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夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

芝高輪コースを歩く

2013-03-27 20:02:36 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち、「芝高輪コース」は、「お堀端コース」の祝田橋(日比谷公園)を起点とし、途中で分岐して品川と目黒に至る、総延長9.5kmのコースである。このコースは、芝御成道散歩(日比谷公園~赤羽橋)、三田坂めぐり散歩(赤羽橋~伊皿子坂)、高輪潮の香散歩(伊皿子坂~品川駅)、山の手白金散歩(伊皿子坂~目黒駅)の四つのサブコース(ガイド区分)から成っている。このコースは途中で分岐しており、通して歩けないので、2回に分けて歩いてみた。

(1)芝御成道散歩

 「お堀端コース」の祝田橋から、交差点を渡って日比谷公園の角に行く。ここから、祝田通りを進むのが、本来のルートという事になるが、日比谷公園に入らない手はない。まずは、公園内をしばし散策。それから、三角形の敷地に建つ日比谷図書文化館に立ち寄る。東京都から千代田区に移管された図書館にも寄ってみたい気がしたが、今日のところは時間が無いので、四番町歴史民俗資料館を移設して作られたミュージアムの、無料の常設展を一通り見ただけで外に出る。祝田通りを先に進み、外堀通りを渡る。その名の通り、昔はここに外堀があり、新シ橋という橋が架かっていたという。

 交差点を渡って愛宕通りを先に進む。蕎麦店の昔ながらの建物が健在なことに少し安堵。その一方で、かつて17森ビルがあった筈の場所に、建築中の超高層ビルが日の光を遮るかのように立ち上がっている事に驚く。去年の1月、虎ノ門から新橋まで神社巡りをした時には、気付かなかったその建造物は、今や虎ノ門ヒルズという呼び名まで与えられて、その存在感をあらわしつつある。来年の開業時、このビルの地下を通過するであろう環状2号線、通称マッカーサー道路は、まだ工事の真っ最中だが、その工事現場をカタツムリ・マークのガードレールに誘導されるように横切り、その先へと進む。500年前、この辺りは日比谷入江の開口部にあたっていたが、江戸時代になると、日比谷入江を越えて埋め立てが進み、大名屋敷などが立ち並ぶ地域へと変貌する。古代から近世を経て、この地域がどのように変わっていったのか。工事に先立って行われた発掘調査の結果が楽しみでもある。今も、昔の姿を留めている愛宕山を過ぎ、青松寺を横目に先に進むと、歩道橋のある交差点に出る。ここから標識Bにより、左に折れて進み、御成門の交差点に向かう。
(注)カテゴリー「寺社巡拝」に虎ノ門から新橋までの神社巡りの記事がある。

 増上寺の裏門は、現在の御成門交差点の場所にあった。この門は、将軍が増上寺に参詣する際に利用していたため、人々は御成門と呼んでいた。では、将軍はどの道を通って増上寺に参詣したか、当て推量ながら考えてみた。将軍家などが町人地を通行する場合、あらかじめ町触により具体的な道順を示す必要があったが、寛永寺の参詣のような恒例化した行事については、道順が固定されていたのでその必要はなく、人々は、参詣ルートを御成道として認識し記憶していた。増上寺の参詣の場合も、幸橋御門を通る際には付近の町人地を通るので、幸橋は御成橋として人々に認識されていたが、町触の対象外であった武家地の区間については、御成道として認識されなかったかも知れない。葬列についての道順は固定されていなかったが、そのルートは参詣ルートとも重なる部分があったと思われる。第五代将軍家継の葬列は、幸橋御門から二葉町、兼房町を通り、宇田川町に出て旧東海道を経て表門(大門)から増上寺に入ったとされる。この道順には、兼房町から宇田川町までの間の武家地の記載はないが、兼房町に続く愛宕下大名小路を通ったと考えるのが妥当であろう。参詣の場合も、愛宕下大名小路までは同じルートを通ったと考えられ、そのあと、裏門(御成門)から増上寺に入ったと思われる。このルートを現在の道でたどると、新橋駅付近にあった幸橋御門から、赤レンガ通りに出て直進し、右折して御成門交差点に向かった事になる。このほか、第六代将軍家斉と第九代将軍家重の葬列が新シ橋を通っている事から、新シ橋を通る参詣ルートもあったと思われるが、町人地を通過しないので、御成道としては認識されなかっただろう。「吹上より愛宕下辺増上寺迄之図」のルートは、半蔵門を出て外桜田門の外を通り、上杉家の屋敷の角を曲がって、新シ橋を渡り、真福寺前を左に折れて薬師小路を通り、次の角を曲がって増上寺裏門近くに出たあと、旧東海道を経て表門(大門)から増上寺に入っているが、参詣の場合、裏門から増上寺に入る点を除けば、同じルートを通った可能性がある。現在の道で、そのルートをたどると、祝田通りを進み、外堀通りを渡り、愛宕通りを進んで、真福寺の先を左折、日比谷通りに出て御成門交差点に向かうことになる。なお、薬師小路を通らずに愛宕神社の下を通った事も考えられるが、この場合のルートは、「芝御成道散歩」のルートと同じになる。

