夢七雑録

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トーキョーウォーキング・豊島区(2)

2022-06-20 18:21:28 | 散歩道あれこれ

(3)巣鴨東コース 

ジョギングに向いたコースとウォーキングに向いたコースは必ずしも同じではなく、巣鴨東コースでも、コースの一部をジョギング用とウォーキング用で分けている。今回は、巣鴨駅を起点としてウォーキング用のコースの方を歩いてみた。なお、公衆浴場については場所を確認するにとどめた。

J Rの巣鴨駅を出て白山通りを渡り右に行くと、とげぬき地蔵入口の交差点に出る。その左側に真性寺の入口があった。以前は、交差点の手前を左に入った少し先に真性寺の入口があったのだが、道路整備に関連して入口を変えたらしい。江戸時代、主な街道6カ所に対し地蔵菩薩が安置され江戸六地蔵と呼ばれていたが、その一つ、中山道を守る銅製地蔵菩薩座像が真性寺に安置されていた。真性寺には来たことがあるが、その時は地蔵菩薩座像は修理中だったので、今回ようやく地蔵菩薩座像を拝観出来たことになる。

真性寺は江戸名所図会の挿絵にも取り上げられている。上の図はその部分図で、少々分かりにくいが地蔵菩薩座像は境内の左側に描かれており行列が出来ている。この図で、真性寺の門は“すかも通り(巣鴨通り)”と書かれた道、すなわち江戸時代の中山道に面していた。そして現在の真性寺の入口も、江戸時代の中山道(旧中山道)に面するようになった。

とげぬき地蔵入口の交差点から先、現代の中山道でもある白山通りから、旧中山道でもある巣鴨地蔵通りが左に分かれていく。この通りが、おばあさんの原宿と呼ばれるようになったのは昭和の終り頃らしいが、今でも主役は、おばあさんなのかも知れない。ただ、若い人の姿もかなり見られるようになっている。この通りを久しぶりに歩いてみて、道が広くなったような気がした。後で分かったことだが、この通りでは無電柱化整備事業が行われていたのである。今は一部の区間だけだが、この通りから全ての電線が消える日は近いのかも知れない。

とげぬき地蔵の高岩寺に行く。子供の頃、のどに魚の骨がささった時に、とげぬき地蔵尊の御影の紙を飲まされた記憶がある。高岩寺は明治時代に下谷から移ってきた寺だが、毎月4のつく日が縁日で賑わうこともあって、地元にとっては欠かせぬ存在になっているらしい。高岩寺を参拝したあと、外に出て商店街を歩く。先に進むと庚申塚の交差点に出た。

庚申塚の交差点は、中山道と王子道が交差する地点にあたる。江戸時代、ここには街道の途中の休憩施設に相当する立場(たてば)があった。江戸名所図会の挿絵からすると、この立場には葦簀張りの茶屋が並んでおり、庚申塚もあった。庚申塚は道教に由来する庚申信仰の供養塔で、村境など各所にあったが、ここの立場(たてば)にあった庚申塚は目立つ存在であったので地名にまでなったのかも知れない。現在、庚申塚そのものは交差点の角にある猿田彦大神の祠に収められているという。猿田彦は庚申塚の本尊に当たると言う考えからのようだ。

庚申塚の交差点を右に行く。この通りの名は栄和通りになっている。先に進むと、現代の中山道に相当する白山通りに出る。ここを渡って北に向かう道は、江戸時代の王子道に相当するが、今回は先には行かない。公衆浴場“やすらぎの湯ニュー椿”の建物を確認したあと、庚申塚の交差点に戻る。

庚申塚の交差点から南に行く。通りの名は折戸通りになっている。道はやや左に曲がって行くが、その手前に公衆浴場の巣鴨湯があった。折戸通りをさらに進むと信号のある交差点に出た。この交差点を右に行くと銀泉湯という公衆浴場に出る筈なのだが、すでに廃業しているようなので、行くのは止めて左へ、江戸橋通りを歩く。この通りは昔からあった道らしく、曲がりくねったところが多少あり僅かながらアップダウンもある。先に進むと、J Rの線路の上に架かる江戸橋に出た。ここを左に線路沿いの桜並木の道を歩くと、線路の上に架かる宮下橋に出た。

宮下橋を渡って宮下通りを少し先に行くと、左側に宮下湯があった。公衆浴場もこれにて終り、後は巣鴨駅に戻るだけである。今回歩いた距離は3kmほど。一寸したウォーキングということになるだろうか。このコースの見どころは、おばあちゃんの原宿だそうだが、そればかりではない。江戸時代の人が歩いた道をたどる道でもある。

上の図は享和元年(1801)の巣鴨村図の部分図で、図の上側が北東に当たる。この図で①とあるのが中山道、②は真性寺である。中山道の下側すなわち西側には民家が並んでいるが、上側(東側)は武家屋敷が続いている。当然の事ながら高岩寺は存在しない。③とあるのは御薬園で、この辺りからは中山道の両側に民家が並ぶようになり、道に沿って並木が続いていた事が分かる。④は庚申塚で⑤は王子道に相当する。⑥は大塚道で、現在の折戸道に相当する。この道は⑧の藤橋で谷端川を渡り、大塚上町に通じている。問題は庚申塚に近い十字路から中山道に平行して進む⑦の道で、真性寺の裏手を通り、その先で別の道と合流する道として描かれている。この道は現在の江戸橋通りのルートと類似しており、かつ、江戸橋通りは明治時代の地図にある道とも合致することから、江戸橋通りは江戸時代の道とほぼ同じルートと考えても良さそうである。そうだとすると、巣鴨東コースは江戸時代からの道を歩くコースということになる。江戸時代の人は何を考えて、この道を通っていたのだろう。

 

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トーキョーウォーキング・豊島区(1)

2022-05-31 18:17:33 | 散歩道あれこれ

東京都は2016年に、東京の魅力を再発見しながら楽しんでウォーキングをするための特設サイト「TOKYO WALKING  MAP」を開設し、都内の区市町村が作成したウォーキングマップ等を公開するという発表をした。豊島区もこれに応じ、公衆浴場を巡るというユニークなコースを公開した。ウォーキングの後、途中の公衆浴場に入って汗を流し着替えて帰るということで、ウォーキングをする人と公衆浴場の両方にメリットがあるというわけだろう。ただ、当時、区内にあった23カ所の公衆浴場の中には既に廃業している浴場もあるので見直しが必要かも知れない。そこで先ず、公開されているコースを歩いてみることにした。なお、豊島区のコースはジョギングとウォーキングの両方を兼ねたものになっているが、今回は散歩を含むウォーキングのコースとして歩いている。

(1)千早長崎コース

 椎名町駅の北口から出発。すずらん通りを抜けサミットの前を右にサンロードを北に向かう。区民ひろばを過ぎ千早フラワー公園を右に見て、その先2番目の四つ角を左に入ると、“健康ランド末広湯”の看板が見える。このコース最初の公衆浴場になるが、今回は入浴せずに場所の確認だけなので、四つ角まで戻って北に向かう。次の四つ角で赤蟻通りと交差する。ここを左に行くと、通りの名の由来でもある熊谷守一美術館に出るが、コースでは赤蟻通りを右に行き要町通りに出るようになっている。

