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アジアの歌姫(動画)

2014-12-28 19:56:57 | 私の作品(掌短編・エッセイ・俳句)
アジアの歌姫ともてはやされた故テレサ・テン、42歳の若さで逝った伝説の歌手の透明な歌声をお届けしたい。
つぐない、時の流れに身をまかせ

以下に、母国・中華民国と中華人民共和国に引き裂かれ、波乱の運命を辿った美貌の歌姫の短い生涯を、ウイキからかいつまんで紹介しておく。

「テレサ・テン(Teresa Teng、1953年1月29日 ‐ 1995年5月8日)、中国名:麗君(デン・リージュン)、は、台湾出身の歌手。台湾のみならず日本、中国、香港、タイ、マレーシア、シンガポール、北朝鮮等でも絶大な人気を誇り、「アジアの歌姫」と呼ばれた。

1953年、中華民国(台湾)の雲林県で生まれた。両親は、1949年に中国本土での内戦に敗れた蒋介石とともに移住してきた約50万の外省人たちの中の一組だった。父親は軍人で、三人の兄と弟一人という男兄弟に囲まれて育った。
10歳の時、ラジオ局主催の歌唱コンテストで優勝。天才少女として注目を集め、14歳の時にプロ歌手としてデビューする。16歳の時、主演映画が製作され、女優デビューを果たす。その後、シンガポールやタイ、マレーシアでも人気に火が付き、18歳で香港でもレコードをリリース、アジアのトップスターとなる。

1973年、香港で「日本の父さん」と呼ばれる舟木稔(のちの彼女の所属レコード会社トーラスレコード社長)は、アジアでのテレサ・テンの人気に目を付け、足繁く台湾や香港に通ってテレサと両親を説得。当時勤めていた「日本ポリドール」(現ユニバーサルミュージック)との契約を実現させる。
1974年、21歳の時に日本での歌手活動を開始する。すでにアジアのスターだった彼女は、アイドル歌謡曲路線の「今夜かしら明日かしら」により鳴り物入りで日本デビューを果たすが、売れ行きは思わしくなく、不発に終わった。そこで演歌歌謡曲路線に転向したところ、日本でのデビュー2作目となる「空港」が大ヒットする。第16回日本レコード大賞新人賞を獲得して日本でもトップ・スターの仲間入りを果たし、歌手活動も軌道に乗った。その後も香港を拠点に台湾や日本などアジア各地を行き来する多忙な日々を送る。

1979年2月、本来の台湾のパスポートではなくインドネシアのパスポートで来日しようとしたため、旅券法違反で国外退去処分を受ける。当時、1972年の日中国交正常化の影響で日本は台湾とは国交を断絶していたため、台湾のパスポートでは入国の際に非常に煩雑な手続きが必要だった。そこで彼女はインドネシアのパスポートで「エリー・テン」という名前で入国していた。舟木稔によると、「当時の台湾の著名人(歌手や芸能人を含む)は、皆インドネシアのパスポートを所有していた」という。パスポート自体はインドネシア政府筋による正式なもので、決して偽造パスポートではなかった。そのため、事件としては白黒はっきりしないグレー決着となり、彼女は1年間の国外退去処分となった。中略…

80年代には中華人民共和国でもテレサの歌のコピーが出回るようになり、「昼は小平、夜は麗君(テレサの中国語の芸名)が支配する」とまで言われるようになった。
1984年、日本の音楽ファンの強い要望もあって、再来日が許可される。レコード会社もポリドールからトーラスレコードに移籍、荒木とよひさ作詞・三木たかし作曲の「つぐない」で日本再デビューを果たす。「つぐない」は有線放送を通じてじわじわと人気に火が付いて大ヒット、日本有線大賞など数々の賞を受賞する。翌1985年にリリースした「愛人」(動画)も再び荒木・三木コンビが手掛け、大ヒット。この曲で第36回NHK紅白歌合戦に初出場を果たす。「愛人」は有線放送のリクエストチャートで14週連続1位。

1986年、荒木・三木コンビによる三曲目となる「時の流れに身をまかせ」をリリース。これも大ヒットとなり、紅白に二年連続出場する。「つぐない」と「愛人」は、それぞれ日本で150万枚、『時の流れに身をまかせ』は200万枚を売る大ヒットとなる。1984年から1986年にかけ、『日本有線大賞』および『全日本有線放送大賞』の東西有線大賞で史上初の3年連続大賞・グランプリを受賞。1985年12月には、彼女のソロコンサートとしては最後となるが、最大規模の演出をこらしたNHKホールコンサートが開催される。この時の歌唱は彼女のライブ公演の中でも最高の水準のものとして高い評価を得ている。1986年、改革開放路線を進める中国でテレサの歌が事実上解禁され、中国での人気が再燃。コンサートのオファーも届くようになり、同時期に米タイム誌によって世界7大女性歌手の1人に選ばれた。
1987年、住居を香港に移すのと同時に、日本以外での歌手活動をほとんど休止するようになった。

