが殊のほか愛されるベンガル湾の美しい情景や興味深い現地事情、一気に読ませる筆力で感銘しました。
腕を上げられたなという感じで、ペンを折ることを余儀なくされた当方としては、立派なもの書きとして成長されたかつての同士に羨望の念を禁じえませんでした。と同時に、私の分までがんばって書いている同士のあなたの快挙を心からうれしく思いました。
このたびは、出版本当におめでとうございます。
今後の翔子パトナイク様のご健筆、陰ながらお祈り申し上げます。
インドにお帰りの際は、くれぐれもお気をつけて。
追記
いつぞやはせっかくの同窓会のお誘いの電話を邪険に退ける羽目になってしまい、まことに失礼申し上げました。この文面を借りて改めて深くお詫び申し上げます。
遠里真」
遠里真、という雅号にはっと思い当たった。「通り魔」、まさにあの、木戸喬本人からだった。ついに木戸との連絡が取れたのだ。翔子は興奮した。すかさず返事を打つ。滞在期間は後一週間しか残されていない。この好機を利用して、何としてでも一目逢っておきたかった。退けられる可能性のほうが大きかったが、翔子は賭けてみたかった。
「お懐かしい遠里真様
無事拙著がお手元に届いたのみならず、感想がてらのご丁寧なお返事までいただき、感激しております。まさかあなたからメールが届くとは予想だにしておりませんでした。言葉にならぬ感激で胸がいっぱいです。
さて、早速で恐縮に存じますが、私のフライトは一週間後に迫っておりまして、日にちがない事情からも、なんとか一両日中にお目にかかりたいと考えております。お忙しいのは重々承知の上でのお願いです。三十二年ぶりにつながったこの好機を捉えて、ぜひ一度お目にかかっておきたいのです。
喫茶店での短時間の会合でもかまいません。なんとか少しでもお時間を作っていただけませんでしょうか。ご存じのように、かつての上司三名が鬼籍に入られています。私たちももはや初老の域に入り、次という機会がないかもしれないことを考えますと、この機にぜひ元気なお顔を拝見させていただきたく思います。
ご迷惑は承知の上でのたってのお願いです。昔の仲間とは逢いたくないとおっしゃるあなたのこと、私もその一人で、いまさらというお気持ちはあるのかもしれません。それは重々承知の上でのお願いです。ぜひ一度逢ってくださいませんか。
よいお返事をお待ち申し上げております。
河津翔子」
しかし、以後三日間、なんの連絡もなかった。翔子は男の迷いを見るようで、今回は無理かもしれないとほぼあきらめかけていた。待望のメールが届いたのはなんと、帰国二日前のことだった。
用件のみ綴った短い内容だった。
「では、明日の金曜夜七時に、フリッツでお逢いしましょう。フリッツ、かつての若手記者の溜まり場だった酒場です。覚えてらっしゃいますか。お忘れだと困るので、地図や電話番号を添付しました。ご覧ください。再会楽しみにしております。ただし、私はもう、昔の木戸喬、ではない。そのことだけはご覚悟ください」
やっと、木戸本人との再会の約束にまで漕ぎ着けたのだ。翔子は感無量だった。その反面、この三十二年ぶりの再会が自分の人生にどのような波乱をもたらすかと考えると、いくぶん恐くもあった。インドに残してきた家族、夫のこと、息子のこと、ホテルのこと、木戸にも家庭があって大企業の重役という立場がある。
再燃はあってはならなかった。お互い家庭持ちとなった今、私はこの再会で何を求めているのだろうか、翔子は自分の胸の中を覗いた。
そう、ただ。ただ? ただ、木戸にもう一度ペンを執ってもらいたいだけだ。それは自分にしか説得できないことのような気がした。再起への祈り、木戸には書ける力が残されていると信じたかった。
当日翔子は、煉瓦色の厚手のスーツに身を包み、精一杯のおしゃれをした。三十二年ぶりに、かつて愛しあった男と逢うのだ。五十七歳という年齢は往時の魅力を薄れさせ、二十代の頃の輝きは望むべくもなかったが、せめて元恋人の前ではいくつになってもきれいでありたかった。
翔子は美容院に行って、ボブスタイルの髪も少しカットし、内巻きにカールしてもらった。八重州通りの並木も色づき、オレンジや枯れ茶の落葉が舗道に散り敷く中を、翔子はブーツで踏み締めながら歩いた。釣瓶落としの秋の日は落ちるのが早く、約束の時間までまだ一時間あったので、コーヒーチェーン店に入ることにする。化粧直しがしたかったし、八重州ブックセンターで買った沢渡耕二郎の新刊書も紐解きたかった。
