メールで二十数年ぶりに復活する男と女の愛をテーマにした「パンドラの函」を、初めての書き下ろしE小説としてブログに発表しだして十日、私はこの作品を通して何を伝えたいのだろうとふと考えていて、以下蛇足ながら(作者が自作の解説をするという愚かさは承知の上で)、記してみたい。
メールという、現代のネット時代のヴァーチャル恋愛は果たして可能かということ、がひとつ。
それとも、ヴァーチャルとはいえ、現実の交流である以上、最終的には虚構を脱け出して現実の逢瀬へとたどり着き、男女の常で結局は冷めて終局を迎えるという、つまりありきたりの顛末になるのだろうか。
メールのみのヴァーチャル世界で、現実には決して逢わずに、愛情を保ち続けることは可能なのだろうか。
わが体験上から言わせてもらうと、名前も住所も知らぬ未知の匿名男性との間に、愛情に近い好感が生まれた場合と、実際に好感を持っている男性との交流では、どちらが強いかというと、もちろん現実に顔を合わせているほうである。
現実に顔を合わせている側とも、時たまメール交換は交わしているのだが、ネット上の男とのメール交換ほどの熱はない。それでも、現実のほうが強い。年に一度の逢瀬であろうとも、軍配は現実の男に上がる。
しかし、過去に深く関わった男から長い歳月を経て突然メールが届いた場合は、女にとってたった一通のメールが、メール上好感を持っている男も、現実上好感を抱いている男も、吹き飛んでしまうくらいの威力を発揮する。好感というのは所詮淡いもので、恋情とは違う。だから、過去の中の幻想、いまや恋に恋している、実態の不確かな愛情に振り回されているだけとわかっていても、女はのめり込んでいかずにはいられない。
結局のところ、自己愛の投影のような盲愛だが、出口のない迷路にはまり込みながら、女は一筋の藁にすがるように奈落から這い上がる手段として、男と現実に関わる過ちだけはあくまで避けて、なぜここまでこの男にこだわるのかと、ルーツを探ろうとする。
それが唯一、女に残された長いトンネルの終わりの一筋の光であり、そこに救いがある。
なりふり構わぬ必死さ、でないと、女はこの底なしの泥沼から浮上できない。
未知の男とのメール交換によって生まれた好感は、熱が冷めると自然消滅していくものだ。
そして、メール交換率は間遠になり、社交辞令の挨拶を除いて交わさなくなり、場合によっては、まったく途絶えてしまうだろう。
しかし、現実に逢っていれば、少なくとも完全に途絶えることはない。
ヴァーチャル好感はかくも煙のように不確かなもの、すーっと大気中に消えて飲み込まれてしまう。
だから、熱があるうちに、男女は現実に顔を合わせる誘惑に抗しきれず、ヴァーチャルからリアリティに飛び出して、結局は虚構でない現実に失望して、冷めていく過ちを繰り返すのだろう。
が、過去深く愛し合った男女がメールで二十数年ぶりにつながった場合の、情念は明らかに違う。破局の前歴があるだけに、二人は用心して、虚構世界から脱け出すことにひとしお慎重になる。
この元恋人同士の間に通い合う情は愛ともいえぬはかなさ、恋に恋する幻想、過去の歳月に風化した不確かなつながりを頭で補強することによって恋の象徴と化した観念愛、結局のところ自己愛の投影でしかない。
それでも、女の幻想が強い場合は、真っ逆さまに奈落に堕ちていく。出口のない迷路にはまり込んであがく女の哀しいさが、というようなものをこれまでTとMが交し合った四回のメールで書いてきた。
Mは果たして、この愛の地獄、むごい空繰りから脱け出せるのか。
虚虚実実の、ヴァーチャルと現実の交錯、現実といってもそれは過去でしかなくすでに歳月に風化した幻と化しており、すでに虚構に近くなっている。しかし、Mはその幻のような過去に捕らわれ続けて罠にはまり、手足を汚泥にからめとられ、ばたばた虚しくあがき続ける。
