夢七雑録

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目白駅から豊島園まで歩く・その2

2020-07-01 19:57:28 | 散歩道あれこれ

前回は長崎銀座を通って東長崎駅に向かったが、今回は東長崎駅に行かずに先へと進む。途中、寄り道として、鹿島テラハウスの手前の道を左に入り、南長崎はらっぱ公園に行く。ここにあったプールと西椎名町公園を整備して改称した公園である。この公園から北西側一帯は、大正の頃、広大な籾山牧場であったという。

公園から戻って先に進むと道幅が広くなり、交差点から先は千川通りとなる。千川通り沿いに流れていた千川上水は、この交差点の位置で直角に曲がり北へと流れており、交差点の手前右側には水番屋が置かれていた。交差点の手前左側には平成6年まで明治乳業の工場があった。ここには、昭和の初めに小児牛乳長崎工場があったが、戦前には東京乳業豊島工場となり、戦後には明治乳業豊島工場になっている。

この交差点から先のバスルートは、昭和16年の板橋区詳細図によってたどる。交差点から先、千川上水は千川通りの南側を流れていた。今は千川上水の姿を見る事は出来なくなったが、桜並木が当時の景観を伝えている。南側の歩道で先に進むと、地域集会所の前に半鐘が置かれていた。説明版によると、明治37年に千川上水の土堤に建てられた火の見櫓に取り付けられていた半鐘という。

千川通りを先に進むと江古田駅南口の交差点に出る。今は五差路のようになっているが、昔は三差路で江古田二又と呼ばれていた。この先のルートは前方左側の道を辿るのだが、寄り道する場合は、前方右側の道で江古田銀座の商店街を抜け、踏切を渡って右に、浅間神社に行く。ここには国指定の重要有形民俗文化財の富士塚があり、7月1日のほか年に数回公開されている。帰りは、浅間神社から東に行き、交差点を右に踏切を渡って南に行けば、江古田駅南口の交差点に戻る。

江古田駅南口の交差点から先、千川上水は千川通りの北側を流れるようになる。千川通りの北側の歩道を、武蔵大学を左に見ながら先に進み、環七通りの下をくぐって桜台駅に向かうと桜の記念碑があった。千川上水沿いに植えられた桜並木から、桜台が駅名になったようだ。

先に進んで練馬駅の南口から来る道を過ぎる。その先に筋違橋跡の標識が置かれていた。橋が水路に対して斜めに架けられていたのが名の由来と思われる。ここを先に進むと文化センター入口の交差点に出る。ここは五差路の交差点で、左斜め後方に行く道は新井薬師への参詣道である。

寄り道をするのであれば、文化センター入口の交差点を北に行く。ガードを潜って先に進むと右側に平成つつじ公園がある。北に進み、南町小を左に行き、けやき公園まで坂を下り、その先の白山神社に立ち寄る。境内にある大欅は国の天然記念物に指定されている。白山神社から西に行くと豊島園通りに出る。

文化センター入口の交差点から西に行き、豊島園通りの標識により右に入って道なりに進む。豊島園通りは白山神社からの道を合わせて北に向かい十一ケ寺を過ぎる。その先、豊島園駅前の交差点を左に入って豊島園駅を過ぎると、豊島園の入口に出る。

ここから寄り道として、豊島園の敷地沿いに南に行き、次の角を右に下って行くと、区立の向山庭園に出る。この地にマンションを建設する計画があり、それに対する反対運動と自然公園建設への陳情があったことから、昭和55年に造られたのがこの公園で、湧水があった場所だったことから池が作られ、主屋と茶室が建てられた。向山は地名に由来するらしい。

豊島園の入口まで戻り、正門から中に入る。豊島園が開園したのは大正15年で、豊島左近大夫の居城跡だったことから豊島園と命名された。開園披露は昭和2年のことで、豊島園駅もこの年に開業している。

この日、遊戯施設は休みだったが、プールを除く各遊戯施設を見て回り、それから、あじさい園を一通り歩いてみた。9月以降、すべての遊戯施設が取り壊されるのか、それとも一部だけでも残すのか。また、あじさい園はどうするのか。少し気にはなった。

 

 

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