インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

雨中の奈良散策(写真)

2014-12-31 19:03:05 | 
今回、郷里福井への途上立ち寄った京都・奈良では、奈良在住の元お客さんの自宅にご厄介になって大阪探検や伏見を訪ねたが、三日目は雨の中奈良公園の五重の塔を過ぎて、東大寺ウイキ)へと繰り出した。そのときの写真をアップしよう。



東大寺は華厳宗大本山の寺院で、金光明四天王護国之寺
ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして
建立した寺。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏
(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁。
1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより
世界遺産に登録された。



黄金の大仏を拝むのは、高校の修学旅行以来。現存する
大仏様は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残す
のみであり、江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、
創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。
高さは147メートル。



如意輪観音菩薩像(重要文化財)


多聞天像(金堂東北隅)



本堂にある大きな柱の下に穿たれた穴(大仏さまの鼻の穴
と同じ大きさで、高さ30cm、幅37cm、長さ120cm)を潜り
抜けられると、ひとつだけ願いごとがかなうとか頭がよくなる
といわれており、日本人始めの中国人旅行者が喚声をあげ
ながらトライしていた。穴のあいた柱は、大仏殿の中でも、
丑寅、つまりちょうど北東、鬼門のど真ん中に立っていて、
鬼門から堂内に邪気が流れ込んでくるとかで、柱に邪気が
当たると堂内に蔓延するので、穴を開けて悪い流れを逃がす
ようにしたという。一種の「鬼門遁甲」、鬼門封じの効用が
あるようだ。
ごりやくはほかに、子供の寝小便が治る、厄除け、幸運に
恵まれるなど。



奈良公園で雨の中傘を差しながら観光する高校生に群がって
くる鹿の群れ、せんべいを請うてのこと。



公園内の猿沢の池は雨に打たれ、風情があった。



2001年に死去したシンガーソングライター、河島英五ゆかりの
テンテンカフェ(長女のタレントのあみるはじめの家族経営)。
旧奈良町店から東大寺夢風ひろば内に移転してリニューアルオープン、
店内はちょっと洒落た趣のフランス料理店で、欧米人旅行者も食事
していた。ウエイトレスに河島英五の歌をリクエストしたら、退けられ
てしまった。「酒と泪と男と女と」(ユーチューブ)の雰囲気ではない
ことは確か。故人が愛用したギターやバイクが店内の隅に飾られて
いるが。歌に反して本人は下戸だったみたいで、故人が好物だった
というスイーツメニュー、『酒と泪と男とぜんざい』もある。
お薦めは、とろとろのオムライスと、さくさくの本格ワッフル、人気店
して名を馳せる(食べブログ)。


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大晦日のベンガル海

2014-12-31 18:42:46 | 季節・自然
小雨のちらつく中、海に出た。
ガウンの上にフードつきヤッケと重装備、六時過ぎですでに暗く、フードの上にぽつぽつ雨滴が落ちるなか、白波の立つ藍の荒海を眺めた。

頭上の空におぼろ月、こんな悪天でも月が出ているのが不思議で、大歳の今年最後の暗い海を愛でた。いつもならラストサンセットを堪能し、一年楽しませてくれたことの御礼を言うのだが、代わりに、ベンガル海と月に謝礼、帰印してからばたばたとあわただしく、一度も夕日を拝まなかったことが少し悔やまれる。

本日はヨガも行い、散歩にもちゃんと出たので、さぼり気味の昨今、最後の義務を果たした感じ。

ただし大掃除は殆どサーバント任せ、私は気になる箇所をちゃちゃっと拭いたくらい、書斎は古い原稿と資料の束と、たまった本の整理・ほこり払いをしなければならないのだが、そのまんま。
寒いと、体が動かない。それでも、日本よりずっと暖か、底冷えというのはないのだけど。

来年、一白水星の私は、発展の年、つまりまいた種の刈りとりとかで、進展が期待できそう。
初の小説書、「涅槃ホテル」(李耶シャンカール、ブイツーソリューション、1200円+税)の売れ行きが気になるところだが、正式には12月11日発売なので、来月末あたりがひとつの目やすになるだろうか。つまり、来年にわたるということだ。

