インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

愛の実相

2015-01-29 17:32:46 | 私の作品(短編・エッセイ)
メールで二十数年ぶりに復活する男と女の愛をテーマにした「パンドラの函」を、初めての書き下ろしE小説としてブログに発表しだして十日、私はこの作品を通して何を伝えたいのだろうとふと考えていて、以下蛇足ながら(作者が自作の解説をするという愚かさは承知の上で)、記してみたい。

メールという、現代のネット時代のヴァーチャル恋愛は果たして可能かということ、がひとつ。
それとも、ヴァーチャルとはいえ、現実の交流である以上、最終的には虚構を脱け出して現実の逢瀬へとたどり着き、男女の常で結局は冷めて終局を迎えるという、つまりありきたりの顛末になるのだろうか。

メールのみのヴァーチャル世界で、現実には決して逢わずに、愛情を保ち続けることは可能なのだろうか。

わが体験上から言わせてもらうと、名前も住所も知らぬ未知の匿名男性との間に、愛情に近い好感が生まれた場合と、実際に好感を持っている男性との交流では、どちらが強いかというと、もちろん現実に顔を合わせているほうである。

現実に顔を合わせている側とも、時たまメール交換は交わしているのだが、ネット上の男とのメール交換ほどの熱はない。それでも、現実のほうが強い。年に一度の逢瀬であろうとも、軍配は現実の男に上がる。

しかし、過去に深く関わった男から長い歳月を経て突然メールが届いた場合は、女にとってたった一通のメールが、メール上好感を持っている男も、現実上好感を抱いている男も、吹き飛んでしまうくらいの威力を発揮する。好感というのは所詮淡いもので、恋情とは違う。だから、過去の中の幻想、いまや恋に恋している、実態の不確かな愛情に振り回されているだけとわかっていても、女はのめり込んでいかずにはいられない。

結局のところ、自己愛の投影のような盲愛だが、出口のない迷路にはまり込みながら、女は一筋の藁にすがるように奈落から這い上がる手段として、男と現実に関わる過ちだけはあくまで避けて、なぜここまでこの男にこだわるのかと、ルーツを探ろうとする。
それが唯一、女に残された長いトンネルの終わりの一筋の光であり、そこに救いがある。
なりふり構わぬ必死さ、でないと、女はこの底なしの泥沼から浮上できない。

未知の男とのメール交換によって生まれた好感は、熱が冷めると自然消滅していくものだ。
そして、メール交換率は間遠になり、社交辞令の挨拶を除いて交わさなくなり、場合によっては、まったく途絶えてしまうだろう。
しかし、現実に逢っていれば、少なくとも完全に途絶えることはない。
ヴァーチャル好感はかくも煙のように不確かなもの、すーっと大気中に消えて飲み込まれてしまう。
だから、熱があるうちに、男女は現実に顔を合わせる誘惑に抗しきれず、ヴァーチャルからリアリティに飛び出して、結局は虚構でない現実に失望して、冷めていく過ちを繰り返すのだろう。

が、過去深く愛し合った男女がメールで二十数年ぶりにつながった場合の、情念は明らかに違う。破局の前歴があるだけに、二人は用心して、虚構世界から脱け出すことにひとしお慎重になる。
この元恋人同士の間に通い合う情は愛ともいえぬはかなさ、恋に恋する幻想、過去の歳月に風化した不確かなつながりを頭で補強することによって恋の象徴と化した観念愛、結局のところ自己愛の投影でしかない。
それでも、女の幻想が強い場合は、真っ逆さまに奈落に堕ちていく。出口のない迷路にはまり込んであがく女の哀しいさが、というようなものをこれまでTとMが交し合った四回のメールで書いてきた。

Mは果たして、この愛の地獄、むごい空繰りから脱け出せるのか。
虚虚実実の、ヴァーチャルと現実の交錯、現実といってもそれは過去でしかなくすでに歳月に風化した幻と化しており、すでに虚構に近くなっている。しかし、Mはその幻のような過去に捕らわれ続けて罠にはまり、手足を汚泥にからめとられ、ばたばた虚しくあがき続ける。

