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夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

杉並コースを歩く

2013-11-22 19:23:54 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち「杉並コース」は、「薬師平和の森散歩(新井薬師前駅~高円寺駅)」、「社寺遺跡めぐり散歩(高円寺駅~西永福駅)」、「神田川川辺の路散歩(西永福駅~高井戸駅)」、「烏山寺町散歩(高井戸駅~千歳烏山駅)」の4区間のサブコース(ガイド区分)から成り、総延長は15.9kmになる。

(1)薬師平和の森散歩

 本コースの起点は西武新宿線の新井薬師前駅、駅の東側に旧鎌倉街道が通っていたとする説がある。駅の西側の通りは哲学堂通りで、右に踏切を渡っていくと哲学堂に出る。案内板を確認して、この通りを左に行く。商店街を進み、新井1の信号を右に折れると、道は二つに分かれる。本来のルートは左側の道だが、今回は右側の道を進んで、新井薬師の前に出る。

 梅照院・新井薬師は、子育てや眼病平癒で知られ、各地からの参詣者が多かった寺で、名水と言われた井戸水は今も健在である。寺の裏手に出て、新井薬師公園を抜け、桜並木の中野通りを歩道橋で渡ると、北野神社に出る。中野通りを左に行き、新井五差路を右に折れ、右側の歩道で先に進むと、中野刑務所跡に作られた平和の森公園に出る。

 平和の森公園は遺跡地でもあり、園内には弥生時代の復元住居がある。公園南側の芝生広場で小休止したあと、少年スポーツ広場の外周に沿って下り、公園入口に置かれている案内板を確認し、妙正寺川沿いの道に出て左に行く。新橋で左に折れ、車に注意しながら進んで早稲田通りを渡り、野方警察署の前を右に行く。左側一帯では中野駅北口の再開発事業が今も進行中である。

 大和陸橋の下をくぐって環七を過ぎ、大和町郵便局前の信号で左に入ると、庚申通り商店街となる。庚申堂の先で道幅が狭くなるが、ここを標識Cにより左折、次の角を標識Cにより右に折れると純情商店街となり、程なく高円寺駅の駅前に出る。案内板は高円寺駅北口の駅前広場に置かれている。

(2)社寺遺跡めぐり散歩

 高円寺駅北口から右に行き、JRのガードをくぐって、高円寺パルの商店街に入り、二つ目の角を標識Cにより左に折れる。駅から南に向かう高南通りを渡り、その先、二つ目の角を左に折れると、氷川神社の前に出る。ここから坂を下れば、高円寺中央公園に出る。案内板は、この公園に置かれている。

 高円寺中央公園を過ぎて先に進み、T字路を右に行き、その先を左に入ると高円寺の参道に出る。高円寺は三代将軍家光が鷹狩の際の休憩所として利用した寺で、村の名にもなった寺である。その参道を南に行き、高円寺前の信号を渡って進み、桃園川緑道を横切り、その先の角を標識Cにより左折して進み、次の標識Cにより右折して進む。鳳林寺と長善寺の間を上がり、長龍寺の先で突き当りを左に行くと環七に出る。ここを右に折れると高円寺陸橋下の交差点に出る。

 交差点を南東側に渡ると、蚕糸の森公園に出る。蚕糸試験場の跡地に開設された公園で、旧試験場の正門や守衛所が修復保存されている。滝や池を眺めながら公園内を歩き、公園の南西側に出るが、ここに案内板が置かれている。

 公園西側の道は妙法寺の参詣道の一つでもあった。この道を南に歩いていくと環七に出るので、左側の歩道で南に進み、妙法寺入口の信号で右側の歩道に移る。妙法寺東の信号まで進んで、御題目宝塔のある角を右に折れると、間もなく妙法寺の前に出る。妙法寺は、堀之内の御祖師様として多くの参詣者を集め、落語の題材にもなった寺である。

 参拝を終え、寺を出て右に行くと直ぐ、右に分かれる道がある。この道を進むと、右から下ってくる荒玉水道道路に出るので、ここを左に折れるのがルートである。なお、妙法寺を出て左側の直進する道を下り、坂を上がって二つ目の信号が荒玉水道道路になる。荒玉水道道路は多摩川の水を送るため、大正から昭和にかけて敷設された水道管上の道路で、砧浄水場から妙法寺裏手までは一直線の道になっている。妙法寺裏手から先の水道管のルートは判然としないが、哲学堂の北側にある野方配水塔と、板橋の大谷口配水塔に水を送っていた。この水道はすでに役割を終えているが、野方の配水塔は現存し、国指定の文化財になっている。

 荒玉水道道路を進んで行くと善福寺川に出る。この先のルートは、済美橋を渡って右に折れ、川沿いの道をたどるのだが、現在は工事中で通行できないため、橋を渡って坂を上がる。その先、郷土博物館入口の信号で、右に折れると大宮橋に出る。今回は、右手後方の道をたどり、旧井口家住宅長屋門が入口になっている郷土博物館に行く。

 郷土博物館南側の細い道をたどり、善福寺川に出て左に行くと大宮橋に出る。橋を渡って左側すぐのところに案内板が置かれている。ここからは、善福寺川に沿って上流に向かい、宮下橋を渡って道の右側を上がり、大宮八幡の鳥居の前に出る。この先、本来のルートは、方南通りに出て右に折れるのだが、今回は大宮八幡の鳥居をくぐる。

 大宮八幡の北側は弥生時代の族長の墓が発掘された場所であり、西側には円墳が存在していたと伝えられる事から、大宮八幡は祭祀遺跡地に位置していると考えられる。また、武蔵国府(府中)からこの地に至る古代の道があったとする説もある。大宮八幡は東京都の人口の重心に相当する位置にある事から、東京のへそと呼ばれ、それに因んだ福餅も販売されている。大宮八幡の東側には旧鎌倉街道が通っていたとされるので、ここは古くからの交通の要衝でもあったのだろう。大宮八幡を南参道から出て方南通りを右に行き、井の頭通りとの交差点を左に、井の頭通りを戻って西永福駅入口の信号で右に入ると、西永福駅に出る。

(3)神田川川辺の路散歩

 井の頭線の踏切を渡って、駅の南側にある案内板を確認してから先に進む。道は二つに分かれるが左側の道をとり、右側の歩道を進むと下り坂となり神田川に出る。向陽橋を渡って右に折れ、神田川沿いの遊歩道を進むが、ここから高井戸駅近くの佃橋までの間は、川沿いの迷うことの無い道が続いており、適当な間隔で標識Bも置かれている。弥生橋、むつみ橋を過ぎると、八幡橋に出る。左側は八幡神社である。藤和橋、梢橋を過ぎると鎌倉橋に出る。旧鎌倉街道は、ここから大宮八幡の東側を通り、このコースの出発点でもある新井薬師駅の東側を通って板橋に出ていたという。

 鎌倉橋の先の左側は塚山公園で、縄文時代の遺跡地である。小休止したあと、塚山橋から神田川を覗いてみる。この橋は車が通る橋ではなさそうだが、その割には重厚な橋になっている。神田川に架かる橋の多くは実用一点張りで見栄えのしないものが多いが、そうでない橋も少しはある。このコースでは、八幡橋に続く藤和橋や梢橋、それと塚山橋が、それに該当するだろうか。

 神田川に沿って進み、堂の下橋、乙女橋、池袋橋、正用下橋を過ぎる。京王線が右上に近づいてくると高井戸橋となる。道の左側の案内板を確認し佃橋を通ってくる環八に出る。高井戸駅へは右手の京王線ガードをくぐり歩道橋を渡れば行ける。

(4)烏山寺町散歩

 環八を左に折れ左側の歩道を進むと、標識Aが恭しく置かれている。坂を上がりきった先の歩道橋で右側の歩道に移って先に進むと、中央自動車道が間近に迫ってきて、程なく中の橋交差点に出る。交差点の名は玉川上水に架かっていた橋の名に由来するが、橋は玉川上水もろとも自動車道の下に消えてしまっている。

 中の橋交差点で右に折れると、歴史と文化の散歩道の車止めがある。この車止めは、この先、間隔を置いて歩道上に配置されている。自動車道沿いの道はさらに続くが、植樹による緑のカーテンもあって、少しは歩きやすい道になっている。

 昭栄公園を過ぎ、その先の信号を渡ると、右側に富士見ヶ丘運動場の入口がある。ここはNHKのグラウンドであったが、今は杉並区が管理する運動場になっている。この運動場に沿って先に進むと、案内板が置かれている。

 案内板の先、歩道は左に曲がり、金網の横を通る。右手の林の下を流れているのは玉川上水だが、玉川上水のうち現在も水道用に使用されているのは上流部だけで、中流以降は清流復活を目的として再生水が流されている。その再生水も遂には暗渠に流れ込むことになるが、その地点が右側の金網の中である。玉川上水は、暗渠部分などを除き、国指定の史跡に指定されているが、その一方、玉川上水を包む形で放射五号線の道路計画が進行中である。計画が実現すれば、この付近の景観は一変してしまうだろう。

 先に進んで中央自動車道近くになると、歩道は右に曲がっていく。この歩道を進むと右に分かれる道がある。直進する歩道は車道に出てしまうので、右の道を進んで、車道の右側の歩道に出る。信号の二つ目、久我山一の信号で左に折れ、松葉通りを南に行くのがルートで、案内板は、交差点の東南側、久我山病院北側の歩道に置かれている。