 御成門の交差点を渡って南に行く。江戸時代、交差点から先の日比谷通りの両側は増上寺の敷地になっていた。御成門は、普段、自由に通行出来たので、人々はこの門から入って、日比谷通りに相当する境内の道を歩き、増上寺を参詣していたのであろう。御成門を入ってすぐ右側には方丈があったが、今は芝公園になっている。その公園内を少し歩き、また歩道に戻ると、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。その内容は、ルート図、愛宕山・青松寺・増上寺についての説明、それと、山本松谷の描いた図である。ところで、この案内板の山本松谷の図、「芝愛宕山眺望之図」には、どこか違和感があったので、後で調べてみたところ、案内板の図は左右が逆になっている事が分かった。何故こんな事になったのかは不明だが、この誤りに誰も気付かなかったのか、気付いても修理しなかったのかの何れかだろう。一応、図を説明しておくと、この図は愛宕山の女坂を上がった場所からの眺望を描いたもので、当時は海が見晴らせたことが分かる。図の中ほどの帯状のものは、愛宕神社との間の石段である。また、案内板では左側になっているが、現在の「菜根」の場所にあった茶屋も描かれている。案内板はこのぐらいにして、先に進むと、プリンスホテルの前に出る。その敷地は、徳川家の北側の霊廟跡である。ホテルと増上寺の境になっている道を入り、東京タワーを見ながら進むと、交差点近くに出る。ここを左折。公園に沿って進み交差点を渡ると、赤羽橋となる。芝御成道散歩は、ここ迄である。

(2)三田坂めぐり散歩

 赤羽橋で渋谷川を渡り、桜田通りの右側の歩道を歩く。三田国際ビルの先を右に折れ、綱の手引坂を右側の歩道で上がる。坂の上に標識Bがあるので、ここを左に閑静な道に入り、三井倶楽部とイタリア大使館の間の綱坂を下る。坂の下の標識Bを過ぎ、先に進んで桜田通りを左に行き、慶大正門前の信号を渡って、左前方を斜めに入る道を進む。右側の歩道に標識Bがある。その先、聖坂に出て左側の歩道で坂を上がる。聖坂は旧中原街道の道筋にあたり、家康が江戸に入った時は、この街道を通ったとも言われている。坂を上がったところに亀塚公園があり、公園前の交番の前に、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。その内容は、ルート図と三田一帯の説明、それと山本松谷の「芝三田聖坂より銀座を望む」の図である。山本松谷の図は汚れて分かりにくいが、正月の聖坂を描いたもので、猿回し、三河万歳、獅子舞、角兵衛獅子のほか、恵方参りに出かける人々の姿が描かれている。当時は高いビルなど無かったので、坂の上から銀座がよく見えたのだろう。

 亀塚公園には、亀塚という塚がある。この塚、古墳という説もあったが、発掘調査したところ何も出なかったという。亀塚の横から御田八幡の裏手に出る道はすでに廃道になったらしく、それに代わって開放的な階段が作られている。下りてみたい気もしたが、また上がるのも面倒なので、この案はあっさり棄却、公園の外に出る。先に進むと、三田台公園という小公園がある。こちらの方は間違いない遺跡地で、貝塚の標本があり、復元された古墳時代住居がある。ざっと見てまわって外に出ると、伊皿子の交差点まで一気に下る。交差点の東南の角には標識Aが置かれているが、三田坂めぐり散歩は、ここで終了となる。


(3)山の手白金散歩

 今回は、目黒駅を起点として、伊皿子の交差点を経て、品川まで歩くことにする。駅から目黒通りに出て、左側の歩道を東へ向かう。歩道に埋め込まれている標識Cを確認しながら先に進むと、上大崎の交差点に出る。ここに標識Bがあり、交差点を渡った先には、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。その内容は、江戸の絵図上にルート図をプロットしたものと、庭園美術館の説明および写真から成っている。その美術館だが、現在は改修工事中で閉館しており、開館時期は未定という。

 案内板はその先にもあり、こちらの方は、現代の地図によるルート図、汚れて読みにくいが自然教育園の説明、そして江戸の切絵図からなっている。自然教育園は開園中であったので入ってみる。自然教育園のある場所は、氏名不詳の白金長者の館跡と言われ、土塁の跡も残っているが、それよりも、この土地の原風景を想像しながら散策するのに良い場所である。ただ、カラスの鳴き声の喧しさには閉口、園内を一通り回っただけで外に出る。

 自然教育園のすぐ隣に白金台どんぐり児童遊園がある。人っ子一人いない小さな児童遊園は、あちこちで見かけるが、これほど広くて子供たちが思い切り遊べる児童遊園は滅多に無い。外苑西通りを過ぎて先に進むと、道は僅かに下り坂となり、やがて日吉坂となる。標識Bを過ぎると、まもなく桜田通り。ここを左に折れて坂を下る。坂と言えるほどの坂ではないが、名光坂という名称を与えられている。新たな道路が作られたことで消滅してしまった坂の名を継承したのだろうか。坂の下の信号で桜田通りを渡り、右側の歩道に移って先に進む。しばらく行くと右側に魚籃坂がある。坂の下の標識Bを確認し、右側の歩道を上がる。坂の途中、左側に魚籃寺の赤い門が見えるが、今回は通過。坂を上がりきって、また下ると、伊皿子の交差点となる。左側の道は聖坂から来る道で、交差点の東南の角に標識Aが置かれている。この標識が、山の手白金散歩の終了地点となる。

(4)高輪潮の香散歩

 伊皿子の交差点から伊皿子坂を下る。下りきって道が左に曲がるところに、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれているが、この案内板については後回しとして、先に右の道を入って泉岳寺に行く。今も人気のある寺である。

 泉岳寺から案内板のところに戻る。その内容は、ルート図と、この辺りの東海道の様子や泉岳寺や東禅寺の説明、それと、高輪の風景に満月と雁を配した、広重の「高輪之明月」の図である。先に進み、第一京浜に出て右に折れる。ここから先、品川までは、交通量の多い道路沿いの、少々退屈な道となるが、江戸時代は海沿いの眺めの良い道であった。当時、街道の海側は石垣になっていたが、その石垣石が発掘され、桂坂下のコーナーに説明板付きで展示されている。やがて品川駅。芝高輪コースも、これにて終わりとなる。



