インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

ウエルカム熱帯桜

2011-05-31 20:30:04 | 私・家族・我が安宿
居住地プリーに戻って今日で一週間目。
さすがに、蒸し暑い。
雨季が近いため、空中の湿度が飽和状態、うだるような暑さだ。
モンスーン前線は順調に近づいているようだが、早くひと雨来てほしい。
日中はほとんどエアコン室にこもりっぱなし。

日が落ちてから浜に散歩に繰り出す毎日だ。
潮風の吹きぬける浜に出ると人心地つく。

私邸に戻ってから、ヨガも復活した。
やりすぎて、五十肩が痛くなったので、今は加減しているが、長いこと休んでいたため、コツを取り戻すのにやや時間がかかりそうだ。
呼吸法はやはり体にいいなと思う。



帰途立ち寄った首都デリーでも、火炎樹の鮮やかなオレンジが人目を引いたが、プリーも今が七分咲き、これから雨季の初めにかけて炎のように花穂を満開に咲き誇らせるだろう。

別名熱帯桜ともいわれ、枝振りが桜に似ており、サイパン島の日本兵もめでたといわれるものだ。

日本では桜を食傷するほど満喫させてもらったが、インドでもオレンジ色の桜にまみえて、帰還を歓迎してくれているように見えた。






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桜紀行6(鶴来)

2011-05-31 00:29:26 | 
金沢にもう一泊くらいしたい気持ちだったが、バスで駅に出て夜の上野行き夜行バスの切符の有無を問い合わせると、十時のが取れたので、明朝東京に戻ることにした。ホテルに戻ってチェックアウト、片町の王将で昼食を済ませた後、出発までの時間を利用して、鶴来に行くことにした。前回すでに観光済みだが、今回向かうのは、白山比(しろやまひめ)神社である。寺町通りの寺院群(なかでも妙立寺は忍者寺として有名だが、拝観料800円と高い)が連なる合間に土産店が軒を並べる裏路地を潜り抜けて、徒歩十五分のところにある野町駅へ。オレンジ色のラインがかわいらしい電車(北陸鉄道石川線)に乗って、車窓の田園風景を楽しみながら三十分ほどで鶴来駅に到着、そこからバスで三つ目の停留所一ノ宮で降りた。

白山比山神社は全国に3000ある白山神社の総本宮だけあって、大きな鳥居をくぐって杉の大木がそびえる参道を登っていくと広大な敷地が現れ、いかにも由緒ありげなお社が祀られていた。自然の中にある荘厳なる神社は、神聖な空気に満ち、霊験あらたかな雰囲気、おのずと身の引き締まる思いで神妙に参拝、境内をゆっくり巡った。平地の金沢と違って背後に山の迫るこの地はちょうど桜が見ごろで、玉砂利を音を立てて踏みしめながら、咲き並ぶピンクの花勢を満喫した。背景の雪の名残る白山との対照が絶妙だった。

すっかり心が洗われたすがすがしい気分になって、次の目的地、獅子吼高原に向かった。標高600メートルのこの高原にはゴンドラリフトで登ることができ、日本海が一望できるとガイドブックで読んだので、水仙畑が広がるのどかな一本道を散策を楽しみながら、向かった。まずふるさと館と名づけられた、ふもとの民家群を周遊、レストランや土産物屋、木彫り獅子の工房が入っているが、土産物屋の一軒でおなかが空いたので、高原のパン屋さんというお店でクリームパン120円を買って、自販機でファンタを購入、外のベンチに座って食べた。

ふるさと館


腹ごしらえの後、せせらぎが流れ、屋根付き橋がかかり、自然公園のようになっている周囲を巡った。平地のピンクの桜も、山肌を彩る素朴な白の桜も満開だ。そうこうするうちに五時近くになってしまい、中央の階段を上がって、高台にある円形状のしゃれた建物、獅子ワールド館に行くと、鍵が閉まっていた。中の係りの女性が気づいて、親切にも開けてくださった。ここには獅子吼の名称にあやかってか、日本国中、はては韓国、台湾、マレーシアなどの木彫り獅子面が展示され、駆け足で巡るにはもったいないほど面白いコーナーだった。そうと知ってれば、下でぐずぐずせずにまっすぐここに来たものをと、悔やんだことはいうまでもない。が、せっかく開けてもらったのだからと、閉館の五時を少し過ぎるまで目一杯堪能した。赤と金の巨大なめおと獅子が中央のフロアに飾られていたのが、とくに見物だった。


名残惜しげに後にし、ゴンドラ乗り場に向かったが、案の定すでに閉められていた。高原のてっぺんから日本海を俯瞰する計画はおじゃんになったが、周囲を可憐な薄桃に彩る桜プロムナードを潜り抜けながら、降りていった。神社をゆっくり見て回ったため、こちらのほうは時間がなくなってしまったが、また次回のお楽しみにとっておこうと後にした。

しかし、白山比神社も厳かでよかったし、獅子吼高原も時間切れだったけど、半分楽しめた。厄除けにもなる日本国中の獅子面の展示物は実に興味深かった。何より、境内の桜の見事さ、獅子吼高原麓に今を盛りに咲き誇っていた桜並木、冠雪を戴いた白山が彼方に望め、風光明媚なこの地を出発時刻ぎりぎりまで堪能できた。

鶴来駅にバスで戻ると、電車の出発まで三十分以上あったので、駅周辺を散策、手取り川のほとりのしだれ桜の見事さについ立ち止まって、見上げていた。水色の清流にしなだれかかる薄紅の枝、こんな何気ない光景も美しい鶴来だ。小さな川の両岸をピンクの並木が一面に彩って麗しい。立ち去りがたい気持ちで駅に戻り、終点の野町駅から片町へ徒歩で向かい、夕食をまた王将でとり、フォレストインホテルから荷物を引き上げ、バスで金沢駅に向かった。
十時の出発まであと45分、思いがけず、白山麓の入り口の今を盛りに噴き上げる華麗な桜群を目の当たりにする幸運に恵まれた私には、余韻に浸り続けるあまり、待ち時間すら長く感ぜられなかった。