要町通りを渡ってガソリンスタンドに沿って進み、その先の四つ角を右に、富士神社通りに出て左折、直ぐに右へ行く道をたどり、突き当りを左へ、次の角を右に行く。“山の湯”へはその先の路地を左に入るのだが、気付かずに先に進んでしまった結果、“山の湯”がどこにあるのか分からなくなった。辺りをあちこち探して、ようやく“山の湯”を見つける。“山の湯”は今年の5月に廃業となったが、煙突や表示も残っていたので何とかたどり着けた。それも無くなってしまっていたら、“山の湯”の跡地は見つけられなかっただろう。

山の湯跡から東に行き、突き当りを右に折れる。左側の塀に沿って下って行くと、藤香想という名のカフェへの入口があった。気にはなったが今回は先に進み、塀に沿って左に行くと、えびす通りに出た。ここを南に行き要町通りに出て左へ、要町一交差点に出て右に、山手通りを南に向かう。長崎一の交差点で山手通りを渡って、西池袋第二公園の東側の道を南に、次の四つ角を左に行くと“妙法湯”に出る。“妙法湯”は公衆浴場なので入浴料金は統制額が適用されるが、併設されている“エンジェルロック”は対象外で統制額は適用されないらしい。“妙法湯”から山手通りの下を潜れば、椎名町駅はすぐである。千早長崎コースは、これにて終り。距離にして3.3kmと言うが、途中に迷い道があったので、実際にはそれ以上の距離を歩いている。

“山の湯”をコースから外した場合、要町通りの南側だけのコースも考えられる。この場合、“末広湯”の前の道を東に向かって歩けば要町一の交差点近くに出られる。交差点の東側にある谷端川緑道を歩いて南に行き、“湯~ゆランドあずま”と“妙法湯”に寄ってから椎名町駅に出ても良い。要町通りの北側も含むコースとしては、富士神社通りを歩いて国指定重要民俗文化財の豊島長崎の富士塚を見に行き、えびす通りに出て長崎神社へ向かうコースも考えられ、東京の魅力の再発見という点からすれば、その方が良いかも知れない。

(2)椎名町駅周辺コース

椎名町駅北口から、すずらん通りの北側にある商店街を通り、サンロードを横切って、コンビニのある角を左に折れ、踏切を渡って椎名町公園に出る。本来のコースでは、その先の交差点を右に折れ、“広の湯”まで大和田通りを往復するようだが、今回は椎名町公園の角を右に行く。300mほど歩くと保育園がある。その先の細い道を左に入った先に“広の湯”があったが、既に廃業して別の建物になっている。

大和田通りに出て左へ。椎名町公園を過ぎて山手通りの下を潜る。山手通りからも煙突が目立つ“五色湯”はその先にある。その“五色湯”だが、現在は改装中のため休業しているらしい。“五色湯”の先を左に折れ踏切を渡って西池袋第二公園の東側の道を進み、西池袋通りに出る。

西池袋通りを渡って右に行く。立教大学の南側には戦前から道があったが、この道が西池袋通りとして整備されたのは平成23年のことである。羽黒神社を過ぎると、その先に谷端川緑道がある。左に入ると緑道の東側に、“湯~ゆランドあずま”という公衆浴場がある。

そのあと、西池袋通りを渡って谷端川緑道を南に進む。緑道は西武鉄道の線路で途切れるが、その手前の道を右に行くと“妙法湯”に出る。ここを過ぎて山手通りの下を潜ると、右側に金剛院があり、その近くに椎名町駅がある。

“広の湯”が廃業したあと、このコースを活かすとすれば、トキワ荘ゆかりの地巡りのコースにする事も考えられる。その方が、東京の魅力の再発見につながるかも知れない。

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飛鳥山公園、旧古河庭園、六義園をめぐる

2022-05-03 06:29:27 | 散歩道あれこれ

前回は、“つつじまつり”の根津神社から駒込駅まで歩いたが、今回はツツジの名所でもある、飛鳥山公園、旧古河庭園、六義園を経て駒込駅まで歩く。

王子駅の近くにある飛鳥山公園に行く。この公園には約10種、15000株のツツジが植えられており、ツツジの名所になっている。

飛鳥山公園には、北区飛鳥山博物館や紙の博物館、それに渋沢史料館もあるのだが、今回はツツジが主目的なので、入館はまたの機会ということにして、旧渋沢庭園を散策するにとどめて外に出る。本郷通りを東に進んで国指定史跡の西ヶ原一里塚を過ぎ、古代の豊島郡の役所(郡衙)跡があったという滝野川公園を経て先に進む。

平塚神社前の交差点を渡って南側の歩道を先に進み旧古河庭園に入る。なお、旧古河庭園と六義園の共通券である園結びチケットだと割引になる。洋館の前を通ってバラ園とツツジ園を見て回る。

心字池に沿って日本庭園内を散策したあと、ツツジ園とバラ園を経て展望台になっている四阿から四方を見渡す。しばし休憩ののち、旧古河庭園の外に出る。

六義園へは、本郷通りを南に駒込駅方向に行くのが分かりやすいルートだが、今回は本郷通りを王子方面に後戻りし、西門の先の角を左に入って、旧古河庭園沿いの道を下る。緑が多く静かな道である。坂を下り終えた先の丁字路を右に入ると、六阿弥陀詣での対象になっている無量寺の門に出る。門前を左に折れ突き当りを右に、三つ目の左側の角を左に入り交差点を渡る。さらに進んで商店街を横切ると、道は上り坂となる。この道は染井坂通りと呼ばれ、駒込小の横を通って坂を上がり切ったところに、“門と蔵のある広場”と呼ばれる小公園がある。この公園は旧丹羽家の跡地で門と蔵が残されている。先に進むと染井通りに出る。ここを左に行き、“私の庭みんの庭”という一寸気になる小公園を過ぎて、その先、染井橋でJ R を渡る。先に進むと駒込橋の交差点で本郷通りに合流する。六義園の染井門はすぐそこにあり、連休の期間はこの門が開いている。

染井門から六義園に入り、つつじ茶屋、吹上茶屋、千鳥橋を渡って池の向こうの吹上茶屋をしばし眺める。

池に沿って歩き、田鶴橋の向こう、藤代峠のツツジの群落を眺めたあと、渡月橋を渡り藤波橋を渡って染井門から外に出て、駒込駅に向かう。

 

時間に余裕があれば、根津から王子まで歩くことも考えられる。この場合は正門から六義園に入り、開いていれば染井門から外に出て、染井通り、染井坂通り、無量寺、旧古河庭園、飛鳥山公園、王子の経路で歩くことになるだろう。

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根津神社から駒込駅へ

2022-04-30 08:45:07 | 散歩道あれこれ

 桜が終われば、次はつつじの季節。根津神社では規模を縮小して今年も「つつじまつり」を開催しているということなので行ってみた。地下鉄千代田線の根津で下車して、不忍通りを北に向かい、根津神社入口の交差点から左に行くと、根津神社の鳥居の前に出る。