 松葉通りを左側の歩道で南に進むと、通りは次第に左に曲がるようになる。その先、標識Cを確認して横断歩道を渡り右側の歩道に移る。この歩道から右に入る道があり、入った先の右側に玄照寺がある。道なりに進んでいくと、バスも通る寺町通りに出る。烏山川の水源で小鴨飛来地としても知られる高源院に寄ってみたい気もしたが、今回は割愛して、寺町通りを左に進み、中央自動車道の下をくぐる。右側の歩道で烏山北小に沿って進み、先に行くと甲州街道の烏山の交差点に出る。ここを渡って先に進むと、次第に商店街らしくなり、まもなく千歳烏山駅、コースの終点となる。


目黒田園調布コースを歩く

2013-10-27 10:48:02 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち「目黒田園調布コース」は、「目黒不動坂みち散歩(目黒駅~武蔵小山駅)」、「碑文谷そぞろ散歩(武蔵小山~自由が丘駅)」、「田園調布並木散歩(自由が丘駅~沼部駅)」の3区間のサブコース(ガイド区分)から成り、総延長は12.1kmになる。

(1)目黒不動坂みち散歩

 目黒駅からスタート。左に行人坂を見送って権之助坂を下り、次の角を左に入って行人坂に合流する。急坂の途中、大円寺に立ち寄り、石仏群にそっと頭をさげてから、再び坂を下り雅叙園を過ぎて目黒川に出る。広重が描いた石橋の名を継承する太鼓橋の手前を右に、目黒川沿いの遊歩道を歩いて、新橋で目黒川を渡る。

 大鳥前商店街を抜け山手通りを渡る。左側は大鳥神社で、酉の市の頃は混雑するであろう神社も今は閑散としている。大鳥神社を過ぎ、今は存在しない社の名に由来する金毘羅坂を上がり、寄生虫館の横を左に入ると、その先は閑静な参詣道となる。坂を上がると不動公園があり、その先、目黒不動の裏側を横目に先へ進む。

 折れ曲がりの三折坂を車に注意しながら下って、標識Bに従い目黒不動の境内に入る。男坂を上がって本堂へ行き、そのあと、女坂を下って、仁王門の横をすり抜ける。境内に向かって下ってくるバスを避けながら坂を上がり、目黒不動商店街の四つ角を右に行く。この道も参詣道の一つで、左に曲がっていくと石古坂になる。坂の途中に林業試験場跡地に開園した林試の森公園があり、折角なので、少し時間をさいて園内を散策する。

 入口の前に置かれている案内板を確認し、坂の続きを上がり終えると、ほぼ平坦な道となる。かむろ坂通りを渡り、東急目黒線が地上を通っていた時の線路跡を公園とした不動前緑道公園を横切ると、程なく後地の交差点に出る。この交差点、昔は地蔵の辻とか煤団子の辻とか呼ばれ、石古坂を下って目黒不動に出る道と、碑文谷の円融寺に出る碑文谷道の分岐点になっていたという。ここは、西から流れてくる品川用水が二つに分かれる地点でもあったが、用水は既に埋め立てられて今は跡形もない。交差点の西北の角にある標識Bをチラ見して、交差点を右に折れ、碑文谷道を進むと、東急目黒線の踏切跡に出る。ここには標識Aが置かれている。

(注)当ブログのカテゴリー「江戸近郊の小さな旅(明王院に楓を訪う)」「寺社巡拝(山手七福神)」「東京の文化財」「江戸名所」に、大円寺や目黒不動に関する記事がある。

(2)碑文谷そぞろ歩き

 今は駐輪場になっている、東急目黒線の線路跡を過ぎ、先に進むと分かれ道に出る。右側の道は品川用水沿いの道、左側の道は碑文谷道で、このコースでは左側の碑文谷道をたどる事になるが、かむろ坂通りが延長されたため、道が分断されてしまっている。そこで、かむろ坂通りを右側の道で渡ってから、左に行き碑文谷道の続きの道をたどる。その先、目黒本町五の信号を渡って平和通りを進み、次の信号を過ぎて先に進むのが円融寺に向かう碑文谷道だが、本コースでは、この信号で左に折れ、少し先で坂を下り、突き当りを右に行って、立会川緑道に出る。立会川の水源は碑文谷池で、円融寺の西側を流れたあと、東に向きを転じて流れていたが、その流路が暗渠化されたあと、その一部が、碑文谷八幡の参道に連なる遊歩道として整備されたのが、この緑道という。緑道内に置かれた案内板を確認し、桜の頃を想像しながら、この緑道を歩いていく。

 今回は立ち寄らないが、立会川緑道の途中で右に入ったところに円融寺がある。この寺は旧称を法華寺といい、江戸名所図会には、この寺の仁王像が評判になって参詣者が多く訪れるようになった事が記されている。また、三代将軍家光の事績を描いたという江戸図屏風には、目黒の不動とともに、檜物屋法花寺が描かれているが、この寺は碑文谷の法華寺(円融寺)とされる。円融寺は、家光と何がしかの縁があったのだろうか。

 緑道を抜け、参道を歩いて碑文谷八幡に行く。それから、神社の裏手を右に進み、左側にある、すずめのお宿緑地公園に入る。公園に入って竹林を抜けると古民家がある。旧栗山家の主屋を緑が丘から移設したものという。ざっと見てまわったあと、古民家裏手の碑さくら通りに出て左に行き、環七を平町1の信号で渡る。その先、坂を下り、次の四つ角を右に行く。やがて道は下り坂となり、都立大学駅に出る。この辺り、呑川が東から南に向きを変える地点にあたり、少し分かりにくい地形になっている。

 駅を通りぬけて目黒通りを渡る。その先、上り坂の手前を左に入る。常円寺、東光寺を過ぎると、やや上りとなり、坂の途中に出る。ここを左に下り八雲小沿いに進み右へ行くと氷川神社の前に出る。ここを標識Bで左に折れ、呑川の暗渠上に作られた緑道に出て右に行く。桜が続く緑道を先に進むと、左側に宮前小の校庭が見えてくる。緑道内に置かれた案内板を確認して、左に折れ、宮前小に沿って太鼓坂を上がり、目黒通りを渡る。ここを右に行き、歩道橋の手前を左に入って南に進む。この道は九品仏浄真寺への参詣道でもあったようだが、今は人通りの多い道ではない。先に進んで谷畑坂を下っていくと信号がある。ここを左に行くと、自由が丘駅周辺の雑踏に飲み込まれてしまうが、このコースでは、駅周辺の喧騒をよそに、左折せずに先へと進む。坂を下りきると九品仏川緑道で、ここを標識Bにより左へ行き、突き当りを右に行くと東急大井町線の踏切がある。

(3)田園調布並木散歩

 東急大井町線の踏切を渡り、右側の歩道で南に向かって進む。やがて道は次第に上り坂となって環八との交差点に出る。ここを渡って先に行くと五差路になる。東南の角にある標識Bに従って左前方のイチョウ並木の道を下ると、田園調布駅の駅前ロータリーに出る。田園調布駅は既に地下駅になっているが旧駅舎は地上に復元されている。近くまで行くと、駅東側で何かのイベントが開催されているらしく、ざわめきが聞こえてくる。その一方で、駅の西側は今も一昔前の風景のまま静まりかえっている。

 駅前ロータリーの西側に案内板が設置されている。その南側、イチョウ並木の道を上がり、先に進むと宝来公園に出る。武蔵野の風景を残したとされる園内を下り、湧水を入れていた池に出る。小休止のあと、宝来公園を出て左に緩やかな坂を下っていく。

 道なりに進んで多摩川駅を過ぎ、東急東横線をくぐって、東急多摩川線沿いに進み、浅間神社の入口を右に見て踏切を左に渡り、すぐ右に折れて中原街道の下をくぐる。その先、六郷用水跡に再現された水路に沿って、快適な道を進めば東光院の横に出る。左側から寺の前に下ってくる坂は桜坂で、旧中原街道は、この坂を下っていた。道を右に折れ、コースの終着点となる沼部駅を左に見送って踏切を渡り、多摩川の堤防に出てみる。江戸時代に脇街道として利用された旧中原街道は、虎ノ門を起点に、大崎、戸越を経て、下目黒経由の道と碑文谷経由の道を合わせて下沼部に至り、多摩川を舟で渡って、小杉を経て平塚方面に向かっていた。さらに、その道筋は、古代の東海道とも重なるところがあるという。目黒田園調布コースを終えるには、この多摩川の土手がふさわしい。そんな気がした。



渋谷コースを歩く

2013-10-14 09:49:11 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち「渋谷コース」は、「原宿界隈散歩(渋谷駅~表参道駅)」、「青山緑陰散歩(表参道駅~乃木坂)」、「赤坂山王散歩(乃木坂~桜田門)」の3区間のサブコース(ガイド区分)から成り、総延長は8.4km。コースが設定された当初に比べ、ルート沿いの景観がかなり変貌しているコースでもある。今回は、桜田門近くで「お堀端コース」から分かれて渋谷駅に至る経路をたどることとする。

(1)桜田門~乃木坂

 保存修理工事を終えた桜田門からスタートし、お堀端を歩いて国会前の交差点に出る。ここで、「お堀端コース」と分かれて交差点を渡ると、その先に標識Aが置かれている。右側は国会前庭の北側の地区で、今は洋風庭園になっているが、江戸時代には井伊家の屋敷があったところである。幕末に井伊大老が暗殺された桜田門外の変は、ここから桜田門に向かう途中で起きている。先に進んで国会正門前の交差点を右に折れて行くと憲政記念館に出るが、今回は、国会前庭の中を通り抜けて行く。途中、標高の基準となる水準点の原点を収めた建造物も見ておく。

 改修工事中の憲政記念館の前を左に折れると国会図書館に出る。ここは、一般の人でも利用は可能だが、手続きが必要となる。この図書館に所蔵されている図書資料のうち一部はデジタル化されインターネットで閲覧できるようになっており、当ブログの記事を書く際にも何度か利用している。

