夢七雑録

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堀切菖蒲園に菖蒲を見に行く

2016-06-13 19:10:32 | 公園・庭園めぐり

6月に入り、そろそろ菖蒲も見ごろという事で、久しぶりに堀切菖蒲園に行ってみた。堀切菖蒲園駅の南側の出口から、右側の川の手通りに出て南に向かう。菖蒲園へは少し分かりにくい道なのだが、案内表示があちこちに出ているので迷う事は無い。菖蒲の時期には菖蒲園に行く人も多いので、その後についていけば容易に目的地に着く。堀切菖蒲園の入口には菖蒲まつりのゲートが作られている。開催期間は6月1日から20日までという。食事処でもある静観亭を横目に、人の流れに乗って入場無料の園内へと入り込む。

まずは、園内全景を眺めるべく、四阿のある築山に上がる。一面の花菖蒲の向こうには静観亭。そのうしろには、園内を見下ろす位置にマンションが建っている。菖蒲園の東側と南側には高い建物はなさそうだが、西側には高層道路が空間を横切っている。現代の借景と思えば良いのだろうが、煩わしいので見ないことにし、園内を気の向くままに歩き回る。堀切菖蒲園はそれほど広くはないが、菖蒲を見て回るには、程よい広さである。

菖蒲園はもともと菖蒲田ではあるのだが、見物客が来るようになると、日本庭園風の趣も必要になるのだろう。園内には築山を築き、東屋と手水場を設け、垣をめぐらせ、石灯篭や庭石を置き、石橋を架け、松も植え、藤棚を造ったりしている。

現在の堀切菖蒲園には200種6000株の花菖蒲が植えられているという。園内の花菖蒲には種類を示す札が立てられているが、とても覚えきれない。堀切菖蒲園は菖蒲の他にも季節ごとの花を植えているので、他の季節も楽しめるということらしい。

帰りは、堀切菖蒲園を出て北に少し先、角を右に入る。この道は西井堀の跡で、水路跡らしい曲がりくねった道には紫陽花が植えられている。そのまま進むと道幅は広くなり右へと曲がっていく。横断歩道を渡ると菖蒲七福神の像が並んでいる場所に出る。新編武蔵風土記稿の堀切村の項にも記されている毛無池を大正時代に埋め立てた時、天祖神社の摂社として弁天社を祀ったが、平成になってから弁天社に七福神を建立したということのようである。横断歩道を進み信号を渡って先に行くと、ほどなく堀切菖蒲園駅に出る。

ここで、西井堀について少しふれておく。「葛西筋御場絵図」によると、利根川から取水している葛西用水は亀有付近で東井堀、中井堀、西井堀に分割されるが、そのうち西井堀は、西に流れたのち南に流れ、毛無池を経て堀切村を通り、古綾瀬川(現在は、荒川と並んで綾瀬川として流れている)に合流していた。なお、小合溜の水を引いた用水も東井堀、中井堀、西井堀と呼ばれているが、それとは別である。

 

堀切の菖蒲の歴史について簡単にまとめておく。江戸時代、堀切のある葛西の地は江戸近郊の農村地帯で五穀蔬菜の生産地であったが、「江戸名所図会」の挿絵によると草花の栽培も行われていたらしい。小高伊左衛門が記した「小高園由来」によると、草花の培養に関心のあった先祖の伊左衛門が、享和・文化の頃(1801~1817)、花菖蒲を園に植えたことが堀切村四方堀の菖蒲の始まりとしている。四方堀は後の小高園である。伊左衛門は花菖蒲愛好家の旗本・菖翁から乞い受けた品種を増やしたとされる。天保14年(1843)の「絵本江戸土産」の“堀切の里花菖蒲”には、数万株の花菖蒲の眺望が類なく遠近を厭わず人が集まるという盛況ぶりが書かれているが、あまりの過熱ぶりに、弘化3年(1846)には代官から自粛するよう申し渡されている。しかし嘉永2年(1849)の「続武江年表」には“近年花菖蒲を賞する人多く葛飾郡堀切村わけて多し”とあり、安政3年(1856)の「隅田川向嶋絵図」に、位置的には少し疑問もあるが、“堀切村百姓伊右衛門花菖蒲之名所ナリ”と記され、また、広重の「名所江戸百景」にも“堀切の花菖蒲”が取り上げられている事からすると、花菖蒲の名所としての地位は確立していたと思われる。

明治も中頃になると、堀切は都内から程よい距離の恰好な行楽地として人気になる。菖蒲園としては眺望の良い丘のある小高園と、池を囲む多くの小亭がある武蔵園が、互いに元祖と称して競いあっていた。大町桂月は「東京遊行記」(明治39年)に堀切の菖蒲を取り上げ、吾妻橋から蒸気船に乗って鐘ヶ淵まで行き、そこから2km足らずで菖蒲園に達したとし、小高園と武蔵園の両方に入ったあと、ほろ酔い機嫌で帰途についている。田山花袋は、大正12年の関東大震災の直前に出版した「東京近郊一日の行楽」の中で堀切を取り上げ、吾妻橋から汽船で鐘ヶ淵に出るルートとは別に、京成電車(現在の押上線)で行く方法や、東武線の汽車を利用する方法を記している。当時すでに荒川放水路の開削が進行中であったが、通水は行われていなかったので、今とはかなり違う風景の中を歩いていたと思われる。

明治以降、小高園や武蔵園のほかにも、堀切園、観花園、堀切茶寮、菖蒲園、四つ木園が開園するが、関東大震災後に客足が遠のいた事もあり、次々と閉園に追い込まれている。小高園は存続し、昭和8年には名勝に指定されたが、次第に維持困難となって公園化も検討されたものの、終戦を待たずに閉園になっている。唯一残ったのは堀切園で、一時は水田となったが、終戦後に再開している。しかし、経営が難しくなった事から都が買収し、昭和35年に開園。さらに、昭和50年に葛飾区に移管されて現在に至っている。

 

<参考資料>「堀切菖蒲園」「葛飾区史跡散歩」「広重の大江戸名所百景散歩」「絵本江戸土産第7編」「東京遊行記」「東京近郊一日の行楽」「葛西筋御場絵図」「今昔マップ」

 


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