インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

ベンガル湾季節便り/台風前の高波

2008-04-30 23:34:47 | 季節・自然
昨日からやけに波が高いと思ったら、今朝の新聞にオリッサ州にサイク
ロンが接近しているとの警報記事が載っていた。

           

実証するように、今夕浜に出たら、昨日以上の高波。盾のように盛り上
がった大波はごーおっとうなるような地響きとともに押し寄せ、連鎖反
応で海面下から奔流のように噴き上げ、空中に白い波しぶきを蹴散ら
す。当地暮らしが長い私も、これほどの怒涛を目の当たりにしたのは初
めてで、飲み込まれたらひとたまりもないなと、怖気を覚える。大波を
警戒して、汀からやや離れた背後に座ったつもりが、三角に盛り上がっ
た土手を十数メートル易々と侵食して、足元まで忍び寄ってくる。ひゃ
あーと思わず声をあげそうになって、後ろに飛びのいた。

                         

ほどなく、西の低空の雲の間から、オレンジの光輝の強い入日が顔を覗
かせた。黄味がかった橙に染まった灰雲は棚引きながら層を成して連
なっているが、少し上空には薄青い空が覗いて、オレンジとグレーを
ミックスしたようなまだら状の薄雲が散らばっている。東の空一帯は灰
色の薄雲で覆われていた。台風前でたしかに低気圧気味なのだが、夕日
が顔を覗かせたことといい、お天気は悪くない?

             

明るいオレンジ色の円は北寄りの後方の椰子の茂みに落ちていった。

ただ、波の荒さが常と違って、高く盛り上がって空中に豪快に弾き飛ぶ
さまから、やはり尋常でない陽気ということは容易に想像がつく。何十
万という被害者の出た前回の大津波では、危うく当地は難を免れたが、
南下したチェンナイ(マドラス)やマハーバリプラムなどは、死者が
出た。

     

かなり昔のことらしいが、プリーにも津波が押し寄せたことがあったそ
うで、メインロード近くまで水浸しになったと聞いたことがある。
折柄、ベンガル湾の侵食が問題になっている矢先でもあり、水面が確実
に何センチか上昇している昨今、サイクロンが多い地帯でもあり、やは
り津波への警戒は日頃から怠らない方がいいとの警戒を強めた私だっ
た。

                          


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現地紙トピックス/ホットな唐辛子も幼い姉妹にはクール

2008-04-29 23:50:31 | 食・健康
ちっちゃな子供たちがチョコレートやキャンディー、アイスクリームに
惹きつけられる年頃に、ゴダ区のバンガリシャイ村の一歳半の幼女とそ
の三歳の姉は、からい青唐辛子が大好き。
妹のトゥニは六ヶ月間青唐辛子を食べ続けて、いかなる不調も漏らさな
かった。姉のプニタはおよそ一年間、「ごちそう」を堪能し続けてき
た。

               

近隣の村人たちは姉妹の尋常でないからいもの好きを知って、ショック
を受けている。少女たちについて最も驚くべきことは、これらを食べ
て、しゃっくりしたり、涙すら流したりすることがないということだ、
と隣人は驚きあきれる。

                 


唐辛子を食べるコツは、父の農場から唐辛子をもぐ手伝いをしている二
人の間で競争が始まったことに由来していた。
10からスタートしたトゥニは次第に50へとアップし、今では一度に半キ
ロの唐辛子を食べれる。この界隈のゴダ地区と隣のガダリシュプル・
ジャナクデイプル地区は、唐辛子栽培で名を馳せているのである。

「私、一日に600mgの唐辛子を食べるの、プニタは400mgよ」
幼いトゥニちゃんは、唐辛子は私にとっての、甘味みたいなもんよと付
け加える。

          

父親のササックさんは、消費量は年齢をへるにつれ増えているので、こ
の分野で記録を作ってくれることを望んでいると語った。

前ゴダ・プラタプ・サフー地区長さんは、
「村には埋もれた才能がたくさんある、しかしその成果や業績は、知覚
・スポンサーキャンペーンに欠けるため、特筆されることはない」
と述べた。

                 

政府の認証は免れても、幼女たちは、このニュースが広まって以来、家
を訪れ続ける何百という村人たちの注目を集めている。

                           

(現地英字紙「The New Indian Express」、
プラディープ・4月28日付け)
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ベンガル湾季節便り/砕け散る波濤

2008-04-29 00:55:49 | 季節・自然
<4月28日>
このところ多忙で、浜に出れない日々が続いていた。とにかく日に一度
はベンガル湾を見ないと、ストレスがたまっていけない。今日は時間が
空いたので、いそいそ出かけた。六時十五分前に家を出たが、日はすで
に沈んでいた。が、数日ぶりに海を見たので、すっきり。

                  

オフシーズンの浜はさすがに閑散としていた。低気圧の薄曇りで、この
二、三日、暑さは若干和らいでいるが、潮風の吹きぬける浜は夕涼みに
もってこい。波の浸食で、汀は三角の傾斜状になっており、少し歩きに
くい。満潮気味の海は濁ったうぐいす色。大波が押し寄せ、弾け散るさ
まが雄雄しい。ふと、郷里の日本海の荒波を思い起こす。日本海の荒涼
さにはとうてい及ばないが、空中にパーッと弾けて波の華を咲かせる様
は、あたかも大ぶりの白蓮のよう。