 国会図書館の先の信号で左に折れ、新しくなった議員会館の前を過ぎると、国会議事堂の裏手から日枝神社方面に山王坂が下っている。右側の歩道で坂を下り、坂の下で左側の歩道に移って進むと日枝神社の駐車場がある。その手前を左に入ると鳥居があり、男坂の石段がある。江戸時代の山王坂は日枝神社の社地で、坂上と坂下には門前町があり、山王坂から男坂に至る道筋が表参道になっていた。男坂を上がるのをやめて駐車場まで戻り、神社の境界に沿って道路を上がる。道は少し先から下りとなり日枝神社の下を回り込むように左へ曲がっていく。間もなく右手に鳥居が見え、左手には西参道の石段が見えてくる。ここを右に折れて鳥居をくぐるのがルートだが、右に折れずに先に進むと、山王下から日枝神社に上がる石段に出る。ここにはエスカレータも併設されていて、今では、こちらが表参道のようになっている。

 ルートどおりに右に折れて鳥居をくぐり、昔は溜池だった外堀通りを渡って直進すると、一ツ木通りに突き当たる。通りを渡った先の歩道に標識Aが置かれているが、ここからは「新宿コース」と合流して左に行く。右手の赤坂BizタワーからTBSに至るエリアは、平成20年にオープンした複合施設で、赤坂サカスと呼ばれている。一ツ木通りを先に進み、赤坂通りに出て右に折れる。この辺りは、江戸時代に新町と呼ばれた町人地だったところである。赤坂通りを左側の歩道で先に進むと、道路際に案内板が置かれている。

 案内板から少し先の赤坂小前の交差点で、今回は、右側の歩道に移る。先に進むと、前方に坂が見えてくる。右側には、日露戦争で功のあった乃木大将を祭る乃木神社があり、神社に隣接して乃木旧邸が保存公開されているので、見にいく。

(2)乃木坂~表参道駅

 乃木旧邸から外苑東通り側に出て左に行くと、東京ミッドタウン西の交差点に出る。ルートはこの交差点で右に折れるのだが、その前に左に行き、ミッドタウン・ガ-デンで一休みする。東京ミッドタウンは防衛庁跡地を再開発して平成19年にオープンした複合施設で、ミッドタウンタワーなどの施設で構成されている。

 東京ミッドタウン西の交差点で外苑東通りを渡って先に進むと、平成19年に生産技術研究所の跡地にオープンした国立新美術館の特徴ある建物が見えてくる。入館するのはまたの機会ということにして左に曲がり、左側の歩道を歩いて、政策研究大学院の下を回り込むように右へ行く。道路の下をくぐって先に進み、星条旗新聞の先を右に入り、信号を渡ると青山霊園に出る。

 青山霊園に入ると、右斜め方向に上がっていく桜並木の道がある。緑陰の散歩道としては好みが分かれるところだが、この道を上がって行くと霊園中央の信号に出る。ここに案内板が置かれている。ここから左に折れ、橋を渡っていくと、道は左に曲がるようになり、根津美術館前の交差点に出る。新しくなった美術館に入ってみたいところだが、今回は割愛して交差点を右に折れ、右側の歩道を歩いて、表参道の交差点に出る。

(3)表参道駅~渋谷駅

 表参道の交差点から右側の歩道で坂を下っていくと、同潤会青山アパートの跡地に建てられ、平成18年にオープンした表参道ヒルズに出る。同潤会のアパートは、関東大震災後に不燃住宅を供給することを目的として各地に建てられた、当時最新の設備を備えた鉄筋コンクリート造りの集合住宅だが、上野のアパートを最後にすべて取り壊されており、今は、表参道ヒルズの再生棟に、往時の青山アパートの姿をしのぶのみである。

 表参道ヒルズから坂を下りきった場所は、渋谷川の上流部が表参道を横断するように流れていた場所で、その跡が今も遊歩道のようになっている。江戸から明治にかけては田園地帯であったこの辺りも、大正になって明治神宮が創建されると表参道が造られ、大きく変貌する。今は、お洒落な通りとなった坂道を上がり、原宿駅の手前の交差点を歩道橋で渡って、神宮橋に向かう。交差点の側に設置されている案内板を確認し、神宮橋を渡ると右側に明治神宮の鳥居が見えるが、今日のところは入るのをあきらめ、ここから左に、代々木公園に行く。

 この先のルートは、代々木公園に沿って進み、その先の信号で左に渡るのだが、今回は代々木公園内をしばらく散策し、渋谷門から出て左手の信号を渡り、イベント広場のある区画に入る。左手に前回の東京オリンピックの際に建設された代々木競技場の建造物を見ながら先に進み交差点を渡ると、公園通りに出る。昔は寂しい道だったこの通りも、今は人通りの絶えない道となる。坂道を下り切って右へ折れ、雑踏に飲み込まれたまま、今なお変わりつつある渋谷駅に至る。


品川池上コースを歩く

2013-06-09 09:46:05 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち「品川池上コース」は、「品川宿場散歩(品川駅駅~浜川橋)」、「大井なぎさの森散歩(南大井1丁目~流通センター駅)」、「馬込文士村散歩(浜川橋~大田区立龍子記念館)」、「本門寺散歩(大田区立龍子記念館~池上駅)」の4区間のサブコース(ガイド区分)から成り、総延長は14.5kmになる。

(1)品川宿場散歩

 品川駅の西口(高輪口)から南へ、第一京浜の左側の歩道を進む。江戸時代なら海の景色を眺めながら歩くことになるのだが、今は交通量の多い道路の脇を黙々と歩くだけである。煩わしければ、品川駅東口(港南口)に出て旧東海道に出ることも出来るが、今回はルート通りに進み、八つ山橋を右側の歩道で渡る。渡った先は小さな広場のように整備されていて、橋のそばには歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。ここは、品川宿の入口にあたり、広重の「東海道五十三次之内品川」を見ると、街道の右側からは八つ山が迫り、左側は海になっている。この先のルートは、踏切を渡って、徒歩新宿、北品川、南品川から成る品川宿を通り、立会川を渡るまで、旧東海道をたどることになるが、街道らしい雰囲気を残した、歩きやすい道になっている。

 踏切を渡って旧東海道を進み、東海七福神の一心寺を過ぎると、左手に品川宿本陣の跡地である聖蹟公園の入口がある。山手通りを渡って先に進むと、北品川と南品川の境をなす目黒川があり、品川橋が架かっている。橋の上には、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれており、立会川を越えるまでのルートが記されている。

 品川橋から上流を眺めると、右手の荏原神社に渡る朱塗の鎮守橋が見える。荏原神社は今でこそ目黒川の北側に位置しているが、目黒川の流路が変わる以前は、川の南側に位置していた。荏原神社は、神輿の海中渡御で知られる南品川の鎮守で、北品川の鎮守である品川神社が北の天王と呼ばれていたのに対し、南の天王と呼ばれていた。

 品川橋から先に進んで天妙国寺を過ぎると、ジュネーヴ平和通りに出る。品川寺の梵鐘がジュネーヴから返還された事を記念した通りの名だが、昔は池上の本門寺への参詣道でもあった。この通りを渡るとすぐ品川寺で、東海道に向けて置かれた江戸六地蔵の一が今も健在である。ちなみに、江戸六地蔵のうち現存するのは、東海道の品川寺の地蔵、奥州街道の東禅寺の地蔵、甲州街道の太宗寺の地蔵、中山道の真性寺の地蔵、水戸街道の霊巖寺の地蔵の五地蔵である。荒神様で知られる海雲寺を過ぎて、旧東海道を先に進み、鮫洲に入る。広重は名所江戸百景の「南品川鮫洲海岸」に遠浅の海で海苔を栽培するヒビを描いているが、北斎もまた、東海道五十三次の「品川」に海苔を干す様子を描いている。当時は海苔が品川の名物になっていたのだろう。鮫洲を過ぎるとやがて立会川に出るが、その少し前を右に入って商店街を抜けると立会川駅に出る。最近は竜馬ゆかりの地として宣伝しているらしく、途中に坂本竜馬像が建てられている。立会川に架かる浜川橋を渡って、東海七福神の天祖諏訪神社を過ぎ、競馬場通りを渡ると、左側に標識Aがある。ここがコースの分岐点になっている。

(2)大井なぎさの森散歩

 旧東海道から分かれて競馬場通りを東に行き、しながわ区民公園の入口を過ぎ、海岸通りを渡る。その先、大井競馬場を過ぎて、東京モノレールの大井競馬場前駅に出る。京浜運河を勝島橋で渡ると、右側に緑地が広がっている。緑地に沿って先に進み、中央海浜公園前の交差点を右に折れる。この先、道路の両側は大井ふ頭中央海浜公園で、右側は、なぎさの森、左側はスポーツの森になっている。少し先に、なぎさの森の入口があり、ここに歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。ルート図では、直進するようになっているが、今回は、タイトルに従って、なぎさの森に入る。

 まず、なぎさの森管理事務所に行き、パンフレット類を入手してから、近くの樹林淡水池保全地区に入り、散策路で淡水池の周囲を一周してみる。アオサギでも居るかと思ったが、今日のところは姿を見せない。ついでに、管理事務所の横を入って野鳥観察舎に行き干潟保全地区の様子を眺めてから、先に進んで夕やけ橋を渡る。道が水辺に下った先はバーベキュー地区で、本日は満員御礼の状態である。ここを抜け、一旦外に出て交差点を渡り、南側の緑地の水辺の道をしばし歩き、それから外に出る。ここまで来たら港野鳥公園に行ってみたいところだが、それはまたの機会という事にして、京浜運河を大和大橋で渡り、交差点を渡ってモノレールの流通センター駅に着く。駅近くの交差点の角に歴史と文化の散歩道の案内板が置かれており、ルート図が記されているので、逆コースの場合には参考になるだろう。

