夢七雑録

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千川上水花めぐり(8)

2010-05-02 08:21:07 | 千川上水
 江古田二又から先、両側の歩道には桜が植えられている。次の信号で南側の歩道に移って歩いて行くと地域集会所があり、その入り口に半鐘が置かれている。明治37年に千川上水の土手にあった火の見櫓の半鐘という。その頃の桜並木がどうだったかは分からないが、半鐘は桜の上に出ていたのだろうか。南側の歩道をさらに歩いていくと、桜のトンネル状態が続くようになるが、それも束の間で、桜並木は突然途切れてしまい、中野通りと千川通りの交差点に出る。この交差点を直進する道は清戸道で、二又交番で目白通りと合流して江戸川橋に向かっている。左右の道は鎌倉街道と伝えられ、右に行けば哲学堂を経て中野に向かい、左に行けば板橋に出る。千川上水は、この交差点で直角に左へ曲がっている。北側から石神井川に注ぐ谷の上流部が入り込み、南側から妙正寺川に注ぐ谷の上流部が入り込む場所で、千川上水は向きを変えていることになる。なお、交差点の南東側は大正時代に牧場があった所で、その事を記した説明板が交差点の南東角に置かれている。

 交差点を左に曲がって、西武池袋線の踏切を越えると、両側の歩道に桜が植えられている。八重の桜が植えられている右側の歩道を歩いていき、岩崎水車が近くにあったという派出所を過ぎると、歩道と車道の段差が次第に開いていくようになる。築樋の跡の道である。その先、千早高を過ぎて、右前方の道を入ると、桜の下に庚申塔が祀られている。次の角にある千川親水公園は千川上水の跡を公園にしたもので、千川上水の流路が、ここで直角に曲がっている。この場所に架けられていたのが庚申橋で、先ほどの庚申塔も橋の傍らにあったという。桜並木の千川親水公園に沿って進むと要町通りに出るが、その手前に金網で囲まれた場所がある。釣り堀があった跡といい、付近に置かれている石の板は、千川上水に架かっていた石橋に使用されていたものという。


 「千川上水路図」(明治16年頃)で、江古田二又からの道をたどる。ここから、千川上水は清戸道の南側を流れるようになるので、木橋を渡って左岸に移る。清戸道沿いには人家が多いが、右岸は畑地が続いている。橋を4か所通りすぎると、千川上水が左に直角に曲がっている場所に出る。その曲がり角から、現・落合南長崎駅付近の五郎窪を通って妙正寺川に注ぐ、葛ケ谷村分水が分かれている。清戸道は千川上水が曲がって直ぐの木橋を渡って直進していたが、渡った先に、11坪ほどの水番屋が、江戸時代に作られていた。その場所は、現在の交差点の北東側、ファミリーレストランのある辺りとされるが、この水番屋が明治時代まであったかどうかは分からない。「千川上水路図」は、流路が大きく屈曲している場所では、紙を流路に合わせて貼り合わせ、扇状に折り畳んでいる。その一例が、千川上水が直角に曲がる、この辺りである。

 当時、西武池袋線は存在しなかったので、そのまま、千川上水の左岸を進むと、二つ目の橋の先に、右岸から分水している岩崎水車があった。橋があって左岸から見に行くことは出来たようである。この水車の先、谷の上流部が入り込んでいるため、千川上水は築樋を流れるようになる。この谷は能満寺の前の田圃から現・小竹向原付近を抜けて石神井川に流れ込む谷である。ここから橋を二つ過ぎると、千川上水が直角に曲がっていて、庚申橋が架かっている。さらに左岸を進むと、長崎村の分水が分かれている。この長崎分水は、近くの弁天池を水源とする谷端川の助水となり、農業用水として使われた分水である。この分水を入れた谷端川は南に流れ、現・椎名町駅の南側を回ってから、北に向きを転じて現・下板橋駅に至り、その北側を回ってから向きを変え、下流は小石川と名を変えて神田川に流れ込んでいたが、現在は全区間が暗渠となっている。 
   
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