でも、ベストといっても過言でない、大台の迎え方をしたと思う。
感謝・感謝。

来年はほんと、いろんなことが少しずつ変わりそうで、それもいい風に上向いていきそうで、期待している。

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年末のご挨拶

2014-12-31 15:32:03 | その他
読者各位

早いもので2014年ラストデー、
当地プリーは小雨模様の薄ら寒い悪天です。

みなさまのお住まいの地域も、厳寒と拝察申し上げます。

この一年、拙ブログをご愛読いただき、まことにありがとうございました。

来年も引き続き、ご愛読のほどくれぐれもよろしくお願い申し上げます。

お体には気をつけて、よいお年をお迎えくださいませ。


「インドで作家業」著者、李耶シャンカール



*今年は私にとって、達成の一年となった。
五十代の総決算として、三十年近く関わってきたインド三部作が完成し日の目を見たことがなんといっても、感慨深い。その初の小説集「涅槃ホテル」(李耶シャンカール、ブイツーソリューション、1200円+税)は当初限定私家版のつもりでいたため、商業上はあまり期待していなかったのだが、思いがけず地元紙に大きめに紹介され、郷里の老舗の本屋さんにも、売れっ子作家並みの好待遇(平積み)と、著者本人も驚喜している。

ちなみに、本を一冊出すのは大変で、著者が原稿を書けばそれで終わりというものでなく、編集者、デザイナー、校正者(出版社)の協力、校了後も、印刷会社、発売元、取次店、書店と、たくさんの人たちの手を経て、商品として市場に出されるわけで、推薦記事などのメディアの応援があれば、売れ行きにも影響するから、メディアの力も大きい。

初めての小説集が私一人の力だけでなく、いろんな人のご支援を得て、脚光を浴びたことがうれしく、感謝の気持ちで一杯だ。
「涅槃ホテル」を世に送り出してくれた方々にこの文面を借りて改めて、篤く御礼申し上げたい。
本当にありがとうございました。

皆様のおかげで、売れ行き好調です。
もちろん、購読してくださる読者のご支援はアンカー。
時節柄贈り物にもぴったりの、紫地に白薔薇の装丁が美しい、インドを舞台にしたエキゾチックな恋愛自伝小説、一冊お買い上げいただけると、幸甚です。
「涅槃ホテル」(李耶シャンカール、ブイツーソリューション、1200円+税)




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外国人に人気NO1の伏見稲荷大社(写真)

2014-12-30 18:42:41 | 
京都・伏見の酒蔵巡りの写真に引き続き、外国人旅行者に人気ダントツの観光スポット、伏見稲荷大社ウイキ、稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする単立神社。全国に約3万社あるといわれる]稲荷神社の総本社)。



伏見に点在する酒蔵見学を終えた後、ぶらぶら稲荷大社まで。
参道の向こうに赤い鳥居が見えてきた。
御祭神である稲荷大神様がこのお山に御鎮座されたのは、
奈良時代の和銅4年(711)2月初午の日のこと、平成23年
(2011年)に御鎮座1300年を迎えた。



参道の両脇の店では、縁起物グッズが売られる



いよいよ丹の一の鳥居をくぐる



威風ある丹塗りの楼門は重要文化財に指定される



本殿(重要文化財)で達成祈願のお守りを五百円でゲット!



内拝殿参拝、お賽銭をあげてホテル繁盛を祈願



稲荷山には信者から奉納された約1万基の鳥居があり、
特に千本鳥居と呼ばれる所は狭い間隔で多数建てられ
名所となっている。鳥居を奉納する習わしは江戸時代に
始まったという。
潜り抜けても抜けても延々続く赤い鳥居の連なりは、
お山のてっぺんまで4キロも続く。2-3時間は要する
ちょっとした山登り。私たち三人の一行は休憩所近くの
三つ辻まで登って断念、すでに薄暗くなっており、稲荷
山のてっぺんまでは(以下、地図)懐中電灯が必要。
夕刻から登る旅行者もいるというが、足元が危うい。




赤い柱には寄進者の社名が続々と連なるが、五穀豊穣の
神様としての商売繁盛のごりやくにあやかってのことで、
安産や万病平癒、学業成就などの祈願にも効験あらたか。



奥社奉拝所の先には、「お山」と呼ばれる稲荷山を巡拝
できる参道が続き、そこかしこに祀られた無数の小さな祠
(1万基以上)が存在し、「お塚」と呼ばれている
(各石碑には「白狐大神」や「白龍大神」などといった
神名が記されている)。






降りた地点に丹塗りの太鼓橋、燃え残る紅葉樹と共に風情がある



落ち葉のじゅうたんでうずくまる名物雌雄猫



外国人旅行者に人気NO1の理由は、無料開放されている
ことが一番だろう。京都の寺は拝観料をとるところが多いので、
いちいち払ってお参りしてたら、観光代も結構馬鹿にならない



トリップアドバイザーによる2013年の「外国人に人気の日本の
観光スポット」調査では2位を、2014年の調査では広島平和
記念資料館を抜いて1位を獲得。駅の近くに赤い鳥居が続く風景
がはなはだ日本的な上、拝観料不要で閉門時間がないことや、
稲荷山のお山巡りで欧米人が好むウォーキングができることも人気
の理由とされ、平日は外国人観光客の方が日本人よりも多い。
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故渡辺淳一のポルノ小説