                          

波の華というのは、日本海では厳冬に波が砕け散った際、氷結してでき
る華模様だが、こっちの波は氷結しなくとも、浄らかさにおいて引けを
とることはない。聖地の海、ガンジスがたどり着く聖なるベンガル海な
のである。

           

海上の空に浮かんでいる綿雲が残照にうっすらくれないに染まり始め、
海がほのかなピンクにきらめく。空はまたたくまに色を失い、淡紫色の
夕闇に沈む。浜につながれたらくだが淡いシルエットになって浮かび上
がり、彼方の西岸のホテル街の灯がぽつぽつ点り始めた。

                              


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盗癖お断り

2008-04-28 00:42:06 | 生活・慣習
残念なことだが、インド人には手癖の悪い人が多い。手癖とはつまり、
盗み癖、のこと。この二十年間、わが安宿を通り過ぎた使用人は数知れ
ないが、そのうちの数名は盗癖のある人で、判明した時点で即クビ、お
引取り願ったものである。幸いにも、これまでお客さんである旅行者に
被害が及ぶことはなかったが、私自身室内を彼らに掃除させていると
き、携帯電話(写真は現在私が使っているモトローラ社の折込みタイプ)
を二度も盗まれたことがあった。

                    

あまりにも見えすいた手口というか、事後チェックしたらすぐわかって
しまうのに、誘惑のままつい手を出してしまう心境がわからない。その
二度とも、夫がきつく問い詰めて一応戻ってきたことは戻ってきたが。
そのたびに私自身、うーん、いかん、こりゃ気を引き締めなくてはと、
おのれの無警戒ぶりを大いに反省させられたものだった。使用人に掃除
させるときは、貴重品を室内に置かないこと、金庫の鍵は持ち出すこ
と、これはインド在留者の常識。

というわけで、うちのホテルでは、客室の掃除は自己申告制となってお
り、必ず部屋の主が監視の下に行うようにしているのである。

使用人ばかりではない。

うちの息子など、ダージリンの寄宿舎時代、お金は無論、所持品まで何
度持って行かれたことか。衣類などの小物から始まって、MP3プレー
ヤーまで。本当に残念なことだが、子供や少年にわりと手癖の悪い連中
が多いのだ。まあ、うちの子も警戒が足りなかったというか、寄宿舎生
活を始めたばかりで勝手がよくわからなかったせいもある。そこをうま
く付け込まれたわけである。それにしても、同級生に盗人が混じってい
るというのは、なんとなく後味の悪いものである。これに懲りて、現在
大学生の息子は、ルームメートでも決して警戒を怠らず、所持品・金品
を厳重に管理するようになったことはいうまでもない(友人にまで、心
を許せないとはなんと哀しいことか! ああ、しかし、ここはインド、
なのである。これがまさしく、インドの苛酷な現実)。

                           

インドでは、他人を信用しないというのがある意味、鉄則ともなってい
る。それは親戚であろうと、同じこと。というわけで、暮らし始めた当
初は、不信感に陥り、地元民にも長いこと心を開けなかった(ホテル街
だけに、向こう三軒両隣商売敵、実際のところ社交辞令程度の付き合い
で親密な交流はほとんどなかったが)。

腹に一物というか、外見は愛想よくても、裏で何を考えているのかわか
らない不気味さがある。日本とは両極端なくらい価値観の違う異国人ゆ
え、それもしかたなかったと思うが、今では、経験からだいぶ寛容に対
処できるようになった。が、やはり面識のない人への警戒は怠れない。

          

カルカッタではよく、使用人が雇い主を殺害した上、金品を持ち去る事
件が発生している。身元のしっかりした人を厳選することが肝要なこと
はいうまでもなく、うちではなるたけ、田舎の素朴な青年を雇うように
している。

そういえば、ヨガセンターでも一度、ジムメートが携帯電話を盗まれた
ことがあったっけ。バスルームの脱衣所に携帯を仕舞い込んだバッグを
置いておいて、見事やられたのだ。これなど、現地女性といえども、如
実に警戒を怠った自業自得といえよう。
これだけ携帯が普及していると、持ってない人はつい所有欲を刺激さ
れ、悪いことと知っていて目の前にあるとつと手を出したくなってしま
うのだと思うが、この事件後、息子にはジムには絶対携帯を持っていか
ないようにと口を酸っぱくして言い聞かせたことはいうまでもない。

治安のよろしくないインドでは、盗難事件も頻発。ほかのホテルでのこ
とだが、貴重品一切合財持っていかれた哀れな旅行者がいた。TCは再発
行できるからなんとでもなるが、身分を証明するパスポートが盗まれる
と、本当に大変。列車強盗も多く、睡眠薬盗難の手口はごくポピュラー
(親しく口をきいてくる人には注意を払い、飲み物など勧められても絶
対手を出さないことである)。

                

当ホテルにも、列車盗難にあって、貴重品を奪われ、ほうほうの体でた
どり着いた旅行者がいた(ちなみに、日本大使館では一時的に現金も貸
してくれる)。盗難にあった人のショックは測り知れず、インドへの悪
感情が募るあまり、旅を続ける気力を阻喪してしまうほど。もしこれが
自分だったと思うと、やはり再発行不能の現金を大量に盗まれたなら、
相当ショックで、しばらく落ち込みから立ち直れないかもしれない。
(所変わるが、タイ在住の友人は、いかさま賭博で年月かけて大事にた
めた旅行資金250万円!全額、持っていかれた)。

                      

インドをこれから旅する人はくれぐれもご用心を!