鳥居をくぐり神橋を渡る。西側の斜面にはつつじが植えられており、つつじ苑と呼ばれている。つつじ苑には入ったことがあり、時間の関係もあるので、今回は外から眺めるだけにする。

今年は行事や出店も無いので、例年に比べて参詣の人は少ないのだろうが、それでも社殿の前には行列が出来ており、つつじ苑の中を歩く人も少なくない。

乙女稲荷の下を通り、根津神社の裏手から外に出て左へ、根津裏門坂を上がる。日本医大前の交差点を渡って北に日本医科大学沿いの道を進み、駒込学園前の交差点を渡って左に行く。道の右側の光源寺には駒込大観音と呼ばれる高さ6mの十一面観音像があることから、寺の前の道は大観音通りと呼ばれている。この道を先に進むと本郷通りに出る。ここを右折して北に向かう。

 

地下鉄の本駒込駅を過ぎて北に進むと吉祥寺の前に出る。さらに進むと富士神社入口の交差点に出る。駒込富士神社は、ここを右に入ったところにある。本郷通りを先に進むと上富士前の交差点に出る。六義園の入口はこの交差点の近くにあるが、時間が無いので本郷通りを先に進み駒込駅に向かう。駅ホームから土手のつつじを眺め、今回はここまでということに。

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神田川桜散歩・淀橋から瀧澤橋(その2)

2022-04-03 08:56:10 | 緑と水辺の散歩道

万亀橋から神田川の左岸を進みJRの橋梁を潜る。その先の大東橋を渡って、神田川右岸にある神田上水公園に入る。このコースを2区間に分ける場合は、東中野駅から大東橋に出る。

神田上水公園には自然石や切石による流れがつくられており、花見の頃には、桜の花びらを流れに見立てた石庭のようにも見え、また、花筏のようにも見える場所がある。

神田上水公園を先に進み、途中の南小滝橋と、亀齢橋から下流方向を眺める。両岸は桜が続いており、左岸と右岸どちらの道を歩いても花見を楽しめる。

神田上水公園は早稲田通りが通る小滝橋で終りとなる。右手の交差点を渡って左へ、小滝橋の北側に出て次の橋まで左岸を歩く。

落合中央公園に上がり、神田川の桜並木を眺めたあと久保前橋を渡る。ここから次の橋、せせらぎ橋までは右岸を歩く。

せせらぎ橋から下流を眺める。桜並木の先に高田馬場分水路の暗渠口が見えている。せせらぎ橋を渡った先は、せせらぎの里公苑だが後で寄ることに。

せせらぎ橋から神田川の右岸を先に進むと新堀橋に出る。橋の下流には瀧澤橋が見えるが左岸は歩けないので右岸を歩く。

瀧澤橋の下流側の次の橋は落合橋だが、桜の間に橋が見えるだけで、川沿いに歩ける道が無い。そこで、新堀橋まで戻り北側の道で、せせらぎ橋まで戻る。

せせらぎの里公苑で小休止。東側の桜並木の道を歩き、下落合駅に行く。神田川桜散歩はこれにて終りとなる。 

 

 

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神田川桜散歩・淀橋から瀧澤橋(その1)

2022-04-02 21:18:36 | 緑と水辺の散歩道

今は花見の宴は出来れば避けたいところだが、花見の散歩なら許容範囲かも知れぬと思い、マスクをして出かけることにした。今回の散歩道は当ブログで取り上げたことのある神田川の道のうち、淀橋から瀧澤橋までの区間を取り上げ、2回に分けて公開する。

地下鉄の中野坂上駅を出て青梅街道を東に下れば神田川に出る。淀橋水車を表しているという橋の柱の紋様を確認し、対岸の桜を眺めながら下流に向かって左岸を歩く。

次の栄橋で下流を眺めてから、橋を渡って今度は右岸を歩く。川岸の案内図によると、この辺りの神田川は東側の新宿区と西側の中野区の境界になっていて、右岸の新宿区側は「水とみどりの散歩道」という遊歩道になっている。

栄橋の次の橋は伏見橋で、この橋を渡ってから今度は中野区側の左岸を歩く。左岸は「神田川四季の道」という遊歩道になっている。先に進むと末広橋に出るが、その手前に天沼を水源とする桃園川の緑道の出口があり、南こうせつが歌った神田川の歌詞の碑が置かれていた。

末広橋は大久保通りが通っているので、左手の交差点を渡って橋に戻る。ここから次の橋までの間は桜があまり無い。振り返って南側のビル群と桜を眺め、それから左岸を先に進む。

次の橋は柏橋で斜めに架けられている。この辺りは柏木という地名であったらしく、それが橋の名の由来になっている。対岸の桜を眺めながら左岸を先に進むと新開橋に出る。

新開橋は、明治の中頃に新宿・八王子間に甲武鉄道が開通して現在の東中野駅近くに柏木駅が開業した際に架橋されたという。走行する電車を写真に収めてから、新開橋を渡る。

新開橋を渡って右側の新宿区側に移り、水とみどりの散歩道を歩く。見上げれば桜、横にも桜、そして散歩道には桜の花びら。桜に包まれての散歩道がしばらく続く。

柏木駅開業の際に架けられた橋は新開橋の他に万亀橋があったという。ただ、この橋の現在位置は当初とは異なるらしい。走行する電車を写真に収めてから万亀橋を渡る。

このコースは淀橋から瀧澤橋まで続けて歩いても良いが、淀橋から万亀橋までと、万亀橋から瀧澤橋までの2回に分けても良く、この場合、万亀橋から近い東中野駅が中間点となる。

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河津桜を探しながらの散歩

2022-03-15 18:00:06 | 散歩道あれこれ

河津桜はカンヒザクラとオオシマザクラの種間雑種の栽培品種で、静岡県河津町の民家には原木が今も残っているらしい。河津町では2月に花見が出来るそうだが、東京では少し遅れて3月頃に花が咲くという。そこで河津桜を探しながら歩くコースを考えてみた。

(1)長崎公園

出発点を椎名町駅とした場合、駅からサミットの前に出てサンロードを北に向かう。信号のある交差点を渡って、次の四つ角を左に行くと長崎公園に出る。公園は道を挟んで東側と西側に分かれるが、西側の公園内に河津桜と思われる桜が咲いている。

(2)南長崎スポーツ公園

西側の公園を見たあと、その東南の角を南に向かう。踏切を渡って先に進むと、南長崎通り(トキワ荘通り)に出る。ここを右へ行き次の角を左に入ると、南長崎スポ-ツ公園に出る。公園内のサッカーグラウンドの金網沿いに河津桜が咲いている。

