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徳山の盆踊り-郷土芸能を観る会

(徳山の盆踊りのうち「鹿ん舞」)

川根本町の徳山からは、国指定重要無形民俗文化財の徳山の盆踊りのうち、「鹿ん舞」と「ヒーヤイ」が披露された。

徳山浅間神社で毎年八月十五日に行われる盆踊りでは鹿ん舞(しかんまい)・ヒーヤイ及び狂言が演目として演じられる。徳山の東にある無双連山一帯ではかつて焼き畑農業が行われていた。「鹿ん舞」は、焼き畑農業にとっては害獣である鹿の駆除を祈願する神事が、盆踊りに取り込まれたものといわれる。「鹿ん舞」は舞台には上らないで「ヒーヤイ」を舞うときに舞台の周りを警護役として踊り回る。昔は成人男子が踊っていたが、今は中学生の男子が踊る。

「鹿ん舞」の行列が客席の後ろから笛・鉦・太鼓に合わせて入ってきた。先頭の一人は立派な角の牡鹿の頭を頭上に載せている。続く二人は牝鹿の頭を乗せている。さらに左側頭部にヒョットコ面をつけた六、七人が続き、笛・鉦・太鼓の奏者が最後に続いた。鹿の頭もヒョットコ面も素朴なもので、中学生たちの手作りのように見えた。舞台に上がって、中腰で手に持った二本の紅白の綾棒をくるくる回しながら跳びはねるように踊る。畑を荒らす三頭の鹿をヒョットコ面たちが追い立てているさまを踊りにしたものであろう。


(徳山の盆踊りのうち「ヒーヤイ」)

「ヒーヤイ」はかつては男性が女装して踊ったというが、今は小中学生の女子が踊り手になっている。饅頭笠を被り、化粧して、浴衣に黒いだらり帯を締めた4人が出てきて、小唄に合わせて舞う。最初は紅白の綾棒を持ち、次いで扇に持ち替え、さらに饅頭笠を外して舞う。古歌舞伎踊りの初期の形態を残したという古風で優雅な踊りである。盆踊りではもっと沢山の子供たちが踊るのであろうか。「ヒーヤイ」の名前は唄の終りにつく囃子詞からつけられたという。

前の座席のカメラのおじさんは、4人のうちの美形の一人にだけに、望遠レンズを向けてしきりとシャッターを切っていた。化粧した姿に子供ながら不思議な色気がある。おじさんは踊りが終わると居なくなってしまったから、おそらく家族の誰かに写真を撮ることを頼まれたのだろう。

南北朝の争乱の時代、それまで徳山を治めていた土岐氏は、1353年、北朝方の今川範氏に攻め滅ぼさた。鹿をモチーフにした踊りは大井川筋では徳山の「鹿ん舞」だけで、孤立して伝承されてきた。「鹿ん舞」も「ヒーヤイ」も周辺に類似した踊りは痕跡すら見出すことが出来ない。その謎について、徳山の盆の芸能が祇園会の風流だとして、この地に怨霊となって留まる土岐氏の霊を鎮めるために、京文化を取り入れるに積極的であった今川氏が、この地に限定して、京文化の影響を受けたこの芸能を行わせたとする説がある。その説によれば、徳山の鹿ん舞は獅子舞、ヒーヤイは綾棒踊りの風流念仏をルーツとするという。以後徳山は、武田氏・豊臣氏・徳川氏の支配を経ることになるが、その間に村人は少しづつ変質させて、独創的な「鹿ン舞」と風流踊り「ヒーヤイ」として完成させ伝承してきたと考える。
  ※「祇園会」は疫神や死者の怨霊などを鎮めなだめるために行った。
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