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ダブルネームの利点

2008-04-22 23:47:06 | 私・家族・我が安宿
私は長いこと、自分の名前があまり好きでなかった。第一子に女児を授
かった父が喜んで命名した「三智江」とは、中国の故事、「三つの知恵」
に由来していることを、生存中聞いたことがある。それなら、なんで三
知恵でないのだと、長いこと腑に落ちなかったのである。知と智は同じ
意味だから許せるとして、最後のえを「江」という漢字にした意味がわ
からなかった。俵万智というベストセラー歌人(くしくも、同じ高校出
身)が出てからは、万の知恵にはとうていかなわないなあと、おおいに
気後れ感を覚えずにはいられなかったものだ。

             

最近とあるメルマガを読んでいて、日本では三というのはとても大事な
漢字とあって、「三人寄れば文殊の知恵」とのことわざを引き合いに出
して述べていた。そういえば、三大とか、三聖とか、偉大な要素はすべ
て三という数字に含まれるということだなあと思い当たる。三顧といえ
ば、三度ではなく何度も振り返るという意味。三=無限ということでも
ある。で、はたと悟ったわけ、そうかそうか、三というのは瑞兆のシン
ボルなんだなと。でも、最後の江がわからない。ふと揚子江を思い浮か
べ、うーん河かあ、なら悪くないなあと納得。辞書で当たると、江は
湾、とか、入り江とある。ついベンガル湾に直結、考えてみるに、この
江に深い意味はなく、当時の女児の名前の風潮が、最後の文字がえの場
合、江という漢字が多かっただけのことかもしれない。

                     

それはさておき、私自身、長いこと、こうした漢字を当てるのは、私の
みで、日本国中捜しても三智江という名はただ一人しかいないと思い込
んでいた。何せ、ほとんどの人がこの最初の漢字、三を美、と間違える
のだ。美智江とか美智恵と誤って記述されてしまうのだ。あのー、わた
し、美しくないんですけどーという苦い思いをそのたび味わってきたも
のだった。

               

そういやあ、三智江という名前はほんとうに日本国中ただ一人なのだろ
うかとふと疑問に駆られた私は、早速ネットを当たってみた。すると、
出てくる、出てくる、私以外にも数名、唖然、であった。ただし、姓と
マッチさせれば、やはり日本全国唯一ということになるけど。なあんだ
という感じ。私一人のユニークな名前と勝手に決め込んでいたのだが。
ちなみに、「荒木三智江」で検索すると、「モハンティ三智江」で出
た。これはいうまでもなく、本を書いたせいである。でなければ、社会
的に無名の一人(いちじん)を検索して、出るわけがない。一冊本を書
いただけでも、ネットに乗るのだから、その威力はたいしたもんであ
る。
       

さて、女性は結婚すると、いまさらいうまでもないが夫の姓に変わる。
今は旧姓も認められているようだが、たいていは夫姓を名乗るのが、
日本では習わしとなっているはず。いったん姓が変わると、旧姓は捨て
たも同然となって、独身時代の友人に連絡をとるときカッコ付きで記述
するのみで、普段は新姓で通すのが当たり前。
が、私は例外で、国際結婚したため、巷間に通用する二つの名前を持つ
ことになった。カタカナ姓がこちらでは一般的だが、実は、今なお日本
国籍を保っているため、戸籍上は旧名のままなのである。で、荒木姓は
いまだに健在、堂々とまかり通っている。何せ、申請書などの署名は必
ずMichie Arakiだし、日本領事館との交流においても、荒木で通してい
る。が、国際結婚者と一目瞭然に判明するカタカナ混じりの名前はペン
ネームとして使うにはなかなか便利で、インド関連のノンフィクション
記事を発表するときは、モハンティ三智江を使うのがいつとはなしに習
わしとなった。

なにやら姓名判断によると、このモハンティ姓とは、億万長者になる強
運を持った大吉名とかで、ほんとかなと半信半疑ながらも、にんまり。
私同様、息子も無論、二つの名前を所有、日本の戸籍上は「荒木サミー
ル理秀」となり、インド名は「サミール・リシュウ・モハンティ」であ
る。
インドで生まれ育った息子が常日頃使用するのは無論カタカナのみの後
者。しかし、パスポートが日本国籍なので、サインだけは、何かと使う
機会が多いため、一応日本語特訓しておいた。漢字の書き順がめちゃめ
ちゃだけど、なかなか様になった日本名を書けるようになった昨今であ
る。

                  

*    *    *

★コラム
印パ国名をもつ兄弟

印パボーダーに住む大工の幼い兄弟は、兄が「バーラト」(インド)、
弟が「パキスタン」というまれな命名で、話題を呼んでいる。シク教徒
というこの大工さんは1984年のゴールデンテンプル暴動事件で同教徒が
多数殺戮されたことを憂え、平和の祈りを込めて名づけられたとか。
バーラトはともかく、弟のパキスタンは当初、村人の揶揄の種でもあっ
たそうだが、今ではみなに受け入れられ、そのユニークさが村外にも知
れ渡って、しきりに話題を呼んでいるとか。