(3)哲学堂

南長崎スポーツセンターの横を通り目白通りに出て左へ行く。大江戸線の落合南長崎駅の入口を過ぎて、西落合一丁目の交差点の南西側の角に渡り西に向かう。地蔵堂入口を過ぎて斜め前方の道を先に進み、ホビーセンターKATOを経て哲学堂通りに出る。ここを左に行き通りを渡ると哲学堂の入口がある。中に入ると菖蒲池があり、その東側と西側に河津桜がある。公園内を見て歩いたあと、新青梅街道に出て東に進み、落合南長崎駅に行く。

(4)石神井2丁目バス通り

時間に余裕があれば、西武池袋線で石神井公園駅に行き、駅を北側に出て右へ、バス通りに出て北に向かうと河津桜の並木がある。そのあと、南に行き石神井公園内を散策しても良い。

(5)新宿御苑

大江戸線から地下鉄を乗り継げば新宿御苑に出られる。園内には多種類の桜が植えられているが、その中には河津桜もある(写真は2017年3月撮影)。

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寅年のお年玉切手シート

2022-01-30 16:22:01 | 随想ほか雑記

今年は、お年玉付き年賀はがきの末等、お年玉切手シートが1枚当たったので、先日、郵便局で入手した。これで、今年までの寅年のお年玉切手シートが一通り揃うことになった。

 

(1)昭和37年(1962) 

昭和37年は干支で言うと、今年(2022)と同じ壬寅(みずのえとら)に当たる。昭和37年は、戦後の高度経済成長である岩戸景気と、いざなぎ景気の間の景気後退期に当たっていた。この年は、米ソ開戦、強いては核戦争の危険すらあったキューバ危機が生じた年でもある。なお、プロ野球では阪神タイガースが優勝している。

昭和37年寅年(1962)のお年玉切手の図柄は、出雲市の郷土玩具、張子の虎で、額面5円の切手4枚が1シートになっている。郵便料金は昭和26年から変わらず、はがき5円封書10円のままであった。出雲の郷土玩具・張子の虎は、江戸末期の彫刻家荒川亀斎による虎の像をもとに、出雲市の高橋熊市が造ったとされ、節句の祝いに贈るものであった。

 

(2)昭和49年(1974) 

昭和49年は干支で言うと甲寅(きのえとら)に当たる。その前年、中東戦争によるオイルショックがあって物価が高騰し、昭和49年にはマイナス成長となって、長く続いた高度経済成長も終焉を迎えることになった。

昭和49年(1974)のお年玉切手は10円3枚の切手シートである。なお、郵便料金は昭和47年に、はがき10円封書20円に値上げされていた。図柄は重要文化財の千葉寺(せんようじ)の銅梅竹透釣燈籠で、千葉寺址地から出土したものである。銘文から、室町時代の天文19年(1550)の鋳造で、現在は東京国立博物館の所蔵になっている。

 

(3)昭和61年(1986)

昭和61年は干支で言うと丙寅(ひのえとら)に当たる。また、九星気学では五黄(ごおう)の寅年に当たり、非常に強い運勢を持つ年とされる。昭和61年は、投機による株価や地価の上昇によって生じた、実態とはかけ離れたバブル景気が始まった年である。 

昭和61年のお年玉切手は、40円切手2枚のシートである。郵便料金はすでに、はがき40円封書60円になっていた。お年玉切手の図柄は大阪の郷土玩具で、五葉の笹に張子の虎が付けられた神農の虎である。神農は古代中国の伝説上の帝王で農業と医薬の道を開いたとされ、大阪の少彦名神社には薬祖神として合祀されている。文政5年にコレラが大流行した時、丸薬とともに張子の虎を授与したのが神農の虎の始まりとされている。

 

(4)平成10年(1998)

昭和64年(1989)は1月7日で終り、1月8日からは平成元年となった。その翌年、株価は暴落に転じ、平成3年(1991)にバブル景気は崩壊した。その後の経済は停滞し、平成10年(1998)もマイナス成長で、失業率は過去最悪の状態だった。

平成10年は干支で言うと戊寅(つちのえとら)に当たる。郵便料金は既に、はがき50円封書80円になっており、この年のお年玉切手は50円の三春張子虎と80円の博多張子虎のシートであった。三春張子の虎は郡山のデコ屋敷で作られている腰高虎で江戸時代からの手法が受け継がれているという。博多張子の虎は、初節句の祝いとして成長を祈願する首振りの虎になっている。

 

(5)平成22年(2010) 

インターネットは1990年代から使われてきたが2000年代に入るとインターネットが使える第三世代携帯が登場し、2010年頃からはスマホの普及が始まった。

平成22年は干支で言うと庚寅(かのえのとら)に当たる。郵便料金は、はがき50円封書80円で平成10年と変わりが無かった。この年のお年玉切手は80円の加賀魔除虎と50円の静岡張子によるシートだった。加賀魔除虎は節句に贈られるもので魔除けを念じるものだが、愛嬌のある姿で首を振る郷土玩具である。静岡県には郷土玩具の張子虎が静岡、清水、浜松で作られているが、この年選ばれたのは顔が可愛らしい静岡の張子虎である。 

 

(6)令和4年(2022)

グローバル化にはプラスの面とマイナスの面があるが、コロナ禍は後者かも知れない。コロナ禍がいつ頃終わるのか判然としないが、良い方向に向かうことを願っている。

令和4年は干支で言うと壬寅(みずのえとら)に当たる。郵便料金は、はがき63円封書84円になっていた。この年のお年玉切手は、手紙を携えた2匹の虎のオリジナルデザインでシール式になっている。お年玉切手シートの製造は、平成29年になって国立印刷局からエンスヘーデ社に変わり、さらに令和2年からカルトール社となり、令和4年には凸版印刷になっている。

 

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年末年始・丑から寅へ

2022-01-10 18:47:09 | 随想ほか雑記

2022年1月6日。昼頃、予報通りに雪が舞い始め、そして、予報を超えて雪は降り続けて、都心では10cmの積雪になった。今冬の初雪かと思ったが、去年の12月26日の深夜に降った雪が初雪だという。雪は縁起の良いセンリョウの赤い実にも降り積もり、正月にふさわしい紅白の姿になった。

1月7日。夜に門松を外す。今年の初詣は去年と同様、近所の神社だけ。親の代から続いていた虎ノ門の金刀比羅宮も去年は参詣せず、浅草寺にも行っていない。そればかりでは無い。大晦日に穴八幡で戴いた一陽来復のお守りを0時0分に貼ることも止めている。昨年は丑年に縁のある牛嶋神社に行かず、今年も寅年に縁のある寅薬師に行っていない。今はただ、元日を含む三が日を心安らかに過ごし、そして、成人の日を含む三が日を心静かに見送るだけ。寅の年が良き年であることを願いつつ。

 