2014-12-30 14:11:15 | カルチャー(祭)・アート・本
昨夜、本年四月に他界した渡辺淳一「愛の流(る)刑地」(幻冬舎、以下はウイキのあらすじ)を読み終えた。
最初読み始めたとき、なんだ、これはまったくのポルノじゃないかと、これまでの文芸作品とあまりに違って低俗なことに愕然とさせられたが(1997年刊の300万部突破の大ベストセラー「失楽園」は純粋な文芸ものだった)、読み進めていくうちに風景描写も出てきて、渡辺淳一らしい手腕も窺えた。

ただし、以下に一部引用したアマゾンレビューでは、かなり酷評されている。

心の動きがない。
投稿者 チョビ 投稿日 2006/7/27
形式: 単行本 Amazonで購入
性的描写はお手の物で、すごいなと思いましたが、どうしてそんなに恋におぼれるのか?(この本の場合はそうでしょう)確かに、人は恋をする生き物だし、もちろん性欲もあるでしょう、ただ、それをあまりにも前面に出し過ぎて、どうなのだろうな?と思いました。たとえば、この本を友達にプレゼントをする、自分の子供達に読ませたいか?と言われればノーだし、まあ暇つぶしに読む渡辺淳一さんのハーレクイン的なエンタテインメントと思えば、楽しく読めます。というところで下巻に突入する私はやはり暇な人なのでしょうか?

がっかりしました
投稿者 じぜる 投稿日 2006/7/26
形式: 単行本
話題作なので久しぶりに氏の作品を読んでみました。
昔の作品は登場人物の心情や背景などが美しい文体で細やかに表現されていましたが、もうそのような作品は書けなくなってしまったのですね。
美しい日本語が消え去って俗っぽい文章になってしまっていることが残念です。

一応最後まで読みましたが、内容はなんだか非常に古臭い感じがしました。
男女の性愛の違いというテーマは既に他の作家さんが10年以上も前から取り上げられており、
文学作品として満足できる作品が沢山出ています。
それらに比べてこの作品は「こんな女性がいたらいいな」という中高年男性向けのポルノ小説という印象です。
性的描写だけで心情的な面が全く書かれていないのですから。
昔、氏のファンだっただけにがっかりしました。

読む価値があるとは...
投稿者 ファビアン 投稿日 2006/6/15
形式: 単行本
日経新聞連載時に読んでいました。何ともひどい作品だと毎日苦笑していました。
ホントは☆一つもあげたくないんですけど。
設定がお粗末、描写がお粗末、登場人物の造形も氏の他作品とさほど変わらない。
何故このような不倫に陥ったのか心情の移り変わりが唐突で、感情移入が全くできない。

どう見ても取材不足だと思われる箇所が多かったことと、読み進めていくたびに矛盾点が次から次へと出てくること、伏線全て無視...などとにかく不満です。
訳の分からない造語を使う前に、きちんと取材をし、文章表現をもう少し磨いていただきたいものです。

昔はファンでしたが、、、
投稿者 不良主婦 投稿日 2006/8/31
形式: 単行本
8年程前のこと、私はファンだった渡辺先生の講演会に出かけました。
なんとその夜、私の友人は、出版関係の知人に誘われ京都ロイヤルホテルのラウンジで渡辺先生と一緒に3人で飲んだと言うではありませんか!
「どうして私も誘ってくれなかったのよー?!」と悔しがる私に、彼女は「どこがエエのん?最低。全くただのエロ親爺やったえ!

そして数年後、私は「失楽園」にガッカリして以来、友人の言葉は正しかったと思うようになりました。
にも関らず、今回また本屋さんに山積みされてるのを見て本書を衝動買いしてしまいました。
結果はやっぱり没。
ひどい駄作。プロの作品とは思えません。
渡辺先生、色ボケ老人状態では?
「お爺さん、お爺さん、冬香さんみたいに都合の良い人妻、降って湧いたりしませんよ〜。」と口に出して言いたくなります。

本書は読めば読むほど、現実味に欠ける稚拙な自慢話を、ダラダラ延々と聞かされているがごとく、ゲンナ〜リしてきます。
フラットで実につまらない。
官能小説としても価値は著しく低いと思います。

いやだあ・・・。
投稿者 マリー・テレーズ 投稿日 2009/7/16
形式: 単行本
美味しいものも食べられず、旅行も箱根の一回きりで、落ちぶれ作家にひたすら奉仕させられ挙句の果てに首絞められて殺されて、こんな恋愛、いやだあ・・・。



