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明治13年の雹の話再び

(購入した古文書読解の参考書)

北京オリンピックテレビ観戦にかまけて、書き込みを一日休んでしまった。

今日午後、金谷宿大学の講座「古文書に親しむ」の第3回目に暑い中出掛けた。考えてみると、外出は一週間ぶりである。今日の分は予習してあらかじめ読めない部分を確認してあった。その内容の一部は7月27日の「明治13年の雹の話」で書いた。

今日、講座を聞いて文字の判読と読み下し方はすべて分かった。前回書き込んだ分には不明な文字が38文字もあった。すべてが判明してみると、分かったと思っていた文字も間違って読んでいた。改めてここへ少し読み下した形で記す。
  
明治十三年辰十月二十五日夜午後十時頃より、雨降らず稲光り強くして、二十六日午前第三時頃、雹(ひょう)降出し、追々烈発に相成り、その音石を打付る如くなり。夜中の事ゆえ、唯々神佛へ燈明を照し祈願を致しおり、追々光りは強く雷は八方にて鳴り、漸々(ようよう)雨交りに相成り、暫くして光り雷雹とも小降に相成りゆえ、それぞれ明りを照し、戸毎に軒下あるいは往還へ出て、降残りし雹を拾い上げるに、その雹壱寸五分、弐寸くらい、その形は少し平くしてサザエのごとく中にうず巻の形あり。午後七時頃、五ヶ村様子承り候ところ、稲は一粒もこれ無く悉皆(しっかい)雹にて打ち落し候と聞く。五ヶ村へ見舞としてまかり越す道、字根岸より代官嶋番生寺地先は、時に八時頃に至り候えども、いまだ雹は四五寸、まわり田一面につもりしゆえ打驚き、蕎麦作は地面より刈取しごとく野菜物は石にて叩き付たるごとく、瓦屋根損し藁屋根は突抜たる家もあり、その雹目方五拾匁より六拾匁位、実に噺しにも聞き及ばず。それより嶋村牛尾村へ廻る道筋、歩行(あゆみ)に足冷て我が足の覚なし。同村の景すべて同様、道にて蛙等は雹にて打れ死、または雀、ヒヨ鳥打れ死数多くあると聞く。我が家敷にて拾羽拾五羽くらい雀外小鳥を拾う人あり。また屋敷泉水の飼い置き候鯉鱒等も打れ死有り、池より飛出し地面に打れ死も有り、実にその場へ望みし上、かくの通りの次第に候なり。

ここまでが、「明治13年の雹の話」で書き込んだ部分である。ゴルフボール大の雹が十数センチ積もるほど降った訳で、とんでもない被害もうなずける。「歳代記」にはその次の日に県や郡の役人が視察に来た話が書いてある。

同二十七日、當宿始め五ヶ村戸長、郡役所または本縣へ届出、靜岡縣庁より見分のため大書記官石黒務殿、静波町郡長関口潜殿、書記仲田伊七殿、外七八名見分有て、坪外見様にこれ有り候いて、五分以上損害と相成り、五分納に成る。

「坪外見様」が意味がよく解らない。先生も解らないという。お役人が見分に来て、半分以上の被害とみなして、年貢か税金かを半分免除してくれたという話である。江戸時代の慣わしを色濃く残した明治のはじめの話である。
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