往時人気を誇った美人演歌歌手が最近投身自殺を図ったことで、三十年前に沢渡が書いて埋もれていた原稿が日の目を見ることになったのだ。高層ホテルの展望バーで火の酒、ウオッカを八杯まで飲みながら、引退直前の歌姫にインタビューするという設定で展開するノンフィクションで、章分けは一杯目の火酒、二杯目の火酒という風に、グラスを空ける回数で展開していく。
「四杯目の火酒」まできて、翔子はしおりをはさんだ。そろそろ時間だった。早すぎてもいけないし、遅すぎてもいけない。適度な時間に、そう約束の時刻より十分過ぎくらいが無難なところか。化粧室に行って、剥げかけた口紅を直し、鼻の頭にパフを叩く。
用心深く鏡をチェックする。まぶたの下のしわが気になる。しかし、木戸も自分と同じだけ年を食ったのだ。嘆息をついて後にし、店を出た。ぶらぶら闇の降りた路地を歩いていく。
そう、ちょうど六年前も八重州ブックセンターで書店周りの挨拶を締め括った後、同じ喫茶店に入り、店を出てぶらぶら歩き出したところで道に迷い、裏路地に紛れ込み眼前に立ちはだかったのが事もあろうに、フリッツだった。
あのときは込み上げる懐かしさに胸を衝かれながら、一人で入る勇気もなく、ただ感傷に駆られて二階の飾り窓を見上げるばかりだった。今日は相棒がいるから堂々と入っていける。金曜日で一杯やるサラリーマンの群れに混じって、翔子は薄暗い階段を胸ときめかせつつ、上がった。
ぎいーっと重々しい音を立てて木の扉を開ける。
中は、時間が止まったように、三十二年昔そのままだった。翔子はふらりと黒光りした木の床に足を踏み出し、店内を見渡した。テーブル席は若い男女のグループで埋まっていた。木戸はまだ来ていないようだ。
翔子は、カウンターのはじの空いている止まり木に腰掛けた。ひとつ置いた隣席に、飲みかけのグラスがあった。客はすでに、去った後だろうか。翔子は懐かしさに駆られ、それとなく店内を見回した。
何も変わっていない。あの頃のままだ。そう、あの隅っこのテーブル席に紅一点の翔子を囲むように若手記者三人が座り、青くさい議論を闘わしたのだ。代わりに席を占拠しているのは、平成のサラリーマン、しかし、翔子は若い息吹きに青春時代を重ね合わせ思い出し胸が熱くなった。三十二年たっても、人が人を愛することは変わらない、あのグループの男女の中にも恋に陥っている二人がいるのかもしれない。そう思うと、微笑ましくなり、目が離せない。
「しばらくでした」
背後からだしぬけに耳覚えのある声がかかり、翔子の胸はどきんと高鳴った。思わず振り向くと、懐かしい男が立っていた。
白髪混じりの髪は短く刈られ、顔にもしわが目立つが、端正な美貌の名残りを宿している。夢にまで焦がれた木戸喬、だった。高級スーツに身を包み、ネクタイも趣味のよいものをまとっている男に、翔子は一番最初にエレベータ前でぶつかったときのくしゃくしゃの背広姿を思いだし、歳月の流れを感じ取らずにはおれなかった。
「こちらこそお久しぶりでした」
立派な風采に変わった男に軽く礼をし、胸元に込み上げる思いをこらえる。
男はひとつ空いた席から飲みかけのグラスを引き上げると、翔子の隣に移った。先に着いたのが、洗面所にでも行っていたものか。
「なんだかどきどきするね」
とナイーヴな少年のように投げて、おもむろに腰掛ける。
鼻孔に、柑橘類に似たトワレの匂いがかすかに漂ってくる。嗅ぎ覚えのある懐かしい男の匂い、体臭と入り混じった香水に翔子の胸はざわざわ騒ぎ出す。男は翔子を真正面から見るのが恥ずかしそうにまぶしげに目を逸らすと、
「まさか、あなたとこの年になって、また再会することがあろうとは」
と感無量の態だった。
「私も感激してます。ずっとお逢いしたいと思ってました。六年前初めてお電話したときから。やっとその悲願が果たされたという感じです」
翔子はまっすぐ男の目を見つめ返し、本音をぶつけた。
「僕、じいさんになったでしょう」
「それは私も同じですよ」
「そうか、君はお母さんでもあるんだもんな」
翔子はせっかく昔の恋人同士が再会したのに、野暮な子供の話題など出してもらいたくなかった。しかし、木戸は翔子の興奮を牽制する意図もあったのかもしれない。
「木戸さんは今、大企業の社長と伺いましたけど」