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桜紀行5(金沢)

2011-05-30 00:52:50 | 
4月17日夜八時に福井から金沢に着いたときは、雨の降りはかなり激しくなっていた。バスに乗り込み、広小路で降りる。ネットで調べて予約したフォレストインは人に聞いて、歩二分の通りを渡ったはすかいにあった。びしょ濡れになりながら、チェックイン。ここは予約せずに飛込みだと2900円と知って、一瞬しまったあと思ったが、そのつど午前十一時にチェックアウトして、また午後六時半以降にチェックインしなければならない。どうせ昼間は出かけているのだから、それでもよかったのだが、もう三日間一泊3800円でとってしまったし、いちいち荷物をパックして預ける手間が省けるので、いいかと納得。古いホテルだが、設備はそれなりに整っていた。一階のロビーにフリーネットも完備、最上階の6階には展望風呂(天空の湯、パノラマ大浴場、円天井から夜空が仰げる、宿泊客無料)があるようだし、お湯ポットもフリーで借りられたし、なかなか快適。それに徒歩圏内に犀川があって、繁華街の片町や香林坊にも歩いて行ける。
それにしても、この雨で桜は散ってしまっただろうなと思うと、口惜しい気がした。

犀川沿いの桜並木

翌日は犀川べりの桜を愛でた。だいぶ散っていたが、しだれ桜は美しかった。椿やもくれん、春のとりどりの花がカラフルだ。彼方に白山の雄姿が望める方角に川沿いに歩いていくと、桜色の欄干の橋が現れた。その名もずばり、桜橋。名称どおり、背後の坂上の桜が満開で、お見事。桜模様をくり貫いた鉄の手すりの石段を昇っていくと、上にも桜が咲き誇っており、どうやら桜の名所らしい。上から見下ろす川の眺めも乙なもの。後で知ったことだが、このあたりは文学者の室生犀星が散策をいつくしんだ場所で、寺町通りから桜橋に抜ける途中にあるジグザグの坂は下から見上げるとWに見えることから、W坂との異名があるらしい。犀川大橋から桜橋の川沿いの道は「犀星の道」との異名でも親しまれているようだった。「美しき川は流れたり」と歌った室生犀星はこよなく、犀川を愛していたのである。どおりでこのあたりは風情があり、文学者の端くれの私の心情に訴えてくるものがあったはずだった。

午後六時に金沢在住の旧友と、109ファッションビルの前で待ち合わせ。香林坊の「いたる」という居酒屋に連れて行ってもらった。店内はほぼ満員。ひとつだけ空いていたテーブルに腰掛け、新鮮な日本海産刺身や旬のふきのとうてんぷらをつまみに、生ビールで再会の祝杯、積もる話に夜はあっというまに更けていった。先般上梓した単行本「車の荒木鬼」(モハンティ三智江、ブイツーソリューション刊、1260円)を一部贈呈すると、女友達はとても喜んでくれ、居酒屋の勘定を持ってくれた。日本に入ってからこの方、おごられっぱなしだ。かわいいバスルームセットまでプレゼントされ、感激。

翌日は、浅ノ川総合病院に勤務する内科医の弟のところまで、法事のときの写真を届けに行った。一晩お世話になった福井の叔父邸で現像してくれたもの。叔母が前日、わざわざ駅前まで車で出向いて届けてくれたのだ。相変わらず超多忙の弟だったが、一時間ほど時間を作ってくれ、院内の喫茶店でカフェオレを飲みながら、歓談した。副院長に昇進した彼は、内科の医局を一身に背負うやり手。先の震災支援にボランティア医療団の長として、福島県南相馬市にも駆けつけたらしい。
ひとまず法事が終わったことの安堵を共にしながら、久しぶりに姉弟水入らずの会話を楽しんだ。

帰途は歩きにし、てくてく足を踏み出したが、背後の卯辰山の桜を見ようと思い、路地を折れ込んだあたりから、迷ってしまい、いくら行っても山への登り道は現れず、代わりに目の覚めるような濃い桃色の一面梅林を見つけた。わらが散り敷かれた柔らかい土面に踏み込むと、濃桃の低木がいくつも立ち並び、鮮やかなピンクに全身が染まりそうだった。ホーホケキョーと美声を奏でる鶯。まさに梅にホトトギスの世界。背後の山肌に淡いピンクの山桜、うねる山道の一角は落花した椿で赤く染まっている。もくれんの白も美しい。水仙畑に、鮮やかなパンジー、菜の花、春の花がいっせいに噴き上げ、かわいいつくしんぼまで見つけた。
感激して、その場にしばし立ち尽くしていた。金沢の春を、思いがけぬ裏路地で満喫したという感じだった。

結局、ホテルまでは繁華街を通って歩いて帰った。途上武蔵辻の近江町市場を覗いたが、二階に飲食店が入るなどしてすっかりきれいになっており、市場の雑多な雰囲気が失われており、がっかりした。雑然とした汚さが、こういうバザールの醍醐味なのに。街中にある高台の尾山神社にも参拝。和風と洋風のミックスした三層の楼門と神門の頂きの五色のギャマン(江戸硝子)がステンドグラスのようにきらめいている、オランダ人建築技師の手になる、神社と教会の合いの子のような不思議にしゃれたお社だ。加賀藩主前田利家を祀ったお社の異国情緒あふれる敷地内には、小さいけど風流な日本庭園もあり、池に渡された飛び石や橋を渡って、散策を楽しんだ。