下巻のほうが、読み物としては面白そうで、ネットで調べたところによると、五十代後半の売れない作家主人公が深い関係になった人妻のヒロインを、烈しい性愛中誤って殺してしまうという設定らしい。
上巻で、エクスタシーのさなか女主人公が殺してと叫び、首に手をかけるシーンが出てくるが、それがエスカレートして扼殺にいたってしまうということらしい。
もっとも、殺意はなかったのだから、裁判でどう裁かれるかだ。

男と女の会話と、濃厚な性愛シーンがほとんどの上巻より、意外な展開で小説としてはスリリングになりそうで、次回帰国時ぜひとも買い求めたいと思っている。

同作は、2004年11月から2006年1月までから日本経済新聞に連載され、濃密な性描写が話題を呼んだ長編で(略称は「愛ルケ(あいるけ)」、お堅い経済新聞にこんなポルノが連載されたこと事態が驚きだが、1995年の失楽園大ヒットの前例があったこともあろう)、映画化やテレビ化もされているから、すでにお読みの方、映画やドラマをご覧になった方も多いだろう。

とにかく、故人が73歳のときに書いた小説であることを思えば、感服する部分もなきにしもあらず。

熟年男女の純愛不倫、エロスの極致を極めた作品で一世を風靡した大御所作家は、晩年不能になったことも告白しているが、それでも、恋多き作家の名にたがわず死ぬまで恋愛をし、性愛抜きでも女性をやさしく抱擁し手練手管で行かせることは可能と豪語、実体験派として性遍歴を作品に活かしたリアリティ作家だった。
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伏見の酒蔵巡り(写真)

2014-12-29 17:04:35 | 
一時帰国中見て回ったツアースポットの写真をおいおい掲げているが、今日は古くから酒蔵のまちとして酒づくりが盛んだった京都・伏見をご紹介したい。



古い酒蔵(神聖)の一棟を改装した、焼き鳥屋・鳥せい本店、
1階の広いフロアの中央にあるタンクから生酒をコップに注いで
提供、ランチタイムも営業、コーヒー付750円はお得、定食類
もあるが、鳥かつ丼がお薦め。隣が酒蔵・神聖の、各銘酒を
取り揃えた酒屋になっている。神聖酒造は、延宝五年(1677年)
に伏見七ツ井のひとつ、白菊井の湧く現在地で創業、当主は代々
源兵衛を名のり現在にいたる。神聖の名前の由来は、中国の
唐時代の詩人白楽天が「酒とは汚されてはならない神聖なもの、
聖人賢人にふさわしいもの」と歌ったことから来ている。




旧家を改造した風情ある物産店には、伏見の銘酒が並ぶ



お酒の資料館「月桂冠大倉記念館」。
月桂冠は1637年(寛永14年)に創業、京都府南部の笠置(かさぎ)
から出てきて創業したことにちなみ屋号を「笠置屋」とし、酒銘は
「玉の泉」と称していた。江戸時代は、地元を中心に商う小さな
造り酒屋だった。玄関の格子戸をぬけると、すぐ左側の部屋に、
酒屋の帳場を復元、座敷の中央に帳簿机を配している。記帳の
内容が客人から見えないようにするため、机の三方を格子状の
結界で取り巻いている。
ちなみに、伏見の酒どころとしての発展は、およそ400年前からで、
伏見城の築城とともに整備された伏見港開港時にさかのぼる。





坂本龍馬襲撃事件ゆかりの旅館・寺田屋。慶応2年(1866年)、
山城国紀伊郡伏見(現在の京都市伏見区)の寺田屋で龍馬や
長州の三吉慎蔵らは深夜2時に、幕府伏見奉行の捕り方30人
ほどに囲まれ、いち早く気付いた龍馬の妻のお龍が風呂から
裸のまま裏階段を2階へ駆け上がり投宿していた龍馬らに危機
を知らせたとの伝説はあまりにも有名。



江戸時代の志士、倒幕のきっかけを作った坂本龍馬像



京橋から降りた川辺。流れは宇治川に注ぎ、淀川に通じ、
慶長年間、旅人や貨物を輸送する船着場として栄えた。
当時は三十石船(米が三十石積める)や高瀬船(河川
や浅海を行く木造船)が行き来し、混雑を極め数十軒の
船宿もあった(今も残る船宿は寺田屋のみ)。



川ら見上げた京橋、川辺には柳の木がそよぎ、風情がある




*この近辺には黄桜酒造のマスコット、河童にまつわる資料館、昔の黄桜TVCM展示があるCMギャラリーも無料開放されているので(キザクラカッパカントリー)、立ち寄りたい。
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アジアの歌姫(動画)

2014-12-28 19:56:57 | 私の作品(掌短編・エッセイ・俳句)
アジアの歌姫ともてはやされた故テレサ・テン、42歳の若さで逝った伝説の歌手の透明な歌声をお届けしたい。
つぐない、時の流れに身をまかせ