仲のいい兄弟を真似て、長年犬猿の仲だった印パ関係も改善されること
を祈るばかり。

                           



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35年後のメール

2008-04-19 23:33:04 | 私・家族・我が安宿
<4月19日>
昨日、ホテルのホームページの問い合わせ欄をチェックしていたら、
「連絡のつかない同窓生を捜しています。荒木三智江さんについて心当
たりがあったら、ご連絡ください」とのメールが、なんと、福井県立藤
島高校時代の旧クラスメートから入っており、びっくり(ちなみに、荒
木とは私の日本姓)。
 
                     

旧姓Kという名前から大柄な男子生徒の姿形がおぼろげに浮かび上がっ
たが、なにせ、35年も前のこと、そのイメージがご本人と一致している
や否や、はなはだ心もとない次第。とるものもとりあえず返事を送った
ところ、今日のメールで高校二年時の級友だったことが判明した。

遠い記憶をさかのぼると、二年生と三年生はクラス替えせず、担任教師
が変わっただけのような記憶があるのだが、Kによると、一年生と二年
生はほぼ同じ顔ぶれだったので、もしかして一年生でも同じクラスだっ
たかもしれないと言う(そうかなあ? 私の記憶では顔ぶれが全然違う
のだけど)。
自分の記憶を頼りにすると、この二年(そして三年も)七組というのは、
なかなかユニークなクラスであった。一番の思い出は修学旅行で、なん
とわがクラスの男子生徒たちはこっそり喫煙・飲酒して見つかってしま
い、あとで指導教官に大目玉、全校生徒の居並ぶ講堂で「わが校始まっ
て来の不祥事」とヒステリックな声で叱責され、なんと二週間の停学処
分を食らってしまうのである。

                

藤島高校といえば、当時名だたる進学校で、東大にも毎年十数名送り込
んでいた名門校、その名声に恥じる忌まわしき違反行為を、わが二年七
組が犯してのけたと、大騒ぎになったものである。担任の先生は男泣き
に泣いて目を真っ赤に泣き腫らし訓戒、さしもの豪傑たちもしゅん、翌
日から男子の机のみいっせいに空席となり、非常に寂しい思いをしたこ
とを今でも覚えている(ひそかに思慕を寄せていた男子生徒が二週間も
不在なのに、私は切ない胸のうずきを味わったものだった)。

      

おりしも、日本人旅行者が置き残していってくれた「夜のピクニック
(恩田陸、2004年本屋大賞受賞)を読んでいたさなかで、自分の高校時
代を懐かしく思い出していた節でもあった。ちなみに、同書は、夜を徹
しての歩行祭というイベントに、高校生活最後の思い出を託そうとする
主人公たちを描いたもので、超お薦め。最初は、十歳も年下の著者が書
いた会話だらけの小説なんてと、多少偏見から入ったが、読み進めるう
ちに恩田ワールドの虜になってしまった。作中「北高」とあるが、居所
は明らかにされてはいない。イメージとしては北海道くらいを想像して
いたのだが、著者の経歴を見ると宮城県生まれとあった。

日中と夜、休憩を挟んで一日八十キロというハードな行程をこなす歩行
祭なるイベントが現実に存在するとは思われないが(日中だけのものな
らあってもおかしくないが、夜じゅうというのはおそらく、作者の創造
ではないか)、わが校の長距離マラソンに漠然と重ね合わせたりして、
郷愁が募った。夜の歩行に入ると、著者お得意の虚虚実実とした、現実
と幻の境のようなファンタジックな描写も飛び出し、その非現実感がま
た、異母兄妹でありながら一言も口をきかずに通してきた男女同級生
が、この最後のイベントを通して、周囲の友人の助けを借りて、和解す
るという筋書きを活かしている。

              

それはさておき、K君には、二十年以上インド滞在という当方の居所を
突き止めるまでに大変な労苦をおかけしてしまったようで、恐縮するば
かり。ネットで調べて、モハンティ三智江が出たので、ホテルのホーム
ページをチェック、問い合わせ欄にメールを打ってみたというような顛
末だったらしい。みちえという名はちっとも珍しくないけど、私のよう
な漢字を当てるのは多分、日本国中捜してもただ一人という気がするの
で、うまいこと当たったのだと思う。どうやら、年に一度の割りくらい
で同窓会を催しているみたいで、帰国の日程さえ合えば、私も一度くら
いは、かのつわもの二年七組の同士が集う席にお邪魔したいものだと
思っている。光陰矢のごとしで、みんな、いいおじさん、おばさんに
なってるだろうだけど、いっしょに青春した仲だもんね。母校からは有
名人もたくさん出ているので(故竹内均氏、俵万智さんなど)、功なり
名遂げた人も多いかもしれない。

最後にワンサアゲイン!
35年ぶりの懐かしい、懐かしいメール、K君、ありがとう!!!