引き続き「パンドラの函」をご愛読くださいますように。


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二つの小説に見る女の貞操観念

2015-01-27 16:15:51 | 私の作品(短編・エッセイ)
昨夜、一気に高樹のぶ子の「億夜」を読み終えた。

その前に、瀬戸内晴美の「死せる湖」を読んでいたので、愛と性、貞操、孤独と死など、テーマが重なり合うこともあって、いろいろ考えさせられた。

貞操観念とはまさに女性特有のもので、男性が婚外交渉をもっても、貞操(忠誠)は女性ほどにも問題にされないし、好きな相手に操を立てるというのはいつも女の側の問題で、現代社会からすれば、まごうかたない男女差別なのだが、いまもって女性にとっての貞操観念は根強く生き残っている。

「死せる湖」では、28歳で夫から性断絶宣言された女主人公が、欲望を満たすため婚外交渉に耽る。しかし、性のない夫との絆は保っており、愛情もあり、主人公が本当に恋しているのは牧師の青年で、プラトニックラブという設定。

「億夜」では、若い頃兄弟二人に同時に愛され、弟のほうに自殺された過去を持つ女性が25年後に、兄と再会し、弟の自死の原因を探り当てようとする。主人公は弟の化身のような男性と結婚しているが、腎臓病で先が長くなく、性交渉は三ヶ月に一度あればいいかという状態、そんななかかつての恋人の兄のほうに会ってキスやペッティングまでいくが、結局「あなた以外の人とはメイクラブしない」と夫に宣言したとおり操を立てて最後の一線は許さない。

わが身を振り返って、貞操を考えるとき、私はどちらかといえば後者のヒロインに近い。ただし、私が昔の恋人に許すのは握手と親愛のハグだけで、このヒロインより一等貞操観念は強いかもしれない。
その考え方の根幹に、自分が選んだ結婚相手が忠誠を誓ってくれる限り、均衡のルールを破っては相手に失礼というのがある。

だから、私の浮気は頭や心の中、もしくはメールのみのヴァーチャルで、現実の不倫はこの27年来皆無である。
想像で膨らませる浮気、プラトニックラブのほうがもっとやっかいともいえるが、そうした背徳の妄想もすべて夫の掌の中で遊ばせてもらっているがゆえに可能なのだと思う。

夫はしかし、男の鑑を一見装っていて、決してそうではないし、インド人だけに一筋縄でいかず、無論婚外交渉の欲望も裏にひそかに隠し持っているはずだ。
今のところは安全だが、この先どうなるかわからないというリスクと背中合わせ、現実はいつだって予測外なのだから、どちらかがルールを破ることもありえるかもしれない。

もうひとつ興味深かったのは、「億夜」の主人公が愛した兄弟の正反対の性格。兄はポジティヴ、弟はネガティブ、競争社会を強引に力を押し通し勝者として生き抜いていく兄に比べ、弟は自分ひとりの小さな世界に棲息する、そして主人公が惹かれたのは結局弟のほうで、その昆虫採集と標本が趣味の弟に、もっと強くなってとはっぱをかけたことが、弟に自死された原因でないかと、罪の意識に今なお苛まれているわけだ。
25年後に現れた兄は支店長という地位にまで昇り詰めながら、敗者を蹴散らしての成功の虚しさに行き着き、弟の生き方により近くなっている。

私の場合も、この女主人公同様、選ぶとしたら兄より弟で、それは今の私の結婚相手の選択にも如実に出ている。私は成功街道まっしぐらの、一番好きだった男を蹴って、自分の世界で卑小に生きる男のほうを選んだのである。
それは、私のアーチストとしての本能的な意志だったように思う。
つまり、書いていくに居心地のいい伴侶を選んだのである。
亡父が成功した実業家で家庭を顧みなかったという出自もあったかもしれない。
無意識裡に、私のアートを踏みつけにしない男、生存競争を放棄した弱い男のほうを選んだということだ。

瀬戸内寂聴が夫と子供も置いて出奔する原因になった腐れ縁の年下の男も、作家で稼いでいる彼女が事業資金を幾度となく出してやってるのにことごとく失敗してしまう情けない男、森瑤子のイギリス人亭主もビジネス向きでないヒモのような男だ。
いわば芸術家の妻には居心地よい髪結いの亭主、ということだ。

