夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

板橋区の文化財ウィーク2021

2021-10-22 18:13:13 | 東京の文化財

猛暑が突然のように終りを告げ、コロナ禍も下火になって、ようやく気ままに散歩できるようになった。気が付いたら、今年も文化財ウイークの関連行事が始まっていた。その中に、板橋区による東京都文化財ウィーク2021への参加事業として、いたばし文化財ふれあいウィーク2021という行事があり、東光寺、観明寺、遍照寺、茂呂遺跡が対象になっていた。申込不要で無料、解説ガイドは配置せず解説カードの設置にとどめるということだったが、茂呂遺跡以外は行った事が無かったので、とりあえず三カ所の寺に出かけてみた。

下板橋駅の北口から旧中山道に出て左へ行き中山道を渡る。左斜め前方の旧中山道は後回しにして右手の道に入り、室町時代創建という浄土宗の東光寺に行く。入って左手に享保4年造立の石造地蔵菩薩座像がある。板橋区登録有形文化財(歴史資料)の像で、もとは平尾の一里塚に安置されていたが、明治時代に塚が取り壊されたため、東光寺に移されたという。この寺には板橋区指定有形文化財(歴史資料)の寛文二年庚申塔や、板橋区登録有形文化財(歴史資料)の宇喜多秀家供養塔もある。

旧中山道を先に進むと右側に真言宗の観明寺があり、その入口に板橋区指定有形文化財(歴史資料)の寛文元年庚申塔がある。青面金剛が刻まれた庚申塔としては都内最古という。

旧中山道を先に進み王子新道との交差点を渡る。板橋区登録有形文化財(建造物)になっている築100年の米屋商家、板五米店を過ぎると、その先に遍照寺の参道がある。この寺は、江戸時代には天台宗の寺院であり、宿場の馬つなぎ場としても利用されていたというが、現在は成田山新勝寺の末寺になっている。参道の先の本堂はまだ新しいので建て替えたものらしく、参道とそれに続く庭園も手入れが行き届いている。この寺は「遍照寺参詣図絵馬」をはじめ多数の絵馬を所有しており、板橋区指定の有形文化財(歴史資料)になっている。

旧中山道の板橋宿跡周辺には文化財が多く、本来なら見て回りたいところだが、すでに日が傾きかけているゆえ、この辺りで一区切りということにした。

 

 

 

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小松左京 スペシャル

2021-10-03 20:08:40 | 私の本棚

NHKの100分de名著の中に「小松左京スペシャル」があった。そこで、本棚の中から小松左京の本を探してみた。

【書誌1】書名「地球を考えるⅠ、Ⅱ」 小松左京対談集。

小松左京ほか。新潮社。1972年初版。

この本は、地球に関しての小松左京と各界の専門家との対談集である。地球物理学の竹内教授との対談では執筆中の日本沈没の話もしている。他の対談相手は氷雪物理学の樋口教授、植物生態学の吉良教授、分子生物学の渡辺教授、哲学の上山教授と吉田教授、情報工学の坂井教授、国際経済学の大来理事長、国際政治学の武者小路教授、中国古代史の貝塚名誉教授、西洋文化の会田教授、社会人類学の梅棹教授である。小松左京は様々な分野における専門的な知識にも関心があり、また、SF小説を書く上で、それが必要なことでもあったのだろう。

【書誌2】書名「日本沈没・上、下」 カッパノベルス。

小松左京著。光文社。昭和48年3月(1973)初版。

「日本沈没」は映画やドラマにもなり、多くの人に知られるようになった。日本列島が沈没する事などあり得ないと分かっていても、ひょっとしたらと思わせてしまうのが、この小説の凄さだろう。この小説の最後に、“第一部 完”と書かれているが、作者にとって、日本列島が消滅すると仮定したら、何が起きるかという第二部に重点があったと思われる。ただ、小松左京の執筆による第二部が完成したとしても、第一部ほどの評判が得られたかどうかは分からない。沈没するのが日本列島だけというのは不自然なので、世界各地に国の沈没が起きる事も考えられるが、そうなると、土地を失った国家は消滅し、国を失った多数の人々による大移動が各地で起きることになるが、それは別の話になるのだろう。

私の本棚には、他に下記のような小松左京の小説があるが、書誌を掲載するにとどめる。

【書誌3】書名「時間エージェント」 新潮文庫。小松左京著。新潮社。昭和55年15刷。(昭和50年(1975)初版)。

【書誌4】書名「物体O」 新潮文庫。小松左京著。新潮社。昭和52年(1977)初版。

【書誌5】書名「流れる女」 文春文庫。小松左京著。文藝春秋。昭和53年(1979)初版。

【書誌6】書名「コップ一杯の戦争」 集英社文庫。小松左京著。 集英社。 昭和56年(1982)第1刷。

【書誌7】書名「遷都」 集英社文庫。小松左京著。集英社。昭和56年(1982)第1刷。

 

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散歩について

2021-09-08 17:38:33 | 散歩道あれこれ

散歩は、当ブログの主な内容の一つになっているが、今は思い通りに散歩することも難しくなっている。当分は、あまり歩かないで書ける記事で、このブログを続けていく事になりそうだが、その手始めとして、散歩についての記事を書いてみることにした。

大辞林には、散歩は“特別の目的をもたずに、気のむくままに歩くこと”とある。一方、広辞苑では散歩を“気晴らしや健康のためにぶらぶら歩くこと”としており、“健康のため”という目的があるものも散歩に含めている。類語新辞典では娯楽の一つとして散歩を設け、“特定の目的もなく気楽に出歩くこと”と記し、類する言葉として、散歩のほかに散策、逍遥、そぞろ歩き、杖を曳く、漫歩、遊歩、吟行、銀ぶらを取り上げ、それに加えて細分に遠足を設け、車による遠出やハイキング等も含めている。”

大漢和辞典には散歩についての中国の出典が載っている。白居易(772-846)の犬鳶詩に、“晩来天気好 散歩中門前 ”とあるのがその一例である。ほかに、“古之老人 飯後必散歩”と書かれた書も取り上げられている。日本国語大辞典には散歩についての日本の出典として、虎関師錬の著作である済北集(1346年頃か)の巻之二・梅花九首から“散歩前披与後岡別尋幽径入禅房”が取り上げられているほか、良寛が松之尾の松林を皆で散歩し時のことを詠んだ“遊松之尾”という漢詩(1835頃か)が取り上げられている。