何気ない道端に咲く春の花を堪能させてもらった満足感に浸りながらの歩行は、疲れも気にならなかった。
梅林の目の覚めるような桃色はいまだ私のまぶたに焼き付いていた。

<6に続く>


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桜紀行4(福井)

2011-05-29 01:39:09 | 

福井市足羽川の2.2キロと日本一長い桜並木

4月13日、京都と奈良の桜を堪能した後、午後6時半の特急雷鳥で郷里福井に向かった。東口のエコノ福井駅前に前もって予約してあったので直行、このホテルは午後八時以降にチェックインすると、一泊3500円とお得になるのだ。こぎれいなビジネスホテルで、朝食・ネットフリー、コーヒー&ティー、お茶も飲み放題、格安の割りに快適なホテルである。
翌朝はバイキング和食でしっかり腹ごしらえした後、ホテルから徒歩数分の福井城址のお堀端に出て、桜並木を見物、堀水を囲むように植わった桜は満開に咲き誇り、可憐なピンクの花がびっしりついた枝を水面にふれなんばかりにしなだらさせていた。浅い翡翠色のたまり水に落花が散り敷いて、桜色のまだら模様を作っているのが麗しかった。ぐるりと回りこんで、通りを渡り、福井神社に参拝、境内の桜の大木も満開に咲き誇っていた。

4月初旬に上梓した単行本「車の荒木鬼」(モハンティ三智江、ブイツーソリューション刊、1260円)の取材が入っていたので、午後一時、駅前の日刊県民福井本社ビルに向かった。編集委員という私よりやや年配の記者さんは思いがけず、高校の先輩で、リラックスしてインタビューを受けることができた。写真を撮られるときだけ、さすがに緊張したが、歓談の後辞する。四時からも、福井一の発行部数四十万部を誇る福井新聞の取材申し込みが入っていたので、駅前のミスタードーナツ前で弟に車で拾ってもらい、わが荒木家の同族会社、中新田町の福井モータースへと向かった。今度の本の主人公は、福井モータース創業者、わが亡父荒木重男なので、本社に来てもらってインタビューを受けることにしたのだ。二十代後半の若い記者さんで、二時間半余りもかけて丁寧に取材された。写真も澄ました顔より、自然に話している風がいいというので、ご指示にのっとってしゃべりポーズ、何度も撮られた。気持ちのいい青年で、お話が弾んだ。
同夜、高校時代のクラスメートKと3年ぶりに再会、忙しい中時間を作ってくれたのだ。きょうやというおそばやさんで、福井名物おろしそばとてんぷらをご馳走になる。私だけ、おいしい福井の地酒(黒龍)まで飲んでしまった。食後、夜桜ドライヴ。駅周辺を一周してもらう。車窓越しに見た足羽山の夜桜もきれいだったが、お堀端の堤の上に咲き誇っていた白い桜が、車を降りてじかに見ただけに、大ぶりの花弁を隙なくびっしりつけて、見上げるとぼんぼりのような花がなだれ落ちてきそうな見事さで、息を呑んだ。京都二条城の夜桜に優らずとも劣らずの見事さだった。

翌日は、また弟に迎えに来てもらって、足羽山の中腹にある荒木家先祖の墓参り、仏花を供え、インドの線香を焚いて、福井の銘酒一本義で洗った墓石の前にビニール袋入り本をささげて合掌、帰途は車窓から見える山桜を愛でながら、老母のもとへ向かった。81歳と高齢だが、しわもあまりなく、腰も曲がっておらず、かくしゃくたるもの。それに今でもとてもおしゃれ。インドの手土産、ショールを渡すと、とても喜んでくれた。

今夜は文殊山のふもとの旧家、叔父宅に一泊させてもらうことになっていた。叔父(福井モータース前経理・総務部長取締役、現在非常勤)は、素封家、藤田の母屋に婿入り養子したのである(かの直木賞作家の藤田宜永氏は分家だ)。車で送ってもらう夕刻まで時間があるので、この間を利用しての桜観光、弟特選の丸岡城に行ってもらった。ついでに、ここでおろしそば&ソースカツどんセットの遅い昼食もとった。弟は仕事があるので、いったん社に戻り、私一人で観光。柴田勝豊(勝家の甥)が天正四年(西暦1576年)、北ノ庄城(福井)の支城として築城した丸岡城は初めて観たが、よかった。桜は小ぶりだが、お城とのコンビが絶妙だ。別名霞ヶ城とあるごとく、春満開の桜の中に浮かぶ姿は幻想的でひときわ美しく、屋根が珍しい石瓦でふかれ、現存するお城中最古の天守閣といわれている。領主の居館としての機能をもった望楼式天守で、日本のさくら名所百選にも認定された400本のソメイヨシノが古城に綾な彩りを添えていた。
現今の形は、昭和23年の福井震災で倒壊後復元されたものだが、石垣はそのまま用いられ、国の重要文化財に指定されているだけあって、一見の価値はあるものだ。大入母屋の上に廻り縁のある小さな望楼を載せた二重三層の古式の外観は、いかにも最古の天守閣に似つかわしい。300円入場料を払って、てっぺんまでのぼった。階段が急で、垂れている縄に捕まって恐る恐るのぼったが、窓から見下ろす桜は優雅に枝を伸ばして晴れ渡った蒼穹を薄紅いの花叢で彩っていた。全国のお城の写真が鴨居にぐるりと立てかけてあるのも興味深かった。平地の庭園内にある博物館にも寄ったが、よろいや刀などの武器が展示されており、興をそそった。

