のりぞうのほほんのんびりバンザイ

あわてない、あわてない。ひとやすみ、ひとやすみ。

やまなし/宮沢賢治

2010年10月27日 23時40分53秒 | 読書歴
教会のちびっこが宿題で朗読をしていました。
朗読していたのは、宮沢賢治さんの「やまなし」

私も小学校六年生のとき、国語の教科書で出会いました。
懐かしい!
あの頃は、この作品の魅力がまったく分からなかったのですが
そのあまりのわけわからなさゆえに、強烈な印象を残していて
友人たちとの話題にもっともよくあがる作品です。

久々に作品に触れて
まったくわけがわからない!と思っていたにも関わらず
今、読み返しても、心に残っている「作品世界の雰囲気」から
印象がほとんど変わらないこと、
作品の持つ幻想的な世界観が今も鮮明に残っていること、
そして、私には珍しく、
かなり正確に文章を記憶していることに驚きました。

・・・もっとも、かなり鮮明に覚えている(ような気がする)のは
折に触れ、友人たちとの話題に「やまなし」が出てくるからで
そのたびに
「あれでしょ?『くらむぼんがわらったよ。』っていうやつでしょ?」
「『くらむぼんは死んだよ』とか言うっちゃんねー。」
「『くらむぼんは殺された』んじゃなかったっけ?」
「なんかゆらゆらしとったよね。海の底で。」
などと、みんなで思い出し合うからなのですが。
そんなことを思い返しながら
こんなにもみんなで語り合う機会があったということは
それだけ言葉に力がある作品ということなんだろうな、
と思ったのでした。

それにしても。なぜか、いつの間にか。
この作品の持つ印象派のような雰囲気、幻想的な雰囲気を
好きだわ、と思っている自分にびっくりしました。
小説や詩って、「出会うとき」があるんだな、と再確認。

あの頃は、あんなにも「わけわからん」くて
腹立たしさすら覚えていたのに。
そして今、読み返してもやはりもやもやしたものは残るのに。

なるほど、わかりにくい。

2010年10月27日 23時24分46秒 | 日常生活
ここ1ヶ月ほど、色々あったりなかったり、
(結局のところ、色々なことは起こってないわけですが
 何も起こらないからこそ、なのか)
「私」を通常営業できておりませんでした。

で、そんな厄介な状態の私を家族が暖かく見守ってくれていたわけですが。
今朝、とうとう母上の堪忍袋がキャパシティオーバー。
限界点を越えました。
「なんなん?!何でそんなにずっと不機嫌なん?
 何に怒っとるん?言いたいことがあるんならはっきり言いよ!」


・・・なるほど。
ワタクシ、「落ちる」と、怒っているようにしか見えない模様。
怒ってはないんだけどなー。不機嫌というわけでもないんだけどなー。
と、思いつつも、
通常営業できていない私は自分の状況をうまく説明することもできず
無言で会社に向かったのでした。

そして、夜。
久しぶりに出席した祈祷会で、思いがけず
最近の自分を客観的に観察できる機会に恵まれました。

なるほどー。
最近の私はこういうふうに見えてたのかー。
そりゃ、不機嫌にしか見えんわ。
と、深く反省。
うん。自分の感情を垂れ流してはいけません。
家族だからといって、むしろ得てしてぶつかりやすい家族だからこそ
甘えてはいけない部分というものがあるんだわ。
と、しみじみ思いました。

というかねー。
もっと私がかわいらしく落ち込んだり
しとやかに元気がなくなったり、
そういう引き出しを持てればいいんだけど。
どんなときでも、無駄にゴツゴツしているのです。

とりあえず、明日からは笑顔で過ごします。
目指せ!笑う門!
来い!福の神!(・・・なんか違う。)