「うんまあ、家内の父が経営する会社を継いだもんで」
「そうでしたか」
とっくに耳に入っていた情報だが、今聞いたように白を切る。
「書く仕事から離れられたのはいつですか」
「さあ、かれこれ二十年になるかな」
「もう書かれるつもりはないんですか」
男は話を逸らして、
「ボトルを一本、入れようか。次に来れる機会があるかどうかはわからないけど」
とだるまを頼んだ。すぐに水割りセットが運ばれてきた。
「つまみは何にする」
木戸は細かく気遣う。
「お任せします」
「だって君、久々の日本だろう。なんでも好きなもの、頼みなさい。和風がやはりいいんじゃないの」
年相応の包容力を見せ、勧める。翔子は喉が詰まって、食べ物は到底口に入りそうもなかったが、申し訳程度に、お新香やひややっこを所望した。
「カナッペもとろうか。あとサラダかな」
木戸はあまりつまみをとらず、もっぱらグラスを重ねる口だった。昔と変わらず、軽いものばかりだ。
改めて再会を祝した後、
「そうだ、このたびの出版記念のお祝いもしなくちゃね」
と木戸が言い出し、再度グラスを重ねた。
「君は二冊も本を出して、すごい出世だね。でも、うれしいよ。君が成功してくれていて」「木戸さんだって、大きな会社をしょって立つ立場ですよね」
「うん、まあ。経営者というのは、もの書きと違った心労がまたあってね」
「お察しします。大変でしょうね」
「やくざな世界の底辺でのたうち回ってたときから比べると、一転した心境だよ」
「それを木戸さんは望まれていたんですか」
「妻の希望でもあったし。僕自身、まともにならねばと思ってた。堅気に転身しなくてはならなかったんだよ、愛する女のためにも」
「奥様のこと深く愛してらっしゃったんですね」
それには答えず、木戸はグラスを一気にあおる。
「君は僕なんかよりずっと、ドラマチックな人生を歩んでいるね。そして今、とても幸福な家庭生活を営んでいる」
翔子は俯く。不覚にもまぶたの奥から噴き出すものがあった。
「ごめんなさい。私、木戸さんのこと、好きだったんです。でも、なぜかうまくいかなかった」
「僕も君のこと、愛していたよ。ただ、あの頃の僕はプロになるという夢に賭けていたから。恋愛より仕事、そういう意味では、君に邪険にすることになったかもしれない」
「それだけ賭けていた仕事をなぜ、断念したんですか。私はやはり木戸さんには書き続けていてもらいたかった。なぜって、あなたの書くものが好きだったから」
翔子は男の古傷をつつくことになるかもしれないと思いつつ、ぶちまけていた。
「ご希望に添えなくてごめん、君を失望させてしまったな」
木戸は辛そうに口をつぐんだ。
「すみません。昔の話なんか蒸し返して。今、あなたは別の意味でとても成功してらっしゃるのに」
「いや、いいよ。とにかく、君は僕といっしょにならなくて、正解だったよ」
翔子はどうしてという言葉を呑み込んで哀しそうに男を見上げる。代わりに、男が理由を答えた。
「どうしてって、俺と結婚したら、子無しだし、おそらく、君は今、書いてないよ」
翔子はなんと応じたものやら、無言を通していた。
酒が入るにつれ、最初のぎこちなかった空気が少しずつ和らぎ、往時の親しみが蘇ってきていた。元同僚のよしみで、木戸の口調も次第にぞんざいになっていく。
「俺はさ、亭主関白型だったから、女房には家庭の主婦に納まってほしいと思ってたし、君が書くことを許してなかったと思うよ。今のインド人の旦那さんはよくできた人だと思う。君はいい選択をしたよ」
「わかりません。でも、木戸さんだって、愛妻家でいらっしゃる」
「のつもりだったがね。子供がいつまでたってもできないことが、やはり辛かったな。いくら仲が良くても、そのことでひびが入っていったね。今はその時代は通過して、夫婦二人ひっそり寄り添って生きているけど。そうそう、君の息子さんの写真、本で拝見させてもらったけど、ハンサムだね。正直言ってうらやましいよ」
子供のことを話題に出され、翔子は白ける。話したいのはもっと別のことだ。だのに、会話が空回りし、どうでもいいことばかりの話題の周辺をうろうろしている。もう時間がないのだからもっと核心に迫った話をしたい。
「都築さんとのこと、誤解しておられませんでしたか」
「誤解だったの? 僕はてっきり事実と思い込んでいたけど」
木戸は揶揄するように、翔子を上目遣いにちらりと見上げる。