六時前弟が下の食堂兼みやげ物屋に来てくれて、叔父宅まで送ってくれた。由緒ある旧家は戦災に遭わなかっただけに、蔵や、古めかしい造りがいまだに残っており、家内は骨董品まがいの家具や書画、花瓶などの宝庫だ。純金尽くしの大仏壇も見事。ここだけ改造したというピアノのあるモダンな応接間に通されて、藤田家当主、私よりいくつか年上だが外見が若々しい奥様にウエルカムフードとしていちごに練りミルクをかけたものをご馳走になった。いちごだけはインドで手に入らないだけに、舌鼓を打って平らげた。ソファー正面のガラス戸からは、咲き残った桜が見渡せて、風流だった。その夜は奥さんと娘さんの手料理をご馳走になった後、主に私の本の話題を中心に夜中の一時まで話し込んだ。うちの息子より一歳年下のお坊ちゃんも勤務先から戻ってきて、挨拶の顔見せをしてくれた。

翌朝は法事に、寮町にある菩提寺、勝縁寺へ向かった。亡父の32回忌だが、ちょうど会社の60周年記念と併せて、33回忌を待たずに、早めに執り行うことにしたのだ。拙著「車の荒木鬼」出版も、この行事に間に合わせてのことだった。
厳かな本堂で本を仏前にささげてのお経を唱えてもらい、一人ずつ焼香した。姉弟四人がそろったのは、何十年ぶりだろう。とどこおりなく式が済んだ後は、外に出て菩提寺を背景に記念撮影、会席に福井モータース近くのきく寿司へ車に分乗して向かった。
刺身や焼き魚、煮物、最後に大桶のにぎりに舌鼓を打ちながら、無事法事を終えた後の親族同士の話が弾んだ。話題は拙著のことに及び、過日福井のメイン二紙から取材を受けたことを告げると、みな誇らしげだった。

翌日は観光。自分が生まれ育った土地を周遊するというのも不思議なもんだが、桜の名所を観て回った。足羽河畔の桜並木は、日本一長いことで有名なのだ。「桜の名所100選」にも選ばれた日本一のスケールと言われる約600本・のべ2.2kmもの桜並木があり、ピンク色の壮大なトンネルくぐりが楽しめる。
NHKの大河ドラマ「江(ごう)ー姫たちの戦国」の、お江ゆかりの北の床城址・柴田神社も参拝した。お江の義父にあたる柴田勝家を祀った神社で、いかにも猛将といった感じの豪壮な勝家像のほかに、妻お市の方と江や茶々、初の三姉妹の母娘像が微笑ましかった。往時の半石半木の奇橋、ここから三つ目の足羽川にかかる九十九橋の原型のモデルもあった。そこから、佐佳枝廼社(さかえのやしろ)、神明神社にもお参り、棒のようになった足を引きずって、エコノ福井駅前に預かってもらった荷物をピックアップ、福井から一時間ちょっとの金沢へと快速列車で向かった。いよいよお気に入りの金沢だ。北陸の小京都の桜はいかにと心がはやったが、日の落ちた時刻に電車に乗り込むころには小雨が降り出していた。

<5に続く>
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お古の超のろパソコン

2011-05-28 00:47:05 | 私・家族・我が安宿
居住地プリーに戻って四日目、高湿度の不快な暑さが続いている。おまけに、パソコンまで壊れていた。メカニックに見てもらい、やはり壊われていたはずの二台目の古いほうがすぐ直ったが、長いこと使ってなかったせいで、やたらのろい。ウィンドウ98対応の旧式なので、XPのOSだと起動が超のろくなるのだ。メール一本開けるのすら、一苦労。新しいほうが修理されるまでの辛抱だが、そろそろおニューを購入時かも。ウインドウ7は早いというし、私の仕事にとっても、快適なPC環境が必要だ。
あまりにのろいので、たまりかねてネットカフェへ。たまっていたメールをチェックしたが、ここのマシンはそこそこ早い代わりに、キーボードの英字は剥げて紙張りだし、なんだか使いにくい旧式でいまいち、エアコンもあまり効いていないし、うちと五十歩百歩だ。一時間弱メールだけやって後にした。
古いパソコンのほうはメカニックが月曜ワンパート入れ替えて、スピーディーにしてもらえることになった。

新しいほうは修理代がかさむようなら、やはり南インドのバンガロールでコンピューター専科の息子に頼んで、買ってきてもらうしかないだろう。
でも、ついているので、安価で直りそうな気がする。

というわけで、ブログの記事を送るのも、ここしばらく思うようにいきそうもない。ワードで下書き保存しとけば、コピーして送れるので、この方法でいくと直接打つより、早くできるが。

桜紀行の続きがまだ三篇ほどあるのだけど、みなさん、今しばらくお待ちください。
今後はまたインド発信の当ブログにお付き合いくださいね。
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いざ帰印! デリーからオリッサ州都、さらにプリーへ

2011-05-28 00:21:34 | 私・家族・我が安宿
5月22日午前六時四十五分、山谷の外人宿、AIZUYA INN別館を後にした私は、最寄り駅の南千住から三駅めの上野に出て、成田まで京成スカイライナーに初乗りした。2600円とリムジンより400円も安く、第二ターミナルまでものの四十分ほどで着いてしまった。リムジンよりずっと快適だった。