もちろん、同業作家と結婚したり、林真理子(上昇志向の野心家)のような一流企業の亭主を選び取ったケースもあるから、一概に言えないが、作家は自分の中にへこみを抱える人種、だからやはりパートナーもくぼみを持つ男のほうが合うのだと思う。

私がいまだに好むのは、翳りのある屈折した美男で、昔に比べれば自身もずっとポジティヴになったとはいえ、明るく陽気な男は友人になっても、異性としては意識はできない。
一番好きだった男を蹴ったのは、無意識裡に、家庭が、書くことが、この男だと踏みつけにされるという危惧感からだったと思う。
想いのこもりすぎた男の前では書くことなど捨ててしまいたくなるし、実際、政治家になった男は、家庭より政治と、インタビューでもはっきり答えていて、人民に奉仕するためには家庭が犠牲になってもしょうがないと述べている。妻が女優出身ジャーナリストで、いずれは政界デビューも目指す野心家なので、どういう風にバランスを取っているのだろうか、エゴはぶつからないのかと不思議に思うこともあるが、この男にはへこみ、翳りがあり、やはり、二十も年下の妻を許容し好きにさせているというところだろう。彼は上昇志向というより、政治家一家の出自に乗って(元州首相の母親の七光りで)レールが敷かれた政治人生を歩まされたのであり、若くて野心家の妻を大目に見ているということである(力関係は、往時華やかなプレーボーイで鳴らした男からすれば考えられないことだが、妻のほうが上かもしれない)。

結局のところ、私が男に惹かれたのもそのへこみだったと思うが、私は彼の政治の犠牲にはなりたくなかった。また、互いの想いの丈の格差も歴然としていいたため、無意識裡にアートを守る自衛本能が働いたのだと思う。

だから逆説で、私は未来永劫に男にとって手の届かない女、高嶺の花に期せずしてなってしまうというのは、喜ぶべきことなのか、哀しむべきことなのか。

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小説「パンドラの函」の感想届く

2015-01-27 15:57:49 | 私の作品(短編・エッセイ)
長い歳月を経てメールでつながった男女のE往復書簡小説を、このブログに公表してまもないが、早速元同人仲間から感想が届いたので、ご紹介したい。

「奈落

パンドラの函
男の戯れ、女の執着
愛の媚薬、妄想の虜囚
現実逃避、幻惑の泥沼
出口の無い迷路
描かれるのは
もはや愛ではなく
女の宿業

狡猾を装う愚かな女
救いの無い
自虐の私小説

願わくは
作者の魂が
欲望の輪廻を
すでに
解脱せむことを

/D

作品が
虚無に飲み込まれないよう
願っています」


*著者の私本人も、この現実と同時進行のメール交換がこの先、どのように展開するのか、皆目わかりません。
それだけにスリリングといえば、いえます。
読者諸氏も、引き続き現実のE交歓に沿った往復書簡小説をご愛読くださいますように。
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性と愛と死がテーマの考えさせる小説

2015-01-25 17:20:43 | 私の作品(短編・エッセイ)
昨夜一晩で、一気に瀬戸内晴美の「死せる湖」を読み終えた。
序章がいまいちだったので、怪しみながら読み進めたのだが、本章に入ると圧巻で、一気に読み通せた。通俗な部分は多少あるが、性と愛と貞操、孤独と死などのメッセージが確実に伝わってくる。

出家前の晴美時代の、エロ小説と悪評を買った「花芯」(1956年)の焼き直し、同じテーマで新たに書き下ろしたものとのことだったが、段落のない延々繰り広げられる文体が緊張感をはらみ、さすが晴美だけのことはあると思った。

これに比べると、高樹のぶ子の作品は低俗さがなく、より文学的に高尚だが、それは物語文学としての面白さで、メッセージはあまり伝わってこない。読者が作中の恋愛ストーリーに感情移入して感動するだけだが、瀬戸内晴美の同作はやや低俗なところはあっても、確実にメッセージは伝わってくる。つまり考えさせられる小説ということである。

女であること、妻であること、結婚、不倫、肉欲(エロス)と精神(アガペー)に引き裂かれる愛、男女の孤独、そして死、こういう真摯なテーマを比較的わかりやすく、段落の極端に少ない文体で一気に書き綴っていく筆力はさすがとうならされる。