「何もありませんでした。木戸さんに冷たくされたので、腹いせに見せつけるようなところはあったかもしれません」
「くくく、君は可愛いねえ。今だって若々しいし、魅力的だよ。つまり、あの時代はさ、若い女子社員が一人しかいなくて、それが可愛くて魅力的だとなると、男性社員はみな、釣りたがるわけで、ぼくらは狭い釣堀で、マスコット的存在のショーコちゃんを釣ろうと競い合ってたってことだよね」
「釣堀……」
面白いことを言うと翔子は思った。
「松井だって、君に気があったんだぜ」
「えっ。だって、佑子さんとすぐに婚約したじゃないですか」
「だから、脈がないとわかったからでしょう」
「野島だって、君のこと憎からず思ってたし、尾瀬さんもいやらしい目して見てたな」
野島に可愛がられていたことは確かだが、同棲相手がいたし、とくに男女の感情はなかったように記憶している。
「とにかく、君はもてもてだったわけだ。都築さんも、唾つけたくなって当然だよ」
「でも、木戸さん以外の人とは何もありませんでした。きっと、紅一点ということが幸いしたんだと思います」
「俺はさ、実を言うと、君のことはかなり、熱烈に想ってたんだよ。でも、なんかすれ違いだったね。都築さんといっしょのとこ目撃したとき、ああ、こっちが原稿で夢中になってる隙にかっさらわれたと思ったし、やっぱりあの頃の僕はプロになる夢のほうが強くて、あっさりあきらめちゃったんだよ」
「あのあと、私のアパートに乗り込んできて、それが最後になりましたね」
「あのとき、男から電話があったろう。てっきり、都築さんと思い込んだけど」
翔子は答えない。違うと言っても、信じてもらえないような気がした。二股かけていたことは確かな事実で、でもそれも木戸にジェラシーを感じさせたいという意図から発しただけのことだったように思える。要は相手の男は誰でもよかったのだ。本命は木戸で、木戸の気を惹きたかっただけだ。その翔子の切ない女心を当時木戸はどこまでわかっていたものか。
「若い頃の僕は、鈍感で、女心の機微を解してなかったところもあったと思うよ。とにかく、エゴが強くて、自分のキャリアのことばかり、プロとして世に出るって野心のほうが恋愛に先行してたからね」
恨めしげに見ている女に少し気後れしながら、木戸が弁明するように投げ放った。それから一瞬考え込むような顔つきになって、
「君はつまるところ、器量が大きすぎて、僕の手には余ったんだと思うよ。インド人伴侶でちょうどよかったわけだ。日本の男の手に負える女じゃないというか」
と結論めいたものを引き出した。翔子には褒められているのかけなされているのか、よくわからなかった。
「そういえば私、昔から、よく変わっているって言われましたからね。好きになると、後先見ずに追いかけるタイプだし、男の人から見たらきっと恐い女でしょうね」
「いや、僕は君のそういう一途なところが好きだったけどね」
「幸か不幸か、互いに別々の道を歩むことになりましたね」
「それでいいんだよ。納まるべきところに納まったというか。お互い今こうしてある現在の状態を悔いるべきでないと思うよ」
木戸の達観したような物言いに、
「ほんとうにそう思ってらっしゃるんですか」
と翔子はついぶつけていた。
「インド人夫には確かに感謝しています。家族のことは大事にしなければとも思っています。そして、それは木戸さんももちろんそうだと思います。でも、何かが違うんです。どこかで誤ったような。私は結婚すべきでない人と結婚したような」
翔子はかなり酔っていたようだ。誰にも話したことのない本音を、三十二年ぶりに逢った昔の恋人にぶちまけていた。
「タイムマシンで三十二年前には戻れないよ」
木戸はあくまでクールだ。
「わかっています。でも、せめて、もう一度だけ、ペンに手をつけてもらえませんか。なぜって、あなたには才能があるからです。あなたはその才能をすでに年を取ってしまったという言い訳の元に、砂地獄の底に埋もれさせようとしている。松井さんは今も、書き続けています。ジャーナリストの良心を体現したかのような松井さんが、元同僚として誇らしいです。立派なジャーナリストに成長しました」
