夢七雑録

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府中国分寺コースを歩く

2014-05-23 19:19:48 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち「府中国分寺コース」は、「旧鎌倉街道散歩(永山駅~府中駅)」、「国府・国分寺散歩(府中駅~国分寺駅)」、「ハケの道・玉川上水散歩(国分寺駅~小金井公園)」、「小平新田散歩(国分寺駅~新小平駅)」の4区間のサブコース(ガイド区分)から成り、総延長は23.5kmになる。

(1) 旧鎌倉街道散歩

鎌倉街道は近世以降の呼称で、鎌倉に通じる中世の道の総称である。鎌倉街道には支道や連絡道、別経路も含まれているので、街道といっても一本の道ではない。鎌倉街道のうち、鎌倉から北に向かう鎌倉街道の道筋は、下道、中道、上道に分けられるが、このコースの鎌倉街道は、そのうちの上道に相当している。

京王永山駅の北側を東に抜けると、京王線のガードをくぐってくる道路に出るが、その手前に案内板が置かれている。道路に出て左へ行き、多摩消防署前の交差点で右側の歩道に移って進み、永山橋の手前を右に、乞田川の右岸沿いに桜並木の遊歩道を歩く。多摩ニュータウンが開発される以前の地図を見ると、ここまでのルートは、谷戸に沿って下り、蛇行して流れていた乞田川の横を通ってきたことになる。


諏訪下橋で遊歩道は途切れるので、橋を渡って左側の信号を渡り、引き返して乞田川右岸の遊歩道をさらに進む。馬引沢橋を過ぎ、遊歩道に案内板が置かれている事を確認し、南田橋を過ぎて次の熊野橋を渡る。呼称を継承した現在の鎌倉街道を渡り、坂を上がって、ルートを踏襲したであろう旧鎌倉街道に出る。

旧鎌倉街道を渡って熊野神社に入るが、この神社の境内では鎌倉時代の霞ノ関の木柵跡が見つかっている。鎌倉時代の街道も、時代により変化はあったろうが、霞ケ関を通過する地点では今も変わらず道路として存続している。一方、鎌倉街道上道と並行していた古代の官道・東山道武蔵路の道路遺構が、熊野神社とは乞田川を挟んで東側にあたる多摩中央病院近くの打越山遺跡で見つかっている。その道は、山を削り谷を埋めて造成された道幅の広い直線道路であったが、廃道になって久しく、道としては消滅している。

熊野神社を出て、旧鎌倉街道を左側の歩道で北に向かう。大栗川を大栗橋で渡って、川崎街道を越えると、旧鎌倉街道は現在の鎌倉街道に吸収されてしまう。やがて、多摩川に架かる関戸橋に出る。この橋は新旧二本の橋で構成されていて、歩道は上流側の新しい橋にしか無い。下流の古い方の橋が昭和12年に架けられる以前は、関戸の渡し・中河原の渡しで多摩川を渡っていたという。

関戸橋を渡って直ぐの信号で右側の歩道に移り、先に進んでいくと、中河原公園があり、公園内に案内板が置かれている。鎌倉街道を右側の歩道で先に進むと、中河原駅に出る。京王線のガードをくぐった先、中河原北の信号で鎌倉街道が右に分かれていくが、この道に入り、住吉銀座への道を右に見送って、右側の歩道で鎌倉街道を先に進む。    

中央自動車道の手前で、府中用水から分水した新田川の暗渠上に作られた新田川緑道に出る。右手の分梅公園内に置かれている案内板を確認し、園内にある分倍河原古戦場の石碑を見に行く。中世の多摩川は現在より北を流れていて、その跡が新田川だとする説がある。この説によれば、分倍河原は多摩川の北岸に面していた事になる。また、浅川との合流点は現在より下流で、中河原は多摩川と浅川に挟まれた場所であったらしい。

中央自動車道をくぐって先に進む。鎌倉街道は分梅駐在所前の信号から右に曲がっていくが、旧鎌倉街道散歩のルートは、ここを曲がらずに、分梅駐在所の交差点を北に渡る。その際、右側の三角地に案内板が置かれているのを確認して、渡った先を右に折れて、左側の歩道で鎌倉街道を東に向かう。なお、新田川を分けたあとの府中用水(市川)は、御猟場道に沿って流れ、分梅駐在所の交差点を過ぎて、鎌倉街道沿いに東に流れていたが、今は暗渠となっている。