しかも、原稿用紙に書きなぐっていくのだから、並々でない手腕だ。

怪力作家の面目躍如たるところか。

酷評され五年干される憂き目を見た「花芯」と違って、「死せる湖」は前作をこき下ろした批評家にも好評を博したらしい。
文句のつけようのない内容で、雪辱を晴らしたというところだろうか。

*今年94歳という高齢を召された寂聴師は今現在、圧迫骨折で療養中(寂庵だより)とのことです。
あんなに精力的に飛び回っておられた大御所作家も老齢には勝てないようで、憐れを誘います。
心からお見舞い申し上げます。
愛読者の一人として、一刻も早いご回復をお祈り申し上げます。


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続編の降臨

2015-01-24 18:10:42 | 私の作品(短編・エッセイ)
昨冬、「涅槃ホテル」を上梓したとき、やっとこれで終わった、当分恋愛私小説は置いといて、別の分野を開拓したいと、ひとまず三十年近くも宙ぶらりんにあった連作三篇を発表して、けりがついたことの安堵の荷を降ろしていた。

これからは私小説とは違った別のディメンションに入っていくとは、あとがきにも記したことだ。

そして、四篇の小説の主役ヒーローとの仲も、これでやっと名実共に終わったとほっとしていたことも事実なのだ。

しかし、現実は小説よりはるかにドラマチック、永遠の訣別メールを送った男から二年半ぶりにメールが届いて、何もかもがひっくり返ってしまった。

しみじみ、事実は小説より奇なり、である。
もう何度も現実に裏切られてきたくせに、予想外の現実が振ってきて、やっぱり思うようにはいかないもんだと、あまりにも劇的な事実からのしっぺ返しに茫然としてしまっている昨今、アンプレディクタブルな現実に見事裏をかかれたという感じだ。

私のプランには少なくとも、2015年早々に男からメールが来るという現実は入っていなかった。
当然のようにその可能性を無視して安穏としていたところ、現実という予測のつかない魔物に逆襲されたのである。

寝不足でとり憑かれたようになっているこの一週間、早くこの責め苦から逃れたい、男からメールが来る前の平和なときをとり戻したいと思いつつ、自分が囲った沈黙の重さに身動きが取れなくなってくる。

まるで水の袋を飲み込んだようにどんどん重くなっていく、私の肉の袋は、むくろのように形骸化している。

大きな題材が降ってきたと、開き直って喜ぶべきだろうか。

つまり、現実の関係だけでなく、創作面でも、パンドラの函を開けてしまったんである。

そう、続編を書けということらしい。
それも、今の私の力量と技術で、別の男と結婚して移住以降の男への長年の想いを文字化しろとの命令、途方もない作業、現実の私は過去を置いて前を向いて進みたがっているのに、この作業抜きでは、前進は不可能らしい。
つまり、創作面でも終わってなかったということ、責め苦のような作業でも私はけりをつけなければならないらしい。
でないと、次の作品に踏み出せないということだ。

なんという皮肉。
しかし、ある意味男のメールは触発剤になったといえなくもない。
私にとっては珠玉の題材、男は珠玉の素材、交流があったのは三ヶ月にも満たなかったが、この時期のことだけで百の作品が生まれる土壌を培ったということだ。

とにかく、ちゃんとけりをつけないことには、創作の神様に許してもらえそうにない。
もう勘弁してほしいと逃げ出したくなりそうな、恐れともつかぬ気後れを振り払って挑むしかない。
アートと言う悪魔に私は身を売り払ったのだ。
アートのためには、私は愛しい男さえ犠牲にする。
いけにえとして、アートの神に喜んで差し出す。

アートの女神のデーモニッシュな笑みにそそのかされた私は、刃物のようなペンをふるって、埋めた過去を堀り尽くそうとする。

さてさて、どんな作品が出来上がることか。

いまや、恋人すらも、私の作品の恰好の餌食でしかない。
血肉を貪り食う芸術の獅子になって、骨の髄まで暴き出したい。
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私小説を書く劫罰