以下に、母国・中華民国と中華人民共和国に引き裂かれ、波乱の運命を辿った美貌の歌姫の短い生涯を、ウイキからかいつまんで紹介しておく。

「テレサ・テン(Teresa Teng、1953年1月29日 ‐ 1995年5月8日)、中国名:麗君(デン・リージュン)、は、台湾出身の歌手。台湾のみならず日本、中国、香港、タイ、マレーシア、シンガポール、北朝鮮等でも絶大な人気を誇り、「アジアの歌姫」と呼ばれた。

1953年、中華民国(台湾)の雲林県で生まれた。両親は、1949年に中国本土での内戦に敗れた蒋介石とともに移住してきた約50万の外省人たちの中の一組だった。父親は軍人で、三人の兄と弟一人という男兄弟に囲まれて育った。
10歳の時、ラジオ局主催の歌唱コンテストで優勝。天才少女として注目を集め、14歳の時にプロ歌手としてデビューする。16歳の時、主演映画が製作され、女優デビューを果たす。その後、シンガポールやタイ、マレーシアでも人気に火が付き、18歳で香港でもレコードをリリース、アジアのトップスターとなる。

1973年、香港で「日本の父さん」と呼ばれる舟木稔(のちの彼女の所属レコード会社トーラスレコード社長)は、アジアでのテレサ・テンの人気に目を付け、足繁く台湾や香港に通ってテレサと両親を説得。当時勤めていた「日本ポリドール」(現ユニバーサルミュージック)との契約を実現させる。
1974年、21歳の時に日本での歌手活動を開始する。すでにアジアのスターだった彼女は、アイドル歌謡曲路線の「今夜かしら明日かしら」により鳴り物入りで日本デビューを果たすが、売れ行きは思わしくなく、不発に終わった。そこで演歌歌謡曲路線に転向したところ、日本でのデビュー2作目となる「空港」が大ヒットする。第16回日本レコード大賞新人賞を獲得して日本でもトップ・スターの仲間入りを果たし、歌手活動も軌道に乗った。その後も香港を拠点に台湾や日本などアジア各地を行き来する多忙な日々を送る。

1979年2月、本来の台湾のパスポートではなくインドネシアのパスポートで来日しようとしたため、旅券法違反で国外退去処分を受ける。当時、1972年の日中国交正常化の影響で日本は台湾とは国交を断絶していたため、台湾のパスポートでは入国の際に非常に煩雑な手続きが必要だった。そこで彼女はインドネシアのパスポートで「エリー・テン」という名前で入国していた。舟木稔によると、「当時の台湾の著名人(歌手や芸能人を含む)は、皆インドネシアのパスポートを所有していた」という。パスポート自体はインドネシア政府筋による正式なもので、決して偽造パスポートではなかった。そのため、事件としては白黒はっきりしないグレー決着となり、彼女は1年間の国外退去処分となった。中略…

80年代には中華人民共和国でもテレサの歌のコピーが出回るようになり、「昼は小平、夜は麗君(テレサの中国語の芸名)が支配する」とまで言われるようになった。
1984年、日本の音楽ファンの強い要望もあって、再来日が許可される。レコード会社もポリドールからトーラスレコードに移籍、荒木とよひさ作詞・三木たかし作曲の「つぐない」で日本再デビューを果たす。「つぐない」は有線放送を通じてじわじわと人気に火が付いて大ヒット、日本有線大賞など数々の賞を受賞する。翌1985年にリリースした「愛人」(動画)も再び荒木・三木コンビが手掛け、大ヒット。この曲で第36回NHK紅白歌合戦に初出場を果たす。「愛人」は有線放送のリクエストチャートで14週連続1位。

1986年、荒木・三木コンビによる三曲目となる「時の流れに身をまかせ」をリリース。これも大ヒットとなり、紅白に二年連続出場する。「つぐない」と「愛人」は、それぞれ日本で150万枚、『時の流れに身をまかせ』は200万枚を売る大ヒットとなる。1984年から1986年にかけ、『日本有線大賞』および『全日本有線放送大賞』の東西有線大賞で史上初の3年連続大賞・グランプリを受賞。1985年12月には、彼女のソロコンサートとしては最後となるが、最大規模の演出をこらしたNHKホールコンサートが開催される。この時の歌唱は彼女のライブ公演の中でも最高の水準のものとして高い評価を得ている。1986年、改革開放路線を進める中国でテレサの歌が事実上解禁され、中国での人気が再燃。コンサートのオファーも届くようになり、同時期に米タイム誌によって世界7大女性歌手の1人に選ばれた。
1987年、住居を香港に移すのと同時に、日本以外での歌手活動をほとんど休止するようになった。