早速エアインディアのカウンターでチェックインしたが、案の定、荷物が重量オーバーで引っかかってしまった。新しく買ったスーツケースのほうは意外や意外、20キロ以内に納まったのだが、測るよう指示された手荷物のほうが30キロもあった。過去に超過料金一万なりをとられた苦い経験がある当方としては、同じ轍は踏みたくない。幸いにも若い女性係員がいい方で、エアインディアのホームページでマイレージ会員として登録すれば、荷物は無料で送らせて貰うと申し出てくれた。即座に、スターバックス脇のネットカフェに駆けていき、硬貨口に100円入れて、グーグルでサーチしたインド航空のホームページからアクセスした。ところが、最後の電話番号を入力する段になって、いくらやっても次のページに行かない。そのうち、10分が過ぎ自動的に切れてしまい、また初めからやり直し、ためしに日本の電話番号でやってみたが、やはりだめだった。
エアインディアのカウンターに戻ってその旨告げると、もしかしたらすでに登録済みで個人メールアドレスのほうに登録ナンバーが来ているかもしれないと言われたので、また戻ってチェック、しかしやはり来ておらず、もう一回インド航空のページを開いてやり直し、そんなことを繰り返しているうちに、出発時刻45分前になってしまった。焦っていると、女性係員が助っ人に駆けつけてくれた。しかし、彼女がやってもやはりだめだった。私がインド在住と知ると、「おかしいですね。インドからトライすると、大丈夫なのかもしれませんね。向こうから一度やってみてください」と言われた。内心これはフリーで通してくれそうかなと期待しつつ、カウンターに戻る。

女性係員は上司にできなかった旨報告、その上司の男性は私に超過料金は払ったことがあるかと訊いてきた。無論、ありませんと嘘をついた。「払ったことないってさ。しょうがないなあ。お客様は神様だ」と彼はのたまい、無料で通してくれることになった。ほっと胸をなで下ろしたことはいうまでもない。なんと二時間近くもネットカフェで格闘、1600円散財したが、一万払うことに比べれば、安いもんだ。ご丁寧にも、女性係員が途中まで送ってくださった。感謝感謝、日本この方ずっとついていて、いつも奢ってもらえるし、30キロオーバーの荷もフリーになった。やっぱりラッキー!

機内はがらがらだった。アンアン、クロワッサン、週刊新潮、朝日新聞、スポーツ紙を隅々まで読んだ。機内食は昼が日本風の甘辛いたらの煮付けにごはん、かまぼこ、のりを巻きいれ酢でしめた魚の練り身、黒豆とおいしく、白ワインの小瓶に合った。夕刻前に軽食、野菜サンドとチーズサンド、フルーツ各種、パイ生地の上に乗ったババロアとこちらもおいしくて、満足。格安航空券でこの食事はお得だ。ただし、行きはカレーのみで、ほとんど食べられなかったのだが。日本発だと、日本人客向けに和食を用意してくれているし、雑誌・新聞も日本語のが取り揃えられているので、重宝する。おまけにがら空きで、三つ占領して仮眠もでき、エコノミーとはいいつつも、極楽だった。

インドの首都ニューデリーに着いたのは、インド航空らしからぬ予定時刻前の五時過ぎ。荷をチェックされることもなく、スムーズに玄関に出て、夫の姿を探した。おりしも酷暑の盛り、さぞかしくそ暑いだろうと覚悟していたが、意外や、雨後だったせいで日本とあまり変わらない気温だった。15分くらい玄関周りをうろついて、向こうから駆けて来るご本人に声をかけられた。どうせ遅れるだろうとたかをくくって、ゆっくり来たらしい。迎えのタクシーに乗って、鉄道駅近くのパハルガンジにある「コッテージ・イエス・プリーズ」のエアコンつき部屋(900ルピー)に落ち着いた。

夜は、ポテトフライとマッシュルームピザをつまみに、夫が冷やしておいてくれたスラ(SULA)の白ワインで祝杯した。上梓した単行本や、紹介記事を見せると、わがことのように喜んでくれた。

翌日は、ビザの延長と、PIO(Person of Indian Origin)カード申請に、マンシン・ロードのジャイサルメールハウスへ。PIOカードの申請には申請用紙をホームページからダウンロードしなくてはならないのだが、親切なオフィサーが自分のパソコンから用紙を印刷してくれた。延長の申請のみ済ませ、PIOカードの申請代金15000ルピーのドラフトをカーンマーケット近くのAXIS BANKで作り、ついでに、顔写真を12枚(100ルピー)、必要書類のコピーも済ませて、ホテルに戻り、行きつけのコスラで遅い昼食、またホテルで申請用紙に書き入れて、ジャイサルメールハウスへとんぼ帰り。結婚証明書がなんのかんのと因縁つけられて引っかかったが、夫が必死に説明して、なんとか受け入れてもらえた。降りるのは、3-4ヵ月後とのこと。

ちなみに、このカードがあると、15年間はビザ不要、就労も可能、不動産も購入できる。インド人配偶者を有する者のみが持つ特権で、もともとはその名の通り、出生がインド人だが、国外に居住している者たちが取得するカードだ。うちの息子も今年の9月17日、22歳の誕生日までに、国籍選択しなければならないので、日本人になったら、このカードを取らなければならない。
夕方までかかったが、どうやら一日で仕事を済ませ、一息。申請のために余計に一日とっておいた明日はゆっくりできそうだった。

40度以上の暑さがぶり返した次の日はスーツケース用のベルトやゴムサンダルを近くで買ったのみで、もっぱらエアコン室で休養、夜七時にデリー在住のサントーシーさんと再会、4月に上梓した拙著「車の荒木鬼」(モハンティ三智江、ブイツーソリューション刊、1260円)を一部贈呈した。
翌朝五時にチェックアウト、七時五分発の国内航空、キングズフィッシャーエアラインで一路オリッサ州都ブバネシュワールへ(サービスは水のみの格安便)、そこから二時間かけて迎えの車で居住地プリーに戻った。途上、スラの赤ワインを買うことも忘れなかった。ブバネシュワールも相当暑かったが、プリーは案の定、州都以上の高湿度でじっとしていても汗だらだら、体がついていかず参った。エアコン室に逃げ込んで、虫の息の一日、整理に明け暮れた。
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虹の魔窟のブローカー(14-20完結編)<銀座新聞連載小説>

2011-05-27 01:04:03 | 私の作品(掌短編・エッセイ・俳句)

拙作「虹の魔窟のブローカー」の掲載された文芸思潮は,
池袋ジュンク堂(一階奥の棚に平積み)、紀伊国屋新宿渋谷店、書泉グランデなどで販売中!