2015-01-24 16:30:54 | 私の作品(短編・エッセイ)
昨夜、瀬戸内晴美の「死せる湖」の序章・雪を読んだ。

装飾的な美文調でわかりにくく、序章のみ読んだ印象ではあまりいいとは思わなかったが、この小説は若い頃(1956年)、晴美が新潮同人雑誌賞を「女子大生・曲愛玲」で受賞して二作目に発表した「花芯」の焼き直しなのである。
「花芯」は文壇にエロで媚びたなど批評家から散々な悪評を買い、それから五年間干されたといういわくつきの作品で、今回の帰国時買い求める気になったのだった。

私の小説が難解という人もいるが、私の比でなく、同作の段落が極端に少ないだらだら続く文体の一章はわかりにくいし、純文学と気負った文章。そんなわけで、三十代初期に書いた連作三篇(涅槃ホテル)を昨冬発表し、賞賛の花束の裏で、煉瓦のつぶても受けている私としては、自分の悪文を見せつけられているような気にもなった。しかし、自己弁明すると、つまるところ、純文学とはわかりにくい、難解という代物なのである。
2013年75歳で芥川賞を受賞した作家、黒田夏子の作品(abさんご)を見るがいい。私のはまだしもオーソドックスでずっとわかりやすいが、彼女のは超実験的、ひらがなばかりの筋書きも判明しにくい小説。しかし、賞賛と同じだけ酷評が飛びながらも、芥川賞受賞作品ということでベストセラーになったのは、みなさんご存知のはず。
フランス文学翻訳家の、朝吹登水子の兄の孫娘、真理子も「きことわ」で2011年芥川賞をとっているが、こちらも長ったらしい意味をつかみにくい文体で、ただ古文のような雰囲気が叙情を伝えてくる、そういう実験だけで受かった作品と思う。

それはさておき、「死せる湖」の解説を直木賞作家の村山由佳が書いているのだが、これが昨冬小説家デビューを果たしたばかりの私の胸を打ついい文なので、少し引用させていただく。
以下、村山由佳が小説すばる新人賞を受賞してデビューした式典の席で、瀬戸内寂聴がお祝いの言葉を述べたくだりである。
「作家は、一に才能、二に才能。三、四がなくて、五に才能です。けれど、小説を書く才能というのは、けして恩寵ではない。劫罰に近い事柄なのです。あそこに座ってらっしゃる、あんなに健やかそうなお嬢さん(村山由佳のこと)など、いったい何が悲しくて小説などお書きになるのかと、そんなことに足を踏み入れたりしないほうがよほど幸せになれるでしょうにと、思いはしますけれども、それでもきっと、彼女には彼女の、どうしてもやむにやまれぬ衝動があるのでしょう」

そう、本当に小説を、とくに私体験小説を書くことは劫罰のように苦しい作業だ。恋愛私小説だと、往時に戻り疑似恋愛した上でああ、あのときこうすればと切歯させられる後悔や懊悩の跡をたどることになるのだから、一般人なら目を背けていたい。それを傷口を押し広げるようにして書いていく。女の作家の哀しいさが、である。女の作家の業、ともいえる。
以下、村山由佳がさらに引用した、瀬戸内寂聴のエッセイの一部。

「性は、人間の愛の中でどんな役割をもつのか。
私はこの主題に、小説を書き始めのときから捕えられていて、今でもそこから放たれてはいない。(中略)
結婚という枠からはみ出し、世間の道徳の埒外に飛び出し、男に従属せず、自力で経済生活をまかない、一切の自由を全て手に入れた上で、なおかつ、女は人を愛した場合、性から解放されているという自分を感じるだろうか。性を唯、肉欲の排泄としての運動として扱う場合は例外だけれど、愛の中での性として女が受け止めるとき、愛の発生と同時に、女は自分の性に自分の手でたづなをしっかりと結びつけてしまうのではないだろうか。
性と愛と貞操という問題は、まだまだ文学の主題として、書きつがれてもいいと思う。
性を真摯に追求していくとき、反性のモラルにいつの間にかぶつかっているという手ごたえが、私にとってはもっとも切実な実感であるし、自分の文学の宿題になっていると思う。(「解放されない性のために」)