分梅駐在所の交差点は、近世以前の街道の交差点でもあった。西に向かう道は、江戸時代より前の古甲州街道で、「武蔵名勝図会」の挿絵にも府中用水に沿った往古の甲州街道と一里塚が描かれている。北に向かう道は、「江戸名所図会」の挿絵に分倍河原・陣街道として描かれているが、この道は、奥州から鎌倉に通じる鎌倉街道でもあった。東に向かう鎌倉街道は府中の中心部に出る道であり、南に向かう道は、多摩川を渡って鎌倉に向かう鎌倉街道上道であった。

鎌倉街道を左側の歩道で進むと京王線のガードに出る。東山道武蔵路は、この近くを南北に通っていた筈だが、今はその痕跡すら残っていない。ガードをくぐり、ショッピングセンターを過ぎ、税務署角の交差点で鎌倉街道と分かれて左に折れる。少し先の分倍河原駅前の広場に新田義貞像があるので見に行ってから、南武線の踏切を渡って坂を上がる。坂の下は多摩川の沖積低地、坂の途中は府中崖線、坂の上は立川段丘である。

坂を上がると、江戸時代に街道として整備された旧甲州街道に出る。ここを右に折れ、右側の歩道で緩やかな弁慶坂を上がる。高安寺を過ぎると、その先に、多摩川の砂利運搬を目的としていた国鉄下河原線の跡地、下河原緑道があり、案内板が置かれている。この緑道を南に行くと郷土の森博物館に出るが、またの機会にして今回は先に進む。

旧甲州街道と府中街道の交差点に出ると、その角に府中宿の中心となる高札場が残存している。ここから、旧甲州街道を先に進み、途中の案内板を確認して大國魂神社の前に出る。大國魂神社の前を東西に抜ける旧甲州街道は、古代から存在していた道と考えられている。東山道武蔵路から武蔵国府に出る道だったのだろうか。

大國魂神社の参拝を終えて随身門の外に出る。「武蔵名勝図会」は、随身門の前の道について、慶長・元和の頃までは、分倍の方に行く甲州街道であったと記している。ここで言う甲州街道は、分梅駐在所の交差点から東に向かう鎌倉街道に相当し、神社の西側で随身門の前に出る道と、高札場に出る道に分かれていた。また、随身門の前を東に行く道は、品川道であったという。随身門の南側が大國魂神社のもともとの境内であった。

大國魂神社を東側に出て、国史跡の武蔵国府跡に行く。国府のうち国衙(役所区画)は大國魂神社境内を含む区域とされ、そのうち国衙の中枢部と考えられる区画が武蔵国府跡として公開されている。武蔵国府跡を出て旧甲州街道を渡り、けやき並木通りを右側の歩道で京王線府中駅に向かう。駅南口一帯では再開発事業が進行中である。

なお、国司の館跡は、府中本町駅東側の御殿跡地と呼ばれていた場所で、家康が建てた御殿跡と共に見つかっている。元の御殿跡地の姿は失われてしまったが、「武蔵名勝図会」の挿絵によると、段丘の突端に位置する眺めの良い場所だったらしい。国司の館は、平安時代になると移転したようで、本町2の沖積低地で国司の館跡が見つかっている。

(2) 国府・国分寺散歩


京王線のガードをくぐり、けやき並木の植え込みの中に置かれている案内板を確認して先に進む。けやき並木北の交差点で右に折れ、左側の歩道で桜並木の桜通りを歩く。ルミエール府中を過ぎ、ルミエール府中東の交差点を左に折れ、いちょう通りを左側の歩道で北に向かう。富士見通りを渡り、農工大の横を過ぎる頃には、銀杏並木の道を歩くのも少し飽きてくるが、学園通りを過ぎれば、間もなく東八道路である。ここを左に折れる。

ケヤキ、サクラ、イチョウと続いた街路樹も、東八道路からはクスノキに変わる。左側の歩道で、ひたすら西に向かい、栄町交番前の交差点で国分寺街道を渡る。この先、二つ目の信号で右側の歩道に移って先に進み、標識Bにより右の道に入り、北に向かう。この道は、東八道路の南側で見つかった国分寺参道口跡と国分寺中門跡を結んでいたであろう古代の参道に沿った道でもある。右側に七重塔跡地を見ながら進むと、武蔵国分寺の僧坊跡に突き当たる。現在、僧坊跡では講堂跡の基壇復元作業が進められている。