1989年5月27日には、かねてから中華人民共和国内で起きていた民主化要求デモを支援する目的で行われた、香港ハッピーヴァレー競馬場での中華人民共和国の民主化支援コンサートに参加。約30万人の前で、平和を願う「我的家在山的那一邊」(私の家は山の向こう)を歌い、亡命した民主化活動家とも交流を持った。しかし彼女の願いはかなわず、北京で天安門事件が起きてしまった。1990年に予定されていた、彼女の夢であった両親の生まれた中国本土での初のコンサートも中止になった。当時、その心境を「夢は殺され、夢は見ることさえできなくなってしまった」と語っている。


1989年、アジアを離れて単身、フランスのパリに移り住む。中国への思いをさらに深めるようになり、1992年に中国で広く愛されている「夜来香(イェライシャン)」を新たにレコーディングする。この頃、喘息を悪化させ、次第に体調を崩していく。1990年以降は表舞台からも距離を置き、日本を訪れることもまれになった。日本での最後のテレビ出演は、1994年11月に放送されたNHK『歌謡チャリティーコンサート』(仙台市にて公開録画)だった。

1995年5月8日、静養のためたびたび訪れていたタイ・チェンマイのメイピンホテルで気管支喘息による発作のため死去。42歳の若さだった。富と名声を得ながらも、晩年は孤独な独身生活を送っていた。同月28日に台北で国葬が執り行われ、世界各国から3万人ものファンが詰め掛けた。彼女の棺は中華民国の国旗と国民党党旗で覆われ、台湾での国民的英雄ぶりがうかがえた。中略…


台湾での彼女はあまりにも偉大なので、遺体は火葬されず、エンバーミングなどを施されて土葬された。没後50年は生前の姿であり続ける。なお、台湾でこのような形で眠っているのは、蒋介石、蒋経国、テレサ・テンの三人だけである。
2009年8月、中国政府系の総合インターネットサイト「中国網」が新中国建国60周年を前に行ったアンケート調査で、彼女は新中国で最も影響力のあった文化人に選出された。
2013年5月、中国・北京でテレサ・テン生誕60周年記念コンサート「追夢」が行われ、中国や台湾から集まった人気歌手たちが彼女の歌を歌った。中略…作品の累計売上は、控えめに見積もっても1億枚を超えるという。

テレサは外国語にも堪能であり、北京語に加えて台湾語、広東語、日本語、英語に堪能で、山東語、マレー語、フランス語などの言葉も話せたと言われる。日本でリリースされた曲は約260曲ほどであるが、中国語でリリースした曲は1,000曲を越す。中略…

1990年代に日本をはじめとするアジア各国で二回ほど彼女の死亡説が流れたりもした(一度目は1990年5 - 6月に父親の葬儀への欠席をきっかけに病死説が、二度目は翌1991年4 - 5月に病死説・暗殺説が流れている。死亡説に対してはそれを否定する本人のコメントが新聞記事などに取り上げられた)。1995年5月の死亡時にも暗殺説が流されている。」

懐かしいですねえ。
うっとり浸ってしまう美声です。
日本では売るために演歌路線でいったけど、本来はポップスなど幅広い分野もこなす本格シンガーだったとのこと。

両中国政府の思惑に翻弄されたかの感もある悲劇の歌姫、中華人民共和国の一党独裁に反対し民主化を要求するデモにも参加しただけに、天安門事件には失望してパリに渡るゆえんとなったようだが、いずれは両親が生まれた中国に帰って歌いたいとの希求が強かったみたいだ。

そんなにファンでもなかったけど、改めて波乱の生涯を調べ歌を聞いてみると、すごくよくてのめり込んでしまった。とにかく、アジアの歌姫との名声を勝ち取っただけに、抜群の歌唱力です。飲みながら、聞きたい曲、あるいは酔ってカラオケで歌いたい曲、ただし、ある程度の歌唱力がないと、カバーは出来ないでしょうね。

昭和を思い出すなあ!

私と同世代のあなたも、彼女の透明でしっとりと哀愁ある美声に浸ってみてください。

つぐない、時の流れに身をまかせ
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大阪シャロウ探検(写真)

2014-12-28 17:52:55 | 私の作品(掌短編・エッセイ・俳句)
先般帰国中、我が宿の元常連さん二人と懐かしい再会を果たして、大阪をご案内いただいた際の写真を遅ればせながらアップしておこう。
大阪は、東京と違って、面白かった。
エスカレーターの乗り方や(人が昇って上がる列と止まったままの列が左右逆、東京は昇って上がる急ぎの人のために右側半分を空ける)、ド派手な看板、地図を見てるとお節介にも声をかけてきて親切に教えてくれる住人、とても人間くさくてアジアの雰囲気、インド人も神戸や大阪に多いが、クールで放任の東京より、ずっと親しみがもてるだろう。
結構気に入ってしまって、これからディープに探検したい第二の都会ではある。
まずは、ざっと掠めたシャロウな(浅い)大阪散策