                        


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カシミール民話/残酷な継母

2008-04-16 01:24:34 | 現地語&民話
昔、一人のブラーミンとその妻が大変幸福な歳月を過ごしておりまし
た。ある日、ブラーミンは妻に、彼が食べないうちは、彼女も何も食べ
ないようにと命じました。もし食べたら、山羊になろうぞ。妻も同様に
夫に、自分なしで夫に何も食べないようにと言い渡し、もし食べたら、
虎になろうぞとおどしました。
この約束を取り交わした後、何日もが過ぎていきました。ある日、夫が
家にいないとき、妻は二人の息子の食事のためにこしらえていた料理の
味加減を知るため、少し口に放り入れました。たちまち妻は一匹の雌山
羊へと姿を変えてしまいました。彼女は家近辺のあちこちを飛び回りま
した。そのとき、夫が戻ってきました。山羊を見て、すべての事柄を悟
りました。例の約束を破ったため、山羊になったのだと知りました。
彼女を引いて、家の裏の一角につなぎ留めました。

数日後、ブラーミンは再婚しました。彼の二番目の奥さんは、しかし大
変悪らつな性分でした。育ち盛りの子供たちに少量食物を与えるのみ
で、充分に分けないほどの残酷さでした。子供たちのおなかは膨らま
ず、次第に不健康になってやせ衰えていきました。これらのことを山羊
になった生母は知りませんでした。
ある日、彼女はひとりの息子を近くにひそかに呼んで、棒で自分の角を
振ってつつけば、大量の食物が落ちてくるだろうと申しました。おかげ
で、息子たちはおなかはいっぱい食べることができました。子供たちは
空腹になると、このようにして十分な食物を得ることができました。彼
らの体調は改善し、とても健康でたくましくなりました。

                

ブラーミンの二番目の妻はそのうち、一人の娘を産みました。ブラーミ
ンは娘を大変慈しみ、よく世話をしました。次第に娘は大きくなりまし
た。外に出てほかの子達といっしょに遊びました。母は彼女に兄たちが
いつ何を食べてるか注意して見て、あとで話すように申しました。
娘はある日、息子たちが山羊のそばに行って、食物を得ているのを目撃
し、戻って母に告げました。彼女の母は残忍な性格でしたので、山羊を
殺すことに決めました。

ある日、ブラーミンが家に戻ってきたとき、仮病を装って言いました。
ベッドで寝ながら、痛みに苦しんでいる振りをしました。ブラーミンは
村のアユールヴェーダの医者を呼びました。妻は医者に賄賂を与え、わ
たしの病気は山羊の肉を食べればよくなるだろうと言うようにと、悪知
恵をつけました。医者の言葉を聴いて、ブラーミンは大変困窮しまし
た。外で一匹の山羊を買うための充分なお金がなかったのです。それで
妻の病気を治すために、家につないであった山羊を殺してマトンカレー
を作るしかないかと考えました。

                      

このことを知った息子たちは山羊の母のもとに行って、告げました。子
供たちが大変悩んでいるのを見て、母山羊は言いました。
「私は、山羊のままの姿でいたくないんだよ。やつらは私を殺せばいい
さ。お前たちはわたしの二本の角をとある場所に埋めなさい。誰にもこ
のことは言ってはならないよ。誰にも知らせてもいけない。お前たちが
空腹のときにはいつでも、この場所に来て食事を懇願すれば、手に入れ
られるだろう」
このあと、ブラーミンは一人の男を連れてきて、山羊を殺しました。彼
女の肉を料理し、妻に食べさせました。息子たちにも少量与えました。
ブラーミンの娘はこうしたさなかにも、次第に美しい娘に成長していき
ました。
                                 

ある日、娘は近くにある川に水浴びに行きました。水浴びしていると
き、鼻につけた金の鼻輪が水に滑って落ちました。そのとき、近くにい
た魚がそれを飲み込みました。川では一人の漁師が魚を捕まえていまし
た。その魚は漁師の網の中に落ちました。その国の王の料理人がその魚
を買いました。切り分けているとき、腹から金の鼻輪が出てきました。
料理人は即座に取り上げて、王に与えました。王は金の鼻輪を見て、州
内を回って、お触れを告げました。
「金の鼻輪を保管している。心当たりのある者は誰であろうとやって来
て、引き上げていくように」 
と知らせました。この事柄について知った、ひとりの息子が出向いて、
王に申しました。
「それは、水浴び時、うっかり水中に落としてしまった、どうやら妹の
金の鼻輪のようです」

             

王はそれで彼の妹にやって来て確認するように申しました。ブラーミン
の娘は出かけました、彼女の美貌を目の当たりにし、王は即座にプロ
ポーズしました。ブラーミンは大喜びし、娘を王と結婚させました。王
も、ブラーミンに使い切れないほどのお金と財産を与え、その後、みん
なで末永く幸福に暮らしたとのことです。

                             


※出典/カシュミーロ・ロコター
(カシミール地方の民話<オリヤ語>) 
著者/フルロラー・ナーヨコ

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現地紙コラム/水か紙か

2008-04-15 00:52:39 | 生活・慣習
NRI(Non-Resident Indian)、在外インド人をやじったり、興奮させ
たりするに最も容易な方法のひとつは、にこやかな会話のさなか、だし
ぬけに「あなたはトイレのとき、水で洗いますか、それとも紙で拭きま
すか」と尋ねることだと、最近私は発見した。この質問は無論、母国に
も向けられる。われわれ国民はみな、水か紙かが、愛国度を測る規準で
ないことは百も承知しているが、それはわがNRI友人のうろたえに
よって、まさしくそうなりうる。

                

