夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

日本橋本所深川コースを歩く

2013-06-02 17:38:31 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち「日本橋本所深川コース」は、「お江戸日本橋散歩(大手町~鎧橋)」、「人形町浜町散歩(鎧橋~新大橋)」、「深川芭蕉庵散歩(新大橋~清澄庭園)」、「下町深川散歩(清澄庭園~門前仲町駅)」、「本所蔵前散歩(新大橋~浅草橋)」の5区間のサブコース(ガイド区分)から成り、総延長は10.6kmになる。なお、このコースは、新大橋の交差点で門前仲町方面と浅草橋方面に分岐している。

(1)お江戸日本橋散歩

 このコースの起点は、お堀端コースと同じく、大手町ビル北東側の交差点で、標識Bは、逓信総合博物館の近くにも置かれている。逓信総合博物館(ていぱーく)は、今年の8月31日をもって閉館の予定ということなので、とりあえず入ってみたが、この日の館内は閑散としていた。

 左側の歩道で先に進み、JRのガードをくぐる。その先の左側に改修工事中の常盤橋公園がある。常盤橋は奥州街道に通じる重要な橋で、常盤橋御門も置かれていたが、明治になって御門は壊され、その石垣の一部を用いて洋式の石橋が架けられる。この石橋は常磐橋と名を変えて、石垣の一部とともに人道橋として現存しているが、修復工事中のため今は立ち入ることが出来ず、南側の常盤橋側から眺めるだけになる。

 常盤橋を渡って常盤橋交差点を左に行き、日本銀行旧館の前を通る。江戸時代の金貨鋳造所、金座の跡である。江戸時代、金座から先に行くと駿河町があり、道の両側には越後屋が店を構えていた。当時、通りから見えていた富士の姿は見えなくなってしまったが、越後屋の跡は、その後継者たちにより、三井本館と三越として今に引き継がれている。

 中央通りに出て右に行くと日本橋に出る。広重は名所江戸百景の「日本橋雪晴」に、日本橋川北岸の魚河岸、日本橋と日本橋川、川の南岸に並ぶ蔵を描き、さらに定番の江戸城と富士山を描き入れている。今は、当然のことながら、昔をしのぶものは無く、空を覆う高速道路に阻まれて、日本橋からの眺めも失われてしまっている。

 日本橋を過ぎて交差点を渡り、野村証券の南側の道に入り、右側の歩道で東に進んで昭和通りに出る。交差点の近くには、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。交差点の左側は、日本橋川に架かる江戸橋である。江戸時代、この橋の南側は広小路で、物資の集積地でもあったので、市が立ち、盛り場のようになっていた。

 昭和通りを歩道橋で渡ると、その先に日本橋郵便局がある。ここは郵便発祥の地にあたり、右側の通用口に記念碑が置かれている。郵便局の北側にある標識Bに従い、日本橋川沿いの道を進むと高速道路に出る。ここは紅葉川の跡で、少し南に行ったところに、海運橋の親柱が残されている。その近くの、みずほ銀行のある場所は銀行発祥の地であり、それを記念する銘板がはめ込まれている。証券取引所を過ぎると、その先に鎧橋がある。江戸時代、ここには鎧の渡しがあり、渡った先は小網町で蔵が並んでいた。


(2)人形町浜町散歩

 鎧橋を渡って、蛎殻町の交差点を左に折れ、次の信号を右折して先に進む。江戸時代、この道筋には、貨幣を鋳造する銀座のほかは、武家屋敷しかなかった。町人地は、少し離れた北側にあり、芦屋町や堺町と呼ばれる一帯は中村座や市村座があり、人形芝居もあって、天保の改革で浅草に移転させられるまでは、芝居町として繁盛していた。先に進んで人形町通りを渡り、ほうじ茶の香りに誘われるように、甘酒横丁を歩く。今は、人通りの絶えない道になっているが、この通りも、江戸時代は武家地で、町人地は北側の吉原の跡地のほか、南側の一角だけであった。

 甘酒横町を先に進むと、浜町川跡を緑道にした浜町緑道に出る。ここに歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。浜町川は隅田川に通じる入堀で、江戸の切絵図を見ると浜町川の両岸に浜町河岸と書かれている。ところが今では、隅田川の河岸を浜町河岸と呼んでいる。石川寒巖は明治43年に「日本橋浜町河岸」の題で隅田川を描いているので、「明治一代女」の浜町河岸は隅田川を指していたと思われるが、そのモデルとなった花井お梅の事件が起きた明治20年頃はどうだったのかは分からない。緑道の先、清洲橋通りを渡ると、左側に明治座が見える。右側には水天宮の幟が見えるが、建て替えのための仮宮という。右側の歩道を進むと、浜町公園の前に出る。ここを右に行くと新大橋通りに出る。通りを渡って左に行き新大橋を渡る。渡った先、新大橋の交差点の南東側の角に置かれている標識Aがコースの分岐点となる。