有名な繁華街ミナミに繰り出し、ぶらぶら歩いてえびす橋へ。
別称ナンパスポット、引っ掛け橋といわれるが、若い頃この橋を渡って、
「よう、彼女、お茶飲まない?」とほんとに声かけられるかどうか、
確かめたかったな。



えびす橋から仰いだ有名なグリコの看板(昼)。



くいだおれ株式会社の看板人形、くいだおれマスコット、太郎。
ウイキによると、「くいだおれ」とは、
「飲食に金をかけて貧乏になること」であり、「京都のきだおれ
(着倒れ)、神戸のはきだおれ(履き倒れ)」などと言われる。
大阪市中央区道頓堀に1949年6月、山田六郎が創業・開店。
屋号は「京の着倒れ、江戸の飲み倒れ」という、「京都の人間は
着物道楽が過ぎて、江戸の人間は良い酒を飲み過ぎて財産を失う」
との意味の、江戸時代からの地域性を表した慣用句に基づいて
作り上げた言葉。
焼け野原となった大阪で「戦後復興期」に寄与することを目指し
食堂として創業。創業者・山田六郎の意向から家族経営で支店などは
存在せず、遺言にも「支店を出すな」、「家族で経営せよ」、
「看板人形を大切にせよ」と記されている。


くいだおれの街・大阪だけあって、歩いていてもいい匂いが
どこからともなく流れてくる。食欲をそそのかされてたこ焼きを
食べてみたら、中とろとろ、東京とまったく違うお味。
あつー、あつー、ふうーっ、おいしい;



ビリケン。尖った頭と吊り上がった目が特徴の子供の姿をしている幸運の神像。
日本ではこちらの大阪の通天閣にあるものが有名で「ビリケンさん」
の愛称で親しまれ、特に足の裏を掻いてあげるとご利益があるそうな。



法善寺の北側にある細い通り。もとは境内だったことから法善寺裏、
法善寺露地などと呼ばれていた。昭和初期に小説『夫婦善哉』や
『法善寺横丁』に登場して有名になり、横丁の名が定着した。



法善寺横町の有名な歌を刻んだ碑、
♪包丁一本晒しに巻いて旅へ出るのも板場の修行♪(ユーチューブ)



「なんばグランド花月」、お笑いの発祥地



吉本のお笑い芸人のイラストが愉快



夕日に照り映える大阪城



ミナミの玄関口でもある難波は多種多様な商店が混在するのに比べ、
老舗や高級店が多いのが心斎橋



道頓堀のおなじみ、かに道楽の看板



道頓堀の夜のグリコLEDネオンは名物。日中はLEDは点灯しないが、
午後6時から午前0時までサインに仕込まれたLEDが点灯し、ゴールイン
マーク部分を除いた部分に動く背景が描写される。グリコのランナーが、
大阪城や海遊館、大阪ドーム、通天閣を背景に大阪の街を走り、空の
部分のネオン色を変えることによって昼、夕焼け、星空、そして朝と
2分7秒ごとに変わっていき、まるでランナーが大阪の街を一日かけて
走っているかのよう。
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「涅槃ホテル」、郷里福井の勝木書店で平積み(写真)

2014-12-28 12:08:55 | 私の作品(掌短編・エッセイ・俳句)
先般上梓した新著「涅槃ホテル」(李耶シャンカール、ブイツーソリューション、1200円+税)が、前著「インド人には、ご用心!」(モハンティ三智江、三五館)と共に、郷里福井の老舗の勝木書店に平積みされている写真を、元同人誌仲間のM31さんからお送りいただいたので、以下にアップしたい。





こんなに目立つ棚に置いていただいて、手作りポップアップ広告、
「福井出身の作家さんが描くエキゾチックでデーモニッシュなラブストーリー4編」
(背景はタージマハルのシルエット)
まで付けていただき、大感激している。

限定私家版のつもりでいただけに、書店に平積みされることはあまり考えなかった私だが、予想外の対応にうれしさ極まれり。

福井にお住まいの皆さん、新著「涅槃ホテル」をぜひ一冊ご購入くださいますように!
併せて前著「インド人には、ご用心!」もお買い上げいただけると幸甚です。
SuperKaBos新二の宮店は広々した明るく清潔な店内に本が見やすく配置され、在庫も豊富、本好きの方には超お薦めです。拙著購入がてら、お正月読むための他書のストックもどうぞ(政府刊行物や、文具、DVD・CD、ゲーム類も装備)。