文芸思潮(アジア文化社)主宰の銀華賞奨励賞受賞作品、
「虹の魔窟のブローカー」(李耶シャンカール)
第十四回から完結編第二十回までが、銀座新聞ニュースに掲載されました。
注目記事ベスト10にランクインされていますので、ぜひご一読ください。
http://www.ginzanews.com/report/1777/
http://www.ginzanews.com/report/1778/
http://www.ginzanews.com/report/1779/
http://www.ginzanews.com/report/1780/
http://www.ginzanews.com/report/1781/
http://www.ginzanews.com/report/1782/
http://www.ginzanews.com/report/1783/

*舞台は八十年代のカルカッタ。単身女性旅行者奈都子(なつこ)と、安宿街サダルストリートを牛耳るブローカーの親玉、アリとの心温まる交流を描いた異色の短編です。ぜひご一読ください。    

                                                   

第1・2・3・4・5・6・7・8・9・10・11・12・13回

http://www.ginzanews.com/report/1764/
http://www.ginzanews.com/report/1765/
http://www.ginzanews.com/report/1766/
http://www.ginzanews.com/report/1767/
http://www.ginzanews.com/report/1768/
http://www.ginzanews.com/report/1769/
http://www.ginzanews.com/report/1770/
http://www.ginzanews.com/report/1771/
http://www.ginzanews.com/report/1772/
http://www.ginzanews.com/report/1773/
http://www.ginzanews.com/report/1774/
http://www.ginzanews.com/report/1775/
http://www.ginzanews.com/report/1776/



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桜紀行3(奈良・再度京都)

2011-05-21 22:14:17 | 
四日目は、奈良在住の元お客さんY氏(わがインドの安宿ラブ&ライフの常連)の申し出にあつかましく甘えて、近鉄電車で奈良まで赴き(30分610円)、桜の古都をご案内いただいた。奈良は実は高校の修学旅行以来。京都に比べると質素でこぢんまりとしたたたずまいの市内は観光スポットが周辺に集まっていることもあり、日帰りで周れるのが手ごろだ。観光地と思えぬくらい静かで、京の華やかさはないが、人疲れする京都に比べると、のんびりと周遊できる。わりと私好みの町だ。

まず駅の近くの猿沢池を巡った後南円堂、興福寺・五重の塔、春日大社と寺社巡り、高台にある二月堂までのぼり、古い木造の欄干から、ピンクに染まる下界を愛でた。五重の塔と桜の絶妙な取り合わせや、おのおのの寺社の境内に咲き誇る桜も美しかったが、奈良は何気ない路地の奥に花開く可憐な桜の風情がいい。東大寺に着く頃には残念ながら閉園で、奈良の大仏様にはお目どおりかなわなかったが、京都に比べると、ひっそりとつつましやかな古都の情緒を満喫した。

吉野山の桜絶景

迷路のようになった路地の両側に開ける商店街を物色して周ったあと、一角にあった居酒屋「とり貴族」に入り、生ビールで乾杯、一日足で周った旅の疲れを癒しつつ、Y氏との弾む話に夜はあっという間に更けていった。

午後十時に京都駅に到着、駅のそばのベローチェ(Veloce)というチェーンコーヒー店に酔い冷ましに立ち寄った。ここはレギュラーコーヒーがたったの200円で飲める格安喫茶だが、広くて雰囲気がとてもいい。一昨日はY氏にスターバックスで香り高いコーヒーをご馳走になったが、私はこのベローチェがもっぱら気に入って朝などよく利用させてもらった。奥に大きな円テーブルがあって、地球儀が置かれたりするのがとてもしゃれている。話がちと逸れるが、京都市内はレトロ改造車が走っており、とてもしゃれている。どこか殺伐とした東京とは違って、やっぱり京都はおしゃれだなあと思う。遊び心を楽しむ余裕がある。
とまとハウスに戻ると、4ベッドの女性ドミトリーは満室になっていた。

いよいよ京都最終日は、駅のバス停から一路嵐山へ。しかし、桜は昨日の風でかなり散っていた。それでも、枝垂桜はまだ満開で美しく、清涼な川風に吹かれながら、噴き上げる花天蓋を楽しんだ。つがいの鳩が枝の先に泊まっているのが微笑ましい。渡月橋を渡って、桜の香りのほんのりするピンクのソフトクリームをなめながら道の両側に開けるお土産屋さんを物色、天竜寺をお参りした帰途、また橋を下って、南岸の屋形船乗り場のほうのがけに沿って回り込んだつづれ折の坂道を上って石段を上り詰めると、三十分ほどで山の中腹にたどり着き、京都の豪商、角倉了以1554-1614)が隠遁したとのいわれのある大悲閣千光寺が現れ(拝観料300円)、ここは穴場だった。
大悲閣は禅宗寺院で、角倉了以が河川開墾工事に協力した人々の菩提を弔うため、嵯峨中院にあった千光寺の名跡を移して創建したもの。角倉了以は、大井川、富士川、 天竜川、高瀬川等の河川開発工事を行い、また豊臣秀吉より朱印状を得て、海外貿易も行っていた。晩年は、この大悲閣に隠棲し、慶長19年(1614)7月、 61歳で亡くなった。本尊の千手観世音菩薩は、恵心僧都(源信)(942-1017)の作と伝えられ、了以の念持仏だった。なお、大悲閣とは 観世音菩薩像を安置した仏堂をいうが、この千光寺のことでもある。了以像は法衣姿で石割斧を持ち、片膝を立て太綱の上に座し、今も川の安全を見守っている。
側面の小屋同然の奥ゆかしい住みかから俯瞰する展望が見事で、京都市内が一望のもとに見渡され、彼方に比叡山、大文字山をはじめ東山三十六峰も望め、旅の最後を締めくくるにふさわしい絶景に大感激した(双眼鏡が置いてあるので、仔細に楽しめる)。