インド式発音の特徴ある巻き舌の強いrがかたまったzhになる西洋生
活への実験的転換にも似て、舌と尻の間には長年のカルチャーの順応・
適用、世界観の大陸に対する変遷が横たわっている。

よりよく順応している一例を挙げよう。カナダに住むヴィヌ・ワリア氏
は、水か紙かのジレンマは、ダイアスポラ(離散インド人)のもっとも
隠された問題であると主張している。彼は、二重国籍者は常に最初に紙
で拭いて、あとでバスタブで水で洗うことによって二つの国籍を持つこ
とをおのずと主張しているようなものだとのたまう(打ち明けてくれて
ありがとう、今度訪問するときは、バスタブで体を伸ばさないようにし
ます)。わたしの叔父は、インドでは水で洗い、アメリカでは紙で拭く
ことを認め、オーストラリアに暮らすサトゥヤ氏は、水で紙を湿らせ、
ウエットティッシュとして使用することを告白した(二重国籍者の資格
充分)。

                     

少し複雑な人たちの例に移ろう。ボストンに長いこと居座っている
(s(h)itting,排便し続けている)ラガヴァン氏は紙か水かの質問に答
える前に、インドのトイレの惨状にぴりっとシニカルな独白を吐く。彼
は盛んに力説する。
「西洋のトイレは、旅行の後、お尻はやや清潔さに欠けるものの、イン
ド式では、トイレに入るとき、しきりと汚物を踏むや否やに気をつけな
ければなりません。だから、お尻にちょこっと自分の便をつけたままに
しとくか、他人の便を足につけるか(無論手にすらありうる)のどっち
かを選ぶとしたなら、私は前者を選びますよ。理性的な人間なら誰でも
そうするであろうようにね。だから、この問題は簡単に解決がつくじゃ
ないですか」

            

ロンドンのパビトゥラさんはインドのトイレの状態について論議しなが
ら、のたまう。
「新たに獲得したインドの経済繁栄にもかかわらず、われわれは、祖母
から受け継いだトイレで、錆びた鉄のバケツをほうり捨てることを非常
に厭うように思われます。しかも、あなたは、前の人が排便したあと、
洗ってない手でバケツを持って、水滴の垂れている蛇口に戻すのを確信
しているはずです。だから、紙の方が断然きれいで、ドライだし、否定
しようもなくよいですよ」
と、結論づけた。

ルミは初のインド訪問に関して、代表的なパンジャブ料理をたった一回
食べた後で、宣言した。
「なぜ水なの。インドでは氷が必要よ」
舌の炎のような辛味が減じた後、彼女はインドのバスルームにおける新
くふうについて笑いをこらえることができなかった。
「ミニシャワーホースはほんとひと騒動だったわ。この発明は明らか
に、バスルームの床をドライにしておくためのものらしいけど、わたし
の叔母は完全に用途を誤ってね。西洋からやってきただけに、叔母は床
にうずくまって、腹部と顔に撒き散らす羽目に終わったのよ。最終的に
それがなんであるか見出す前に。おお、何たること、紙の方が断然神様
の贈り物だわ」
水か紙かの問題は、NRI諸氏の祖国に対する愛と軽蔑、その生活様式
に関する汲み取り棒研究のようにすら思える。

トイレットペーパーは、単に普通のティッシュではないのではないかと
思う。それは、わがはらからを異国の風土へとつなぐ最後のへその緒で
もある。彼らの郷里とのへその緒を断ち切るフィラメント、その先は、
わが兄弟をインドの羊水膜から隔絶させる線が引かれている。

水か紙かのジレンマを越えて、偉大なるNRIの抱負、わが良友ラガ
ヴァン氏が洋の東西問わず夢見ていることは。
「ときどき私は脇に巻紙を置いて、我が家の粗末なトイレの便座に座り
ながら、すべてのトイレが、めいめいのお尻が来るたび、自動的に水を
撒き散らし、乾かし、パウダーをはたき、好ましくパタパタやってくれ
る日が来るのを夢見ているのですよ」
いまこそ、わたしたちは在外インド人の胸の奥底に横たわる本音を知っ
た思い、あるいは、NRIの尻の底にとでもいうべきか。

ジャヤ・マダヴァン(詩人・児童文学作家)
(現地英字紙、「The New Indian Express」、
2008.4.12付けの読み物記事から引用)

*    *    *

※コメント/わたしの場合

水か紙か、在印生活二十年余になる私のケースは?
ご想像のとおり、紙、です。
幼時期から母国で培った習慣は容易に変えがたいもの。昔はトイレット
ペーパーも観光地でないと、入手不可能で、当地には幸いにもストック
はあったが、粗悪製で太いダンボール状の芯に申し訳程度に紙が絡みつ
いた上げ底だった。さすがに、近年は質が向上し、ミシン目の入った柔
らかい紙質のものも出回るようになった。値段はいまだに高くて、当地
で1ケ30ルピー(75円)。

水の方が清潔なことはいうまでもないが、女性の場合は外出したときな
ど、事後下を濡らしたままにしとくわけにもいかず、不便。びろうな話
で恐縮だが、インド女性は外では自然乾燥させている様子。サリーだ
と、いまだに下穿きを着けないので、暑い国だけあってとくに支障はな
いようだ。
夫も息子も無論、水派だが、トイレで大のときは必ずタオル持参。