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妙正寺川沿い公園めぐり

2021-12-23 18:08:38 | 公園・庭園めぐり

妙正寺池を水源とする妙正寺川については、2011年に神田川支流・妙正寺川として5回に分けて投稿したが、今回は妙正寺川沿いの公園を取り上げる。

(1)妙正寺公園

妙正寺公園は妙正寺池を中心として、休息コーナー、遊具コーナー、運動コーナーからなる公園で、開園は昭和38年。妙正寺池の湧水量が少なくなっているため、現在は地下水をくみ上げているという。池を中心に公園内を見て回る。現在の池は、元の池に比べて広くなっているようで、噴水も設けられ、公園の池らしくなっている。妙正寺池から流れ出ている筈の妙正寺川は見当たらないが、公園内では地下を流れているらしい。妙正寺川には井草川が合流していたが、昔の地図からすると合流点は公園内になるので、地上には見当たらない。妙正寺川が姿を現すのは、合流点の下流にあたる、妙正寺公園の外からである。

(2)平和の森公園

妙正寺公園を出た妙正寺川は北東に流れるが、その途中で杉並区から中野区へと変わる。妙正寺川は鷺ノ宮駅の近くから南に流れたあと、東に向かい環七の下を潜ることになるが、この辺りは工事中のようなので、またの機会に見て回ることに。この先、妙正寺川は沼袋駅方向に向かうが、途中の妙正寺川沿いに平和の森公園がある。この公園は、中野刑務所の跡地に下水処理場とともに設けられた防災公園で、昭和60年に部分開園したあと再整備が行われて令和2年に開園している。妙正寺川沿いの入口から入ると多目的運動場の下に出る。ここを上がり水辺の広場を過ぎると、広々とした草地広場に出る。東側には区立総合体育館も見える。以前は、天気の良い日に広場の西側から富士山を見ることも出来たが、今はどうなのかは分からない。

(3)江古田公園

妙正寺川は沼袋駅近くで東に流れたあと、西武鉄道の線路を潜って北に流れ、新青梅街道近くで、学田公園付近を源流とし千川上水の分水を加えた江古田川(写真の下側)が合流する。そのあと、妙正寺川は南東に向きを変えて流れていく。妙正寺川の両側は江古田公園で、北側には太田道灌と豊島氏との古戦場の碑が置かれている。南側は崖下の樹林地で北野神社の境内に続いている。

(4)哲学堂公園

妙正寺川は下田橋の先で哲学堂公園沿いに流れるようになる。川の左岸から園内に入って時空岡に上がり、菖蒲池に下りて唯心庭に行き、心字池を暫し眺める。それから富士橋で右岸に移り、哲学の庭を通って妙正寺口から外に出て、川沿いに進む。右側には、中間調節池を挟んで多目的運動コーナーがあり、左の方には流れと池による休憩コーナーがあるが、これらは妙正寺川の増水時に雨水を溜める第一調節池になっている。多目的運動コーナーの南側には運動広場が見えるが、その地下は雨水を溜める第二調節池になっている。運動広場、多目的運動コーナー、休憩コーナーは、妙正寺川公園に含まれる。妙正寺川の右岸を四村橋へと向かう途中には区境があり、中野区から新宿区に代わる。妙正寺川公園の池は新宿区側にある。

(5)上高田運動施設と落合公園

哲学堂を出て四村橋を過ぎる。この辺りの妙正寺川は区の境界にもなっていて、左岸にある西落合公園は新宿区になっている。北原橋から先は川の右側に移る。中野区の上高田公園の先には、中野区の上高田運動施設が続いているが、運動施設の地下は洪水防止のために雨水を溜める上高田調節池になっている。

川の右岸を先に進み西武鉄道の下を潜る。ここは出水時には通行不可になる。先に進むと川の左岸に新宿区の落合公園があり、橋を渡って入ってみる。この公園の地下は落合調節池で増水時に雨水を溜めるようになっている。

(6)せせらぎの里公苑

妙正寺川の左岸を先に進み山手通りを潜り中井駅を過ぎる。そのまま進むと西武鉄道で行き止まりになるので川から離れ、下落合駅近くの、せせらぎの里公苑に行く。以前の神田川はこの辺りで蛇行しており、下落合駅近くで妙正寺川と合流していたが、現在は流路が変えられている。公苑から北へ下落合駅を過ぎ、妙正寺川に出て右に行く。この先、妙正寺川は、新目白通り下の暗渠である高田馬場分水路に入り、高戸橋の上流で神田川に合流している。

(7)おとめ山公園

新目白通りを歩道橋で渡り、薬王院の前を右に行く。すぐ先を左に入り下落合野鳥の森公園に立ち寄ったあと、おとめ山公園に向かう。公園の東側にある池は弁天池で、昔は池の中の小島に橋が架かっていた。おとめ山公園も今は広くなっているが、以前は弁天池と西側の谷の部分だけだった。おとめ山通りを渡って西側に行く。昔は相応の湧水量があったが、今も湧水はあるらしく、東京の名湧水57選の一つになっている。広くなった園内を見て歩き、それから目白駅へと向かう。

 

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晩秋の港野鳥公園

2021-12-01 17:54:10 | 公園・庭園めぐり

東京港野鳥公園(大田区東海3-1)には、これまで何度か行ったことがあるが、感染が落ち着いている今のうち、久しぶりに出かけてみることにした。持参するのはコンパクトな双眼鏡とコンパクトカメラ。まともな野鳥写真は無理でも、晩秋の野鳥公園の景色ぐらいは何とか撮れるだろう。公園への最寄り駅は東京モノレールの流通センター駅だが、多少遠くても、大井競馬場前から大井ふ頭中央海浜公園内を歩くルートがお勧めである。

港野鳥公園の前の道路は、都道316号・318号(環七)で交通量も多いが、公園内に入ると、その音も遠のいて公園は野鳥たちの領分となる。管理事務所は入口から坂を上がったところにあり、ここで入園料を支払って野鳥たちの様子を見に行く。管理事務所の前には竹が置かれているが、滅多に咲かない竹の花を展示しているらしい。この地が埋め立てられたのは1960年代なので、120年を待たずに竹は花を咲かせたことになる。

管理事務所から東に行くと、すぐに広い芝生広場に出る。ここで弁当を食べるのも良く、2m間隔を開ければ遊ぶことも出来る。雨が降ってきたら、屋根付休憩舎で休んでもいい。

この公園は東園と西園に分かれていて、いそしぎ橋の東側が東園となる。その橋を渡りかけたとき、羽田から飛び立った飛行機が見えた。港野鳥公園は羽田空港から間近な位置にあるが、空港のすぐ傍にあるこの公園は、野鳥にとってはどうなのだろう。

いそしぎ橋の南側には大田市場が見える。北側を見ると鉄道線路があった。地図によると線路は 東海道貨物線で、いそしぎ橋から先は地下となり大田市場から昭和島の下を抜け、羽田飛行場の西側を抜けて天空橋の先で多摩川を潜って川崎に向かっているようである。

いそしぎ橋から先、東園の道を歩く。東観察広場を過ぎて、ネイチャーセンターに行く。2階と1階の観察ロビーから全景を眺めたあと、地階の干潟遊歩道に出て潮入りの池を見る。