この文を読んだとき、村山由佳は共感を覚え、創作に携わる者として、深々と安堵し、勇気づけられ、晴美の中に棲んでいた魔物と、自分が躯の中に棲ませているそれとが、恐ろしいほどよく似ていることに思い至るのである。
なおかつ、村山は言う。女の作家には女の作家にしかできない小説の書きかたがあり、男の作家の多くがえてして頭で、理屈で書こうとする部分を、女の作家の多くは、丸ごと体を使ってねじ伏せるように薙ぎ倒すように書くことがある、もしくはそうすることが本人にとってどうしても必要なときがあると。
書くことで切り離す。
書くことで始末をつける。
書くことで終わらせていく。

そういう、切実でみっともない、なりふり構わぬ小説の書きかたは女の作家ならではのような気がするし、ほとんどの女の作家にしか出来ない芸当のようにも思う、と。

まさしくその通りだと、作家の端くれとして感じ入ってしまった私。
長年の妄愛を終わらせるために、体当たりで書いた恋愛私小説が、昨年十二月上梓した、
「涅槃ホテル」(李耶シャンカール、ブイツーソリューション、1200円+税)
だ。
この作品に煉瓦を投げてきた男性は、理が勝る、いってみれば、瀬戸内晴美の「花芯」の中に「子宮」という単語がいくつ出てくるか、ご丁寧にも数えた批評家の精神構造に通じるところがあるような気がする。
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引き潮と落日(写真)

2015-01-23 19:59:20 | 私の作品(短編・エッセイ)
午後五時前、浜に出た。
日は極西の少し高みの上空に白々と輝いていた。
斜陽というにはまだ充分まばゆい。

引き潮で、汀の数十メートルがひたひたの潮に浸されており、三々五々観光客がさざなみに素足を浸して、戯れていた。
こんじきの落日は時々刻々と、沈むにつれて、サフランオレンジから朱(あけ)、真紅に染め替えられていった。
濡れた砂に映し出された落日は金の延べ棒のよう、やがて朱金色からくれないへと鮮やかな色変化(へんげ)を遂げる。
さざなみが寄せるたび、落陽の翳はだんだら模様の帯を流す。
波打ち際がなまめかなピンクにきらめいた。

赤い日没が夕もやに徐々に食われて、頭半分余すのみの薄紅いとなる。その上の空はあえかなローズ色、薄黄色、薄青とグラデに彩られていた。

白みがかった緑青色の海は穏やかな波を押し寄せ、退潮の今日は夕日が格別に美しい絶好の散歩日和だった。

以下、本日撮った写真。



引き潮の浜は素足を浸すにもってこい、濡れた砂に映し出された夕日を踏みながら歩く贅沢


カップルの翳を鏡のように映し出す退潮の汀、横手の浜にはらくだも二頭


東側はまだ色づかず、薄ら明るい


波打ち際で戯れる家族連れ行楽客


沈む落日が濡れた砂に映し出され、金箔の尾を曳く波打ち際を行くカップル




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恋患い

2015-01-23 18:16:57 | 私の作品(短編・エッセイ)
昨夜、真夜中十二時半、久々に缶ビールを飲んで、ジュリーやテレサ・テン、アーケイディアの恋や別れの歌を聴いているとき、むしょうに泣きたくなってきて困った。

恋患い、のようだ。

一面この年になって幸せといえないこともないが。

人生、いつも本音で生きられたら、どんなに楽だろう。
恋に関する限り、本音と裏腹のひねくれた行動をとってしまう自分。
なぜ、もっと素直になれないのだろう。

ふっと思う。
本音に逆らって男から逃げ出した自分だったが、あのとき気持ちに忠実に胸に飛び込んでいたらどうなったろうと。早晩破局を迎えたにしても、心に忠実に従ったということで悔いはなかったろうか。
それにしても、おそらくぼろぼろになっていたとは思うが。
そして、インドに住むことはなく、結婚もしなかったろう。
私は、別の男と結婚して彼のいる国にとどまり、第三者としてその動静を見守ることを選んだのだ。

公人であった彼関連のニュースは、どんな小さな記事であろうと逃さず、偵察に等しく漁ってきた。

今三十年近くたってまた本音を抑えつけ、気持ちを偽ろうとしている自分に胸が痛む。

思わせぶりなメールを送って、男を翻弄しているのは結局自分のほうなのだ。
そして、意図せずして振る形になるのも、いつも自分のほう。
まともに渡り合ったら、とても太刀打ちできぬ男、だから、無意識裡に、印象付ける芝居をする。本音と裏腹の言動で男を惑わせる。
男は今度も、私に振られることになるのだろう。
私は、雲の上の存在のはるか手の届かぬ男に、まともに対したら、軽くあしらわれるだけの女でしかない現実を偽りの言動でひっくり返すことによって、恋の勝利者となる。
が、内心は血をだらだら流し続けている。