 “茲来此地九月初 長天雁啼菊花開 老少相卒散歩去 松林数里無塵埃”

しかし、散歩という言葉の古い出典があまり見当たらないからか、散歩が一般的に用いられるようになったのは明治時代からで、運動の一種だったとする。また、散歩が西洋の風俗の一つとして使われるにつれ、逍遥の意味を含むようになったとしている。なお、日本国語大辞典では、逍遥について、気のむくままにあちこち遊び歩くこととしているが、これに加えて、世間の俗事を忘れて楽しむという意味もあるとする。

最近は、散歩に似た言葉としてウォーキングがよく使われている。大辞林ではウォーキングを“歩くこと。有酸素運動の一。大股で速く歩くことにより、通常の歩行よりも高いカロリーを消費できる”とし、広辞苑では“歩くこと。歩行。特に健康増進や運動のために歩くこと”としている。日本ウォーキング協会ではスポーツ・ウォーキングを健全に推進する一環として歩行距離認定を行っており、大会や例会のコースを完歩した距離のほか、自然に親しみ健康・体力の維持増進等の目的で歩いた朝夕の散歩も対象に含めている。大会や例会では決められたコースを歩くことになるが、朝夕の散歩ではコースが決まっているわけではない。それでも、通常の歩行より速く歩く場合はスポーツ・ウォーキングの一種ということになるのだろう。なお、通勤や通学、仕事や買い物などで歩いた距離は対象にならない。

ところで、江戸時代にも散歩する人は居た。例えば、村尾嘉稜(1760-1841)がそれで、天保2年(1831年)9月の記事に、“すでに職を退いた身ゆえ、心のまま、時間の許すままに、山を越え、川を渡り、さまよい歩いている・・・”と書いているが、その内容からして、嘉稜は散歩をしていたと考えて良さそうである。江戸時代には、お伊勢参りのような長旅を庶民もするようになり、日帰りの寺社参拝や物見遊山も行われるようになったが、老人の散歩は理解されなかったらしく、70歳を過ぎて目的もないのに出歩く嘉稜に対して、陰口をたたく者も居たらしい。それでも嘉稜は家に閉じこもる気にはなれずに、歩きまわっているのだと書いている。

嘉稜と同じ時代に、同じように出歩いている人は居た。小日向の寺の住職であった十方庵敬順(1762-1832)はその例で、文化8年(1811年)に寺務を子に譲ったあと、好みにまかせて各地を巡り歩き、その時の紀行文を遊歴雑記としてまとめている。その中に富士見茶屋に行った時の記事があり、持参した折り畳みのコンロを組み立て、用意の茶二品を煎じて、床几に座って楽しんだとある。そのあと、雑司ヶ谷鬼子母神をへて高田馬場に至る道は閑寂として古雅天然の趣があり、近くを逍遥するに足れりと書いている。敬順は文政3年(1820年)にも雑司ヶ谷に行っており、“雑司谷村茶屋町の逍遥”という記事に、七、八人で出かけたこと。護国寺をぶらついたあと鬼子母神をめぐり、そのあと、小茗荷という酒楼に上がって遊んだが、遅くなったので高田馬場には行かずに帰宅したことが書かれている。逍遥は、気ままに歩くという意味だが、気ままに楽しむという意味でもあった。

 

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武蔵野三十三観音めぐり・その12

2021-07-22 10:55:21 | 寺社巡拝

  【吾野駅から32番~33番札所】

<コース>

吾野駅―浅見茶屋―32番子ノ権現―豆口峠―33番竹寺―小殿:9km

31番の札所までは、札所の住所をもとに自分なりのコースを考えて歩いてきたが、32番と33番のコースについては、既存のハイキングコースを利用することにした。

 

(32)第32番 子ノ権現・天龍寺(埼玉県飯能市大字南461)

32番札所へのコースは、吾野駅を出てから地下道で線路の反対側に行き、その先を芳延橋に向かう近道を歩くのだが、この道が今も通れるのかどうかは確認していない。芳延橋からは川沿いの車道を上がる。車道は浅見茶屋の少し先で終り、降魔橋からはジグザグの山道となって、駐車場近くの車道に出る。ここから、県の天然記念物の二本杉の横を通って子ノ権現・天龍寺の境内へ。ここには本堂や茅葺の本坊のほか、鉄のワラジもある。寺の草創は子ノ聖とされ、本尊も子ノ聖だが、札所の本尊は十一面観音になっている。なお、本堂には、飯能市有形文化財の不動明王立像も安置されている。 

新編武蔵風土記稿は、秩父郡南村に属してはいるが里正(村長に相当する)を置いて分郷のようになっていた中澤組の項に、子ノ権現社を取り上げ、その名は世に聞こえ繁栄しているとし、除地(年貢を免除される土地)は八段七畝十四歩と記す。同書は、子ノ聖が湯殿山や月山での修業のあと、我野(吾野)に滞在していた時、酒を飲んだ鬼たちに放火されて腰をいためた事から、腰下の病のある者が祈れば験ありとし、この山では固く酒を禁止すると言い終えて昇天したという縁起を取り上げている。また、子ノ聖が昇天した後、人々が社を建てて祀ったのが子ノ権現社で、その別当である天龍寺の開山は子ノ聖の弟子の恵聖としている。

新編武蔵風土記稿では、子ノ権現への道について、北の麓より嶮しい坂を登ること1里ほどとし、他に東からと南からの道があると記している。明治40年の地図からすると、北の麓からの道として考えられるのは、山崎(西吾野駅から近い位置にある)から小床を経て上がる道、下久通から上がる道、下久通の西側から上がる道の何れかと思われ、これらの道は合流した後、吉延(吾野駅近くの芳延橋の辺り)から来る東からの道と合流して、子ノ権現に出ている。一方、南側からの道は上中澤から子ノ権現境内に上がってくる道に該当すると思われる。同書には子権現境内之図という南側から見た鳥瞰図が載せられており、この図に描かれている、川沿いに進んで子ノ権現に上がる道が、南からの道に相当するようである。この道は、飯能から原市場、中藤、下中澤、上中澤を経て子ノ権現に至る参詣道であったのだろう。この図には阿字山に登る道が見え、その山頂には大日の露座仏らしきものが描かれている。阿字山の裏手を経て二本杉の前を通る道も描かれているが、この道は北からの道と東からの道が合流した道と思われる。なお、この図には座禅石から寺の裏手に出る道も描かれている。