ネイチャーセンターの外に出て広場から北側の東淡水池を眺める。野鳥の姿を探すが、間近にはあまり見られない。

2号観察小屋に立ち寄ったあと、1号観察小屋に行く。2号観察小屋のある北側を眺め、それから東側を眺める。ホシハジロだろうか、群れが見える。

前浜干潟観察デッキに行く。オオバンが近くまでよってくる。オオバンの数は最近、全国的に増えているらしい。

もと来た道をネイチャーセンターまで戻り、来た時とは別の散歩道を通って、いそしぎ橋を渡り、管理事務所を過ぎて、西園の自然生態園に行く。

自然生態園の北側に自然学習センターがある。自然観察会などのイベントで使われる場所ということだが、建物は周辺の景観に溶け込んでいるように思える。

自然生態園には雑木林の中を小川が流れている。広くはないが田んぼもあって、植え付けから収穫までのイベントも行われているらしい。ここは、野鳥のほか、昆虫など自然の生態を観察する場所でもあるのだろう。

西園には西淡水池がある。3号観察小屋に行き池の様子を眺める。ここまで来たところで、そろそろ時間切れ、帰らなければならない。次回、来るときには、もう少し時間をとって、園内をじっくり見て回りたい。

東京港野鳥公園はユニークな公園である。この場所は広大な干潟だったところを埋め立てた土地で、水たまりや原っぱに集まってくる野鳥の保護を訴える声がきっかけで、この公園が造られたという。ここには、池や原っぱ、雑木林や干潟などが再現され、野鳥を始めとして生物が生息しうる環境が整えられている。現在、この辺りには、倉庫など物流関係の施設が集まっているが、この公園内だけは、人工的とは言え、自然が存在している。

 

 

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東京文化財ウイーク2021・豊島区・その2

2021-11-12 19:24:00 | 東京の文化財

(2)雑司ヶ谷旧宣教師館

鬼子母神前の踏切を渡って左へ、都電沿いに道を北に向かうと弦巻通りに出る。途中に踏切があった筈だが見当たらない。閉鎖されたのだろう。弦巻通りを東に向かう。通りの名は弦巻川が由来だろうが、暗渠化されているので、どこを流れていたかは分からない。児童遊園の先の角を左に入り、急坂を上がると雑司が谷霊園に出る。霊園に沿って右へ行き、保育園の角を右に入って、幼稚園の手前を左に行くと豊島区立雑司が谷旧宣教師館に出る。

雑司が谷旧宣教師館は、アメリカ人宣教師のマッケーレブが明治40年に建てた居宅で、昭和16年まで居住していたという。昭和57年に豊島区がこの建物を取得して、当初の姿に復元するとともに保存修理工事を行い、平成元年に開館。平成11年には旧マッケーレブ邸として、都の有形文化財(建造物)に指定されている。昨年度は大規模修繕のため閉館していたが、工事も終り今年4月から開館している。入館料は無料である。

ホールでスリッパに履き替え中に入る。1階の西側は居間、東側は食堂、南側は教会事務室として使われていた。写真は食堂で、階段の見える東側から南側にかけて広縁になっている。

北側の階段を上がる。向こう側に広縁が見えている。その左側は浴室である。2階は、東側と西側が寝室、南側が書斎として使われていた。

写真は書斎で、左側には暖炉がある。暖炉は1階と2階、合わせて6室に設けられていた。書斎の向こう側には広縁が見えている。

各部屋と展示を見たあと、庭に出て建物を一周する。写真は南側で、1階と2階で形の異なるベイウィンドウ、すなわち出窓になっている。

東側の庭から建物を見る。ガラス窓なので庭から部屋の様子が見える。広縁から庭を眺めるのも良さそうである。建物の周りを一周し、それから宣教師館の外に出る。宣教師館を横目に右へ行き、その先を左に、次の突き当りを右に進み、その先の突き当りを左に行くと、雑司が谷霊園に出る。霊園沿いに右に行けば日出通りに出る。坂の名は小篠(こざさ)坂。昔、この坂を都電が通っていたが、今は首都高が頭上を覆い隠すように通っている。

首都高を潜って日出通りを渡り左に行く。次の交差点で右に入る道は、護国寺の裏手を通って鈴木信太郎記念館に行く近道だが、今回はこの道を通らず、日出通りから分かれて北に向かう道を歩く。実は、この道、豊島区と文京区の境の道なのである。先に進むと左側つまり豊島区側に“鎮守の森”という名の小さな広場があった。鎮守とは言うが、神社があったわけではないらしい。この辺りでは、このような小広場を辻広場と呼び、他にもあるという。

鎮守の森を過ぎて直ぐ右に道を折れ、三つ目の左側の角を左に入る。児童遊園を過ぎて先に進むと、道の角に小さな広場があった。ここも辻広場で太陽広場と呼ばれているらしい。ここを右に行くと、いつの間にか文京区側に入ってしまう。

 

(3)鈴木信太郎記念館

大塚六丁目の交差点に出て、右に行く。少し歩くと開運坂の交差点に出る。押しボタン式信号機のボタンを押し、暫く休んでから渡る。渡った先の道を北に向かって進み、右に曲がるとようやく区境の道となる。道の左側には斜面の崩壊を防ぐ大谷石の擁壁が続くが、その途中に鈴木信太郎記念館の入口がある。この記念館は、旧鈴木家住宅として豊島区の有形文化財(建造物)に指定されている。なお、当ブログでは鈴木信太郎記念館について2018年10月31日にも投稿している。

入口を入って石段を上がると、先ず右側の書斎棟が目を引く。昭和3年の建設で蔵書を火災から守るため鉄筋コンクリート造りになっている。設計は鉄筋コンクリートに詳しい大塚泰。幾何学模様に対し日本瓦の唐破風を組み合わせている。

鈴木家住宅は、茶の間ホール棟を中心に右側の書斎棟と左側の座敷棟からなる。写真は茶の間ホール棟で、粟谷鶉二の設計による昭和21年の建築である。戦後の住宅不足対策として、限りある建築資材で多くの棟数を確保するため、昭和21年に臨時建設制限令が出され、木造住宅の床面積が50㎡(15坪)を超える新築や増改築は原則として禁止されることになった。そのため、茶の間ホール棟も50㎡以下に抑えられている。

茶の間ホール棟の玄関でスリッパに履き替えて書斎棟に行く。天井まで届く本棚に圧倒される。知っている本があるかどうか探そうかと思ったが、すぐにあきらめる。書斎棟には、多くの書物を机に並べて仕事するのに適した机と椅子がある。今はカーテンにより室内は暗くなっているが、仕事をしている時にはカーテンを開けていたかも知れない。

書斎棟には鈴木信太郎自身のデザインによるステンドグラスが、5枚はめ込まれている。黄金色の光の中で、鰐、鳩、鹿、獅子、犬が本を開いている図柄で、マラルメが語った言葉「LE MONDE EST FAIT POUR ABOUTIR A UN BEAU  LIVRE」(世界は一巻の美しい書物に近付くべく出来ている)を5分割したものを組み合わせているということだが、文字はよく分からない。上の写真はその中の1枚で、S.Mというのはステファヌ.マラルメのことだろう。