新宿コースを歩く

2013-03-14 18:41:41 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち、「新宿コース」は、新宿中央公園を起点として赤坂一つ木に至る、9.0kmのコースである。このコースは、新宿超高層街散歩(新宿中央公園~新宿駅)、内藤新宿散歩(新宿駅~四谷大木戸)、外苑散歩(四谷大木戸~四ツ谷駅)、外堀散歩(四ツ谷駅~赤坂一ツ木)のサブコース(ガイド区分)から成っている。

(1)新宿超高層街散歩
 
 新宿中央公園からスタート。公園通りを渡ってハイアット・リージェンシーのある側に移動する。ここから、新宿駅方向に向かって中央通りの左側の歩道を進み、都庁通り、議事堂通りを潜る。東通りの下からはトンネルとなるが、その手前の右側に標識Bがひっそりと立っている。東通りに上がると目の前に京王プラザホテルがある。公園通りから東通りまでの間の超高層ビルが立ち並ぶ一帯は、明治時代に建設された淀橋浄水場の跡地だが、昭和40年に淀橋浄水場が廃止された後、最初に建てられた超高層ビルが京王プラザホテルで、当時は日本一の高さを誇っていた。東通りを渡って工学院大学沿いに南に行き、角を左に曲がって郵便局を過ぎる。駅前を左に新宿大ガードを潜り、新宿駅東口に向かうと、駅前に区指定文化財の馬水槽がある。新宿超高層街散歩のサブコースはここで終わりとなる。

(2)内藤新宿散歩

 新宿駅東口から新宿通りを歩くが、何時もながら混雑している。新宿通りは青梅街道に相当する道で、線路によって分断される以前は、西側の青梅街道と直線的につながる道であった。この道を先に進み、伊勢丹の先、新宿三丁目の交差点に出る。この辺りは、追分と呼ばれ、甲州街道と青梅街道の分岐点になっていた。ところで、超高層ビル街から、ここまで歩いて来たわけだが、この区間は、決められたルートを、標識を頼りに歩くのには向いていないように思える。むしろ、気ままに歩く方が良いのではないか。ショッピングやグルメを楽しみながら散策するも良し、地下道を通って速やかに来るも良し、そして、歴史との関わりからすれば、甲州街道を歩いてくるのも、また楽しからずやである。
 
 新宿三丁目の交差点から先の新宿通りは、甲州街道に相当する道である。江戸時代、追分から四谷大木戸の近くまでは、内藤新宿と呼ばれた宿場町で、江戸四宿の一つであったが、今の新宿通りを歩いても宿場町の面影は見られない。新宿通りを進み、明治通りと御苑大通りを過ぎて、その先を左に仲通りに入る。標識Bにより靖国通りを右に折れると、投げ込み寺と呼ばれた成覚寺に出る。その先の角を右折して先に進むと、また、新宿通りに出るが、その手前に案内板が置かれている。案内板には、サブコースのルート図、宿場町の内藤新宿および四谷大木戸についての説明、「江戸名所図会」の四谷内藤新宿の図が載っている。この案内板から少し戻って横道を入ったところに太宗寺があり、江戸時代、街道ごとに置かれていた六地蔵の一つが今も残っている。
 
 新宿通りを先に進むと、右手に水道碑記が立っている。玉川上水の水番所があったのは、この辺りという。玉川上水は、内藤新宿の町の南側を流れていたが、この水路沿いに桜が植えられていた時があり、広重の「名所江戸百景」にも、「玉川堤の花」として取り上げられている。今は玉川上水の流れも見られなくなったが、新宿御苑の北側に玉川上水内藤新宿分水散歩道が作られ、玉川上水の再現とまではいかないまでも、散歩道に沿って流れが造られている。なお、水番所から先は、地中に埋められた木樋や石樋により江戸市中に上水を供給するとともに、余った水は水番所内の吐水門から南に流していた。水道碑記の少し先、四谷四丁目の交差点の辺りが、四谷大木戸のあった場所である。四谷大木戸は、甲州街道の出入りを管理するために設けられ、石垣の間に木戸を設けていたが、その後、木戸は廃止されて自由通行となり、明治になると石垣も取り壊されて、今は碑を残すのみとなる。この交差点を右に渡り、右側の道を入るのが新宿コースのルートで、道の角に標識Bが置かれている。「内藤新宿散歩」はここまでである。

(3)外苑散歩

 外苑西通りの一本西側の道を通って閑静な内藤町を歩く。多武峯神社を過ぎた先で、道は左に曲がって外苑西通りに出る。ここを右に折れる。なお、外苑西通りを渡った先には、野口英世記念館があったが、今は閉鎖されている。外苑西通りを先に進むと、歩道右側に石橋の跡があり、その下に水路の跡が見える。玉川上水からの余水を流した水路跡は、新宿御苑側からも見ることが出来るが、その水路の下流と思われる。この水路は、天竜寺の池を水源とする流れと合流して、渋谷川の源流の一つになっていたらしい。新宿御苑の外周に沿って先に進み、JRのガードを潜り、その先の信号で左に道路を渡って、坂を上がっていくと国立競技場に出る。国立競技場に沿って左に行き、坂の上で左に折れると、左手に明治天皇と昭憲皇太后を記念した絵画館が見えてくる。このサブコースは外苑散歩と銘打っているので、外苑内を歩き回ってみたい気もするのだが、今回は所定のルートに従うこととし、絵画館の前を先に進み、にこにこパークの前を左に折れて外苑の外に出る。
 