 

(33)第33番 竹寺・薬寿院八王寺(埼玉県飯能市大字南704)

子ノ権現天龍寺の裏側から外に出て竹寺への道を進む。この道は、札所めぐりの道として昔から利用されていたのだろうが、現在はハイキングコースとして整備されおり、山歩きの初心者にも向いたルートになっている。現状については確認していないが、途中には林が途切れて西側が見渡せる場所もあり、多少のアップダウンはあるものの快適に歩けるコースである。豆口峠を過ぎると道は下り坂となり、竹寺に出る。寺の正式名称は医王山薬寿院八王寺だが、周辺に竹が多いこともあり、いつの頃からか竹寺と呼ばれるようになったらしい。この寺は、精進料理で知られており、また俳句の寺としても知られている。薬寿院八王寺は神仏習合の寺として知られ、本尊は牛頭天王になっている。札所本尊は聖観音で、武蔵野三十三観音の結願の寺でもある。参拝を終えたあと展望台に上がり、それから急な斜面を下って、小殿のバス停に出る。これにて今回のコースは終わりということになる。

新編武蔵風土記稿では、中澤組の項に薬寿院を取り上げ、本尊は不動で木の座像とし、開山は不詳だが中興の僧は祥雲としている。また、地蔵、弥陀、薬師の木像などがある地蔵堂には、地蔵堂領として2段7歩が除地になっていると記している。寺の後の山には牛頭天王社があり、神体は木の座像で、他に牛頭天王の8人の子である八童子の像もある。寺は医王山八王子と号し、銅鋳の大日像にも八王子と鋳出しているが、八童子を八王子と呼んでいたらしい。しかし、新編武蔵風土記稿では八王子は八王寺の誤りではないかと考えていたようである。そして、現在の寺の名称も、八王子ではなく、八王寺を採用している。

今回をもって武蔵野三十三観音めぐりは終了ということになる。当初は全てを歩いて巡る事を考えていたのだが、実際には歩く代わりに電車を利用した区間もあり、歩くには相応しくないコースもあった。また、新たな道路が開通した区間もある。本来なら、より良いコースを考えて、もう一度歩いてみるべきなのだろうが、今は出来そうにない。そこで、過去の記録と記憶をもとに、武蔵野三十三観音めぐりとして公開するにとどめた。

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武蔵野三十三観音めぐり・その11

2021-07-04 13:32:34 | 寺社巡拝

【高麗駅から吾野駅・28番~31番札所】

<コース>

高麗駅―28番滝泉寺―29番長念寺―30番福徳寺―31番法光寺―吾野駅:12km。

 

(1)第28番 瀧泉寺(埼玉県日高市大字横手79)

このコースは、高麗駅から吾野駅まで、国道299号沿いに点在する4カ所の観音札所をめぐる事になるが、信号のある横断歩道は僅かしか無く、車に注意しながら歩く少々煩わしいコースでもある。高麗駅から踏切を渡り、台の交差点から左へ右側の歩道を歩く。高麗川を高麗橋で渡って先に進むと、右側に石垣と白壁で囲まれた第28番札所の瀧泉寺が見えてくる。

瀧泉寺の本尊は千手観音で、観音めぐりの札所本尊も千手観音である。新編武蔵風土記稿では、高麗郡横手村に瀧泉寺を取り上げ、本尊は不動とし、慶安2年(1649)に観音堂領9石のご朱印を賜ると記す。伝承では萬壽2年(1025)の草創で観音堂も同年とするが、開山開基は伝わっていない。

 

(2)第29番 長念寺(埼玉県飯能市白子260)

瀧泉寺を出て国道を右に行く。関ノ入沢を渡り、武蔵横手駅を通り過ぎて、高麗川に沿って北から西へさらに南へと曲ると、長念寺の看板が見えてくる。その先、道沿いに続く石垣の途中の石段を上がると、長念寺の観音堂への参道に出る。参道の周囲には紫陽花が植えられている。

本堂の本尊は聖観音菩薩立像(市指定文化財)で、観音堂の本尊は聖観音菩薩座像(県指定文化財)になっている。なお、入間市の高倉寺にある国指定重要文化財の観音堂は、長念寺にあった観音堂を移設したもので、現在の長念寺本堂の本尊は、高倉寺に移設する前の観音堂にあった像という。寺の草創は定かでないが、境内の板碑のうち最古のものに正安元年(1299)と記されていることもあり、鎌倉時代末の草創と考えられている。

新編武蔵風土記稿では、高麗郡白子村に長念寺を取り上げ、天正19年に寺領として10石の朱印とし、中興開山は格外玄逸(慶長8年寂)とする。また、大石定久や北条氏邦の文書ありと記す。同書に掲載されている長念寺の境内図には、高麗川に面する側に石垣が築かれ、境内の左側には塀などで囲まれた区画に、門、本堂、衆寮と思われる建物が描かれている。また、境内の右側には観音堂と参道が描かれている。

 

(3)第30番 福徳寺(埼玉県飯能市虎秀71) 

長念寺を出て国道を右に行く。国道は高麗川沿いとなり、医療介護センターの交差点に出る。ここを左に、高麗川を渡って東吾野駅に出る道は、100m足らずの県道になっているが、ここでは渡らず、国道を先に進んで虎秀川を渡り、次の角を右に行き虎秀川沿いに北へ行く。やがて、右側に福徳寺の入口が見えてくる。