書斎棟からホールに戻ろうとして段差があるのに気付く。フランス文学の研究者として書斎で過ごす時間が多かったとすると、書斎は職場であり、家人が自由に入れる場所ではなかっただろう。ホールを通り抜け、スリッパも脱いで座敷棟に行く。北葛飾郡富多村の実家には明治20年代に建てられた書院があったが、座敷棟はこれを昭和23年に移築したもので、臨時建設制限令下でも移築は許可されたらしい。次の間から座敷を眺める。以前来た時は床の間に何も無かったが、今回は掛軸が架かっていた。これでこそ床の間である。掛軸は高森碎巌の穐景山水図で複製のようだが、それでも掛軸があった方がいい。

玄関から外に出て座敷棟を眺める。その背後には、昔は無かった筈の高層建築が、鈴木家の住宅を見下ろすように立ち並んでいる。仮に座敷棟に住むことになったとしたら、多少なりとも気になるのかもしれない。

室内から庭を眺める。住居だった頃の庭については、よく分からないが、現在の庭はすっきりした庭になっている。芝生に踏み石が置かれただけで座敷棟の前は和の庭になる。敷地東側の書斎棟の前は芝生が広がる洋の庭で、入口近くのクスノキがシンボルツリーとなって、敷地の南側全体を一つの庭にまとめている、そんな気がする。

記念館内を一通り見てから、外に出て新大塚駅に向かう。途中、記念館の外から書斎棟を眺める。背後には高層建築も見えているが、建物の風格と云う点からすれば格段の差がある。それにしても、個人の住宅の一部として、よくぞ、このような書斎棟を建てたものだと思う。

 

 

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東京文化財ウイーク2021・豊島区・その1

2021-11-06 20:59:13 | 東京の文化財

東京文化財ウイーク2021で、豊島区は6件の企画事業を行っているが、その中に自由学園明日館100周年記念・洋風建築ぬりえ散歩という企画があり、自由学園明日館、雑司ヶ谷旧宣教師館、鈴木信太郎記念館の3館を対象として11月28日まで行われることになっていた。そこで、ぬりえはともかくとして、3館に加えて豊島区の文化財をめぐる散歩をしてみる事にした。

(1)自由学園明日館

池袋駅を西側に出てメトロポリタン通りを南に向かう。途中、交差点の角に元池袋史跡公園があり、この付近に弦巻川の源流でもある丸池があったということだが、今は池や流れの跡形もない。ホテルメトロポリタンに沿って先に進み、次の交差点を渡って右手の角を入り、上り屋敷通りに出る。通りの名は平成になってからの通称のようだが、通り自体は古くからあったらしい。ここを道なりに進んで案内標識により右に入ると、国指定重要文化財(建造物)の自由学園明日館に出る。道路の右側には中央棟と西教室、東教室が並んでいるが、背後の高層建築に負けない存在感がある。設計は帝国ホテルの設計のため来日していたF.L.ライトで、遠藤新が助手を勤めていた。竣工は中央棟と西教室が大正11年、東教室が大正14年だが、自由学園の創立は大正10年なので完成前の教室を使用して開校したらしい。この建物は文化財を使用しながら保存する動態保全を採用しており、集会などで使用することが可能になっている。また、有料だが内部を見学することもできる。

中央棟や東西の教室はすでに入館したことがあるので、今回は道路の左側にある講堂に行く。講堂も重要文化財(建造物)で設計は遠藤新。昭和2年の竣工である。今年は11月3日まで館内で「文化財の中で文化財を知る」という無料の展覧会を行っていたので入ってみた。講堂は関東大震災後の建築であり、中央の床に対して両脇の床を高くする耐震も考慮した設計になっている。講堂は平成26年から3年かけて保存修理工事が行われ、耐震診断の結果に基づいた耐震対策のほか防火対策も行われたというが、見た目は工事前と変わらなかったようである。文化財である講堂の中で、豊島区の文化財についての展示を見て回り、縄文時代後期の貝塚が池袋にあることに気付く。文化財ウイークには茂呂遺跡も公開されている筈だが、発見された黒曜石の産地は同じなのだろうか。

講堂を出て講堂沿いの道を歩き、南側の入口付近から講堂をしばらく眺め、それから、上り屋敷通りに出る。通りは線路沿いの道となるが、この辺にあった筈の開かずの踏切の場所が分からぬまま、西武池袋線の下をくぐる。上り屋敷通りもここ迄で、この先は線路沿いに目白駅に向かう道となる。平成も終りの頃、目白駅から明日館に向かう道をF.L.ライトの小路と呼ぶようになったらしく、そのルートは上り屋敷通りと重複する区間があったようである。開かずの踏切が廃止された後、代わりに設けられた歩道橋でJRの上を越える。歩道橋の名は“花のはし”。線路敷内の土手に花々が咲き誇ることを願ってのことらしい。 

歩道橋を渡って左へ行き、西武池袋線のガードは無視して、車に注意しながら曲がりくねった道を先に進む。この道は鬼子母神に通じる江戸時代からの道でもあった。明治通りを渡って、鬼子母神西参道を先に行くと鬼子母神の裏手に出る。裏口から入るのも気が引けるので左側の道を進んで横から境内に入る。雑司ヶ谷鬼子母神堂は国指定の重要文化財(建造物)で、本殿は寛文4年、拝殿は元禄13年の建立。江戸時代には浅草寺や目黒不動と並んで多くの人が参詣に訪れた場所でもある。

鬼子母神の境内には、都指定の天然記念物であるイチョウがある。幹囲6.6m、樹高32.5mの大木で、御神木として扱われているようである。

鬼子母神の境内を出て、鬼子母神表参道を歩く。参道の途中に、雑司が谷案内処のある並木ハウスアネックスがあるが、この建物は砂金家長屋(いさごけ ながや)として国登録の有形文化財(建造物)になっている。この建物は昭和7年に建てられた昭和モダンの長屋建て店舗兼住宅で、1階は仕事場として2階は和室として使われていたという。

並木ハウスアネックスの裏手にある並木ハウスは、砂金家が昭和28年に建てた上質な木造賃貸アパートで、この建物も国登録の有形文化財(建造物)になっている。手塚治虫が都内で最初に入居したのはトキワ荘だが、その後、並木ハウスに転居している。並木ハウスは現在も入居者があり、立ち入ることは出来ない。

鬼子母神表参道の鬼子母神大門ケヤキは都の天然記念物に指定されている。地元の人たちの努力もあって、ここまで維持されてきたのだろう。

さて、この先を続けて歩くことも可能ではあるのだが、途中、思いのほか時間を要してしまったため、日を改めて歩くことにした。

 

 

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東京文化財ウイーク2021・中野区

2021-10-28 18:16:55 | 東京の文化財

東京文化財ウイーク2021で、中野区は特別公開事業として哲学堂公園と三岸家住宅アトリエを、企画事業として歴史民俗資料館の特別展と山崎家庭園茶室を対象にしている。

(1)哲学堂

哲学堂は、哲学者で東洋大学の創立者である井上円了博士が、精神修養の場として開設した公園で、戦後は都立公園となるが、現在は中野区立哲学堂公園になっている。哲学堂公園は国指定の名勝であり、哲学堂内にある明治から大正時代の古い建築物、すなわち、哲理門、四聖堂、六賢台、絶対城、宇宙館、三学亭、常識門、髑髏庵、鬼神窟、無尽蔵は中野区指定の有形文化財になっている。特別公開事業の期間は10月30日~11月7日だが、哲学堂ではすでに古建築の内部公開を始めていた。まずは、文化財ウイークの幟が立つ事務所で資料を入手する。