<4に続く>

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桜紀行2(京都)

2011-05-20 20:00:10 | 私の作品(掌短編・エッセイ・俳句)
四月九日、夜行バスで京都に向かった。宿はネットで見つけた駅のそばの「とまと京都ゲストハウス」(リーガローヤルホテル近く。女性専用ドミトリーで1ベッド2200円)。チェックインの午後三時まで時間があるので、荷物を駅のロッカーに預けると、徒歩十数分のところにある梅が丘公園に向かった。ここも一応観光コースには違いないが、あまり知られておらず、早朝だったため、犬を散歩させたり、ジョギングする住人が数名と、のんびり周遊しながら、いろんな品種の桜を愛でられた。濃い桃色の品種があでやかで、咲いてはなかったが、淡黄のめずらかな品種(鬱金)もあることを知った。公園を出た後、明治創建という龍谷大学のしゃれた洋風旧舎(大宮キャンパス本館は重要文化財)を見学、ちょうど親鸞の第700回大遠忌でにぎわっている同敷地内の西本願寺にお参り、信者のみらしい儀式にも紛れ込んで、朱色の袈裟をまとった若頭がお経を上げるおごそかな式も見物させていただいた。ご縁町フェスタという通りは仏教関連グッズの道具街、近くの小学校の体育館にもバザールが展開されており、楽しかった。コバルトブルーのアクセサリーのように美しいお数珠を680円で買い求めた後、東本願寺へ、ここでも親鸞の木像の祀られた大仏壇に参拝、帰途コーヒーをただで飲ませてくれるという触れ込みの本願寺関連ボランティア喫茶店に寄って帰った。沿道に連なる桜並木も、折々に目を楽しませてくれた。

翌日は、奈良在住の元お客さん(インドの安宿ラブ&ライフ常連)Y氏と京都タワー前で待ち合わせ、烏丸から祇園通り、昼食は桜が咲き乱れる鴨川沿いの堤に腰を下ろして有名デパートのおにぎり弁当、食後八幡神社から円山公園とご案内いただき、私が学生時代見て感激した名物枝垂桜に再会、四月はじめというのに初夏の陽気で、日中のただれた陽の下では老木はやや元気がなかった。夕食は伊勢丹デパートの最上階に入っている炭火串焼き店「こけこっこ」で、美味な焼き鳥と梅酒ワインをご馳走になった。Y氏とは7年ぶりの再会で、話が弾んだ。この店は通の間では有名な高級焼鳥店で、さすがにおいしかった。焼き鳥ならず、牛筋もつの煮込みも、こってりしてお酒のおつまみに合った。京都タワーなどの夜景も楽しめ、ムード満点であった。

十一日は、一人で銀閣寺行きのバスに乗り、哲学の道の桜を堪能した。二年半前、インドの家族連れで来たとき、見逃しただけに、今回どうしても来たかったところだ。学生時代見たより、お店が減ったような気がしないでもなかったが、疎水のほとりを彩る桜並木の見事さ、花をびっしりつけた重い枝が透明なせせらぎに触れなんばかりにそよいでいる様は美しく、大感激。疎水を離れた路地の奥に、濃い桃色の目も綾な桜が立っていたり、咲き残った梅、つばき、もくれん、早咲きのつつじと色とりどり花三昧、目を楽しませてくれる。琵琶湖疎水沿いの哲学の道を思索にふけりつつ散策することを好んだという哲学家、西田幾多郎の歌碑、「人は人吾はわれ也 とにかくに吾行く道を吾行なり」も中途に立っていた。


哲学の道の琵琶湖疎水沿いにたおやかに花枝をしなだらせる満開の桜

哲学の道が切れる手前にあるにある若王子神社にお参りした後、南禅寺へ、そこからぐるりと回りこむと、廃線になっている鉄軌道が現れた。桜並木が線路沿いに満開に咲き誇っており、たくさんの観光客が線路づたいに歩いている。中ほどに、この今は使われていない線路のいわれを記した看板が立っていた。この廃線はインクライン(587メートル)で、インクラインとは傾斜鉄道のことで、運河や山腹など、勾配のある路面で貨物を運搬するためのレールや機械を指す。この線路も、水力発電を利用して、琵琶湖疏水からたどり着いた荷送用の舟を台車で運ぶための鉄道であった。疏水工事以前は、京都と大津の間の輸送は人馬に頼っており、大規模な輸送を行うことは難しかったのである。琵琶湖疏水工事(明治18-23年)によって水路を開き、舟運による輸送を可能にすることが、遷都後の京都を発展させる道であると期待されていたらしい。疏水は、琵琶湖のある大津にはじまって、長等山などに掘られたトンネルを抜け、さらに山麓をめぐって蹴上に出、この蹴上から、インクラインを利用して高さ35メートルの急勾配を下り、鴨川経由で京都市の中心部に入っていったという。

125万円余という、当時としては破格の支出を乗り越えて工事を推進したのは、第3代京都府知事・北垣国道(1836~1916)。一方、北垣知事に見出されて工事を任されたのが、土木技術者・田辺朔郎(1861~1944)だった。弱冠21歳という早熟な天才肌の田辺の辣腕もあって、殉職者も出たほどだった難工事も、人力のみで五年後に完成、水力発電事業で新工場も生まれ、電気鉄道も走り、京都は活気を取り戻した。その後、舟運の衰退もあって、インクライン運転は、昭和23年(1948)休止されたが、土木遺産としての価値が認められ、58年(1983)には京都市の文化財に指定され、また、平成9年(1997)開通した東西線(京都市営地下鉄)蹴上駅の工事に伴って、復元工事が行われたのだ。