出家してたら、よかったなとふと思ってしまった私。
恋患いの特効薬はない。
幻想から覚めるまで、病み続けるのだ。
瀬戸内寂聴のように迷妄を断ち切る斧をふるって、世外に行けたらよかった。
出家前、愛欲の泥沼にあった同業作家の愛人にその意志を告げたら、そういう方法もあるねと返されたという寂聴。

21歳のときの交際相手が、「君は尼さんになるな」とぽつんと放ったことをいまさらながらに思いだす。
彼自身も親鸞の心酔派で、解脱を理想とする人だったが、どういう意味で二十歳を少し過ぎたばかりの学生だった私に、尼になると言ったのかはわからない。
でも、鋭いところを尽いている、本質を見抜いていると、思ってしまった私。

いまだに私を惑わせる魔力を持つ男も、如来という名が顕すごとくスピリチュアルだ。インド哲学者オーロビンド(1872-1950)の愛弟子、フランス生まれのマザー(Mirra Alfassa、1878–1973)の信奉者で、オーロビンド・アシュラムで学業期を過ごした。マザーは東京・京都に四年在住歴(1916-1920)もある、パリ生まれのトルコとエジプトの混血女性。1920年南インドのポンディチェリーへ移住、以後オーロビンドの霊的指導の協力者、一番弟子、後継者として奉仕、インドで果てた。聖母として、インドでは崇められている外人女性だ。
新聞のインタビューに答えて、彼は今の自分を成功に導いたのは、マザーの見えざる指導があったからだと述べている。
如来との窮極の合一、男女交合神のように性愛(カーマ)と死の一体を描いたのが、昨冬上梓した「涅槃ホテル」だった。

男は一種のシンクロで、私が初の小説書にこめた思い、転じて男への想いを見抜いてしまったようだ。
以心伝心、スピリチュアルなつながり。
悪魔的な男が隠し持つ聖性、に私は今も惹かれる。
美しい堕天使の夢からいまだ覚めずにいる。
ドラマはまた、始原に戻ってきた。
めぐり巡って赤子に還る、十二年の五周り周期で、火の情熱が戻ってきた。

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タイが舞台のはちゃめちゃコメディ(動画)

2015-01-22 19:27:43 | 私の作品(短編・エッセイ)
昨夜、衛星放送のムービーズ・ナウ(MOVIES NOW)で、ハングオーバー2(2011年公開)を観た。
シリーズもののヒットコメディ洋画らしいが、第二弾はタイが舞台になっていたこともあって、楽しめた。
久々に大声で笑って堪能した。

以下は、予告篇動画

史上最悪の二日酔いというだけあって、一夜明けた後の惨状が、腹を抱えて笑い転げる痛快さ。
フィル、スチュ、アラン、ダグ、狼軍団と称す四人仲間の一人、スチュがタイ女性と結婚することになって、現地に乗り込み、リゾートアイランド(風光明媚なクラビで私も来訪歴あり、リッツカールトンホテルが舞台)で前夜の親族パーティーに参列、その夜バチェラーパーティーで花嫁の16歳のタイ人弟のテディも含め、浜で焚き火を囲みながらビールの小瓶で乾杯したところまではよかったが、一夜明けると、バンコックの薄汚いホテルの一室で三人は目覚めた。
なんと、長髪むさくるしかったアランはつるつる頭、明日に式を控える花婿のスチュの顔半分には刺青が彫り込まれ、なぜか猿が一匹のさばり(後刻この猿が煙草を吸う場面が愉快)、氷の中に切断された指が一本残っていてぎょっとなったが、肝心の花嫁の弟の姿が見当たらなかった。

胡散臭いタイ人悪党チャウが目を覚まし、昨夜のことは何も覚えていないという三人にげらげら笑いながら説明しようとする直前、ドラッグを鼻から吸い込んで意識不明になった。死んだと思い込んだ三人は狼狽してシーツに包み地下の冷凍ごみ捨て場に棄却する。