哲理門から中に入る。門のうちにある幽霊は心の不思議、天狗は物の不思議を表しているという。今日は建築物の方に関心がある故、天狗の横を通り抜けて時空岡という広場に出る。

広場の中ほどには四聖堂があり、孔子、釈迦、ソクラテス、カントの四人の哲学者が祀られている。四聖堂の中には入れないが、扉が開いているので内部を覗くことは出来る。球体の燈火の下に吊り下げられた香炉、その下には南無絶対無限尊の円柱が見える。堂内には釈迦涅槃像が祀られているが、これは昭和になって置かれたらしい。

石段を上がって、三角錐の築山の上に建てられた三学亭に行く。ここには、神道の平田篤胤、儒教の林羅山、そして仏教からは鎌倉時代の学僧である釈凝然、この三人の碩学が祀られている。三学亭は三本の柱で三角錐の屋根を支える小さな四阿で、一休みする場所にはなるが、眺めはさほど良くない。石段は三方にあるが、この日は、もと来た石段を戻る。

講義室として建てられた宇宙館に行く。宇宙の真理を研究する学問として哲学をとらえていたのが名の由来らしい。館内には昭和になってから設置された聖徳太子立像もある。宇宙館内で哲学堂のビデオ映像の一部を視聴してから外に出る。

図書室として使われていた絶対城に行き、スリッパに履き替えて中に入る。あらゆる書を読みつくせば絶対の境地に達すると言うのが名の由来のようだが、蔵書は全て他で保存されているらしく、今は空っぽの本棚が並ぶだけである。2階にも上がってみる。ここは閲覧室になっていて、天窓から射し込む光で本を読んでいたらしい。婦人用の閲覧室も別に設けられていた。絶対城の外側には屋根の上にまで続く梯子が架かっている。登り切ったところは観望台になっていて富士山も望めたという。

六賢台は三層六角形の塔で、哲学堂では一番目を引く建物だが、今日は内部の公開はされていなかった。この塔は、道教の荘子、朱子学の朱子、仏教の龍樹、バラモン教の迦比羅仙(カピラ)、そして日本から聖徳太子と菅原道真を賢人として祀っているという。

無尽蔵という古建築も公開されていたので、スリッパに履き替えて中に入る。井上円了は国内だけでなく世界各地を訪れているが、その時の蒐集品を納めたのが無尽蔵であったらしい。1階の展示を見てまわったあと、2階にも上がってみる。

集会場として利用されている霊明閣の建物は鬼神窟でもあり、髑髏庵から入ることになるが、当然のことながら入れないので常識門から外に出る。

 

(2)山崎家庭園・茶室

中野区立歴史民俗資料館の展覧会「はかる道具」を見る。そのあと、併設されている山崎家庭園・茶室が公開(10月1日~10月31日)されていたので行ってみた。山崎家は醤油製造業で隆盛を誇り、江古田村丸山組の名主をつとめた家柄で、歴史民俗資料館は山崎家から寄贈された土地にある。

歴史民俗資料館の横から、山崎家の庭に入る。山崎家の庭には、これ見よがしのようなところは無い。部屋から眺めるのも良く、また、庭を歩くのも良い、そんな庭である。

山崎家の書院は離れとして天保12年に建てられたという。現在の書院は、江戸時代そのままではないだろうが、当時の様子を少なからず残しているのかも知れない。書院は左側の八畳の座敷と六畳の次の間からなり、板襖で仕切られていたようである。

書院の横には洋館があるが、大正時代に洋館付の和風住宅が流行したことから、山崎家でも洋館付の住宅に改修したのではないかと思う。

書院の前の庭には、寒山拾得の石像が置かれていた。左側が寒山で、右側の箒を持っている方が拾得になるのだろう。寒山拾得の図は多いようだが、石像は少ないらしい。それにしても、この石像は変わっている。見方によっては談笑する老夫婦のようにも見えてくる。

庭の片隅には椎の木の巨木があった。街道からも目立つ樹木だったようで、醤油屋のしいの木と呼ばれていたらしい。この樹木は、中野区の文化財(記念物)に指定されている。

庭から茶室に向かう。説明書きには、茶室に炉がなく本格的な茶室というより最上級の客間を兼ねていたと思われるとある。太田蜀山人も泊まっていたらしく、その書が残されている。

 

 

 

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板橋区の文化財ウィーク2021

2021-10-22 18:13:13 | 東京の文化財

猛暑が突然のように終りを告げ、コロナ禍も下火になって、ようやく気ままに散歩できるようになった。気が付いたら、今年も文化財ウイークの関連行事が始まっていた。その中に、板橋区による東京都文化財ウィーク2021への参加事業として、いたばし文化財ふれあいウィーク2021という行事があり、東光寺、観明寺、遍照寺、茂呂遺跡が対象になっていた。申込不要で無料、解説ガイドは配置せず解説カードの設置にとどめるということだったが、茂呂遺跡以外は行った事が無かったので、とりあえず三カ所の寺に出かけてみた。

下板橋駅の北口から旧中山道に出て左へ行き中山道を渡る。左斜め前方の旧中山道は後回しにして右手の道に入り、室町時代創建という浄土宗の東光寺に行く。入って左手に享保4年造立の石造地蔵菩薩座像がある。板橋区登録有形文化財(歴史資料)の像で、もとは平尾の一里塚に安置されていたが、明治時代に塚が取り壊されたため、東光寺に移されたという。この寺には板橋区指定有形文化財(歴史資料)の寛文二年庚申塔や、板橋区登録有形文化財(歴史資料)の宇喜多秀家供養塔もある。

旧中山道を先に進むと右側に真言宗の観明寺があり、その入口に板橋区指定有形文化財(歴史資料)の寛文元年庚申塔がある。青面金剛が刻まれた庚申塔としては都内最古という。

旧中山道を先に進み王子新道との交差点を渡る。板橋区登録有形文化財(建造物)になっている築100年の米屋商家、板五米店を過ぎると、その先に遍照寺の参道がある。この寺は、江戸時代には天台宗の寺院であり、宿場の馬つなぎ場としても利用されていたというが、現在は成田山新勝寺の末寺になっている。参道の先の本堂はまだ新しいので建て替えたものらしく、参道とそれに続く庭園も手入れが行き届いている。この寺は「遍照寺参詣図絵馬」をはじめ多数の絵馬を所有しており、板橋区指定の有形文化財(歴史資料)になっている。

旧中山道の板橋宿跡周辺には文化財が多く、本来なら見て回りたいところだが、すでに日が傾きかけているゆえ、この辺りで一区切りということにした。

 

 

 

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