引き続き「パンドラの函」をご愛読くださいますように。
メールという、現代のネット時代のヴァーチャル恋愛は果たして可能かということ、がひとつ。
それとも、ヴァーチャルとはいえ、現実の交流である以上、最終的には虚構を脱け出して現実の逢瀬へとたどり着き、男女の常で結局は冷めて終局を迎えるという、つまりありきたりの顛末になるのだろうか。
メールのみのヴァーチャル世界で、現実には決して逢わずに、愛情を保ち続けることは可能なのだろうか。
わが体験上から言わせてもらうと、名前も住所も知らぬ未知の匿名男性との間に、愛情に近い好感が生まれた場合と、実際に好感を持っている男性との交流では、どちらが強いかというと、もちろん現実に顔を合わせているほうである。
現実に顔を合わせている側とも、時たまメール交換は交わしているのだが、ネット上の男とのメール交換ほどの熱はない。それでも、現実のほうが強い。年に一度の逢瀬であろうとも、軍配は現実の男に上がる。
しかし、過去に深く関わった男から長い歳月を経て突然メールが届いた場合は、女にとってたった一通のメールが、メール上好感を持っている男も、現実上好感を抱いている男も、吹き飛んでしまうくらいの威力を発揮する。好感というのは所詮淡いもので、恋情とは違う。だから、過去の中の幻想、いまや恋に恋している、実態の不確かな愛情に振り回されているだけとわかっていても、女はのめり込んでいかずにはいられない。
結局のところ、自己愛の投影のような盲愛だが、出口のない迷路にはまり込みながら、女は一筋の藁にすがるように奈落から這い上がる手段として、男と現実に関わる過ちだけはあくまで避けて、なぜここまでこの男にこだわるのかと、ルーツを探ろうとする。
それが唯一、女に残された長いトンネルの終わりの一筋の光であり、そこに救いがある。
なりふり構わぬ必死さ、でないと、女はこの底なしの泥沼から浮上できない。
未知の男とのメール交換によって生まれた好感は、熱が冷めると自然消滅していくものだ。
そして、メール交換率は間遠になり、社交辞令の挨拶を除いて交わさなくなり、場合によっては、まったく途絶えてしまうだろう。
しかし、現実に逢っていれば、少なくとも完全に途絶えることはない。
ヴァーチャル好感はかくも煙のように不確かなもの、すーっと大気中に消えて飲み込まれてしまう。
だから、熱があるうちに、男女は現実に顔を合わせる誘惑に抗しきれず、ヴァーチャルからリアリティに飛び出して、結局は虚構でない現実に失望して、冷めていく過ちを繰り返すのだろう。
が、過去深く愛し合った男女がメールで二十数年ぶりにつながった場合の、情念は明らかに違う。破局の前歴があるだけに、二人は用心して、虚構世界から脱け出すことにひとしお慎重になる。
この元恋人同士の間に通い合う情は愛ともいえぬはかなさ、恋に恋する幻想、過去の歳月に風化した不確かなつながりを頭で補強することによって恋の象徴と化した観念愛、結局のところ自己愛の投影でしかない。
それでも、女の幻想が強い場合は、真っ逆さまに奈落に堕ちていく。出口のない迷路にはまり込んであがく女の哀しいさが、というようなものをこれまでTとMが交し合った四回のメールで書いてきた。
Mは果たして、この愛の地獄、むごい空繰りから脱け出せるのか。
虚虚実実の、ヴァーチャルと現実の交錯、現実といってもそれは過去でしかなくすでに歳月に風化した幻と化しており、すでに虚構に近くなっている。しかし、Mはその幻のような過去に捕らわれ続けて罠にはまり、手足を汚泥にからめとられ、ばたばた虚しくあがき続ける。
引き続き「パンドラの函」をご愛読くださいますように。