 大井なぎさの森散歩は、戦後に埋め立てられ、流通の拠点として整備された地域のうち、緑地やスポーツ施設のあるエリアを歩くことになるので、歴史散歩というよりは、緑地散歩のようなコースになっている。

(3)馬込文士村散歩

 競馬場通りを渡った先で、大井なぎさの森散歩のコースと別れて旧東海道を左側の歩道で南に進むと、信号の先の、しながわ区民公園の入口に標識Bがある。さらに、その先にも標識Bがあり、ここを右に折れて西に行くのがルートだが、横断歩道が無いので、少し先の公園入口の横断歩道を渡って戻ってくるが、しながわ区民公園内を散策してから戻る方が良かったかも知れない。先に進み、京浜急行のガードをくぐり、鈴ケ森道路公園を過ぎて、第一京浜を渡る。左側の歩道で、桜新道を過ぎて、JR線路沿いの細長い大井水神公園に出る。ここに、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。

 左側の歩道で、ガードをくぐり、下ってくる自転車に注意しながら坂を上がると、池上通りに出る。交差点の右側には品川歴史館があるが、今日のところはパスして交差点を左に折れ、左側の歩道で鹿島神社を過ぎる。その先の左側に、モース博士により発見され、我が国の考古学の端緒となった大森貝塚を公園化した大森貝塚遺跡庭園がある。

 先に進むと、山王口交差点の手前に、大森貝塚の碑への下り口があったので、入ってみる。大森貝塚遺跡庭園は品川区にあるが、線路沿いに立つ碑は、大森貝塚の遺跡地が大田区側にもある事を主張しているようである。八景坂を下り大森駅を過ぎて、山王二の信号で右側の歩道に移る。その先を右に入り、歴史と文化の散歩道と記したポールを目印に、右側の坂を上がる。暗闇坂という名の、この坂の上には富岡美術館があったのだが、すでに閉館している。道は少し曲がりくねりながら続き、やがて下り坂となる。坂の下には標識Bがあるが、ここを左に行くと環七に出る。

 環七を渡り、坂を上がって、標識Bにより右に折れるが、この先、上り下りもあって道は分かりにくくなる。標識Cを頼りに左に折れ、さらに、その先を左に折れて進むと、萬福寺の看板が見えてくる。その先、右に分かれていく道がルートで、道なりに行けば大田区立郷土博物館に出るが、直進して坂を上がり、信号で右に折れ、博物館の表示により左に入っても良い。博物館の前には、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。

 博物館から先に行くと東急ストアに出る。ここで止める場合は、そのまま進み第二京浜に出て、すぐ右側に西馬込駅の入口がある。続けて歩く場合は東急ストアのところで、左に入る。入ってすぐの歩道に標識Bがあり、ここからは桜並木の歩道を歩く。信号を過ぎると標識Bがあるが、その先の善照寺の角を左に曲がり右側の歩道を歩く。桜並木が途切れたところで、左手の郵便局の左側の道を入ると、龍子記念館がある。日本画家の川端龍子の作品を展示する美術館で、建物は龍子自身が設計に当たったという。

 記念館の手前を右に入り、突き当りを右に行くと、五差路のような場所に出る。標識Bにより、左前方の道を進み、中央五丁目公園を過ぎて汐見坂を上がる。上がり終えると下り坂となり、前方に本門寺の森が見えてくる。下り終えて先に進むと左側に弁天池がある。さらに、墓地沿いの道を進んで、突き当りを右に上がると、貴船坂の上に出る。ここを左に、車に注意しながら道路の左側を進むと、下り坂になる。坂の下、ガードの手前を左に入る道がある。ここを左に入るとすぐ、池上梅園の入口がある。ここは梅の季節には混雑するが、ほかの季節は閑散としているようだ。

 池上梅園を出て左に行き、ガードをくぐって来る道に合流して南に向かう。本門寺の山の麓に沿った道を歩いて行くと、本門寺の総門の前に出る。ここまで、上り下りの多い道を歩いてきたが、あとは、96段の石段を残すのみである。

 総門の前、東側の歩道に、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。南に進み、呑川を渡って、信号を右に入り、次の角を左に曲がる。ここからは池上本門寺通りとなる。参詣道らしい通りを進めば、池上駅に出る。ここが、コースの終点となる。


【参考】歴史と文化の散歩道の標識


 歴史と文化の散歩道のルート表示としては、案内板のルート図のほかに、標識A,B,Cがある事は、「銀座佃島コースを歩く」の中で紹介したが、これ以外の標識も使用されている。歴史と文化の散歩道のシンボルマークであるカタツムリを取り入れたガードレールは、品川池上コースのほか、幾つかのコースで使用されている。

 標識Cは方向表示があるのが本来と思われるが、方向表示の無いものもある。方向表示付きの標識Cを移動すると誤った道案内になりかねないので、方向表示なしにも意味がありそうである。写真は池袋コースの事例で、緑色のものである。

 品川池上コースの暗闇坂には、歴史と文化の散歩道と記したポールが使用されている。ほかに、日本橋本所深川コースで用いられている事例として、シンボルマークのカタツムリを乗せたポールを用いている例がある。
  



日本橋本所深川コースを歩く

2013-06-02 17:38:31 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち「日本橋本所深川コース」は、「お江戸日本橋散歩(大手町~鎧橋)」、「人形町浜町散歩(鎧橋~新大橋)」、「深川芭蕉庵散歩(新大橋~清澄庭園)」、「下町深川散歩(清澄庭園~門前仲町駅)」、「本所蔵前散歩(新大橋~浅草橋)」の5区間のサブコース(ガイド区分)から成り、総延長は10.6kmになる。なお、このコースは、新大橋の交差点で門前仲町方面と浅草橋方面に分岐している。

(1)お江戸日本橋散歩

 このコースの起点は、お堀端コースと同じく、大手町ビル北東側の交差点で、標識Bは、逓信総合博物館の近くにも置かれている。逓信総合博物館(ていぱーく)は、今年の8月31日をもって閉館の予定ということなので、とりあえず入ってみたが、この日の館内は閑散としていた。

 左側の歩道で先に進み、JRのガードをくぐる。その先の左側に改修工事中の常盤橋公園がある。常盤橋は奥州街道に通じる重要な橋で、常盤橋御門も置かれていたが、明治になって御門は壊され、その石垣の一部を用いて洋式の石橋が架けられる。この石橋は常磐橋と名を変えて、石垣の一部とともに人道橋として現存しているが、修復工事中のため今は立ち入ることが出来ず、南側の常盤橋側から眺めるだけになる。

 常盤橋を渡って常盤橋交差点を左に行き、日本銀行旧館の前を通る。江戸時代の金貨鋳造所、金座の跡である。江戸時代、金座から先に行くと駿河町があり、道の両側には越後屋が店を構えていた。当時、通りから見えていた富士の姿は見えなくなってしまったが、越後屋の跡は、その後継者たちにより、三井本館と三越として今に引き継がれている。

 中央通りに出て右に行くと日本橋に出る。広重は名所江戸百景の「日本橋雪晴」に、日本橋川北岸の魚河岸、日本橋と日本橋川、川の南岸に並ぶ蔵を描き、さらに定番の江戸城と富士山を描き入れている。今は、当然のことながら、昔をしのぶものは無く、空を覆う高速道路に阻まれて、日本橋からの眺めも失われてしまっている。

 日本橋を過ぎて交差点を渡り、野村証券の南側の道に入り、右側の歩道で東に進んで昭和通りに出る。交差点の近くには、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。交差点の左側は、日本橋川に架かる江戸橋である。江戸時代、この橋の南側は広小路で、物資の集積地でもあったので、市が立ち、盛り場のようになっていた。

 昭和通りを歩道橋で渡ると、その先に日本橋郵便局がある。ここは郵便発祥の地にあたり、右側の通用口に記念碑が置かれている。郵便局の北側にある標識Bに従い、日本橋川沿いの道を進むと高速道路に出る。ここは紅葉川の跡で、少し南に行ったところに、海運橋の親柱が残されている。その近くの、みずほ銀行のある場所は銀行発祥の地であり、それを記念する銘板がはめ込まれている。証券取引所を過ぎると、その先に鎧橋がある。江戸時代、ここには鎧の渡しがあり、渡った先は小網町で蔵が並んでいた。


(2)人形町浜町散歩

 鎧橋を渡って、蛎殻町の交差点を左に折れ、次の信号を右折して先に進む。江戸時代、この道筋には、貨幣を鋳造する銀座のほかは、武家屋敷しかなかった。町人地は、少し離れた北側にあり、芦屋町や堺町と呼ばれる一帯は中村座や市村座があり、人形芝居もあって、天保の改革で浅草に移転させられるまでは、芝居町として繁盛していた。先に進んで人形町通りを渡り、ほうじ茶の香りに誘われるように、甘酒横丁を歩く。今は、人通りの絶えない道になっているが、この通りも、江戸時代は武家地で、町人地は北側の吉原の跡地のほか、南側の一角だけであった。

 甘酒横町を先に進むと、浜町川跡を緑道にした浜町緑道に出る。ここに歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。浜町川は隅田川に通じる入堀で、江戸の切絵図を見ると浜町川の両岸に浜町河岸と書かれている。ところが今では、隅田川の河岸を浜町河岸と呼んでいる。石川寒巖は明治43年に「日本橋浜町河岸」の題で隅田川を描いているので、「明治一代女」の浜町河岸は隅田川を指していたと思われるが、そのモデルとなった花井お梅の事件が起きた明治20年頃はどうだったのかは分からない。緑道の先、清洲橋通りを渡ると、左側に明治座が見える。右側には水天宮の幟が見えるが、建て替えのための仮宮という。右側の歩道を進むと、浜町公園の前に出る。ここを右に行くと新大橋通りに出る。通りを渡って左に行き新大橋を渡る。渡った先、新大橋の交差点の南東側の角に置かれている標識Aがコースの分岐点となる。