(3)深川芭蕉庵散歩

 新大橋の交差点から左側の歩道で南に向かうと、右側に芭蕉記念館が見えてくる。実を言うと、記念館に入り、そのあと裏門から隅田川テラスに出て、隅田川沿い南に向かい、芭蕉庵史跡展望庭園、芭蕉稲荷を経て萬年橋に出るのがお勧めなのだが、今回は所定のルートに従い、左側の歩道を先に進んで、小名木川に架かる萬年橋を渡り、清洲橋通りを横断し、清澄公園に出る。

 清澄公園の隣に清澄庭園がある。清澄庭園は、大名屋敷の跡地を明治時代に岩崎家が入手して整備した庭園である。この庭園を紀伊国屋文左衛門の別邸跡とする説もあるが、この説には反対意見もある。ただ、明暦の大火の後、この近辺に元木場と呼ばれる貯木場が設けられていた事は確かなようである。清澄庭園には何度か入っているので、今回は割愛して先に進み、清澄通りに出て右に行く。ここに歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。

(4)下町深川散歩

 次の信号で清澄通りを渡って先に進むと、左側に霊巌寺がある。この寺は、松平定信の墓所があることで知られるが、江戸六地蔵の一が現存する寺でもある。この寺の先に、深川江戸資料館があり、ここも何度か来ているので、今回はパスして先に行く。
 
 先に進んで白河三の信号で右に折れ、平野二の信号で右に折れ、平野の信号で左に折れ、木更木橋で仙台堀川を渡る。ここに歴史と文化の散歩道の案内板がある。さらに進んで、葛西橋通りに出る。左手に深川七福神の冬木弁天堂がある。

 葛西橋通りを渡り高速道路の下を抜けると深川公園に出る。ここに、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。富岡八幡宮の別当寺であった永代寺の庭は、広くかつ手入れも行き届いた評判の庭で、広重が名所江戸百景の一つとして取り上げるほどであった。明治になると永代寺は廃寺になり、その跡地が我が国最初の公園の一つとなる。これが深川公園で、現在は深川不動の東側と西側に分かれている。

 深川公園の東側が富岡八幡で、深川公園側からも入ることが出来る。この神社の祭礼は8月で、水かけ祭とも呼ばれ、神輿も、担ぐ人も、時には見物客もびしょ濡れになる。境内には伊能忠敬の像があるが、忠敬が測量の旅に出かける時には、富岡八幡に参拝してから出かけたという事に因んで建てられたものという。

 永代通りに出て右へ行くと、深川不動堂の参道がある。この道を入ると右側に永代寺があるが、旧永代寺の塔頭で永代寺の名跡を引き継いだ寺である。江戸時代、永代寺では成田不動の出開帳が度々開かれていたが、明治になって、永代寺が廃寺になったため、成田不動の東京別院として建てられたのが深川不動堂である。以前は、背後に高速道路が見えるのが煩わしかったが、今は目立たないようになっている。

 永代通りを西に行くと門前仲町の交差点に出る。歴史と文化の散歩道の案内板は、交差点の西北側に置かれている。下町深川散歩も、これにて終わりという事になる。

(5)本所蔵前散歩

 新大橋の交差点から右側の歩道で北に向かう。カタツムリ・マークのポールを目印に一の橋通りを進み、標識Bにより新大橋二の信号を右に曲がり、次の角を標識Cにより左折する。北に向かって進むと、木の橋を模した塩原橋に出る。橋の名の由来は、江戸の豪商・塩原太助が近く住んでいたからという。ここに歴史と文化の散歩道の案内板がある。

 塩原橋を渡って、次の信号の一つ先を右に行くと吉良邸跡に出るが、今回は直進して京葉道路に出る。ここを左に行くと回向院に出る。江戸時代は勧進相撲が行われ、また、出開帳も行われて賑わった寺であり、今年は、善光寺の出開帳も行われていた。さらに進んで両国駅を過ぎ、江戸東京博物館に入る道を見送って、国技館の前を過ぎ、旧安田庭園に入って園内を一巡してから外に出る。

 旧安田庭園から近くの横網町公園に行く。ここは、関東大震災の時に大きな被害を出した被服廠跡で、東京都慰霊堂がある。公園の正面から外に出ると、清澄通り沿いに歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。

 清澄通りを北に行き、蔵前橋通りとの交差点を左に折れる。蔵前橋を渡り、江戸通りを横断して、右側の歩道で先に進むと鳥越神社がある。神社の先、浅草橋三の信号で蔵前橋通りを渡って直進し、突き当って左に行くと江戸通りに出る。ここを右に行けば浅草橋駅で、本コースも、ここまでである。


コメント    この記事についてブログを書く
« 言問コースを歩く | トップ | 品川池上コースを歩く »

歴史と文化の道」カテゴリの最新記事