手がかりをつかむため市街に飛び出した三人、テディが獄中と知ってすわと駆けつけた彼らの前に現れたのは似ても似つかぬ車椅子の老僧、僧院へ返しに行くと、昨夜の乱痴気騒ぎのあげく三人が誘拐した悪事がばれる。そこでの証言からさらに伝をたどっていくうちに、ロシア人の悪党ほかの珍奇なやからが登場、バンコックの雑多な町並み、歓楽街・中華街、黄土色の運河にたゆとう水上船などのエキゾチックな情景とともに、手がかりを求めての探検が楽しい。

バッポンと推測させる歓楽街で刺青師の白人男から足がかりをつかみ、狂気の泥酔の挙句、アランが髪を剃り下ろしてスキンヘッドになり、スチュがおかまと一夜を共にした行為などがあらわになり、タイやくざが登場したりのすったもんだの騒動劇の末、冷凍庫に閉じ込められたテディを見つけるが、なんと指を詰めていた。
それから、スピードボートでリゾート島に戻り、めでたく結婚式に間に合ったというどたばた・はちゃめちゃ喜劇。
前回(『ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』、ラスベガスでの一夜の行方不明劇)に懲りてビールの小瓶しか飲まなかったはずが、最悪にトリップしての一夜明けての凄絶な変わりようが笑える(アランがドラッグ入りマシュマロを供したせいと後刻わかった)。
ユーチューブで全編公開しているみたいなので、興味のある方はご鑑賞ください。気分が落ち込んでいるときに、コメディはよい。私も、久々におなかを抱えて笑ったという感じだった。

ああ、面白かったと満足して寝ようとしたら、次の映画が日本が舞台とわかり、そのままとどまった。東京が舞台のホラーもの、「シャッター」(ウイキ)(2008年公開、落合正幸監督)だった。怨念で取り憑く亡霊役に、奥菜恵、私にはなじみのない近年の女優らしいが、毒のある風貌で恨んで祟るスピリットのはまり役。

ヒロインはニコール・キッドマンの若い頃に似た美人の白人金髪女優(レイチェル・テイラー)、東京の高層ビル街や、富士山の見える山中湖の山荘、懐かしい日本の背景を楽しんだ。「感染」(2004年)という映画の監督である日本人がメガホンを撮った、タイムパス(暇つぶし)に悪くない怪奇映画だった。

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海に沈む冬の落日(写真)

2015-01-21 18:04:09 | 季節・自然
久々に日が沈む前、浜に出た。
今年三度目の新年の夕日だ。
こんじきの大きな落日は、西端の汀の上にかかってまだ強めの光輝を発している。
濡れた砂の上に黄金色のだんだら帯が映しだされていた。

金色の大円は次第にオレンジがかって、赤みを増していく。
一筋の雲がかかり、暈のような淡い臙脂色の光を周囲に広げる。
放射光は沈みゆく日の上方に橙の扇を広げているようだ。

目の前の青みがかった寒海を、二艘の蒸気船が軽やかなエンジン音をあげながら過ぎていく。
肉眼で見て取れる近海だ。船首が掻き分ける波が白いしぶきを弾く。船は波の動きに合わせて上下に揺れる。船首と艫に漁師たち、中央に網が盛り上がっている。

一筋の雲の紗から顔を出した落日は朱味を帯び、上方に棚引く雲が淡いオレンジに色づいていた。

引き潮気味の冬の海はひたひたの潮を押し寄せ、さざなみが松かさのように汀に広がった。
引いた後はなだらかな曲線を描いて広がるシベリア領土だったり、三角のインド亜大陸だったり、砂の上にうっすら地図に似た痕跡を残す。

戻る頃には日が暮れて、東の空には薄紫の夕闇が降り、西の低空は黒みがかった茜色に染まっていた。

以下、本日撮ったベンガル海の写真。




こんじきの大降りの落日は壮麗




近海を過ぎる二艘の蒸気漁船


浜辺に打ち上げられたマリーゴールドの供花のレモンイエローが鮮やかだ


松かさのようなひたひたの潮、そぞろ歩く男女のシルエットが濃く浮かび上がる


沈みかけた落日
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