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歩き遍路は決して群れず

(浮津海岸-お遍路さんが二人小さく見える)

お遍路6日目、11月6日、山口の青年は安宿泊まりだからゆっくり出るというので、朝7時に一人で出発した。歩き始めて間もなく砂浜が見えた。浮津海岸と呼ぶのだろう。砂浜の遠景に小さく二人のお遍路さんが見えた。あれはおそらく千葉のご夫婦だと思った。海辺の公園の休憩舎でトイレを借りるついでに今夜の泊まりを予約した。

肺手術の男性Yさんと初めて会ったのはその先で、四万十川の橋を渡るのか、渡船に乗るのかの分かれ道で、一休みしながら検討しているのに追いついたのが最初だった。渡船は今日は休航だと話していた。渡船があること自体知らなかったから、迷うことなく四万十大橋の方へ向かった。Yさんには四万十川の手前で追い抜かれ、橋の袂の休憩舎で休んでいるところへ、千葉のご夫婦が追いついて合流した。後日聞いた話ではその日民宿みやこより4kmほど先のネスト・ウェストガーデン土佐に宿泊して朝の出発が遅かったという話であった。

四万十川を渡った先にある、うどん屋「田子作」を薦めてくれたのは、 I さんであった。最もこの場所ではお遍路さんは十中八九「田子作」へ吸い込まれるだろうと思った。4人のお遍路さんも旧知の仲のように連れ立って「田子作」に入った。暑い日で、頂いたお水が美味しかった。


(新聞紙のレジ袋)

千葉のご夫婦の奥さんが「田子作」の販売コーナーで新聞紙で作ったレジ袋を目敏く見つけてきた。四万十川の上流の町で作られていると聞いて、お遍路の間にぜひとも手に入れたいと思っていた。ここで見つけるとはラッキーだという。女性の視点の意外性は、時として我々男性の虚を突くところがある。確かにエコバッグも良いけれど、レジ袋が新聞紙で出来るならこれ以上のエコはない。


(大文字山)

食事のあとはまた皆んなバラバラになってしまった。Yさんは先へ行き、千葉のご夫婦は遅れた。先を行くYさんが右手方向を金剛杖で指し示した。おそらく自分へのメッセージであろうと、その地点まで行って右手を見ると、山の斜面に大の字が見えた。

案内板によると、
大文字山送り火
今から五百有余年前、前関白一条教房公は、京都の戦乱をさけて家領の中村に下向され、京に模した町づくりを行った。東山、鴨川、祇園等京都にちなんだ地名をはじめ、町並みも中村御所(現在は一条神社)を中心に碁盤状に整然と整備し、当時の中村は土佐の国府として栄えた。
この大文字山の送り火も、土佐一条家二代目の房家が祖父兼良、父教房の精霊を送るとともに、みやびやかな京都に対する思慕の念から始めたと、この間崎地区では言い伝えられている。現在も旧盆の十六日には、間崎地区の人々の手によって五百年の伝統は受け継がれている。


新伊豆田トンネルは1.6kmもあって、歩けど歩けど出口に至らなかった。トンネルを抜けるとさすがに草臥れて、自販機の前に座り込んでしばらく休んだ。新製品のレモナードの缶ジュースが試飲中で100円だったので飲んでみた。味が気に入ってその後も何度か買った。


(大きく育ったイノシシ)

お店の横に檻の中にイノシシが飼われている家があった。出てきたおばあさんに聞いてみると、「瓜坊だった頃に拾って可愛いから買い始めたのだが、こんなに大きくなってしまって」人に慣れているのかと聞いてみると、「今でもお父さんが入ると背中に乗ってくる」という。こうなっては潰して食べるわけにもいかない。下ノ加江川の橋を渡った角の一心庵というお遍路無料休憩所前のベンチで、宿でお接待で頂いたお握りを食べて、民宿岡田までの残り6kmを頑張って歩いた。
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