将来外国に出ないとも限らない息子に、紙の使い方も教えとかなくちゃ
と思っていた矢先、ちょうどいい案配にダージリンの寄宿舎生活で覚え
てくれた。向こうは水不足で、洗う水そのものが足りないせいで、学校
側は生徒にトイレットペーパーを使用させて、乗り切っていたのであ
る。

        

列車のトイレは私の大の苦手とするところ。不潔なことは無論、換気扇
がないので、悪臭がこもり、耐え難い。豪傑インド人は真っ赤な汁の噛
みタバコを吐き出したり、酒を飲んだり(一応禁止されている)、果て
は水浴びまでしちゃったりと、すごい。早朝はみながいっせいに大へと
繰り出すので、床をよく注意してみてないと、その残骸があったりし
て、ぎょっ!
私は列車では自然、便秘になってしまうのである。苦肉の自衛策。

                       

やっぱり、上記NRIの夢でもあるトトのウオッシュレットが全世界くま
なく普及すれば、一番ということかな。

                             






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リキシャ礼賛

2008-04-13 23:44:41 | 生活・慣習
私はサイクルで引いていく人力車の大ファン。最近は、オート三輪車の
オートリキシャに押され気味とはいうものの、当地プリーではいまだに
庶民の足として活躍。
なんといっても、ゆっくりスピードで路上の風景を楽しめながら行ける
のがいい。リキシャワラー(車夫)の常でぼってくるのが大半だが、現
地語で交渉すると、意外とローカルプライスにすんなりまとまり、にか
り。たーまに、実直な車夫がいて、通常料金を下回る値段で行ってく
れ、申し訳ないくらい。
プリーのシンボル・ジャガンナート寺院のあるグランドバザールまで
は、3キロほど離れているが、通常料金はサイクルなら20ルピー(オー
ト30)。が、これまで数回15ルピーで帰ってきたこともあった。

           

玉に傷なのは、車夫の中に飲酒して酒臭い息をぷんぷん漂わせているや
からがいること。夜だと、いくら自転車とはいえ、ふらふら運転で危
なっかしく、たまに絡まれたりすることもあって、ああ、今日は悪いの
に当たったと不愉快になることしきり。
スロースピードでオープンのため、横合いを駆け抜けるバイクスリに
バッグなどを持ち去られる旅行者もいるほど。

                                

私は大抵、害のなさそうな初老の車夫を選んで乗ることが多いが、老齢
のため歩いた方が早いのではと思わせるほど、超スロー。急いでいると
きなど、いらいらしてしまうが、オートは今ひとつ乗る気になれない。
ビニール革の座席もごつごつしてお尻に痛く、乗り心地は決して快適と
はいえないが、しょっちゅう利用させてもらっている。
ヨガスタジオに通っていたときは、南隣のアンドラプラデシュ州から移
住した初老のおじさん車夫を専属で雇っていた。性格のいい安心できる
好々爺で、重宝したものである。

                        

シーズンに突入すると、運賃は跳ね上がり、インド人旅行者までぼられ
るほど。当東の浜一帯のホテル街は客を引いてきた車夫に半日~一日半
分の手数料を払っているため、意図したホテルと違った別のホテルに引
いていかれることもしょっちゅう。旅行者はよっぽど注意してないと、
希望の宿泊先に連れて行ってもらえない。これは、ローカル旅行者であ
ろうと、同じこと。

                                

若いお兄さんはさすがに力があり余っているだけあって早いのだが、あ
まりに超スピードだと、年配のこちらの身がつらい。でこぼこ路など、
気をつけてゆっくり渡ってくれる人が多いのだが、乱暴運転で座席から
体ごと飛び上がることもしばしば。早いけど高めの値段を言ってくる
し、若いのはもっぱら敬遠させてもらっている私なのである。坂道にな
ると、大抵シートから降りて手でよっこら引いていくが、若い人の中に
は降りずにそのまま引いていく力持ちもおり、おおすごい!とうならせ
る。

    

いずれにしろ、ハードな肉体労働であることには変わりなく、お年寄り
だと、ひいこら引いていく背中を見ているだけでそこはかとない憐憫が
こみ上げてくるが、かといって商売繁盛のためにも、どんどん乗ってあ
げたほうがいいのである。
まだ十代初めの少年車夫もおり、これはさすがに痛々しい。
私が旅行者だったその昔、レストランで働いていたティナという13歳の
少年が、店を辞めてリキシャを引き出したいきさつがあった。よくうち
のホテルにもお客さんを連れてきてくれたものである。さすがに幼い身
で引いていく彼のリキシャには、私自身乗る気になれなかったが。

         

カルカッタでは、昔ながらの時代がかった人力車がいまだに足として利
用されているが、最近さすがに廃れつつあり、州政府が廃止するらしい
とのうわさもある。私たち家族はよく近場の映画館に行くときや、洪水
時、三人まとめて乗っかって申し訳ないけど利用させてもらっている。
旅行者など、あふれ出した茶色い渦の中に足を浸して平気で行くが、不
衛生だし、でこぼこ路でゴミもたくさん落ちているので、怪我をすれば
細菌感染が危ぶまれる。安宿街サダルストリートは雨季ともなればすぐ
路上に水が溢れ出してしまうので、これ幸いとばかり、人力車は通常料
金の倍吹っかけて、お客さんを引いていく。すぐ目の前のレストランま
で10ルピーもとられたこともあった。