(3)深川芭蕉庵散歩

 新大橋の交差点から左側の歩道で南に向かうと、右側に芭蕉記念館が見えてくる。実を言うと、記念館に入り、そのあと裏門から隅田川テラスに出て、隅田川沿い南に向かい、芭蕉庵史跡展望庭園、芭蕉稲荷を経て萬年橋に出るのがお勧めなのだが、今回は所定のルートに従い、左側の歩道を先に進んで、小名木川に架かる萬年橋を渡り、清洲橋通りを横断し、清澄公園に出る。

 清澄公園の隣に清澄庭園がある。清澄庭園は、大名屋敷の跡地を明治時代に岩崎家が入手して整備した庭園である。この庭園を紀伊国屋文左衛門の別邸跡とする説もあるが、この説には反対意見もある。ただ、明暦の大火の後、この近辺に元木場と呼ばれる貯木場が設けられていた事は確かなようである。清澄庭園には何度か入っているので、今回は割愛して先に進み、清澄通りに出て右に行く。ここに歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。

(4)下町深川散歩

 次の信号で清澄通りを渡って先に進むと、左側に霊巌寺がある。この寺は、松平定信の墓所があることで知られるが、江戸六地蔵の一が現存する寺でもある。この寺の先に、深川江戸資料館があり、ここも何度か来ているので、今回はパスして先に行く。
 
 先に進んで白河三の信号で右に折れ、平野二の信号で右に折れ、平野の信号で左に折れ、木更木橋で仙台堀川を渡る。ここに歴史と文化の散歩道の案内板がある。さらに進んで、葛西橋通りに出る。左手に深川七福神の冬木弁天堂がある。

 葛西橋通りを渡り高速道路の下を抜けると深川公園に出る。ここに、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。富岡八幡宮の別当寺であった永代寺の庭は、広くかつ手入れも行き届いた評判の庭で、広重が名所江戸百景の一つとして取り上げるほどであった。明治になると永代寺は廃寺になり、その跡地が我が国最初の公園の一つとなる。これが深川公園で、現在は深川不動の東側と西側に分かれている。

 深川公園の東側が富岡八幡で、深川公園側からも入ることが出来る。この神社の祭礼は8月で、水かけ祭とも呼ばれ、神輿も、担ぐ人も、時には見物客もびしょ濡れになる。境内には伊能忠敬の像があるが、忠敬が測量の旅に出かける時には、富岡八幡に参拝してから出かけたという事に因んで建てられたものという。

 永代通りに出て右へ行くと、深川不動堂の参道がある。この道を入ると右側に永代寺があるが、旧永代寺の塔頭で永代寺の名跡を引き継いだ寺である。江戸時代、永代寺では成田不動の出開帳が度々開かれていたが、明治になって、永代寺が廃寺になったため、成田不動の東京別院として建てられたのが深川不動堂である。以前は、背後に高速道路が見えるのが煩わしかったが、今は目立たないようになっている。

 永代通りを西に行くと門前仲町の交差点に出る。歴史と文化の散歩道の案内板は、交差点の西北側に置かれている。下町深川散歩も、これにて終わりという事になる。

(5)本所蔵前散歩

 新大橋の交差点から右側の歩道で北に向かう。カタツムリ・マークのポールを目印に一の橋通りを進み、標識Bにより新大橋二の信号を右に曲がり、次の角を標識Cにより左折する。北に向かって進むと、木の橋を模した塩原橋に出る。橋の名の由来は、江戸の豪商・塩原太助が近く住んでいたからという。ここに歴史と文化の散歩道の案内板がある。

 塩原橋を渡って、次の信号の一つ先を右に行くと吉良邸跡に出るが、今回は直進して京葉道路に出る。ここを左に行くと回向院に出る。江戸時代は勧進相撲が行われ、また、出開帳も行われて賑わった寺であり、今年は、善光寺の出開帳も行われていた。さらに進んで両国駅を過ぎ、江戸東京博物館に入る道を見送って、国技館の前を過ぎ、旧安田庭園に入って園内を一巡してから外に出る。

 旧安田庭園から近くの横網町公園に行く。ここは、関東大震災の時に大きな被害を出した被服廠跡で、東京都慰霊堂がある。公園の正面から外に出ると、清澄通り沿いに歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。

 清澄通りを北に行き、蔵前橋通りとの交差点を左に折れる。蔵前橋を渡り、江戸通りを横断して、右側の歩道で先に進むと鳥越神社がある。神社の先、浅草橋三の信号で蔵前橋通りを渡って直進し、突き当って左に行くと江戸通りに出る。ここを右に行けば浅草橋駅で、本コースも、ここまでである。


言問コースを歩く

2013-05-25 18:02:42 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち「言問コース」は、「浅草寺町散歩(東上野~仲見世)」、「三社まつり・墨堤散歩(仲見世~桜橋)」、「隅田川七福神散歩(言問橋~鐘ケ淵駅)」の3区間のサブコース(ガイド区分)から成り、総延長は7.3kmになる。

(1)浅草寺町散歩

 このコースは、千住コースの途中から分岐しているが、このコースだけを歩くのであれば、上野駅が起点になるのだろう。上野駅の入谷口を出て左に進み、その先で右側の歩道に移り、信号の手前の角を標識Cにより曲がり、昭和通りを渡り、北上野児童遊園を過ぎ、清洲橋通りを渡り、千住コースと別れて直進する。ここからは、スカイツリーを正面に見ながら合羽橋本通りを歩く。合羽は河童に通じるというわけで、この辺りでは河童の像を良く見かけるが、その本拠ともいうべき寺、かっぱ寺こと曹源寺が通りの途中にある。この寺を過ぎると間もなく合羽橋の交差点となり、この辺りから人通りが多くなってくる。交差点を右折し、少し歩を緩めて、かっぱ橋道具街を歩く。やがて、浅草通りの菊屋橋交差点に着く。合羽橋や菊屋橋の名は、ここを流れていた新堀川の名残だが、「江戸名所図会」の挿絵からすると、新堀川は川船が通るほどの川幅であったらしい。

 菊屋橋の交差点を左に折れ、浅草通りの左側の歩道を進むと、左側に東本願寺があり、その近くの浅草通り沿いには歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。東本願寺は、明暦の大火の後に神田から移ってきたが、他にも多くの寺が移ってきたため、この地は新寺町と呼ばれるようになったという。さらに、いつの頃からか、浅草通り沿いに仏壇仏具店が並ぶようになり、浅草通りは仏壇通りと呼ばれるようになった。案内板のルート図に従い、浅草通りを先に進み、国際通りに出て左に折れ、雷門通りを右に折れて、左側の歩道を進んで行くと雷門に出る。ここは、相変わらずの混雑ぶりである。

(2)三社まつり・墨堤散歩

 三社祭はもともと浅草寺の観音像が出現した3月18日を祭礼日としていた。江戸時代の祭礼では、浅草寺の縁起にもとづいて舟祭などが行われていたが、明治になってからは、三社権現(浅草神社)の祭礼として5月に行われるようになり、祭の形も変わってしまっている。それでも、祭の活況は昔と変わらないのだろう。今年も、初夏を彩る行事の一つとして、三社祭は多くの観客を集め、盛況のうちに幕を閉じている。
 
 三社祭の時は散歩どころではないので、別の日に、このサブコースを歩いてみた。普段でも混雑している仲見世を抜け、宝蔵門をくぐって本堂に上がり、参拝を済ませたあと、浅草神社に行くところまでは定番で、その後は、気ままに散策ということになるのだが、今年は大絵馬寺宝展と合わせて、伝法院庭園が公開されているという事なので行ってみた。この庭園は、伝法院通りの鎮護堂から少しだけ覗き見る事が可能だが、やはり、機会があれば入ってみたい庭園である。
 
 二天門から外に出て、馬道通りを渡り、花川戸公園に行く。ここには、歴史と文化の散歩道の案内板があり、花川戸公園の図や説明が記されている。この地には姥ケ池の伝説があり、それに因む池も公園内に作られている。花川戸公園から隅田公園に行くと、入ってすぐの所に歴史と文化の散歩道の案内板が置かれており、隅田川の西岸と東岸を通る二つのルートが記されている。隅田川の両岸は景勝の地として知られ、広重も東都名所隅田川八景として、「今戸夕照」と題する今戸の瓦焼きの絵など、8点の風景画を描いている。公園内を歩いて、標識Aで隅田川の東岸を歩く七福神散歩のルートと別れ、言問橋の下をくぐって西岸を歩く。スカイツリーを眺めながら歩くには、絶好の散歩コースである。ただ、去年来た時には存在していた平成中村座が跡形もないのは、少しさびしい気もする。スカイツリーを眺めながら桜橋を渡れば、隅田川七福神散歩ルートとの合流点になる。


(3)隅田川七福神散歩

 隅田川七福神めぐりは、恵比寿と大国を祭る三囲神社、布袋の弘福寺、弁財天の長命寺、福禄寿の百花園、寿老神の白髭神社、毘沙門天の多聞寺の6か所の札所をめぐるものである。公園内の標識Aから言問橋に行き、スカイツリーを正面に見ながら、右側の歩道で言問橋を渡ると、右手の隅田公園への下り口がある。石段を下りて右に行き、高速道路下の歩道で言問橋をくぐって北に向かう。ここから先、眺めはあまり良くないが歩きやすい道が続いている。次の信号で右に入ると隅田川七福神の三囲神社の前に出るが、この道を見送って先に進むと右側に鳥居があり、裏門が開いていれば、三囲神社に入る事が出来る。
  