 JRの上を橋で渡ると、慶大病院前の信号の脇に、案内板が置かれている。その内容はサブコースのルート図と、練兵場から外苑への経緯の説明、山本松谷による練兵場の図から成っている。ここから先は、南元町、若葉、須賀町をたどる四谷寺町散歩となる。その名の通り、多くの寺が点在している地域だが、谷が入り込んで、坂が多く、道も分かりにくい。外苑東通りを左門町の信号で入って須賀神社に行く方が分かりやすいのだが、今回は、歴史と文化の散歩道のルートをたどってみることにする。慶大病院前の信号で外苑東通りを渡り、直進してすぐ左折、次を右折して、ゆるやかな下り坂の道を進む。もとまち公園の前に標識Bがあるが、ここから、JRの線路に向かって急な坂を下り、児童遊園の先のT字路を左に折れる。道の角には標識Bがある。この先は、谷底にあたる道を進み、途中で左に坂を上がって戒行寺に出るのだが、ここが分かりにくい。戒行寺は、鬼平こと長谷川平蔵の墓があった寺だが、墓は現存せず、供養碑のみが寺の中に置かれている。その先、三つ目の角を右に曲がると、細い道の先に須賀神社が見える。神社からは小公園を抜け、男坂の石段を下り、谷底の道を横切って坂を上がると標識Bがあり、新宿通りに出る。ここを右に行けば四ツ谷駅に出る。外苑散歩のサブコースはここまでである。

(4)外堀散歩

 四ツ谷駅の付近は四谷御門(四谷見附)があった場所である。四ツ谷駅のホームや線路、それとグランドは、昔、濠だった場所で、現在も昔の地形が残っているので、想像をたくましくすれば、水に満たされた往時の濠の姿を思い浮かべる事が出来るかも知れない。四谷見附橋を渡ってすぐ、右の道に入ると標識Bがある。ここからは、ソフィア通りと言う名の、土手の下道を歩くが、花見の頃に来てみたい道でもある。左側は上智大で、その敷地は尾張徳川家の屋敷跡という。所々に標識Bが置かれている道を進むと、土塁と木戸で構成されていた喰違門の跡地に出る。この門を通っていたであろう道を、右に見送ると、井伊家屋敷跡を敷地としたホテル・ニューオータニに出る。ここを左に、右側の歩道で紀尾井坂を下る。下り終えて右に曲がる角の、植え込みの中に案内板が置かれている。その内容は外堀散歩のルート図、外堀と見附などの説明、付近の絵図である。案内板から先に進むと、左側に清水谷公園がある。その一帯は紀伊徳川家の屋敷跡にあたるが、尾張徳川家の屋敷跡、井伊家の屋敷跡と合わせて、紀尾井坂の名の由来となっている。

 先に進み、弁慶橋で弁慶堀を渡る。江戸時代には橋が無かった場所に、明治の中ごろ、古い橋を模して架けた橋という。橋の名は、神田にあった弁慶橋の廃材を使用したからという説もあるが、橋の形は全く異なり、擬宝珠も他の橋のものを転用したものという。現在の橋は、コンクリート製の再建された橋である。赤坂見附の交差点を渡って右へ、青山通りを上がり、一ツ木通りの表示により左の道へ入る。右側の歩道に標識Bがある。この道を先に進んでいくと、赤坂駅に出る。「新宿コース」は、ここ迄である。


池袋コースを歩く

2013-03-06 20:46:46 | 歴史と文化の道
 東京都の「歴史と文化の散歩道」のうち、「池袋コース」は、池袋駅から神田小川町までの10.4kmのコースで、雑司ヶ谷寺町散歩(池袋駅~護国寺)、音羽の鐘散歩(護国寺~茗荷谷駅)、小石川寺町散歩(茗荷谷駅~菊坂)、本郷文学散歩(菊坂~神田小川町)の四つのサブコース(ガイド区分)から成っている。今回は、「お堀端コース」の終点である神田小川町から、池袋に向かって逆コースで歩いてみる。

(1)本郷文学散歩

 
 「お堀端コース」の神田小川町の標識Bからスタートし、左側の歩道を歩いてお茶の水駅に向かう。途中、標識Bを確認しながら、関東大震災後に再建されたニコライ堂の下を過ぎる。今回は、お茶の水駅で右側の歩道に移り、関東大震災の復興事業で架けられた聖橋を渡って、その先の湯島聖堂に入る。聖堂の建物のほとんどは関東大震災後の再建だが、入徳門だけは、「江戸名所図会」に描かれた当時の姿を今に伝えている。改修工事を終えた入徳門を入り、大成殿を眺め、それから外に出て本郷通りを渡る。コースは直進しているが、ここはやはり、神田明神に寄りたい。
  
 このサブコースのタイトルは文学散歩になっているので、神田明神の参詣の後、野村胡堂の「銭形平次捕物控」に因んだ、銭形平次の碑+がらっ八の碑にも挨拶しておく。 駐車場の上に作られた屋上庭園を抜けると、千代田区の指定有形文化財になっている、神田の家に出る。神田の家は、関東大震災後の復興住宅として、神田鎌倉町に建てられた材木商の店舗兼住宅で、文化財に指定されたあと、現在地に移築されている。

 蔵前橋通りを渡って、清水坂を上がる。坂の途中を右に入ると、稲荷の関東総司を王子稲荷と争った妻恋神社があるが、今回は寄らずに先に進み、坂を上がった先の信号で左に折れ、その先の信号で右に入る。この道を進むと湯島天神の西側に出る。春日通りに出ると標識Aがあるが、ここは、「谷中コース」の起点にもなっている。湯島天神は、「谷中コース」の時に参詣することにして、春日通りを左に行く。本来は春日通りを渡って北側の歩道を歩くのが正しいようだが、今回は南側の歩道を歩く。