                

                             
カーブームの昨今、都会ではとくにオートリキシャやタクシーに押され
気味の人力車だが、ファンの一人として末永く生き残って欲しいとひと
えに祈るばかり。

                                  



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現地生活ダイヤリー/サリーに挑戦

2008-04-12 01:04:47 | 私・家族・我が安宿
<4月11日>
今日は久々に、サリーを物色しにバザールに出た。向かうお店は、ア
シュラム・ヨガメートのブラジャが家族経営する「パドマ」。
当地プリーのグランドバザールの外れに近年オープンしたお店はビルの
2階にあり、広々とした清潔なフロアの明るい雰囲気。サリーコーナー
と、サルワールカミーズ(パンツスーツ)のコーナーに分かれており、
タオルやベッドシーツ、ヨガマット類も売られている。

いつもは奥のパンツスーツコーナーにまっすぐ行く私だが、今日は入り
口付近のサリーコーナーへ。実は一昨年、ここで紫に近い杏色のクラ
シック模様のサリーを購入したのだが、共布で作ってもらった中にまと
うブラウスがちんちくりんで、ついに一度として外で試すことなく終
わったいきさつがあった。チュリといわれるこの短い丈のブラウス、え
りぐりは大きく空きすぎているわ、丈は胸の下と短すぎるわ、ほとんど
ブラジャーといっても変わらない露出度で、若い頃ならまだしも、日本
人の私には恥ずかしくって着られたものじゃなかったのだ。ブラウスを
作り直してもよかったのだが、前回帰国したとき土産として母にあげて
しまった。ちょっと着物の模様を思わせるインドの伝統的なデザインな
ので、気に入ってもらえたようだった。

                 

それ以来、サリーを一着も持ってない私は、甥の結婚式のときにも、既
婚夫人にもかかわらず、パンツスーツで通し、親族女性の笑いものにな
るも、平然と通してきたのだが、先般の邦人会で、在留女性の一人がそ
つなく着こなしているのを見るにつけ、俄然闘志を燃やし、マスターす
るぞー!と意気込みを新たにしたのだった。彼女が着こなしていたの
は、黒がベースのオリッサ特有の絣模様でシックなデザイン、ブラウス
も、首元までの丸襟、丈も長めで、そでは半丈のパフ。で、私もこのブ
ラウスなら、着れそうと、今回は店に細かく注文をつけることにしたの
であった。

   

最初はコットンコーナーをチェック、藤色地のオリッサ特有の古典模様
のデザインがわりと気に入ったので、取り置き(割引料金612ルピー)、
次に化学繊維コーナーへ。店の人が見せてくれるのはどれも、スパン
コールや金糸銀糸付きの安っぽいデザインで、インド人でない私には今
ひとつ。
もう少しシンプルなものはないかと、色とりどりのサリーの納まった棚
を物色していたら、紺のジョーゼット地にピンクや黄、緑の小さな輪状
の絞り模様と金糸の小花刺繍が全体に散らばった、布の端がろうけつ染
めに似たデザインに流されているものが目に付いた。
真夏で暑いし、薄く透ける素材は軽快で快適、デザインもかわいらし
い。
何より、紺色がベースだから、年配女性には派手にならず、落ち着いた
感じ。色はわりと白めのほうなので、肌色も惹き立つと思った。
さらに物色し続けたが、結局これ以上のものは見当たらず、特別にお安
くしてもらって、ブラウス付き470ルピーで購入。上質のサリーだと、
最低でも2000ルピーはするのだが、練習用としてはこのくらいが格好。
あとで着こなせるようになったら、徐々にシルクとかにもトライしてい
きたいと思っている。何せ今は蒸し暑いので、かさばる厚手のシルクは
暑苦しくてかなわんという感じ。

            

ブラウスは同色にするのが一般的だが、私は薄めの藤色っぽい布地を選
び、前出のようにデザインに細かく注文をつけた。メーキングチャージ
は50ルピーくらいとのことなので、計520ルピー。なかなか悪くない買
い物だと、にんまり。

                   

購入後、久々に顔を合わせたブラジャのご機嫌伺い。西の浜の外れにあ
るバーラト・ヨガケンドラ(インドヨガ協会)のアシュラムにも長いこ
と行ってなかったので、近況を伺う。現在、インストラクターとして、
ジャメシュワル師(香港でヨガ教師として活躍中)と個人的に親しいヨ
ガのプロフェッショナルが早朝レッスンを授けているとかで、参加する
よう誘われた。
午前6時半と早いので、朝が苦手な私は最初渋っていたが、新インスト
ラクターは師に優るとも劣らない有能な技能の持ち主というので、その
うち折を見て必ずと、約して別れた。

                         

*     *     *

翌朝、明るい光の下で改めてサリーを点検してみると、予想以上によ
くて、うきうき。早速服の上から体に巻きつけてみたが、サリーの端が
ろうけつ染めに似た、ピンク、黄、緑が渾然と入り混じった模様に染め
られていてエスニック。まさしく、わたしのような外人向き。姪にもう
一度初めから教わりなおして、セレモニーなどの外出の機会があればぜ
ひ試してみたいと、今からワクワク胸躍らせている。

                               

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