入口から坂を上がると福徳寺の本堂に出る。寺の本尊は釈迦如来で札所本尊は聖観音という。福徳寺は隠居寺であったということだが、現在は無住になっているので内部を見ることは出来ない。新編武蔵風土記稿では高麗郡虎秀村の項に福徳寺を取り上げ、慶安2年(1649)阿弥陀領に2石5斗の朱印と記し、本尊は釈迦とする。開山は宝山(寛喜2年(1230)寂)で建暦2年(1212)の草創という。

境内には国指定の重要文化財である阿弥陀堂がある。指定されたのは昭和24年のことで当時は茅葺であったが、昭和30年に本来の形に戻す復元修理が行われ、現在のような銅板葺になっている。建てられたのは鎌倉時代末期と考えられている。堂内の厨子には阿弥陀如来を中心に観音菩薩と勢至菩薩による鉄造阿弥三尊立像が安置されており、埼玉県の文化財に指定されている。通常は非公開だが11月に御開帳されている。

 

(4)第31番 法光寺(埼玉県飯能市坂石町分333)

福徳寺から国道に戻る。福徳寺の納経所は、国道を右に1kmほど行った興徳寺になっている。なお、右側の歩道で国道を先に進むと吾野トンネルで行き止まりになるので、先に行くのであれば左側の歩道に移っておく必要がある。平成9年に歩いた時には、興徳寺の存在について気付かず、行ってもいない。東吾野駅付近で国道を左側の歩道に移ったようで、高麗川沿いに歩いた記憶がある。また、吾野トンネルはまだ無かった。

高麗川に沿って先に進み、2カ所の西武鉄道のガードを車に注意しながら通り抜け、吾野橋で高麗川を渡る。渡った先は、吾野宿という秩父街道の馬継の宿場跡で、坂石町分という地名になっている。この地名は、農村であった坂石村のうち町として活動していた地域に対する呼称で、後に坂石村から独立している。今も宿場だった頃の面影を残している道を先に進むと、法光寺の入口が見えてくる。新編武蔵風土記稿では秩父郡坂石町分のうちに法光寺を取り上げ、天正19年(1591)3石のご朱印ありとする。また、開山は日峰伊鯨(天正19年寂)で開基は岡部新左衛門と記しているが、真言宗から曹洞宗への改宗時の開山、開基のようである。

法光寺の山門を入ると正面が本堂になっている。本尊の延命地蔵は、檜材寄木造の地蔵菩薩座像で、埼玉県の有形文化財(彫刻)に指定されている。胎内の銘文に至徳3年(1386)岡部新左衛門開眼供養とあるので、創建はそれ以前ということになる。寺伝によれば先祖の岡部六弥太(忠澄)の菩提の為に建てたという。岡部忠澄は武蔵七党のうち猪俣党に属し、一の谷の合戦で薩摩守忠度を討ったが、文武両道に優れた忠度を討ったことを後悔していたという話がある。「平家物語」のうち“薩摩守忠度は、いづくより帰られたりけん”という一節が妙に記憶に残っているが、以前は薩摩守(さつまのかみ)を忠度(ただのり)すなわち無賃乗車の意味で使うこともあった。

法光寺の本堂の左側に観音堂があり、札所本尊の十一面観世音が安置されている。この観音堂が建てられる以前は、法光寺の裏山にある岩殿観音が観音めぐりの対象になっていたという。この日は法光寺の観音堂で本日の札所めぐりを終え、吾野駅に向かう。今回は4カ所の札所を回ったわけだが、仮に、この区間をまた歩くとしたら、区間を分割するとともに、遠回りであっても国道をなるべく歩かないコースにするだろう。

法光寺の奥の院である岩殿観音には行っていないが、気にはなっていたので調べてみた。新編武蔵風土記稿では秩父郡阪元村のうちに岩殿山を取り上げ、岩殿観音堂之図を載せている。観音院の項で、坂石町分から東に行き南に折れて険しい道を進むとあり、図によると途中で道は分岐する。ここを左に行く道は後で述べることにして、この分岐点を右に行き坂を上がると平地があり、ここに瑞巌寺と号する寺があったが、衰退して客殿だけが残っていたとあり、客殿と思われる建物が図に描かれている。また、近くには岩殿観音堂と思われる建物も描かれている。

岩殿観音堂について、同書では良く知られた勝景の地とし、堂内に行基作の十一面観音を厨子に安置し、観音院本尊の十一面観音を置き、大般若経も蔵していたとする。また、堂の後ろの洞窟内には石龕とその前に石板の門があったとし、経緯を記した文和5年(1356)願主比丘元灯の石板があったとする。

ここで分岐点に話を戻す。ここを左に行くと滝(宝生滝)に出るが、その途中には空海爪書きの不動が図示されている。この滝の源流は弁天窟内にあるが、おかま穴という洞窟が弁天窟の上にあり、梯子で上がり丸木を渡って洞内に入るようになっていて、梯子を上がる様子も図に描かれている。図には無いが、秩父(畠山)重忠の厩跡という洞窟があり、洞窟内に馬蹄跡のある岩があったとし、ほかに、地獄穴、胎内くぐり、風穴などがあると記している。

昭和の初めに石灰採掘が始まると、岩殿観音も消滅する可能性が生じたが、幸いにも文化財としての価値が認められ、昭和9年に埼玉県の重要文化財に指定されたことで、消滅の可能性は無くなった。その一方で、新編武蔵風土記稿に書かれている洞窟など、多くの石灰洞は失われてしまったかも知れない。行基作との言い伝えがある観音像も失われてしまったが、代わりに新鋳造の十一面観音像が石龕に収められている。岩殿観音にはその後も多くの参詣者が訪れていたようで、平成になって法光寺に観音堂が建てられる迄は、武蔵野三十三観音めぐりの対象にもなっていた。しかし、長い年月の間には、建物も老朽化し参道も荒廃する。そこで、扉や屋根の改修や参道の整備が行われ、平成18年から一般公開されるようになったという。現在、岩殿観音は、「観音窟石龕」として埼玉県の史跡に指定されており、所有者は西武建材(株)、管理者は法光寺になっている。

 

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武蔵野三十三観音めぐり・その10

2021-06-19 12:38:58 | 寺社巡拝

【高麗川駅から高麗駅へ・番外及び26番~27番札所】

<コース>

高麗川駅―番外霊巌寺―高麗神社―26番聖天院―27番勝音寺―巾着田―高麗駅:8km。

 