 本郷三丁目の交差点の手前にある、寛永年間創業の和菓子の老舗「藤むら」は、すでに閉店したらしいのだが、その名を惜しむかのように看板だけは健在である。本郷通りを渡り、今も店を開いている「かねやす」に、心の内でエールを送りつつ春日通りを渡ると、左側に本郷薬師の参道が見えてくる。この地にあった真光寺が戦災にあって移転したあと、残された薬師堂が賑わっていた頃の残映を今に伝えようと踏ん張っているようにも見える。本郷通りは、交差点から北にやや下り坂となり、またやや上り坂となる。そのくぼんだ場所に小川が流れていて、別れ橋という橋が架かっていたというが、江戸時代には、その橋も埋まってしまったらしい。この小川は、安永の絵図によると、真光寺の境界に沿って流れたあと、西北に向かって流れていて、その途中からは、小川沿いに道が作られていた。菊坂下道である。

 別れ橋跡の少し先を左に入る。菊坂である。江戸時代にも、坂下の菊坂町に下る坂道はあったが、現在のように本郷通りから下る菊坂は明治の中頃になってからという。明治になると菊坂の近辺には、多くの文人が集まってくる。樋口一葉、石川啄木、宮沢賢治、坪内逍遥、等々。多くの作家が宿泊した菊富士ホテルもこの地にあった。文学散歩としては、旧居跡などを巡るべきかも知れないが、今日のところは、標識Cを確認しながら緩やかな菊坂を下り、樋口一葉が通った質屋の建物を眺めつつ、先に進む。

 菊坂の下、交差点の左側には、散歩道の案内板が置かれている。この案内板には、サブコースのルート図と、湯島聖堂および菊坂についての説明があり、また、「本郷三丁目及同四丁目の図」が載っている。この図は、本郷三丁目の交差点を東側から見たもので、交差点を曲線を描いて通過する市電、錯綜する電線、瓦葺の商店が続く町並み、当時の人々の様子など、明治40年頃の情景が描かれている。菊坂下の案内板から左に行くと、白山通りに出る。サブコース「本郷文学散歩」はここで終わりとなる。

(2)小石川寺町散歩


 白山通りには、本駒込を源流とする流れと千石からの流れが白山の下で合流して、東大下水(ひがしおおげすい)となって流れていた。この東大下水に、菊坂下道沿いの流れと清水橋方向からの流れが合流していたが、今はその姿を見る事が出来ない。白山通りを渡って先に進むと、こんにゃく閻魔で知られ、小石川七福神の毘沙門天を祭る寺でもある源覚寺に出る。昔、この寺の前には川が流れていて橋が架かっていた。その上流は千川駅近くの弁天池に発する谷端川で、千川上水からの分水を助水として南流し、椎名町駅の南側を回り込んでから北流し、下板橋駅を回りこんで向きを変え、大塚駅付近を過ぎて小石川と名を変え、伝通院と小石川植物園の間の谷を流れて源覚寺の前を通り、下流で東大下水と合流して神田川に流れ込んでいたが、今はすべて暗渠になっている。

 源覚寺から北に行き、次の信号を左に入ると、善光寺坂の下に出る。江戸時代、ここから先は伝通院の広大な境内地であった。坂を上がると沢蔵司稲荷があり、その先、道路の真ん中に椋の巨木が聳えているのが目に入る。明らかに交通の邪魔だが、稲荷の魂が宿るとされているため切るに切られず、結局、車道は片側だけになっている。この稲荷、沢蔵司と名乗って伝通院で修業していたという話があり、沢蔵司が食べに行っていたという伝説の蕎麦屋が、今も伝通院前交差点の近くに残っている。
 
 真新しい伝通院の山門の左側に、案内板がある。内容は、サブコース「小石川寺町散歩」のルート図と、伝通院および植物園の説明、江戸名所図会による伝通院の図である。伝通院から、ルート図に従って進み、標識Cにより右に折れ、墓地に沿って坂を下る。下りきったところに、右に入る道があり、標識Bが置かれている。この道をたどり、下りきったところのT字路を左折して先に進むと千川通りに出る。左に行くとすぐ標識Bがある。印刷会社に沿って先に進むと吹上坂の下に出る。その角に案内板が置かれている。

 案内板には山本松谷の「東京帝国大学理科大学付属植物園」の図と、白山御殿や植物園についての説明書きがある。この先、桜の名所でもある播磨坂を上がる。左側の歩道を上がると、左手に極楽水の入口がある。中に入ると、この地にあった名水の極楽水をかたどった小庭が造られている。播磨坂をさらに上がると春日通りに出る。サブコースとしては、ここで終点となるが、春日通りを渡って右に、茗荷谷駅まで歩く。
(注)このサブコースは、小石川七福神のコースと一部が重なっている。小石川七福神については、当ブログのカテゴリー「社寺巡拝」の中に記事がある。

(3)音羽の鐘散歩


 茗荷谷駅から春日通りを先に進むと、左に入る道に、文京区の「緑のウオークラリー」の道標と、歴史と文化の散歩道の標識Bがある。この道に入って先に進むと、新大塚公園があり、標識Bと案内板が置かれている。その内容は、サブコースのルート図、護国寺などの説明、開設されて間もない頃の教育の森・文京区スポーツセンターの写真である。さらに進むと下り坂になり、音羽通りに出るので、ここを右に折れる。
 
 音羽通りを護国寺方面に進み、不忍通りを渡ると、交番の前に案内板が置かれている。内容は、サブコースのルート図、護国寺と音羽通りの説明、広重が描いた「絵本江戸土産」第四編の大塚護国寺音羽町の図(部分)である。ここで、護国寺を参詣し、サブコースのタイトルに因んで護国寺の鐘を見てから次に行く。

 不忍通りを西に行き、護国寺西の交差点で右に曲がっていくと、緑色のカタツムリのマークがあり、近くに案内板が置かれている。案内板には、江戸の絵図の上に●印をつけ、史跡や公園の名前を( )の中に記入した図と、護国寺など将軍家に所縁の寺についての説明がある。坂を上がり、その先の信号で道路を渡る。ここでサブコースは終わりとなる。