「俺は結局、奴には負けたからね。あいつにだけは負けたくなかった、書くことでも、女でも。でも、結局、彼は出世転職し記者街道ばく進、対する俺はデビュー作は出たものの、後が続かず、しがない三文誌の記者稼業、やくざな出版界の底辺を渡り歩いてきた。まともな表の世界に出たいと思っても、致し方のないところさ。愛しあって結婚した妻には何年たっても子供ができないし、一時期はずいぶん荒れて酒浸りだったよ。とにかくあのままあの世界にいたんじゃ、人間として俺は駄目になっちまうと思った。今となってはしみじみ、堅気のサラリーマンに転身できてよかったと思ってるよ」
「ほんとにそうでしょうか。木戸さんは胸の奥深いところに本音を隠しているだけじゃないですか。うずみ火のように、書く思いはくすぶっているんじゃないでしょうか。それを無理矢理押し込めて見ないようにしているだけのことじゃないですか」
「僕の人生だよ。僕の人生は誰にも指図されない、自分で決める」
木戸は翔子の立ち入った発言にさすがにむっとしたようだった。
「書きたいなんて、気持ちはほんの針の穴ほどにも残ってないよ。君には申し訳ないけど。俺はもう書き手としては脱落したんだ。だから、二十年以上も書かないで平気でいられるのさ」
翔子はがっくり気落ちしていた。自分の説得は無に終わったと思った。何のためにここまで肩肘張って相対したのだろう。なんとか、翻意させたかった。しかし、虚しい試みに終わった。徒労の二時間だったと思う。
「最後に木戸さん、ひとつだけ聞いていいですか。今幸せですか」
「ああ、俺は諦観の領域に達してるからね。幸せだよ。妻のことも、人間として愛しているし」
「女としては?」
木戸は少し口ごもるように返す。
「女としても」
「それだけ聞けば、充分です。とにかく、今日は三十二年ぶりに木戸さんの元気なお顔を拝見できてよかったと思います。お忙しいところお時間を作っていただき、本当にありがとうございました」
翔子は自分でも意外なくらい邪険に、座のお開きを宣言していた。挑むように男が、
「僕からも最後に一つ同じ質問させてもらっていいかい。君は今、幸せ?」
とおうむ返しに投げつけてきた。翔子は男の目を食い入るようににらみながら、くっきりと言い放つ。
「通り一遍の意味で言うなら。でも、満足していません。それが私を書きものに向かわせます」
男が降参したように両手を上げて、憮然と放った。
「君は根っからの、物書きにのし上がったな。まったく恐れ入ったよ。俺が今どんな気持ちでいるかというとね、徹底的に打ちのめされているんだよ。君の強い意志に。君に比べると、俺はなんて意志薄弱だったんだろうって」
最後に木戸は弱い部分をさらけだした。傷々しいまでに傷を露呈している男を翔子は思わず、抱きしめたくなった。
昔も、こんな風に母性本能をくすぐる部分を覗かせることがあった。かと思うと、一転したように牙を剥く凶暴性、倒錯的な性の泥沼に墜ちたひと幕、あの映画、「愛の嵐」のように禁断のエロスも分かち合った、甘美で狂おしい記憶に翔子はめまいを覚える。酔いが拍車をかけて眩惑されていた。
男の手が伸びて、翔子の手をきつく摑む。翔子は意志の力で振り切ると、先に立って階段を降り始めた。
追いかける男の手に、路上で肩をさきほどと同じ強さで摑まれた。
「ホテルに行こう」
翔子は頑固に首を振った。こんな形ではいけない、こんな形では絶対嫌だった。ただ過去の亡霊に捕われての体の絡み合いになるのがいいとこだ、私たちは真に愛しあっていない、単に昔の幻影に惑わされているだけだ。ちょっと感傷的になっているだけだ。三十二年もたって年取ったことに。
ひととき交わりあって、ぬくみを交わし、寂しさを忘れたいだけなのだ。かろうじて翔子の理性が打ち克った。
「お互い家庭を持って幸せな今を、大事にしましょう」
ずるいなと思いつつ、翔子はそうした言いざまで逃げるしかなかった。翔子が木戸との再会に求めていたものは、肉体関係の復活ではなく、もっと強い精神的希求、再起への祈りだったからだ。
利口な木戸なら、そのこちらの思いがわかったはずだ。
「木戸さん、お願い、書いてください。誰のためでもない、私のために。それが、私を抱くことになるんです」
翔子は打ちのめされている男に沢渡の新刊本を無理強いに押しつけると、後も見ずに駆け出した。
こらえにこらえていた涙がどっと噴き出し、鼻水がすすってもすすっても滴り落ちた。
体内に発情した熱がこもっていた。それはついに、木戸に抱かれなかったことを悔いる一抹のもどかしさにも似ていた。
(
エピローグにつづく)