まっすぐ線路沿いに進むと、琵琶湖疎水工事百周年を記念して平成元年に建てられたという展示館、琵琶湖疎水記念館が現れた。玄関の脇に水力発電の水車や発電機が展示され、一階には建設計画・工程関連の貴重な資料、地階には同疎水が運河・電気・水力事業と果たした役割、二階は写真類と、展示されていた。

記念館を後にし、疎水のほとりに咲き並ぶ桜を愛でながら、彼方に見える赤い大鳥居を目指して歩いていった。コバルト色のせせらぎを行き来する観光客用の舟も乙なもの。橋を渡ってまっすぐ行くと、平安神宮だった。玉砂利の敷き詰められた広大な境内には、緑青を葺いた屋根と丹の柱の対照が美しい大神宮がそびえていた。お参りした後、木陰のベンチで一休み。初夏を思わせる陽射しでさすがにぐったり。半そででもいいくらいの汗ばむ陽気だったが、どうせここまで来たんだからと、さらに歩き続けてついに祇園通りまで出てしまった。
日のとっぷり暮れた円山公園へ。昨日昼の下でしおれたように見えた名物枝垂桜が夜の人工灯の下ではまるで、夜になると急に水を得たように生き返る妖艶な老芸妓のごとく若返り華やぎ、私の目を惹きつけずにはおかなかった。

最後にバスでライトアップ中の二条城に向かい、400円の入場料を払って「光と桜の宴」を鑑賞、薄暗い足下の照明に妖しく浮かび上がるソメイヨシノ、八重紅しだれ桜、普賢象(めしべが二枚の葉になり、普賢菩薩が乗った象の牙に似ていることからこの名がある)、寒緋桜(早春から咲く濃い桃色の寒桜)、太白(一重の大輪で夜の灯の下ではその見事な花弁が特に美しかった)、関山(ワシントン・ポトマック河畔に寄贈されたのもこの品種)、朱雀(大輪の半八重咲きで淡紅色、昔朱雀にあったのでこの名がある)、鬱金(淡黄緑色のめずらかな品種)、里桜等々、どれも甲乙つけがたい美しさ、城下に競い合う麗花の園に息を呑んで見とれた。妖艶な輝きを発する白や薄桃、緋の花尽くし、絢爛豪華さに首が痛くなるまで仰ぎ続けた。城を取り巻く堀水がスポットライトを浴びて、縞や丸、ひし形の文様を編んでいるのも背景として、味を添えていた。露天の出店で試飲用に配っていた菫色のビンがしゃれた地酒を空けて、ほろ酔い加減になって半月の瞬く春の闇夜に浮かび上がる雅やかな桜を堪能、一角に設けられた舞台では風流な琴ライブの演奏も始められた。三人の着物姿の女性が弦を奏でる前には、桜はじめカラフルな春の花が豪勢に活けられて目を楽しませてくれる。宿の同室ドミトリーの女性に薦められただけあって、400円の価値は十分にある二条城ライトアップであった。

<3に続く>
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桜紀行1(隅田川・上野公園)

2011-05-20 17:19:52 | 

上野公園の可憐な桜


今回の帰国では実に七年ぶりに桜シーズンを満喫したので、これから何回かにわたって、紀行文を寄せたい。

私の桜めぐりは、山谷の逗留宿「ホテルニュー紅陽」(一泊三畳個室2200円)から歩いて15分の隅田川べりの桜並木から始まった。五分咲きの頃からちょくちょく川べりへ、4月も7日になると八分咲きになり、両側の河畔がいっせいに淡いピンクに縁取られる美景を歩行者専用のクロスしている形が珍しい桜橋から見下ろして、堪能した。

翌日は上野公園に満開といわれるソメイヨシノを愛でに出かけた。最寄り駅の南千住から三駅と近いため、花見シーズンになるとごったがえすという名所にいそいそ出かけたのだ。ところが、折柄の震災で桜祭りは中止、午後遅い時間帯だったが、人手は混雑するほど多くなかった。それでも、家族連れ、主婦グループ、カップル、サラリーマンと頭上に開ける麗しいピンクのトンネルを潜り抜け、花見を心から楽しんでいた。淡い紅に色づいた花吹雪の舞う中、私も桜巡り、神社の境内にあった、赤とピンクの混ざった品種には思わず見とれた。恥ずかしながら、赤い桜があるとは初めて知った私。どおりで緋桜というわけだ。日が落ちるころあいを見計らっていったん園内を出た私は、コンビニで日本酒とおつまみを買って戻った。そして手ごろな空き席を見つけて、石垣に腰を下ろすと、ワンカップ片手にびっしり花弁をつけたピンクの天蓋を愛でた。
夜になる前に引き上げたが、節電でちょうちんに灯が点らず、暗い中、LEDライトや、自家発電機を持ち込んで花見する豪のグループもいたようだ。が、立錐の余地もない例年に比べ、空きが目立ったことはいうまでもなかったろう。暗くてはせっかくの夜桜見物としゃれ込むこともできない。被災地で不自由を強いられている人たちを思うと、夜桜を肴に宴会というのもなんとなく後ろめたいものだ。自粛ムードの上野公園であった。

帰りはしのばず池から弁天様をお参りして戻ったが、池面にしなだれそうに重い花枝を伸ばす、その風流なこと、この辺はさらに人が少なく、ベンチに腰掛けてOLやサラリーマンらが缶ビール片手に満開の桜を愛でていた。

<2に続く>




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