(1)番外 霊巌寺(埼玉県日高市4新堀740)

前回のコースの到着地である飯能駅を起点にする場合は、駅前通りを北に向かい、中山の交差点に出てバス通りを右に、中居の交差点を通って飯能寄居線に合流し、高麗川駅前に出る事になるが、平成9年に歩いた時は、この区間を割愛し高麗川駅を起点にした。

高麗川駅の交差点から県道を北に向かい、名前が気になっていた板仏の交差点に行く。ここを左に行き、板仏(板碑)がある交差点に出て、右斜め前方の道で西に向かう。当時は飯能寄居バイパスは無く、そのまま進んで、もくせい通りを渡る。ここから先は道標を頼りに、次の十字路を左に、入定塚の横を通って突き当りを左に、三十三カ所の札所の番外である霊巌寺に行く。

霊巌寺の本尊は地蔵菩薩で観音めぐりの本尊は聖観音になっている。新編武蔵風土記稿では、高麗郡新堀村に霊岸寺として取り上げ、慶安4年(1651)に地蔵堂領として4石のご朱印ありとする。開山は宥仙(応永元年(1394)寂)。本尊は不動と記す。

 

(2)第26番 聖天院(埼玉県日高市新堀990)

霊巌寺から戻って、もくせい通りを南に進み、案内板に従って右に入り、道なりに進んで高麗川を出世橋で渡ると、カワセミ街道に出る。ここを左に、高麗神社の参道を過ぎて、カワセミ街道を先に進めば、高麗山聖天院勝楽寺に出る。

聖天院は高麗王若光の菩提寺で、天平勝宝3年の創建と伝えられ、本尊は歓喜天(聖天)であったが、後に不動明王が本尊となる。なお、観音めぐりの札所本尊は聖観音になっている。聖天院には数々の文化財があり、そのうち梵鐘は国の重要文化財に指定されている。新編武蔵風土記稿では高麗郡新堀村に、高麗山勝楽寺としてこの寺を取り上げ、天正19年(1591)に寺領15石のご朱印を賜るとする。また、古くは大寺であったが、寛永年間に什宝古籍が焼失したため草創年代など知るべきものは無いとする。

 

(3)第27番 勝音寺(埼玉県日高市栗坪184)

聖天院からカワセミ街道に戻って西に行き、左斜め前方の狭い道に入り、三叉路を左に行くと高岡橋に出る。高麗川を渡り、その先を左に入り勝音寺に行く。

勝音寺の本尊は千手観音で、観音めぐりの札所本尊も同じになっている。開山は上杉憲将の子息で、建長寺73世の佛印大光禅師(久庵僧可:応永24年(1417)寂)である。新編武蔵風土記稿では、高麗郡栗坪村に勝音寺を取り上げ、慶安年中(1648~1652)に観音堂領として5石のご朱印と記す。また本尊は現在と異なり阿弥陀としている。観音については延文5年(1360)に再興したとあり、享保年間(1716-1736)に補修をしている。

勝音寺を出て左に行き、県道の栗坪交差点を右に行く。郵便局の先、左前方の道に入って先に行き、民俗資料館のところを左に行き、あいあい橋で高麗川を渡る。高麗川沿いに巾着田を歩いて鹿台橋を渡り、国道を過ぎて踏切を渡って高麗駅の改札口に行く。

 

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武蔵野三十三観音めぐり・その9

2021-06-12 09:29:22 | 寺社巡拝

【元加治から飯能駅へ・23番~25番札所】

<コース>

元加治駅―阿岩橋―浄心寺―矢久橋―観音寺―円泉寺―飯能駅:8km。

(1)第23番 浄心寺(埼玉県飯能市大字矢颪222)

元加治駅北口の改札口を出て左へ、西武線の踏切を渡って南西に進み阿岩橋を目指す。歩いたのは平成9年のことで、阿岩橋が架け替えられる以前のことである。入間川を渡って右に行き、八高線の高い鉄橋の下を潜って右に入り、入間川沿いの飯能ライオンズ桜並木の道を歩く。高校前の交差点を過ぎ、成木川を新大橋で渡って、浄化センター沿いに右へ、入間川沿いの道を進む。矢川橋が右に見えたところで左へ、矢颪の交差点を過ぎて道なりに進み美杉台通りを渡る。その先、左側に浄心寺の入口がある。ここを入って上がれば23番札所の浄心寺に着く。

浄心寺の本尊は阿弥陀で、観音めぐりの本尊は十一面観音になる。また、浄心寺は武蔵野七福神の毘沙門天の寺でもある。新編武蔵風土記稿では高麗郡矢颪村に浄心寺を取り上げ、開山は能仁寺五世の吉修伊豚(元和2年(1616)寂)と記している。

 

(2)第24番 観音寺(埼玉県飯能市山手町5-17)

以前歩いた時は、美杉台通りに戻って矢久橋を渡り坂を上がって県道に出たが、飯能大橋で入間川を渡り飯能駅前の交差点に出て県道を左に行く方が分かりやすい。この県道を道なりに進むと市立図書館(現在は飯能河原)の交差点に出る。鉤の手のような交差点で、24番札所の観音寺は交差点北側の左手にある。

観音寺の本尊は不動で、観音めぐりの札所本尊は如意輪観音になっている。また、この寺は武蔵野七福神の寿老人の寺でもある。新編武蔵風土記稿では高麗郡飯能村に観音寺を取り上げ、観音堂領として3石5斗のご朱印ありとし、中興の開山は長誉(享保20年(1735)寂)と記している。

 

(3)第25番 円泉寺(埼玉県飯能市平松376)

観音堂を出て交差点の南側から東へ、大通りから中央通りを通って東飯能駅前に出る。ここを北に行き、西武池袋線と八高線の踏切を渡り、市役所の前を東に向かう。突き当りを左へ直ぐに右へと曲がり秀常寺を右手に見て進むと、次の交差点の少し先に寄居方面に通じる新しい県道(飯能寄居線)が出来ていた。この県道を北に進みバス通りに出て右に行く。久邇カントリー入口を過ぎると、その先、左側に25番札所の円泉寺がある。