(4)雑司ヶ谷寺町散歩


 雑司ヶ谷霊園の外周の道を西に向かって歩いて行くと児童館がある。ここを左に入ると旧宣教師館に行けるが、今は休館中のようなので先に進む。道が二又になったところで、本来は右の道をとり、清立院を経て都電荒川線に出るのだが、今回は工事中のため左の道をとる。この道を下り、突き当たって右へ行くと都電荒川線の踏切に出る。ここからは、線路に沿って左に行く。鬼子母神前の停留所の踏切を標識Cに従って渡り、先に行くと右側に鬼子母神の参道がある。参道に入ってすぐ、標識Bが置かれている。参道の途中には案内所があり、雑司ヶ谷についての種々の情報を入手できるが、今回はパスして先に進む。参道を突き当って左に曲がると、鬼子母神の入口に出る。その手前に、案内板が置かれており、その内容は、サブコースのルート図、鬼子母神とすすきみみずくについての説明、宮尾しげを画による「豊島風土記」の表紙絵(部分)である。

 鬼子母神堂から法明寺に行く。「江戸名所図会」に描かれている二本の道は現存するが、周辺は大きく変わっている。法明寺の下には弦巻川が流れていたが、今は道路になっている。この道路を、標識Cに従って左に行き、二宮尊徳像のある角を右に曲がり、突き当たりの寺の右側の細道を入って法明寺の横に出るのがコースのようだが、わざわざ遠回りする必要もなさそうなので、真っすぐ法明寺に行く方が良いかも知れない。特に桜の開花期にはそうすべきだろう。さて、法明寺の左手に標識Bがあるので、それに従い墓地と法明寺の間の細い道を進むと、東通りに出る。標識Cにより右へ行き、少し広い道を左折すると、標識Bがある。ここからサンシャイン60に向かって進み、グリーン大通りに出る。通りの前に標識Bを確認して、大通りを渡り北進する。高速道路沿いの道は煩わしいが、それも東急ハンズまでで、その角を曲がれば、たちまち雑踏に飲み込まれる。後は人の流れに乗って駅まで行くだけである。

(注)このサブコースは、雑司ヶ谷七福神のコースと一部が重なっている。雑司ヶ谷七福神については当ブログのカテゴリー「社寺巡拝」の中に記事がある。


銀座佃島コースを歩く

2013-02-22 20:23:00 | 歴史と文化の道
 東京都の「歴史と文化の散歩道」のうち、「お堀端コース」の途中にある祝田橋(日比谷公園)を起点として、月島駅(佃島)を終点とする、「銀座佃島コース」を歩いてみた。距離は4km。このコースは「数寄屋橋ふれあい散歩」と「築地江戸前散歩」の二つのサブコース(ガイド区分)に分かれている。

(1)数寄屋橋ふれあい散歩


 日露戦争の凱旋を記念して架けられた祝田橋から、日比谷濠に沿って東に向かって歩く。このサブコースは、ほぼ真っすぐな道で迷うことは無い。現在の日比谷通りの手前には、江戸時代、日比谷御門があったが、今は、当時の石垣の一部が日比谷公園内に残されているだけである。交差点を渡り、散歩道の標識を見ながら先に進み、JRのガードをくぐる。ここにも散歩道の標識がある。有楽町マリオンの先の高速道路の辺りは、かつての外堀跡で、江戸時代には南北方向に数寄屋橋が架かり、橋の手前には数寄屋橋御門があった。また、その北側には南町奉行所があった。明治になると、数寄屋橋御門は取り壊されるが、数寄屋橋は残り、関東大震災のあと石造りの橋に架け替えられる。戦後、ドラマ「君の名は」によって数寄屋橋は広く知られるようになるが、昭和30年代に外堀が埋め立てられたことにより、橋は姿を消すことになった。

 江戸時代、数寄屋橋御門の内側は武家地であったが、数寄屋橋を渡った先は町人地になっていた。今の銀座である。明治5年の銀座の大火のあと、不燃化を目的とした煉瓦街が銀座に造られ、関東大震災により倒壊するまで続いた。有楽町マリオンの前に設置されている散歩道の案内板には、「数寄屋橋ふれあい散歩道」のコース図のほか、明治時代の銀座のレンガ街についての説明と、「銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図」が載っている。

 数寄屋橋の交差点を過ぎると、歩道は雑踏となる。もはや、散歩道の標識を探しながら歩くことは叶わず、人込みをかき分け、かき分け、先へ先へと進むのみである。中央通りを渡り三越を過ぎるころ、ようやく人込みの間に隙間が見えてきて、まもなく三原橋跡に達する。江戸時代、いまの晴海通りを横切るように三十間堀が流れていて、橋が架かっていた。明治以降、三十間堀は川幅を変えながらも存続し、橋は架け替えられて都電の通る三原橋となる。戦後、三十間堀は埋め立てられるが、三原橋は、その構造を利用した地下街として再生する。しかし、耐震性に問題があるという理由で、三原橋地下街は近々消滅する運命にあるという。戦後の雰囲気を今に残していた、この地下街も、そろそろ見納めである(写真は銀座5丁目側から見た地下街への入口である)。

 昭和通りを渡ると、散歩道の標識がある。その先、建て替え中であった歌舞伎座が、ようやく本来の姿を現そうとしている。江戸時代、三十間堀東側の木挽町には、山村座や森田座などの芝居小屋があり、芝居茶屋もあって繁盛していた。明治22年、この由緒ある地に創建したのが歌舞伎座である。なお、歌舞伎座の南側には、江戸時代、采女ケ原と呼ばれる馬場があり、講釈師や浄瑠璃が軒を並べていたという。