 高速道路下の歩道を先に進むと、桜橋から高速道路の下をくぐって来る道と合流する。ここから右に下りる事が出来るが、その先の信号を左に折れると弘福寺に出る。長命寺は、弘福寺の先にあり、何れも隅田川七福神の札所になっている。高速道路下の歩道の方は、弘福寺と長命寺の裏手を通ることになるが、裏門が開いていれば長命寺に入る事ができる。
 
 高速道路下の歩道を進み、長命寺の桜餅の店を過ぎると、道は右に曲がっていき、T字路に出る。ここを左に渡ると、左手に言問団子の店があり、少年野球場の前には、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。北斎の絵本隅田川両岸一覧のうち「向島の時雨」と題する絵には隅田川沿いの道が描かれているが、今の道で言えば高速道路とその下の道に該当するだろうか。案内板のルート図を確認してから、野球場に沿って曲がり、墨堤通りの左側の歩道を進み、向島入口の信号で墨堤通りを渡る。渡った先の左側に標識Bがあり、ルートは、ここを右に入るのだが、少々分かりにくいかも知れない。多少の屈曲がある道を道なりに進むと、幸田露伴の住居跡に作られた露伴児童遊園があり、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。この案内板には、江戸の大絵図の上に現在地を記した図が載っているが、当然のことながら、現在地に江戸郊外の田園地帯であった頃を思い起こさせるものは無い。ただ、向島百花園のうちに、広重が花屋敷を描いた頃の面影を残すのみである。

 露伴児童遊園の前の道を先に進むと信号があり、ここを渡って右へ、すぐ左に折れて進むと、次の角に標識Cがある。ここを左に行くと向島百花園の児童遊園の前に出る。ここに標識Bがある。児童遊園内を抜けると向島百花園の入口に出る。百花園は、もともと梅園として始められ、亀戸の梅屋敷に対して新梅屋敷と呼ばれていたが、やがて、詩歌に登場する草木が栽培されるようになり、大名庭園とは異なる文人好みの庭園となる。ここは、隅田七福神発祥の地でもあり、園内には福禄寿が祭られていて、正月には開帳も行われる。

 白髭神社へは、百花園を出て右に行くのが近道だが、本来のルートは、児童遊園前の標識Bから西に行き、墨堤通り近くから弧を描くような旧墨堤を進んで白髭神社に出るようになっている。白髭神社から墨堤通りを北に進むと、白髭橋東詰の交差点に出る。ルートは、ここから墨堤通りの左側の歩道を進むのだが、やや単調なので、東白髭公園を通って木母寺を経由しても良いかも知れない。鐘ヶ淵陸橋の交差点に出たら右に折れ、鐘ヶ淵通りに入る。ここからは、車に注意しながらの歩行で、あまり快適な道ではないが、間もなく鐘ヶ淵駅に着く。ここがコースの終点となる。このルートでは、札所のうち多聞寺が外れているので、多聞寺に行く場合は、鐘ヶ淵駅から10分ほど、追加で歩く必要がある。

(注)当ブログの「社寺巡拝」の隅田川七福神の関連記事がある。




千住コースを歩く

2013-05-11 16:49:26 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち「千住コース」は、「下谷縁日散歩(上野駅~鷲神社)」、「たけくらべ千住の大橋散歩(鷲神社~北千住駅)」から成る。距離は7.8kmである。

(1)下谷縁日散歩


 谷中コースの、下町風俗資料館近くの標識Aは、千住コースの起点でもあるのだが、千住コースだけを歩くのであれば、上野駅が起点という事になるのだろう。上野駅の不忍口を出て左へ行き上野駅正面を過ぎる。今は少々影が薄くなっているが、ここが上野駅の玄関口という事になる。その先、JRの敷地に沿って北に向かう道を入谷口通りと言うらしいが、この道の左側の歩道を歩いていくと、歴史と文化の散歩道の案内板がひっそりと置かれている。その内容は、ルート図、上野駅の歴史についての説明、明治時代の上野駅の絵である。案内板の少し先には、上野駅の入谷口があるが、出入りする人は多くなさそうである。ここを過ぎてから、右側の歩道に移って先に進み、信号の一つ手前の角を、標識Cにより右に折れると、正面にスカイツリーが見えてくる。この道を進んで昭和通りを渡り、その先の信号を渡った左側に、道路に挟まれた北上野児童遊園があり、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれているが、今は枠だけになっている。児童遊園東側の清洲橋通りを渡って、直進する言問コースと分かれ、左に折れて、清洲橋通りの右側の歩道を北に向かう。

 清洲橋通りは、少し先で昭和通りに合流し、言問通りとの交差点に出る。7月の朝顔市の時は、この交差点の西側には出店が並び、周辺一帯が大混雑する。言問通りを渡って昭和通りを進み、二つ目の信号を右に入る。先に進んで国際通りを渡ると鷲神社の前に出る。毎年、酉の市の時は熊手を売る店が並び、境内は人で埋め尽くされるが、今は、がらんとして拍子抜けするぐらいである。なお、鷲神社は、浅草名所七福神の寿老人も祭っている。

(2)たけくらべ千住の大橋散歩


 鷲神社の前を北に少し行くと、右斜め前方に入る道がある。この道に入り、次の角を左折すると、下谷七福神の飛不動がある。飛不動の前を北に向かって進み、信号を右折して次の角を左折すると、その先に一葉記念館がある。時間があれば寄りたいところだが、今回はパスして、記念館の前の道を北に進み、左に折れて飛不動の前の道に戻る。この道を北に進むと、下谷七福神の寿永寺に出る。この道をさらに進むと、明治通りに出る。渡れば、三ノ輪駅の入口がある。


 三ノ輪駅入口から北に行き、次の角を標識Cに従って右に折れる。道は分かりにくいが、投げ込み寺とも呼ばれた浄閑寺の前を通る道がルートである。ここから、左側の歩道を東に向かって歩いていくと、昔の奥州街道(日光街道)、吉野通りに出る。ここを標識Cにより左折し、その先の跨線橋を渡る。橋を下りた左側には小塚原の処刑場跡があり、常磐線のガードをくぐった先には回向院がある。先に進んで、南千住七の信号で左に折れる。ここからは右側の歩道を歩き、日光街道を渡って、その先の千住間道を進むと、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。その内容は、ルート図、奥州街道と千住宿の説明、江戸名所図会による千住大橋の図である。当初の千住宿は現・北千住駅近くにあったが、次第に拡張され、後には千住大橋の南側も千住宿に組み入れられるようになったという。


 千住間道を西に進むと、荒川総合スポーツセンターに出るので、ここを右に折れる。この辺りは、明治時代に千住製絨所という官営工場があり、戦後には大毎オリオンズの本拠地・東京スタジアムがあった場所でもある。先に進み、次の角を野球場に沿って右に折れ、道なりに左折し、さらに右に折れる。スーパーの横に千住製絨所の煉瓦塀の一部が今も残っている。その先の左側には荒川ふるさと文化館があり、ここも入ってみたいところだが今回はパスして、その先の素盞雄神社に寄ってから日光街道に出る。


 左側の歩道で日光街道を進み、千住大橋で隅田川を渡る。橋を渡った先の左側に、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。その内容は、広重の「名所江戸百景・千住乃大はし」の図、蕪村の「奥の細道図屏風」の部分図、千住大橋の説明である。蕪村の図は、芭蕉の「奥の細道」を蕪村が書写し俳画を加えた屏風で、案内板には、「月日は百代の過客にして・・」に始まる序章と旅立が取り上げられている。案内板の文章は読みにくいが、8行目は「草の戸も住替る代ぞひなの家」、また、その先の○の後は「いく春や鳥啼魚の目ハ泪」と思われる。


 先に進んで、次の信号で現・日光街道を渡ると、千住宿奥の細道プチテラスがあるが、プチテラスの前の道が旧街道である。この道を進み京成本線のガードをくぐって千住河原町を歩く。ここには千住宿歴史プチテラスがある。この辺り、元やっちゃ場(青果市場)の表示も目につく。もとは堤防であった墨堤通りを渡り、江戸時代には掃部宿と呼ばれていた千住仲町を進むと、東京芸術センターの前を通る道路に出る。この道路は、江戸時代に水路だったところで、その南側には一里塚や高札場があった。この水路を小橋で渡った先が当初からの千住宿(本宿)で、橋の近くには問屋場や貫目改所が置かれていた。ここから先、今は千住本町センター商店街になっている旧街道を進むと、駅前通りに出る。標識Bにより駅前通りを右に行くと、このコースの終点、北千住駅となる。

(注)当ブログのカテゴリー「社寺巡拝」に下谷七福神の記事あり。

旧中山道コースを歩く

2013-04-24 19:34:10 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち「旧中山道コース」は、「染井吉野ゆかりの地散歩(駒込駅~庚申塚)」と「板橋宿場散歩(庚申塚~板橋本町駅)」の2区間のサブコース(ガイド区分)から成り、総延長は6.6kmになる。 

(1)染井吉野ゆかりの地散歩

 桜と言えばソメイヨシノ。その発祥の地は駒込の染井の里と言われ、駒込駅北側の染井吉野桜記念公園には染井吉野発祥之里の記念碑も置かれている。そこで、桜が散ってしまう前に、染井の里をめぐって駒込駅から巣鴨駅まで歩いておくことにした。歴史と文化の散歩道の案内板は、駒込駅近くの本郷通り沿いにあり、ルート図と染井吉野の説明、広重の「江戸名勝図会・染井」の部分図を載せている。本郷通りを渡り、大国神社の横を線路沿いに進むと、染井橋という跨線橋を渡ってきた道に出る。この道を染井通りといい、ここを右に行く。江戸時代、この道の左側は藤堂家の下屋敷、右側には植木屋が並んでいた。

