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遍路仲間と最後の別れ

(内子座)

お遍路12日目、11月12日、次の第四十四番大宝寺は八十八ヶ所のちょうど中間のお寺になる。お寺の数では中間だが、距離ではどのくらい来たのだろうと誰かに聞いたところ、もう3分の2以上は来ていると言われた。その大宝寺へは卯之町のまつちや旅館から65.8kmある。ひたすら東へ東へ山中に分け入る道である。もちろんとても一日では行けない距離で、これだけ遠いお寺はもうこの後にはない。

まつちや旅館の昨夜の泊まりは、歩き遍路は自分だけで、車でお遍路の老夫婦と、後は仕事の長期宿泊の人であった。仕事の人は卯之町の自慢話を毎晩女将さんから聞かされて、もう代って話が出来ると冗談をいう。

翌朝、まつちや旅館の女将さんから鳥坂峠越えを勧められたことは書いた。Yさんと会ったのは卯之町から2、3km行ったところで、突然に前方に現れたお遍路さんがYさんであった。昨夜は卯之町から外れた宇和パークホテル泊まって、遍路道に突然の出現となったらしい。後で聞くと掛川のSさんも宇和パークホテルだったというが、二人はホテルで逢うことがあったのだろうか。


(鳥坂番所跡)

鳥坂峠の登りに掛かるところに、鳥坂番所跡があった。

案内板によれば、
鳥坂番所は、藩政時代、人物・物資の不当流出を防ぐため、宇和島街道の要衝であったこの地に、大洲藩によって建設されました。玄関、座敷、襖、欄間等の一部は当時のもので、旧態をうかがうことができます。
当時、旅人が番所を通行する際には、身分証明書とか往来手形といったものの提示を求められた上、厳しい取締りを受けましたが、四国八十八ヶ所巡礼などの巡拝者については、比較的楽に番所を通行できたそうです。


今も昔も、白衣、金剛杖、菅笠のお遍路姿は、通行手形の代りをしていることは大変興味深い。

鳥坂峠を越えるまでは前後になりながらもYさんと同行したが、その後食事を摂るというYさんとも別れて、大洲に向かって歩いた。松山自動車道が出来て道路が複雑に交錯し、地図では今どこにいるのか判らなくなり、遍路標識だけが頼りで歩いた。途中石を組み上げた何かの記念碑の基礎部分に腰掛けて、まつちや旅館お接待の握り飯を頂いた。大洲の町で肱川を二度渡ったように書いたが、よくよく検討すると、一つ目は肱川の支流だったようだ。遍路道から大きくずれたわけではなく、古い町並みを見学している間に自分のいる居場所がわからなくなっただけであった。


(おはなはん通り)


(赤煉瓦館)

伊予の小京都と呼ばれる大洲の古い町は肱川の左岸にあり、伊予大洲駅を出発点に発展した大洲の新しい町は肱川の右岸に拡がっていた。古い町には「おはなはん通り」やレンガ道など、古い町並みが残っていて、よく整備されていた。「おはなはん通り」は昭和41年のNHK朝の連ドラ「おはなはん」のロケが行われたことからそう呼ばれている。レンガ道の先には赤煉瓦館があった。明治34年に大洲商業銀行として建築された、イギリス積みの赤煉瓦構造で、屋根には和瓦を葺いた和洋折衷の造りだという。肱川を渡るとき、左に川をお堀のように利用した大洲城が見えた。


(十夜ヶ橋)

Yさんとは弘法大師が橋の下に野宿したと伝わる十夜(とよ)ヶ橋で逢ったのが最後になった。その夜、内子から滋賀に帰ったはずである。修行の道場、土佐で知り合った歩き遍路とはこれですべてお別れとなった。さびしくなるが、新しい仲間を見つけたい。

内子には最後に国道から外れて、小さな峠を越えて道を下って入った。宿に入る前に内子座だけは表から見学した。宿に着いてから、明日の朝食を買いにマーケットまで歩いた。
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