以下、福井中心に北陸・関東と店舗を繰り広げる、勝木書店(創業1950年)について付記しておこう。

勝木書店(ウイキ)は福井県内のみならず、金沢も含めた北陸ほか、関東にも五店舗繰り広げる、福井ベースの躍進書店。
創業64年の老舗は、私が小・中・高時代大変お世話になった。当時、福井にはほかに品川、ひまわりと駅界隈に、三店舗あったが、勝木書店を一番ひいきにしており、学校が退けてからよく立ち読みに寄ったものだ。もちろん、立ち読みだけでなく、本や雑誌類ほか文房具もたくさん買わせていただいた。
わが家族の最も愛顧する書店であった。

友達との待ち合わせにも、勝木書店を目印にすることが多かった。
福井の文化の発祥地、メッカでもあったわけだ。
私の若い頃は活字中毒世代だったため、本が売れた時代で、勝木書店はいつ行っても、にぎわっていた。

残念ながら品川・ひまわり書店はなくなってしまったが、勝木書店は健在で、しかもいまや24店舗展開の大型書店、出版不況時勢をものともせず、関東近辺でも五店舗展開、躍進は目覚しい。無論、私がひいきにした駅前本店も健在ですよー。

私がお世話になった書店さんの発展・繁栄は何より喜ばしい。
今後も、末永く繁栄していってほしいと祈るばかりだ。

この文面を借りて、勝木書店の勝木伸俊社長さんならびに新二の宮店SuperKaBosのスタッフの皆さんのご支援に、篤く御礼申し上げたい。
本当にありがとうございました!!! 


(*写真をお送りいただいたM31さんにも、併せて深謝申し上げます)
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ベストセラー小説の書評

2014-12-27 19:30:03 | カルチャー(祭)・アート・本
昨夜、2009年小学館文庫大賞をとって単行本化、翌年本屋大賞二位に輝いたという「神様のカルテ」(夏川草介、以下ウイキの筋書き)を読み終えた。
地域医療に携わる現役の三十代の医師が書いたとかで、身内に医者の少なくない私は興味を持って先の帰国時購入したのだ。

その前に、インドでベストセラー書のチェックをして、五十万部突破したことや映画化されたことなどのこの小説についての情報はある程度得ていた。

感想は、三十代という若さにしては古語のボキャブラリーが豊富で、それもそのはず著者は夏目漱石や島崎藤村の愛読者であるらしい。
作中にも、著者自身をモデルにしたと思われる医師が登場、こむずかしい御託を述べる、古臭い変わり者の男として描かれる。

読後感は面白かったというのが正直な感想だが、鼻につく作為も目立った。
ユーモラスなタッチもやりすぎると、逆効果だ。
それと、テレビでいえば、やらせになるのか、いかにも作為ったらしい演出が興ざめだ。
こうすれば、読者が感動してという、計算が見えすぎるのだ。

しかし、それらの欠点を差し引けば、わりによくできた物語だと思う。

大学の医局で勤務する医者と、地域医療に携わる医者の違いとか、現場医療の実態とか、学ばされることが多かった。
人の生き死にに対面している医者でないと書けない目線だ。
そういう意味からも、書く必要があった物語だろう。

メッセージは確実に伝わってくる。
作為的でなく、もう少しナチュラルに流れのままにもっていったほうがなおよかったが、三十代の作者としては上出来だ。
言葉遣いも確かだ。

シリーズ編が出ているらしいけど、なにがなんでもというのではないけど、気が向いたら続編にも手を伸ばしてみてもいいかとの思いもある。

読んでも損はない小説、それなりの感動は与えてくれるというのが、醒めた作家としての私の見解だ。

*最後に、同業者によるアマゾン評を掲げておこう。

現実の医療現場から
投稿者 messer-g 投稿日 2009/11/23
形式: 単行本
なかなか良かった。
読後に爽やかさが残った。
私自身、主人公と同様の境遇にあって、この小説を客観視できない。
むしろ、あっと言う間に主人公に成り代わってしまった。

しかも本書は、現実の医療現場から、医師の目線で書かれた小説として、色々な問題が散りばめられている。
地方の地域医療問題。
救急医療問題。
研修医問題。
終末期医療問題。
癌告知の問題。
大学病院・高度医療とは何なのか。
医療現場の内実を知っているほどに、主人公の葛藤はひしひしと伝わってくる。

その葛藤と闘いながら、それでも真面目に生きていこうとする主人公にそれこそ人生のヒントを得たような感慨である。

著者は主人公そのものだと思うが、文語調の言い回しや文体が見事にキャラクターに融合している辺りは、大変な読書家と洞察する。
小説に何を求めるのかで、本作品の評価は変わってくるのかも知れないが、
医療現場のリアリティを理解している読者であるほど、主人公の立ち居振る舞いに敬服せざるを得ないだろう。

次回作を期待せずにはいられない。
でも、著者が本当の臨床家であれば、次回作を期待してはいけないかも知れない(笑)。
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