 染井通りの途中に「私の庭みんなの庭」という庭がある。その先の角を右に曲がった先に、「門と蔵のある広場」がある。植木屋であった丹羽家の跡地を広場としたもので、藤堂家の裏門を移築したとも伝えられる江戸後期の門と、戦前の蔵が残されている。この門の前を北に行き、染井坂の上で標識Cにより左に曲がると、西福寺に出る。

 西福寺は、染井の植木屋の中心的な存在であり、将軍家もお忍びで訪れたという伊藤伊兵衛家の菩提寺である。伊藤家は、さつき、かきつばた、すいれん等を植えた庭園を公開していたが、その中には拝領した朝鮮人参も植えられていた。西福寺から先に進むと、染井よしの桜の里公園がある。その角を左に曲がった先に、場所を移動したらしい標識Cがある。その先に進むと、また、染井通りに出るので、ここを右に行き染井霊園に出る。入口には、十二地蔵が置かれている。ここから左に行き、その先の園路を右に入るのがルートである。桜の時期は、普段と違って、霊園内を歩く人が多いようである。園内を通り抜けてから、霊園沿いの道を左へ行き、その先の角を左に曲がって、霊園の境界沿いに進むとT字路となる。左に曲がり直ぐ右に折れて先に進むのがルートで、黄色のカタツムリ・マークのガードレールが目印となる。この道を進むと、道の角に標識Bがあり、ここを右に行くと真性寺に出られるが、今回は直進して巣鴨駅まで行く。

 巣鴨駅から真性寺に向かう。この寺には、江戸六地蔵のうち現存する五地蔵の一があり、修復を終えた地蔵が中山道を見守るように置かれている。真性寺を出て、旧中山道に相当する、巣鴨地蔵通り商店街を歩く。とげぬき地蔵・高岩寺を過ぎると、人通りも幾分少なくなってくるが、ウオーキングの積りで歩くのは場違いな感を免れないので、ペースを落として歩く。やがて折戸通りとの交差点に出る。

 折戸通りは、大塚方面から王子に向かう、江戸時代からの道である。その交差点の右手の角には猿田彦大神の祠があるが、ここには庚申塚も祭られている。江戸時代、庚申塚の前は休憩地として賑わっていた場所で、江戸名所図会にも取り上げられている。交差点を渡って先に進むと都電の庚申塚駅に出る。サブコースはここで終わりとなる。

(2)板橋宿場散歩


 都電の踏切を渡って旧中山道を進む。やがて、右側に大正大学の“さざえ堂”が見えてくると、まもなく明治通りに出る。左手すぐの千川上水公園は、玉川上水から分水して流れてきた千川上水の沈殿池があった場所で、ここから上水を江戸の各所に配っていた。千川上水は板橋宿の近くから、旧中山道の南側を流れていたのだが、今はその姿を見ることができなくなっている。明治通りを渡って旧中山道を進み、埼京線の踏切を渡って板橋駅の駅前に出ると、歴史と文化の散歩道の案内板が旧中山道沿いに置かれている。その内容は、ルート図、中山道と板橋宿についての説明、それと、英泉が描いた「木曾街道板橋之駅」の図である。

 旧中山道は、この先、現中山道によって分断されている。現中山道を渡って、旧中山道板橋宿のうち平尾宿を歩く。板橋七福神の観明寺の先を右に入ったところが脇本陣の跡である。縁宿広場を過ぎると、平尾宿と仲宿の境となる交差点に出る。右へ行く道は明治になって開かれた王子新道である。仲宿に入ると道は次第に下り坂となる。ライフの角を右に入る道は御成道と呼ばれる道で、この道を入ったところに板橋七福神の文殊院がある。また、この道を入ったところに、板橋宿の本陣があったという。旧中山道を進むと石神井川に出る。板橋の地名の起こりは、ここに架かっていた橋に由来すると言われている。

 石神井川を渡ると板橋宿のうちの上宿となる。板橋宿の脇本陣は、ここにあったという。この先、旧中山道は上り坂となり縁切榎の横を通っていく。さらに進むと環七に出る。旧中山道は直進しているが、このコースのルートは、ここを左に折れて現在の中山道に出る。左側すぐのところに板橋本町駅の入口があり、ここがコースの終点となる。歴史と文化の散歩道の案内板は中山道沿いに置かれており、ルート図、板橋の地名由来と縁切榎の説明、江戸名所図会による板橋の図が載っている。


(注)当ブログの、「都電荒川線に沿って」の巣鴨新田から庚申塚、「寺社巡拝」の板橋七福神、「千川上水」の千川上水花めぐりに関連記事がある。

【お詫びして訂正】
 4月24日投稿の記事の中で、英泉の図について白黒が反転していると書きましたが、光の当たり具合で白黒が反転して見える事が分かりましたので、該当する文章を削除しました。 5月7日、夢七。 



飛鳥山コースを歩く

2013-04-15 20:15:31 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち「飛鳥山コース」は、「田端文士芸術家村散歩(田端~飛鳥山公園)」と「日光御成道散歩(飛鳥山公園~岩淵水門)」の2区間のサブコース(ガイド区分)から成り、総延長は8.9kmになる。

(1)田端文士芸術家村散歩

 江戸時代、上野は花見の名所ではあったが、何かと制約があったため、飛鳥山まで花見に繰り出す人も多かったという。そこで、今回は、桜がまだ咲いているうちに、飛鳥山公園まで歩いてみることにした。出発地は田端駅。北口を出て左へ行く。ただし、サブコースのタイトルからすると、最初に、駅近くの田端文士村記念館に立ち寄った方が良いのかも知れない。入場無料で、展示スペースも広くはないので、それほど時間はかからない。

 駅から東台橋を潜り、カタツムリ・マークのガードレールに導かれて坂を上がっていき、信号のすぐ先の道を右に入ると、仁王像に赤札を貼る風習のある東覚寺に出る。寺の前を通る道は赤札仁王通りと呼ばれ、江戸時代に流行した六阿弥陀詣での参詣道に相当する道でもあるが、現在は、幅の広い新しい道路により分断されている。本来のルートでは、赤札仁王通りを右に進んで、少し先で右に折れて幅広の新しい道路に出る事になるが、東覚寺からすぐ、新しい道路を右に進んでも差し支えはない。この道路を先へ先へと進んでいくと、T字路になる。ここを右に行くと田端高台通りに出るので、左に折れ富士見橋でJRの線路の上を越える。昔は橋ではなく、線路が通り抜けるトンネルの上を道が通っていたそうだが、大正5年の地図を見ると、確かに、トンネルの上に道がある。

 富士見橋から先に進む。田端高台通りとそれに続く道は、江戸時代からの道であり、武蔵国府(府中)から豊島郡の役所である郡衙を経て下総国府(市川)に至る、古代官道にまで遡る可能性すらある道である。この道を進むと、幅の広い西ヶ原大通りとなり、標識Bが置かれている。左側の歩道で先に進み、本郷通りに合流したところで、歩道橋を渡ると旧古河氏庭園の前に出る。園内に入り、コンドルの設計による洋館、西洋庭園、それに低地の日本庭園が併設された園内をしばし散策してから外に出る。

 この先、本来のルートは左側の歩道を進むのだが、右側の歩道に移って豊島氏の城館跡と伝えられる平塚神社や、豊島郡衙跡と推定される滝野川公園に立ち寄った方が良さそうである。西ヶ原一里塚を過ぎ、その先を右に旧渋沢家飛鳥山邸の庭園に入って、晩香廬や青淵文庫を外から眺め、庭園を抜ける。飛鳥山公園には、渋沢史料館、紙の博物館、北区飛鳥山博物館があり、飛鳥山碑もあって、花見を兼ねて散策するには良いところである。

 歴史と文化の散歩道の案内板は、本郷通りに面した交番の近くにある。全体的に汚れているのが残念だが、ルート図と、飛鳥山公園及び旧古河庭園の説明、それと、広重の「江都名所飛鳥山はな見」と思われる図が載っている。飛鳥山公園から先のルートは、左側の歩道で音無橋に出るのだが、今回は、王子駅まで行き、これにて本日の終わりとする。

(2)日光御成道散歩

 王子駅の北口を出て音無親水公園を歩き、音無橋をくぐって石段を上がり、左側の歩道で音無橋を渡る。どちらかと言えば、右側の歩道を進み、王子神社、王子稲荷、名主の滝公園を経由してから本町通りに戻ってくる方がコース的には良さそうに思えるが、今回は、所定のルートに従い、本町通りの左側の歩道をひたすら進む。やがて、本町通りは左に曲がっていくが、日光御成道のルートは、本町通りと分かれて直進する。

 暫くの間は、車に注意を払いながらの単調な歩行が続き、中十条二の信号を過ぎる。その先、左側に十条富士塚があり、右側の西音寺を過ぎると、間もなく環七通りとなる。ここを渡ると、交差点の北西の角に標識Bが置かれている。先に進むと、道は下り坂となり、八幡山児童遊園の前に歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。内容はルート図と、御成道の説明、御成道を含む周辺の絵図である。

 その先、埼京線のガードをくぐり、標識Cを確認しながら赤羽に向かう。途中、稲付城跡という静勝寺が左側にあるが、今回はパスして先に行く。赤羽駅北側のガード入口に標識Bがあり、左側の歩道でガードを抜けると、その先に歴史と文化の散歩道の案内板がある。内容は、ルート図と稲付城の説明、江戸名所図会による静勝寺の図である。

