夢七雑録

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日本橋七福神

2010-01-11 20:05:38 | 七福神めぐり

 日本橋七福神は、戦後に提唱された七福神で、八社を巡るものである。以前、日本橋三越主催の七福神巡りに参加したことがあるが、今回は、日本橋を起点・終点として、江戸の絵図上を、次の順路で巡拝してみる。小網神社(福禄寿・弁財天)-茶の木神社(布袋尊)―水天宮(弁財天)-松島神社(大黒)―末広神社(毘沙門天)―笠間稲荷神社(寿老人)―椙森神社(恵比寿)―宝田恵比寿神社(恵比寿)。

(1)小網神社(中央区日本橋小網町16)
 日本橋の北詰から東に行き、朝から活気を呈している魚河岸を通り、江戸橋の北側に出て、江戸橋を通る道(昭和通り)を渡る。江戸橋の下流には、日本橋川から北に入り込んでいる二つの堀割があるが、西側の堀割(西堀留川)を荒布橋で渡ると、白壁の蔵が並ぶ小網町一丁目、さらに、東側の堀割(東堀留川)を思案橋で渡った先が小網町二丁目である(現在は両方の堀は埋め立てられ、橋も無くなっており、また、小網町は日本橋小網町となって、丁目も無くなっている)。小網町二丁目から、左側の道をたどると、安藤家の屋敷の手前にイナリがある。その先はトウカンボリ(洞侃堀)で、左手の堀を稲荷堀という。このイナリ、江戸稲荷百番付にある、洞侃堀の安藤稲荷(現存する明星稲荷)のようだが、ひとまず拝んで次へ行く(現在の小網神社は、もと小網稲荷神社と称し、古くは小網山稲荷院万福寺に祀られていた稲荷社である。万福寺は太田道灌の創建とされ、小網町の名も万福寺の山号から出たという。江戸時代になると、万福寺は田所町に移り、さらに浅草新寺町に移転したとされる。小網稲荷神社が、旧地とされる小網町に遷座するのは、明治の神仏分離令により万福寺から分離してからという。万福寺は後に廃寺となるが、その万福舟乗弁天は、小網神社が受け継いで、福禄寿と弁財天の二神を祀る)。

(2)茶の木神社(中央区日本橋人形町1-12)
 思案橋を渡ったあと、松島町方面に向かう。この辺り一帯は、大名の中屋敷や下屋敷などの武家地である(明治になると、土地が払い下げられ、新しい町が形成されていくが、茶の木神社も、そうした町の一つ、蛎殻町(日本橋人形町1)の一角に祀られたのであろう。この神社、もとは、佐倉藩堀田家屋敷内に祀られていた稲荷社という)。

(3)水天宮(中央区日本橋蛎殻町2-4)
 武家地の中を、松島町方面に進む(現在は、茶の木神社から交差点を渡ってすぐの所に、水天宮があるが、江戸時代、この辺りは大名屋敷などの武家地で、水天宮のある場所も武家地であった。明治になって、三田の久留米藩邸に祀られていた水天宮を移したのが、現在の水天宮という)。

(4)松島神社(中央区日本橋人形町2-15)
 武家地を通りぬけ、周囲を大名屋敷などに囲まれた松島町(日本橋人形町2)に行く。この町の中に、松島稲荷神社(松島神社)がある。松島稲荷神社は、江戸稲荷百番付にも選ばれた稲荷社で、芸能関係者が多く参詣している稲荷社である。中村座があり芝居町とも呼ばれている堺町は、松島町からそう遠くない場所にある。

(5)末廣神社(中央区日本橋人形町2-25)

 松島町から東に行き、浜町堀に沿って北に行くと、西側に入り込む堀がある。堀の北側は難波町(日本橋人形町2)で、元の吉原(葭原)の遊郭が浅草に移った後に作られた町の一つである。ここを左へ行くと、屋敷の角にイナリがある。江戸稲荷百番付で、難波町の末廣稲荷として取り上げられているのは、この稲荷のようなので早速参拝。末廣稲荷神社(末廣神社)は、古くからこの地にあり、移転前の葭原で信仰されていたが、移転後に出来た町々でも産土神として信仰されているということである。

(6)笠間稲荷神社(中央区日本橋浜町2-11)
 松島町を出て、浜町堀を小川橋で渡るが(現在、堀は埋め立てられて、橋も無くなっているが、一部が緑道になっている)、渡った先も、武家地である(この場所も明治になると、新しい町が形成されるようになる。そうした町の一角に、笠間稲荷神社も祀られたのだろう。この社は、もともと、笠間藩邸内にあった稲荷社という)。

(7)椙森神社(中央区日本橋堀留町1-10)
 浜町堀沿いの浜町河岸を北に行き、栄橋を渡る(現在は堀も橋も無い)。富沢町(日本橋富沢町)、長谷川町(日本橋堀留町2)を通り、人形町の通りに出て右に折れ、その先、杉の森新道に入ると、椙森稲荷神社(椙森神社)の参道がある。この神社は江戸稲荷百番付で小結をつとめ、また、富くじでも知られた神社である。

(8)宝田恵比寿神社(中央区日本橋本町3)

 椙森稲荷神社から、新材木町(日本橋堀留町1)、堀留二丁目(日本橋堀留町1)を経て、大伝馬町二丁目(日本橋大伝馬町)に出る。江戸の初めの頃までは宿駅だったところで、伝馬役で名主もつとめ馬込勘解由の屋敷もここにあり、屋敷内に宝田稲荷を祀ったということである(明治になって、宝田稲荷は現在地に移るが、これが現在の宝田恵比寿神社である。この神社を中心とする、べったら市は、江戸時代に始まったとされるが、現在も続いている)。ここから、木綿店が軒を連ねる大伝馬町一丁目(日本橋本町3)を過ぎ、本町通り(日本橋本町3)を通って、日本橋の大通りを左に行き、日本橋に出る。


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