円泉寺の本尊は不動明王で、観音めぐり札所の本尊は十一面観音。そして、武蔵野七福神の福禄寿の寺でもある。新編武蔵風土記稿は高麗郡平松村に円泉寺を取り上げているが、開山開基についての記載は無い。

円照寺から元の道を戻り、久邇カントリー入口の先で南西方向に分岐する道に入る。直線的な道を先に進むと、飯能狭山バイパスに出る。ここを右に行くと飯能警察署入口に出るが、平成9年当時はここから西側のバイパス道路は未だ無かった。ここを南に行き、国道に出て西へ、このコースの到着地である飯能駅に向かう。

 

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武蔵の三十三観音めぐり・その8

2021-06-05 11:20:01 | 寺社巡拝

【入間市駅から元加治駅・19番~22番札所】

<コース>

入間市駅―高倉寺―19番東光寺―20番龍円寺―21番高正寺―22番円照寺―元加治駅:7km。

 

(1)第19番 東光寺(埼玉県入間市小谷田1437)

入間市駅の南口から高倉寺経由で19番札所の東光寺に向かう。平成9年に歩いた時は、線路沿いの道を西に進み、ふるさと歩道の道標を見て国道を渡り、その先の細い道を通って霞川に架かる人道橋を渡り、天候次第では水没しそうな道で国道の下を通り抜け、右手にある線路沿いの階段を上がり、登り切ってから道なりに歩き、道標をたよりに高倉寺に出たが、少々分かりにくく、現在も歩けるかどうか分からないので、いま歩くとすれば、別の経路(例えば新霞橋を通るルート)をたどることになるだろう。

高倉寺は眺めの良い寺であり、国指定重要文化財の観音堂もある。この観音堂は室町時代初期の建立と推定され、延享元年(1744)に第29番札所の長念寺から移されたと伝えられている。小休止したあと、寺の西側の道に出て南に向かい、公民館の近くで道標により右に入って道なりに進むと、やがて茶畑の間を歩く道となる。その先で、国道沿いに左へ行き、次の信号を渡って圏央道の上を橋で渡り、中野原稲荷の角を右に入る。その先の交差点で南西方向に進み、右手前方に分かれる道で19番札所の東光寺に行く。

東光寺の本尊は不動尊で、札所の本尊は聖観世音になっている。東光寺の創建は明らかではないが、中興の開山は印融(永正16年(1519)寂)で、開基には地元の4人が名を連ねている。東光寺が現在地に建てられたのは元禄15年(1702)のことで、それ以前は南側の西ノ台にあったという。

新編武蔵風土記稿では、入間郡小谷田村の項で東光寺を取り上げているが、その中に旗本五味豊旨の家臣が先代の五味豊直の遺徳を偲んで寄贈した梵鐘の銘についての記事がある。この梵鐘は現在も東光寺にあり、入間市の文化財になっている。五味豊直は京都郡代であり入間郡小谷田村を所領とし東光寺が菩提寺であった。五味氏の屋敷は小谷田村内の西側にあったという。

 

(2)第20番 龍円寺(埼玉県入間市新久717)

東光寺からもとの道に戻って右に行き、いちょう通りに出る。交差点を左に折れその先を右に入ると龍円寺に出る。寺の本尊は虚空蔵菩薩で札所の本尊は千手観音になっている。新編武蔵風土記稿では入間郡新久村の項に龍円寺を取り上げており、開山開基は不詳ながら中興の開山は俊誉(宝永6年(1709)寂)で、寺領は15石が観音堂領として与えられているとする。観音は金の小像で此の地を所領としていた市川氏の屋敷地内にあった古井戸から出たという。

 

(3)第21番 高正寺(埼玉県入間市仏子1511)

龍円寺を出て次の札所に向かう。北に向かって坂を上がったあと、金子坂を下るのが分かりやすいルートだが、平成9年に歩いた時は、八津池から山道を歩いて国民宿舎・入間グリーンロッジに出て、車道を下って金子坂に合流する道を歩いた。この国民宿舎は西洋の城に似た外観を持ち、眺めの良い場所にあったが、後に閉館となり、今は廃墟のようになっているらしい。金子坂から前堀川を過ぎ県道に出て左に行くと、左側に高正寺の入口があるので、ここを入り大沢川を渡って高正寺に行く。本尊は虚空蔵菩薩で、札所本尊は聖観音である。

新編武蔵風土記稿では高麗郡仏子村のうちに高正寺を取り上げ、開基は金子親範とする。当初の高正寺は別の場所にあったらしく、高正寺が現在地に移った時の開山、菊陰瑞潭(大永4年(1524)寂)が中興の開山に相当する。また、高正寺は寺領4石のご朱印ありと記す。寺には承久2年(1220)の金子親範の位牌のほかか金子氏の位牌が多く残されている。金子氏は武蔵の武士団のうち村山党に属しており、仏子村はその所領に当たる。高正寺には寛文4年(1246)など5基の板碑があり、入間市の文化財に指定されている。

 

(4)第22番 円照寺(埼玉県入間市大字野田158)

高正寺から県道に戻って西に向かい、次の信号の先を右に入って道なりに進み、突き当りを左に行くと、右手に入間川に架かる上橋が見えてくる。この橋を渡って先に進むと左側に円照寺がある。本尊は阿弥陀如来。三十三観音の札所本尊は如意輪観音。そして、武蔵野七福神の弁才天の寺でもある。

新編武蔵風土記稿では、高麗郡野田村に円照寺を取り上げ、寺領15石の御朱印を賜うと記すが、古刹で古文書もあったが燃やしてしまったとし、開基開山は詳らかではないとする。また、本堂の後に加治氏の墳墓と伝えられる青石の古碑が8基あり、その銘文を載せている。加治氏は武蔵の武士団のうち丹党に属し丹治と名乗っており、円照寺はその菩提寺であったのだろう。古碑(板碑)のうち、康元元年と長享3年のものを除く6基は現存し、そのうち元弘3年のものは鎌倉幕府滅亡の日付になっており、国の重要文化財に指定され、残りの建長6年、文永7年、嘉元3年、文和3年、応安元年の板碑は附指定になっている。円照寺を出て西武池袋線を渡り、元加治駅の北口に出る。

