夢七雑録

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参考・航空写真による成蹊けやき並木散歩

2014-08-24 13:50:11 | 歴史と文化の道

東京都の「歴史と文化の散歩道」の「井の頭深大寺コース」のうち「成蹊けやき並木散歩」について、今と昔の航空写真で空中散歩を試みてみた。下に貼り付けたGoo地図で、左下の「地図」ボタンをクリックすると、大きな地図が表示される。左上のボタンのうち、「航空」をクリックすると現在の航空写真が表示される。また、「古地図」のボタンをクリックし、昭和38年か昭和22年の何れかにチェックを入れると、当時の航空写真が表示される。また、「地図を重ねる」にチェックを入れると現在の地名・施設名が表示される。それでは、地図を伸縮させたり位置を移動させたりして、三鷹駅北口を起点に空中散歩を始めよう。 

 

昭和22年の航空写真を見ると市制施行当時の武蔵野市の様子が分かる。三鷹駅北口に広場はなく、玉川上水沿いに北西に向かう道路と、現・文化会館通りにつながる北東に向かう道があるだけ。駅の北には農地が広がっている。昭和38年の航空写真では、駅北口のロータリーと北に向かう中央大通りが見えるが、周辺に農地がまだ残っている。そして現在。中央大通りの周辺はビルが立ち並び、農地の代わりに駐車場や駐輪場が駅周辺に点在している。中央大通りを北に進むと、道幅が拡張された三鷹通りに合流する。武蔵野警察署前を右に折れて次の角を左に曲がり文化会館通りを進むと、井の頭通り手前の右側に横河電機のグラウンドがある。昭和22年の写真では、この場所がグラウンドとして使えたかどうか良く分からないが、昭和38年の写真では、既にグラウンドとして整備されていたように見える。

 

井の頭通りを渡ると東側に横河電機の敷地が続き、西側はビルが幾つかあるほかは、住宅地になっている。昭和38年の写真でも西側は住宅地になっているが、昭和22年の写真では西側に広い農地が写っている。文化会館通りを北に進むと右側に一中がある。昭和38年の写真には一中の校舎が写っているが、昭和22年の写真ではまだ敷地だけである。一中の先には昭和59年開館の市民文化会館があり、五日市街道を渡った先には平成7年開館の中央図書館がある。旧市役所の庁舎は市民文化会館と中央図書館の辺りにあったそうだが、昭和38年と昭和22年の写真に写っている建物が該当するのだろうか。五日市街道の北側は、昭和22年の写真では農地が多く見えるが、昭和38年になると、宅地化が進み農地は一部だけになっている。

 

文化会館通りを北に進むと左側に大野田公園があり、その西側は武蔵野市の浄水場になっている。昭和22年の写真では一帯は農地だが、昭和38年の写真には浄水場と大野田小が写っている。武蔵野市が誕生した昭和22年頃は水道がなく、井戸水利用であったが、昭和29年に浄水場が完成し武蔵野市の水道事業が開始される。現在は浄水場も2か所となり、深井戸による地下水利用が8割、残りを都の水道を受けているという。

 

ここで、昭和38年の航空写真で西側を見てみると、三鷹駅から境浄水場付近を通り武蔵野中央公園付近に至る円弧状の道が見えてくる。この道は、昭和26年に中島飛行機製作所跡地に開場したグリーンパーク野球場に乗客を運ぶために敷設された武蔵野競技場線の線路跡である。野球場は僅か1年で営業休止に追い込まれ、昭和31年には解体されて団地へと変わる。昭和34年には武蔵野競技場線も廃止となり、現在は線路跡地が緑道として残っている。ところで、昭和38年の写真を見ると、境浄水場の南側に当たる線路跡にコンテナのようなものが並んでいるが、これは何だろうか。

 

大野田小の北側に、昭和22年の写真にも写っている陸上競技場がある。その手前を右に折れる。昭和22年の写真では周辺は農地だが、昭和38年の写真では住宅地へと変わりつつある。今も昔も変わらない成蹊学園のけやき並木をたどり、五日市街道に出る。昭和22年の写真では農地も多少見受けられるが、昭和38年になると住宅が密集し農地は見られなくなる。吉祥寺通りは、昭和22年の写真でも都市化が進んでいる様子が見て取れるが、昭和38年になると吉祥寺駅近くにビルが目立つようになる。昭和22年から昭和38年まで、井の頭池の周囲はあまり変わっていないように見える。池の景観を変えてしまった池の西側のマンションは、昭和38年にはまだ建っていない。

 


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