(2)築地江戸前散歩


 築地は造成地で、その周囲は海水による水路で囲まれていた。この水路の名残が、いつの頃からか、築地川と呼ばれるようになったという。歌舞伎座の先にある築地川銀座公園は、この築地川の跡地に造られた小公園で、サブコース「築地江戸前散歩」の起点になっている。小公園の少し先に、散歩道の標識がある。この標識には中央区の散歩道コースも書かれているが、これについては、機会をみて歩くこととして、先に行く。新大橋通りを渡り、標識に従って左折、築地本願寺の前を過ぎる。

 築地駅の入口近くにある標識に従い、右に折れて進むと、左手に築地川公園がある。ここも築地川の跡地に造られた公園で、散歩道の案内板が設置されている。内容は築地にあった外国人の居留地に関するもので、明治2年に刊行された歌川国輝の「東京築地鉄砲洲景」と思われる画が記されているが、汚れや傷があって、かなり見にくい。この案内板は、元の絵の右側を上段に表示し、元の絵の左側を下段に表示したもののようで、上段の絵の右側には慶応4年に完成した築地ホテル館が描かれており、左側には日の丸のある辺りに改元後の明治元年開設の居留地が描かれている。また、この絵には、現・あかつき公園付近を流れていた水路や、居留地に渡る明石橋も見える。なお、下段に描かれているのは新島原遊郭である。

 江戸時代、築地の東側に水路で囲まれた南北に細長い土地があり、鉄砲洲と呼ばれていた(中央区湊町3から明石町にかけての隅田川沿いの土地)。鉄砲洲の南端のさほど広くない区画が江戸時代の明石町で、寒さ橋(明石橋)が架かっていた。その様子は江戸名所図会の挿絵に描かれているが、築地の外国人居留地は、この地から始まった。

 築地川公園内を通り、次の信号を右に曲がる。左側にあるのは聖路加看護大学で、その角に散歩道の案内板が置かれている。内容はサブコースのルート図と、佃島と築地の説明、および築地居留地の銅版画だが、この案内板も少々汚れている。銅版画は、立教大学の前身である立教学校の校長をつとめ、建築家でもあったガーデナーの作で、明治27年頃のものという。画の左側の水路は、築地川、手前は現・あかつき公園付近にあった水面、右上は隅田川で、洲のように見えるのは佃島と思われる。

 標識を見て先に進み、聖路加国際病院の先の交差点を標識により左折、先に進んで佃大橋に上がる道路の下をくぐり、直ぐの道を右へ行く。佃大橋に上がる階段の下には標識がある。佃の渡しの跡に架けられた佃大橋を、スカイツリーや佃島を眺めながら渡る。

 佃大橋を渡り階段を下りると標識がある。道順に従い、佃煮を商う店が並ぶ川沿いの道を歩いていくと、道路に埋め込まれたCタイプの標識があるが、知らない人は、何の標識か分からないかも知れない。このマークに従い、右に入ると住吉神社に出る。参拝を終えて朱塗の佃小橋を渡ると、ここにもCタイプの標識が道に埋め込まれている。右に折れ佃大橋の手前を左へ、標識を確認して先に進めば、コースの終点、月島駅に至る。


 「歴史と文化の散歩道」には、案内板や、三種類の標識が設置されている。「銀座佃島コース」には、その何れもが設置されているので、ここで、まとめて紹介しておく。案内板は、各サブコース(ガイド区分)毎に設置されており、サブコースのルート図などを示すもののほか、絵図や文章で地域の歴史や文化を紹介するものがある。

 標識Aは、コースの分岐点に置かれる、上面が平らな標識で、付近の概略図や行き先が表示される。「銀座佃島コース」では、起点となる祝田橋に置かれている。

 標識Bは、コースの途中に数多く設置されており、コース道順のほか、付近の見どころが表示されている。上面は斜めにカットされている。

 標識Cは、標識Bが設置しにくい場所などに、道路に埋め込まれる標識で、矢印などで行き先を表示する。本コースでは、佃島に設けられている。なお、標識に使用されているカタツムリのマークは、歴史と文化の散歩道のシンボルマークである。

 「歴史と文化の散歩道」は、昭和58年から平成7年にかけて整備されており、すでに、かなりの年月が経過している。案内板や標識に汚れや傷が目立つのも仕方ないことなのだろう。コースのガイドブックやパンフレットも絶版になっているようなので、最近は、このコースを利用する人はおろか、コースの存在を知っている人も少ないのかも知れない。今となっては、案内板や標識のメンテナンスが不要不急とみなされても、やむを得ないという事になるのだろうか。 

歴史と文化の散歩道を歩く

2013-02-09 12:35:17 | 歴史と文化の道
(1)お堀端コースを歩く

 ある日、東京都の「歴史と文化の散歩道」の中のコース、「お堀端コース」を歩いてみた。「歴史と文化の散歩道」は23のコースからなっている。コースは3kmほどの短いものから、20kmを超える長いコースまであり、総延長はなんと240.5kmに及んでいる。その全てを踏破するという事になると、少々気が重いが、どれかのコースを選んで気ままに歩くのであれば、何とかなりそうである。「歴史と文化の散歩道」のシンボルマークであるカタツムリのように、ゆっくりと、行けるところまで歩いていけばいい。そして、まずは、「お堀端コース」から歩き始めることにしよう。これまで、堀端は何度も歩いているから道は多少分かる。ただ、「歴史と文化の散歩道」として歩くのは、今回が初めてである。

 「お堀端コース」は全長6.4km。「丸の内今昔散歩」、「三宅坂・千鳥ケ淵散歩」、「神田本屋街散歩」の三つのサブコース(ガイド区分)から成り立っている。起点となるのは大手町ビル北東側の交差点。ここに散歩道の標識が置かれている。標識はA,B,Cの3種類あるが、この場所に設置されているのはBのタイプで、上面が斜めにカットされ、コースの道順が表示されている。この標識をたどって行けば、コース通りに歩ける仕掛けになっているのだろう。