 

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武蔵野三十三観音めぐり・その7

2021-05-22 08:40:02 | 寺社巡拝

【狭山市駅から入間市駅・16番~18番札所】

<コース>

狭山市駅―16番慈眼寺―17番徳林寺―18番蓮花院―入間市駅:5km。

 

(1)第16番 慈眼寺(埼玉県狭山市入間川1-9)

前回のコースの到着地である武蔵藤沢駅を出発地として歩く場合には、入曽を経て狭山市の慈眼寺へと向かう事になるが、平成9年に歩いた時は、狭山市駅を出発地として歩いている。当時は狭山市駅西口の改札は1階にあり、スカイテラスもまだ無かった。改札を出て左へ、西友(後に閉店した)の前を通って先に進み、狭山市駅入口の交差点に出ると、慈眼寺は交差点の斜め向こう側にある。

新編武蔵風土記稿によると、慈眼寺は入間郡入間川村にあり、大永年間(1521~1528)に一樹存松(天文2年(1533)寂)が開山となる。また、慶安2年(1649)には、阿彌陀堂の寺領として10石のご朱印を与えられている。昔の本尊は阿弥陀立像であったが、後に聖観世音が本尊となり、札所本尊も聖観世音になっている。

 

(2)第17番 徳林寺(埼玉県狭山市入間川2-3)

慈眼寺を出て坂道(狭山中央通り)を下り八幡神社の下の交差点に出て、右前方の道に入り北に向かうと徳林寺に出る。新編武蔵風土記稿では入間郡入間川村に慈眼寺とともに徳林寺を取り上げており、開山は慈眼寺と同じ一樹存松で、開基は小沢主税とする。寺の本尊は釈迦座像で、札所本尊は聖観世音である。

 

(3)第18番 蓮花院(埼玉県入間市春日町2-9)

徳林寺を出て右へ、その先の通り(七夕通り)を左に行き、慈眼寺からくる道(狭山中央通り)との交差点(中之坂)を右に行き、国道を歩道橋で渡る。その先の新富士見橋まで行き入間川の土手を歩きたいところだが、この時は工事中で行けなかったため、国道沿いに左へ行き、本富士見橋の先で右に入って用水路沿いの道を歩く。霞川に出て左へ、次の橋を渡って左に行き、その先を右に入って蓮花院に行く。

門を入ると正面に観音堂があるが、今は本堂として使われているらしい。観音堂は天保6年(1835)の再建で入間市の文化財に指定されている。寺の本尊は不動で、札所の本尊は千手観音になっている。この観音像は天文16年(1547)、前年に焼失した観音像を鎌倉仏師の長慶が再興したもので、入間市の文化財に指定されている。新編武蔵風土記稿は入間郡黒須村のなかに蓮花院を取り上げ、慶安年中(1648~)に11石のご朱印を与えられたと記している。

蓮花院を出て霞川を渡り、黒須一丁目の交差点を渡って、その先を右に入り、国の登録文化財になっている西洋館の裏手を通って坂を上がれば入間市駅の北口に出る。

 

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武蔵野三十三観音めぐり・その6

2021-05-05 19:18:48 | 寺社巡拝

【西武球場前駅から武蔵藤沢駅・13番~15番札所】

<コース>

西武球場前駅―13番金乗院―狭山湖堰堤―14番妙善院―15番松林寺―武蔵藤沢駅:11km。

(1)第13番 金乗院(埼玉県所沢市上山口2203)

西武球場前駅から狭山不動の前を通り、山口観音の名で知られている第13番札所の金乗院に行く。本尊は千手観音で秘仏のため通常は公開されないが、代わりに所沢市指定の文化財でもある木造千手観音立像が裏観音として公開されている。金乗院は武蔵野七福神の布袋尊の札所でもあり、本堂の左手に七福神堂があるが、七福神めぐりは又の機会ということに。

新編武蔵風土記稿では入間郡新堀村のうちに山口観音を取り上げ、天正19年(1591)から十石のご朱印ありとし、古跡にして諸方より詣でる人多しと書いている。また、鐘楼の鐘は近き頃の鋳造とする一方で、堂の軒にかけられていた撞鐘について形は異様で古色とし図を載せている。

江戸名所図会には、山口観音堂として金乗院が取り上げられており、弘法大師開祖と称すとして、寺の縁起が載せられている。弁才天の池から貞治2年(1363)の石碑が見つかっていることから、古寺であることは確かだろう。江戸名所図会に載せられている境内の図からすると、仁王門の位置は現在とさほど違わないようで、石段を上がったところに本堂が描かれている。また、この図には仁王門の前に茶屋が描かれており、仁王門から左に閻魔堂に至る坂道には茶店が並んでいることからすると、山口観音は江戸時代から多くの参詣者が訪れていたようである。

 

(2)第14番 妙善院(埼玉県所沢市三ヶ島3-1410) 

まだ先が長いので、金乗院は観音詣でにとどめて外に出る。坂を上がって、狭山湖の堰堤を歩き、そのあと、狭山湖通りを北に進んで狭山湖口の交差点を渡る。この先、道は少し分かりにくいが妙善院の表示を頼りに歩く。柳瀬川の支流である東川を渡って、その先の雑木林の角を左に折れ、次の三叉路を右にNTTの電話交換センタの横を通る。先に進んで、渇水期には流れが消えるという砂川を渡って、その先の角を左に行くと第14番札所の妙善院の前に出る。本尊は白衣観世音である。

新編武蔵風土記稿は、入間郡三ヶ島村の項に妙善院を載せ、慶安年中(1648~1652)11石のご朱印と記している。開基は家伝と寺伝で違いがあるが、何れにしても、三ケ島に知行地の一つがあった旗本の沢氏が開基で、僧侶は呑碵(承応元年(1652)寂)である。なお、嘉永7年(1854)に奉納された旗本沢氏三代の画像は、所沢市の有形文化財(歴史資料)に指定されている。

 

(3)第15番 松林寺(埼玉県所沢市林2-147)