僧坊跡を左に行くと国分尼寺跡に出る。さらに北に向かえば伝鎌倉街道に出るが、今回はルート通り僧坊跡を回り込むように右へ行き、左に折れて、その先を左に折れる。右側に現・国分寺入口を見て先に進み、次の角を右に行けば薬師堂の石段の下に出る。ここを左に行き坂を上がって行くと東山道武蔵路の跡に出るが、今回はルート通りに右に行き、現在の国分寺の前に出る。案内板は国分寺の塀の前に置かれている。

現・国分寺から、細い流れに沿って進めば、旧本多家住宅長屋門の前に前に出る。門を入ると武蔵国分寺跡資料館がある。ここから、お鷹の道と呼ばれる、流れに沿った道を進み、その先を左に入って真姿の池湧水群を見に行く。そのあと、お鷹の道の続きを歩き、標識Bにより、流れから離れて左に行き、道なりに歩いて行く。途中の児童遊園で左に行く道と分かれて右の道を進んで行くと不動橋に出る。

不動橋は、日立中央研究所の敷地内から流れてくる水路と、お鷹の道に沿って流れてきた水路が合流して、野川として流れていく地点に相当する。不動橋を渡って右に国分寺街道に出て左に、一里塚第2の交差点に出る。ここから左側の急坂を上がって行く。坂の上の右側は殿が谷戸庭園で、野川の水源となる池がある。通りを渡れば、国分寺駅南口に出る。
(注)当ブログの「東京の文化財」のうち、東京文化財散歩・国分寺に関連記事あり。

(3)ハケの道・玉川上水散歩


国分寺駅南口の前の丸山通りを左側の歩道で東に向かって下る。南町二の交差点を過ぎると、道は右に曲がりながら下って行く。案内板はその途中に置かれている。

坂の下、東経大南の交差点の角にも案内板が置かれている。ここを左に折れ、その先の坂を右に入る。ここからは、国分寺崖線、通称ハケの下の道を歩く。

左側に東京経済大学の公開空地があるので入ってみる。細い流れに沿って先に進むと、野川の水源の一つになっている新次郎池に出る。この日の湧水量は少なそうだが、それでも、明らかに気温は低く感じる。

公開空地を出て、くらぼね坂を車に注意しながら左に、直ぐの角を右に入る。その先、左側に貫井神社があるが、ここにも野川の水源となる湧水がある。先に進んで新小金井街道の下をくぐって右に折れ、薬師通りに出て左に進んで行くのがルートだが、今回は階段で新小金井街道に出て、左手の貫井トンネルに上がる。

トンネルの上は小公園のようになっていて、はけうえ遺跡の説明版がある。ここから北に向かって右側の道を進み、警察署前の交差点を右に行くと、右側に滄浪泉園がある。園内に入って野川の水源の一つになっている池の周りを一周。湧水の様子を確かめて外に出る。滄浪泉園に沿って右に坂を下り、薬師通りに出て左に行き、幡随院に沿って角を左に曲がり、なそい坂を上がる。連雀通りに出て左へ、次の信号で右に折れ、消防署の横を入る。本来のルートではないが、滄浪泉園から連雀通りを東に向かい、消防署の横を入っても良さそうである。

JRの下をくぐって、その先の信号を左に行き、次の信号を右に行く。やがて、道は左に曲がって行き、北大通りを過ぎて山王稲穂神社の前に出る。その先、右斜め方向に入る遊歩道を進む。左側は山王窪と呼ばれる窪地で、今は水が流れていないが、仙川の水路が見える。この遊歩道は、小金井分水を仙川と立体交差させて通すために築いた築樋の跡という。  

遊歩道を先に進んでいくと左側に少し曲がるようになり、小金井分水の水路跡が道の横に現れる。さらに進んで、突き当りを標識Bにより右に行く。その先、スポーツ施設のある上水公園の中を抜けていく。案内板は公園を出たところの角にある。

公園を出て左に行くと、玉川上水に突き当たる。ここを右に堤の道を進み、小金井橋に出る。さらに、玉川上水の右岸を進むと、陣屋橋がある。さらに進んで新小金井橋に出る。左に橋を渡って右に行くと、小金井公園の入口があり、標識Aが置かれている。