1989年5月27日には、かねてから中華人民共和国内で起きていた民主化要求デモを支援する目的で行われた、香港ハッピーヴァレー競馬場での中華人民共和国の民主化支援コンサートに参加。約30万人の前で、平和を願う「我的家在山的那一邊」(私の家は山の向こう)を歌い、亡命した民主化活動家とも交流を持った。しかし彼女の願いはかなわず、北京で天安門事件が起きてしまった。1990年に予定されていた、彼女の夢であった両親の生まれた中国本土での初のコンサートも中止になった。当時、その心境を「夢は殺され、夢は見ることさえできなくなってしまった」と語っている。


1989年、アジアを離れて単身、フランスのパリに移り住む。中国への思いをさらに深めるようになり、1992年に中国で広く愛されている「夜来香(イェライシャン)」を新たにレコーディングする。この頃、喘息を悪化させ、次第に体調を崩していく。1990年以降は表舞台からも距離を置き、日本を訪れることもまれになった。日本での最後のテレビ出演は、1994年11月に放送されたNHK『歌謡チャリティーコンサート』(仙台市にて公開録画)だった。

1995年5月8日、静養のためたびたび訪れていたタイ・チェンマイのメイピンホテルで気管支喘息による発作のため死去。42歳の若さだった。富と名声を得ながらも、晩年は孤独な独身生活を送っていた。同月28日に台北で国葬が執り行われ、世界各国から3万人ものファンが詰め掛けた。彼女の棺は中華民国の国旗と国民党党旗で覆われ、台湾での国民的英雄ぶりがうかがえた。中略…


台湾での彼女はあまりにも偉大なので、遺体は火葬されず、エンバーミングなどを施されて土葬された。没後50年は生前の姿であり続ける。なお、台湾でこのような形で眠っているのは、蒋介石、蒋経国、テレサ・テンの三人だけである。
2009年8月、中国政府系の総合インターネットサイト「中国網」が新中国建国60周年を前に行ったアンケート調査で、彼女は新中国で最も影響力のあった文化人に選出された。
2013年5月、中国・北京でテレサ・テン生誕60周年記念コンサート「追夢」が行われ、中国や台湾から集まった人気歌手たちが彼女の歌を歌った。中略…作品の累計売上は、控えめに見積もっても1億枚を超えるという。

テレサは外国語にも堪能であり、北京語に加えて台湾語、広東語、日本語、英語に堪能で、山東語、マレー語、フランス語などの言葉も話せたと言われる。日本でリリースされた曲は約260曲ほどであるが、中国語でリリースした曲は1,000曲を越す。中略…

1990年代に日本をはじめとするアジア各国で二回ほど彼女の死亡説が流れたりもした(一度目は1990年5 - 6月に父親の葬儀への欠席をきっかけに病死説が、二度目は翌1991年4 - 5月に病死説・暗殺説が流れている。死亡説に対してはそれを否定する本人のコメントが新聞記事などに取り上げられた)。1995年5月の死亡時にも暗殺説が流されている。」

懐かしいですねえ。
うっとり浸ってしまう美声です。
日本では売るために演歌路線でいったけど、本来はポップスなど幅広い分野もこなす本格シンガーだったとのこと。

両中国政府の思惑に翻弄されたかの感もある悲劇の歌姫、中華人民共和国の一党独裁に反対し民主化を要求するデモにも参加しただけに、天安門事件には失望してパリに渡るゆえんとなったようだが、いずれは両親が生まれた中国に帰って歌いたいとの希求が強かったみたいだ。

そんなにファンでもなかったけど、改めて波乱の生涯を調べ歌を聞いてみると、すごくよくてのめり込んでしまった。とにかく、アジアの歌姫との名声を勝ち取っただけに、抜群の歌唱力です。飲みながら、聞きたい曲、あるいは酔ってカラオケで歌いたい曲、ただし、ある程度の歌唱力がないと、カバーは出来ないでしょうね。

昭和を思い出すなあ!

私と同世代のあなたも、彼女の透明でしっとりと哀愁ある美声に浸ってみてください。

つぐない、時の流れに身をまかせ

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