(2)丸の内今昔散歩

 
 「丸の内今昔散歩」は大手町から桜田門まで、2.4kmのサブコースである。起点となる交差点は、「日本橋本所深川コース」の起点を兼ねているようだが、日本橋を歩くのはまたの機会にして、標識に従って南に向かう。永代通りを渡ると次の標識がある。やはり、Bタイプの標識だが、コースに設置されている標識の殆どはBタイプのもののようだ。標識には評定所跡や伝奏屋敷跡のほか、日本工業倶楽部など、近くの見どころが表示されている。さらに進むと、東京駅が見えてくる。その先、次の標識が東京駅をバックに設置されている。

 角を曲がって皇居に向かって進むと、途中に案内板が設置されている。案内板には地図上に「丸の内今昔散歩」のコース道順が記されているほか、丸の内の変遷についての説明が記されている。
 
 先に進み、日比谷通りを渡ると、散歩道の標識がある。右手の濠の向こうには、江戸時代の木橋を模して再建された和田倉橋が見えている。和田倉噴水公園を右に見ながら進むと、内堀通りに出る。ここにも散歩道の標識がある。内堀通りは日曜日限定でサイクリング用に開放されている。
 
 内堀通りを渡って左へ、通り沿いの歩道を歩くが、途中2か所に散歩道の標識が置かれている。ただ、この道はジョギングをしている人が多く通るので、散歩の人は皇居外苑を歩いた方が良さそうである。

 内堀通りを進み、祝田橋を渡る。ここには、Aのタイプの標識が置かれている。この標識は、サブコース(ガイド区分)の分岐点に設置され、コースの行き先を案内している。祝田橋から南に直進するルートは「芝高輪コース」であり、左に折れて東に向かうルートは「銀座佃島コース」になっている。サブコース・「丸の内今昔散歩道」はここから右に折れて桜田門に向かう。凱旋濠の向こうには、重要文化財の桜田門(外桜田門)が見えてはいるが、今は改修工事中で覆いの中にある。


(3)三宅坂・千鳥ケ淵散歩

 
 「三宅坂・千鳥ケ淵散歩」は桜田門から靖国神社までの2.3kmのコースになっている。しばらくは散歩道の標識が見当たらないが、迷うような道ではなく、ジョギングの人達とすれ違いながら坂を上がっていく。やがて半蔵門。ここを過ぎたところに標識がある。ここから先、内堀通り沿いが本来のコースのようだが、今回は千鳥ケ淵公園内を歩く。公園に入ってすぐの所には案内板があり、千鳥ケ淵公園の説明のほか、明治末年の周辺図、戦後の写真、家康入国の頃の江戸の図が載っている。
  
 花見の頃を想像しながら歩き、千鳥ケ淵公園を抜けると、交差点の場所に散歩道の標識が置かれている。さらに、交差点を渡った先の道角にも、標識が置かれている。ここを曲がって、千鳥ケ淵緑道を歩いていく。
 
 緑道を歩いて行くと次の標識がある。さらに、千鳥ケ淵戦没者墓苑を回り込むように進むと案内板がある。これには、三宅坂・千鳥ケ淵散歩の地図と、江戸城の内堀と門についての説明、江戸城周辺の切絵図が載っている。
 
 この先、緑道内に散歩道の標識が2か所あるが、迷うこと無き道である。花見の頃は大混雑する道も、今は人通りが無い。やがて、靖国通り。サブコースの終点である。

(4)神田本屋街散歩

 
 「神田本屋街散歩」は、靖国神社から神田小川町まで、1.7kmのコースになっている。サブコースの起点となる標識は、靖国通り側の道の角にある。ここを右に行くと、右手に九段坂公園という小公園がある。ここには、案内板が置かれており、九段坂についての説明と江戸名所図会の飯田町・九段坂の図が載っている。
 
 先に進むと、右手に北の丸公園の入口があり、道路を挟んだ左側には靖国神社がある。ここにも標識がある。九段坂を下り、交差点を渡ると、首都高の手前に散歩道の標識がある。向こうには、日本橋川に架かる俎橋が見えている。
 
 俎板橋を渡ると、本屋街らしい町並みになっていき、人通りも増えてくる。ここにも散歩道の標識があり、表示を良く見ると千代田区の「ふるさと文化の散歩道」が点線で表示されている。コースが一部重なっているらしい。
 
 白山通りの手前に案内板があり、神田本屋街の説明と図が載っている。白山通りを渡り、神保町の書店街を通る。途中には標識があるが、見る人はいないようだ。
 
 書店の並ぶ神保町を過ぎ、スポーツ用品店の並ぶ神田小川町に入る。散歩道の標識は、駿河台下交差点の手前と、神田小川町側とにある。

 このコースの終点は小川町の交差点で、その手前に散歩道の標識が設置されている。ここは、また、「池袋コース」の終点にもなっている。

 「お堀端コース」は以上で終わりである。歩くだけなら、さほど時間はかからないが、あちこち見ながら散歩するのであれば、半日コースぐらいにはなるだろう。ベストシーズンは、もちろん、花見の頃である。「お堀端コース」は、標識が完備しているので、地図を持たずにコース通りに歩くことができる。ただ、「歴史と文化の散歩道」として歩いている人は、あまり居ないかも知れない。

 さて、これから先の事だが、あまり連載形式にはこだわらず、コースの順番にもこだわらないで、思いつくまま歩いていく積りである。また、今回のコースの途中に、千代田区の「ふるさと文化の散歩道」というコースが重なっていたが、他にも同趣旨のコースがあれば、適宜、「歴史と文化の道」として取り上げていく予定である。