 案内板から東に進み、その先の広い道路を左に曲がる。この道を進んでいくと赤羽岩淵駅の交差点に出るので、ここを北に渡って右に行き次の角を曲がって北に向かう。八雲神社を過ぎると土手の下に出る。ルートでは、土手下を右に行き志茂橋に出るのだが、ここは、土手を上がり新河岸川を岩淵橋で渡って荒川の土手に出たい。ここまで来て、ようやく開放的な気分になれるだろう。このコースの終点となる、赤い色の旧岩淵水門も、間近に見えている。なお、旧岩淵水門から志茂橋方面に行くと、荒川知水資料館の前に歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。内容は、ルート図と岩淵水門の説明と写真である。帰路は志茂橋を渡るルートなど幾つか考えられるが、土手の上を引き返す方が快適だろう。



谷中コースを歩く

2013-04-06 15:03:03 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち「谷中コース」は、「上野のお山散歩(湯島天神~根津神社)」と、その途中の谷中霊園から分岐する「日暮らしの里散歩(谷中霊園~西日暮里駅)」、および、「駒込寺町散歩(根津神社~駒込駅)」の3区間のサブコース(ガイド区分)から成り、総延長は7.3kmになる。

(1)上野のお山散歩

 「池袋コース」の途中、湯島天神の西側にある標識Aが、このコースの起点となる。湯島天神は、梅の季節も終わって、今は参詣する人も少なめになっているが、その分ゆっくりと、お参りすることが出来る。この神社、菅原道真を祭る天満宮としての創建は14世紀中頃と伝えられるが、この地に天之手力雄命を祭ったのはそれより古く、古代にまで遡るとする説すらある。天之手力雄命は地主神として境内の戸隠神社に祭られているが、現在は湯島天神の祭神に加えられているようである。湯島天神の横の坂は切通坂と呼ばれ、昔は急な坂だったそうだが、今はさほどでも無い。坂を下って交差点を左に渡ると標識Bがあり、さらに進んで道路を渡り上野公園に入る。ここの入口にも標識Bがある。

 不忍池に沿って右に行き、蓮見茶屋を過ぎる。その先、下町風俗資料館近くの人込みの中に標識Aを見つける。ここは、千住コースの起点にもなっているのだが、そんな事に関心があるのは少数だろう。資料館への入館はまたの機会にして先に進むと、十字路に出る。左へ行けば弁天堂だが、ここは右に行き道路を渡って石段を上がり、桜通りに出る。

 桜通りは上野の花見の中心となる通りだが、ここに、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。その内容は、ルート図、寛永寺と上野公園の説明、江戸時代の寛永寺境内の地図である。桜通りから石段を上がると清水観音に出るが、今回はパスして桜通りを左に行き、大仏パゴダのある大仏山の先を左に入る。東照宮への参道を見送って先に進むと、動物園の表門となり、その先に標識Bがある。湯島天神からここまでは、人通りが多く、見どころも多いので、ルートにこだわらずに、自由に散策した方が良さそうである。

 動物園から先に進むと東京都美術館の前に出る。ここを左に行く。行き止まりのような道だが、道は突き当たって右に曲がり、動物園と美術館の間の閑散とした道となる。その先、角に旧博物館動物園駅の建造物がある交差点を渡ると、左側に黒田記念館があるが、現在は耐震改修工事中で休館している。その隣の国際こども図書館の方も改修工事中である。先に進み、角を標識Cにより左に曲がると、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。その内容は、現代および江戸の地図上にルートをプロットしたもの、江戸名所図会による東叡山寛永寺の全体図、上野寛永寺の説明、広重による「上野東叡山ノ図」である。広重の図は、現在の桜通りに相当する道を描いているが、右側の山上に清水観音を描き、中央に山門とも呼ばれた文殊楼(現存せず)を描いている。その位置は大仏パゴダのある大仏山の下あたりになる。

 寛永寺の本堂に相当する根本中堂は、上野公園の噴水池の辺りにあった。幕府は、根本中堂の造営にあたり、天皇の筆になる勅額の拝受を願い出たが、東山天皇が受けなかったため、上皇(霊元天皇)が受けることになった。完成した勅額は京都から陸路で運んだが、途中の運搬に手間取って、落慶法要には間に合わなかった。そればかりか、勅額が江戸に到着した日に大火が発生し、寛永寺の本坊や霊廟も類焼した。根本中堂は何とか防ぎとめることが出来たが、幕府は、勅額の複製を作って根本中堂に掲げることとし、本物の勅額は土蔵に保管することにした。この火事が世に言う勅額火事である。根本中堂は、官軍と彰義隊が戦った上野戦争の際に、他の多くの建造物とともに焼失してしまったが、滋賀県石津寺から移した本尊の薬師如来と、山形県立石寺から移された日光菩薩・月光菩薩は無事に運び出されている。この三体の仏像は、現在、秘仏の扱いになっているが、国立博物館の特別展の時に公開されたことがあり、その折に拝観したことがある。

 案内板から先に進むと、右手に寛永寺の根本中堂が見えてくる。川越喜多院の本地堂を移設したもので、瑠璃殿の勅額は、土蔵に保管されていたものであれば、本物という事になる。寛永寺から言問通りを渡ると、江戸六地蔵の一と称する浄名院に出る。江戸六地蔵とは、宝永年間に地蔵坊正元の発願で鋳造され、江戸の六ケ所の出入口に配置された六体の地蔵の事を言うが、そのうちの一体、深川の永代寺の地蔵が明治になって破却されたため、浄名院が、明治時代に日清日露の戦没者供養のため建立した地蔵を、その代替えと称したのだが、これには、異論も出ているらしい。浄名院の右側、霊園の道に入り、次の角を左折、浄名院の塀に沿って先に行き、標識Cにより右に折れると、その先で道幅が広くなる。塀に沿って進むと谷中霊園中央園路に出るが、ここでは、左側の歩道に移り、少し先の標識Aを確認し、右に分岐する「日暮らしの里散歩」のルートを見送って先に進む。

 寺の多い三崎坂を左側の歩道で下り、不忍通りに出る。これを渡り、団子坂を上がる。坂の上に標識Cがあるが、位置移動の際に向きを変えたらしく表示がおかしいので、無視して、すぐ先の道を左に入る。この道を藪下通りといい、校舎を一段下に見ながら進む。途中で標識Cと標識Bを確認しながら歩いて行くと、根津裏門坂に出る。「上野のお山散歩」はここが終点で、道路を渡れば根津神社はすぐそこだが、今回は立ち寄らない。

(2)日暮らしの里散歩

 三崎坂の上にある標識Aを起点として、道路を渡り、北に向かって進むのが、「日暮らしの里散歩」のルートだが、その前に、右手にある谷中霊園中央園路に行ってみる。この道はもともと感応寺(天王寺)の参道であったが、今は桜が多いため桜通りとも呼ばれている。この道の入口に、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。その内容は、谷中寺町と霊園についての説明と、江戸時代の谷中の地図にプロットしたルート図に焼失前の天王寺五重塔の写真、観音寺の土塀の写真、広重の「道灌山虫聞之図」、江戸名所図会による感応寺(現・天王寺)の図と三崎法住寺(三崎坂の下にあった)の図を配したものである。

 本来のルートに戻って、北に進む。車一台が通れるほどの道だが、趣のある道である。この道の途中に、和風と洋風の建築を一体化した朝倉彫塑館があるが、現在は改修工事中になっている。その先、経王寺の前の通りを左に行くと、ゆうやけだんだんを経て谷中銀座に出るが、今回は本来のルートに従い、諏訪台通りを直進する。この道の途中に、江戸の六地蔵の寺である浄光寺がある。江戸の六地蔵には、宝永の頃に建てられた江戸六地蔵のほかに、元禄時代に建てられた六地蔵があり、江戸六地蔵と区別するため東都六地蔵と呼ばれている。浄光寺は、この東都六地蔵に属している。その先、諏方神社に立ち寄ったあと、標識Cに従って先に進むと、西日暮里公園に出る。公園の入口には、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。その内容は、ルート図、道灌山の説明、広重の「道灌山虫聞之図」である。広重の図は谷中霊園の中央園路入口にあった案内板と重複している。西日暮里公園に沿って下ると、西日暮里駅に出る。ここが、サブコースの終点である。

(3)駒込寺町散歩

 藪下通りを抜け、根津神社裏門坂に出たところで、右に折れる。そのまま進めば本郷通りで、ここを右折。布袋に見守られつつ浄心寺を過ぎる。今もなお、寺町の雰囲気が感じられる道を進めば、吉祥寺の山門の前に出る。吉祥寺は、学問寺であった頃の面影はすでに無く、江戸から引き継いだ建造物も山門と経蔵だけになってしまっている。それでも、往時の風格は失われていない。寺の山門の前に、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。ルート図、本郷通り周辺の概説、吉祥寺門前の図が、その内容である。

 本郷通りを歩くのも少々飽いて、吉祥寺からは裏道を歩く。突き当たりは富士神社。閑散としている境内に入り、石段の下から頭を下げ、また本郷通りに戻り、不忍通りを渡る。そのまま進めば駒込駅。本コースもそこ迄となるが、その前に六義園に入ってみる。正門には人が溢れていて、その流れの行き先に枝垂れ桜が一樹。その華麗な姿を人々に披露している。しかし、今日のお目当ては、この桜ではない。池に沿って歩き、千鳥橋を渡り、吹上茶屋の裏手へと歩を進める。ここに、お目当ての桜の木がある。吟花亭跡にひっそりと立つ、孤高の枝垂れ桜。この桜樹が全ての花を散らし終えたあとは、その姿を仰ぐ人も、いなくなるのだろう。桜の散る音を微かに感じながら、園内を巡り歩き、裏門から外に出る。まだ昼日中。散りかけの桜を探し求めて、もう少し、この町を歩いていたい。

(注)当ブログのカテゴリー「江戸名所」の江戸名所記見て歩きの(2)と(4)に、寛永寺と吉祥寺の記事がある。