ハケの道・玉川上水散歩は公園入口で終りとなる。桜の頃なら花見といきたいところだが、既にその時期は過ぎている。園内を西に進むと、江戸東京たてもの園に出る。何棟かの建物が新たに移築されているそうだが、今回はパスして、帰途に就く。

  
(4) 小平新田散歩


国分寺駅南口すぐの道を西に行き、行き止まりの手前を左に、次の角を標識Bで右に折れ、その先を標識Bで右に折れて、花沢橋で線路の上を渡る。北に向かって進むと、左手に日立中央研究所の入口がある。春と秋に庭園が一般公開されているが、以前入った時の大池の写真を上に示す。湧水を入れる大池は、野川の源流の一つになっている。

北に向かって進むと、熊野神社通りに出る。案内板は西南の角に置かれている。交差点を渡って北に進み、浄水場に沿って左に曲がり、その先を標識Bにより左に行く。孫の湯通りと言う通称の道を進んでいくと、やがて府中街道に出る。道路を渡って左側の歩道で右に行くと恋ヶ窪の交差点に出る。右後ろから来るのは連雀通り、交差点北側角の弁財天祠の右側を通るのは府中街道、祠の左側を通る道が、これから先のルートになる。

桜並木の歩道を進むと窪東公園に出る。ここには歴史と文化の散歩道の標柱が置かれている。公園から先に進み戸倉通りを渡って五日市街道に出る。ここを右に折れるが、南側の歩道の横に砂川分水の水路が顔を出している。明治15年の地図によると、この地点で砂川分水から分かれる水路があり、現在の窪東公園の横を流れ、恋ヶ窪の交差点で連雀通り沿いに流れる水路(貫井村用水)を分けたあと、府中街道沿いに流れる水路(恋ヶ窪村用水)と、孫の湯通り沿いに流れる水路(国分寺村用水)に分かれて流れていた。小平新田散歩コースの、孫の湯通りから五日市街道までのルートは、この用水路跡を歩いてきたという事になる。なお、「玉川上水絵図」では、久右衛門橋上流の玉川上水から分水されるよう記されているが、「玉川上水線路図」では砂川分水からの分水に変更されている。これは玉川上水を舟運に利用するための措置と思われる。舟運の計画自体は江戸時代からあったが、実現したのは明治になってからで、それも短期間で終わっている。

五日市街道を東に行くと府中街道に出る。北側の歩道に移り府中街道を渡って次の信号を左に入って先に進むと、玉川上水に出る。右側の鎌倉橋を渡って、鎌倉街道という表示のある道を北に向かって進む。たかの街道を、車に注意して渡り、左側の道に入る。この辺り、畑地を短冊状に割り当てた名残なのか、南北に長い道が多いようである。先に進んで小川用水を過ぎ、青梅街道に出て右に折れ左側の歩道を進むと、新小平駅に出る。駅前に置かれている案内板を確認し、コースは、これにて終わりとなる。

ここで、鎌倉街道について付記しておく。延宝の頃の「小川村地割図」に府中海道と表記された道があり、玉川上水を渡って北上し青梅街道を越えてから斜め左に曲がって九道の辻に出る道が記されている。宝永の頃の「小川村絵図」では、この道を、かまくら海道と表記しているが、やがて、この道は衰退し、久右衛門橋を通る府中街道に取って代わられる。明治前期の「小平村之図・西之部」には、かまくら海道の跡と思われる道も見て取れるが、やがて、橋も消滅し道も定かではなくなってしまう。現在、鎌倉街道の表示がある道は、小川村絵図に“かまくら海道”と表記されている道に対応する、現在の道という事になるのだろうか。

小平村が開拓される以前の中世の街道について、そのルートを確かめる事は難しそうだが、古代の官道については、道路遺構が発掘されればルートを確定する事が可能である。国分寺市立歴史公園の説明板には、国分寺市、小平市、東村山市の道路遺構をもとにした古代の官道、東山道武蔵路の直線的なルートが記されている。小平市内では、上水本町、原島農園、小川団地の3カ所で東山道武蔵路の道路遺構が発掘されているが(小平市史)、この道路遺構からすると、玉川上水に架かる鎌倉橋と小松橋の中間地点と、小川団地を結ぶラインが、東山道武蔵路のルートに相当すると考えられる。現在の小平市内の鎌倉街道は、このルートと同一ではないものの、これに近いルートと言えるだろう。



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