妙善院を出て右に行き交差点を右に折れて北に向かう(三ケ島文教通り)。三ケ島中前の交差点を渡って先に進み、林小前の交差点を左へ、林の交差点を右折して浅間山通りを進み、その先を右に入って松林寺に向かう。松林寺の開山は吟國(承応2年(1653)寂)で、寺の本尊は釈迦如来だが、札所本尊は千手観音になっている。なお、新編武蔵風土記稿は入間郡林村の項に松林寺を取り上げている。

松林寺を出たあと、国の重要文化財になっている小野家住宅を見てから、浅間山通りに戻って北に向かい、県道に出て右に行き駅入口の交差点を右に入って、武蔵藤沢駅に出たが、今なら、武蔵藤沢駅に出る新しい道が出来ているので、林きたの交差点から右に入り小野家住宅を経て、この道を通って、武蔵藤沢駅に向かうことになるのだろう。

 

 

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武蔵野三十三観音めぐり・その5

2021-04-24 06:40:12 | 寺社巡拝

【西所沢駅から西武球場前駅・11番~12番札所】

<コース>

西所沢駅―11番普門院-北野天神社―12番全徳寺―西武球場前駅:7km。

 

(1)第11番 普門院(埼玉県所沢市上新井1-25)

西所沢駅は北口にしか改札口がないので踏切を二つ渡って、駅の南側の道に出て右に行き、狭山線を過ぎてその先の二又を右に進む。五差路を北に、墓地の間を抜けていくと普門院に出る。普門院へは五差路の手前を右に、国道を左に行き、国道側から寺に入る方が良いのかもしれない。寺の本尊は不動明王。札所本尊は千手観世音である。

五差路に戻り西へ、次の十字路を南へ行き、その先の十字路に出る。現在では、ここは所沢入間バイパスの梨子ノ木戸の交差点付近に相当する。この十字路を西に行き、梨子ノ木戸公園を過ぎ、県道に出て左へ行き北野(小手指南)の交差点に出る。ここを南に行き、柳瀬川支流の六ツ家川に沿う道を歩いた後、川から離れて坂を上がり、雑木林(宮前公園)に沿って北に向かい、北野天神前の交差点に出る。

交差点の北側には北野天神がある。天神は菅原道真の事を指すことが多いが、本来は天の神のことを指している。ここの北野天神は元々物部氏の神を天神として祀っていたが、これは物部氏が古代の有力氏族であり、入間郡にも物部一族が居たことによるのだろう。なお、この神社は後に菅原道真を天満天神として合祀している。江戸時代に北野天神は目白不動に出開帳しているが、物部の神として悪口を言う人が居たことを、当ブログの江戸近郊の旅・嘉陵紀行の「手向の尾花 牛田薬師、関屋天神」で取り上げている。

 

(2)第12番 全徳寺(埼玉県所沢市北野南2-13)

北野天神前から西に少し行き、道標に従って全徳寺に向かう。寺は南側から入る、全徳寺は無住の寺を集めて永禄の頃に草創されたという。本尊は釈迦如来。札所本尊は聖観音で、普悲観世音の別名がある。

参詣のあと寺の前を南に、突き当りを右に、その先を南に藤森稲荷に行く。ここで、右側の道を進んで行くと、一般廃棄物最終処分場に出た。周辺の地下水には影響が無いのだろうが、狭山丘陵に廃棄物の処分場があるとは思わなかったが、なお、現在は、この敷地を利用して、メガソーラー所沢による太陽光発電が行われている。

ここを南に雑木林の中を南に進むと、道は左右に分かれる。左側の道を行くと堀口天満神社がある。道の左側はトトロの森1号地で、道の右側、神社とその南側の茶畑から成る風景もトトロの里らしい眺めになっている。道を下って横断歩道を渡り、道なりに進んで堰堤の下に出て左へ、大鐘橋で柳瀬川を渡って、その先斜め前方の道に入り、道なりに進んで県道に出て右へ行けば、このコースの到着地、西武球場前駅に出る。

 

 

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武蔵野三十三観音めぐり・その4

2021-04-03 14:21:54 | 寺社巡拝

【西武園駅から西所沢駅(9番~10番札所)】

 <コース>西武園駅―八国山―鳩峰八幡―9番実蔵院―10番新光寺―西所沢駅:5km。

(1)第9番 実蔵院(埼玉県所沢市元町20-15)

西武園駅を北口に出て右に下り突き当って左へ、その先を右に入り都立八国山緑地に行く。しばらくは金網に沿った山道が続くが、そのまま進めば快適な尾根道となる。この尾根道は南側の東京都と北側の埼玉県との境界になっている。このまま八国山を歩き続けたいところだが、本日の目的に従って、道標により左に下る。

仏眼寺の横を上がり、鳩峰八幡は別の機会にして先に進み、スーパーの先を右に、車の多い道を歩く。柳瀬川を渡って、じゅうにん坂を上がり、西武池袋線の踏切を渡る。所沢高入口の交差点を渡り、その先の突き当りを右に、次の角を左に曲がって、NTTの横を北に向かうが、この道は鎌倉街道上道であったと言う。道を北に向かうと第9番札所の実蔵院がある。寺の本尊は大日如来、札所の本尊は聖観音である。新編武蔵風土記稿によると、開山は宥圓(~1616)という。戦前、この寺にあった古鐘の銘には正平7年(文和元年1352)新田義興開基とあったというが、伝承を鐘の銘にしたのだろう。

(2)第10番 新光寺(埼玉県所沢市宮本町1-7)

実蔵院を出て北に向かい県道を渡って、柳瀬川の支流である東川を渡ると、左側に新光寺の竜宮門が見える。新光寺は遊石山観音院と号し、また所沢観音とも呼ばれている。観音堂は昭和40年に建てられた八角堂で、札所本尊は聖観世音である。

准后の称号をもつ高貴な僧、道興が文明18年(1486)から翌年にかけて、北陸から関東、奥州を廻った時の紀行文「廻国雑記」の中に、野老澤(ところざわ)へ遊覧に出かけた際、観音寺において福泉という山伏から接待されたことが書かれているが、この観音寺が新光寺に該当すると考えらえている。

新光寺を出て金山町の交差点を経て西所沢駅に行く。金山町の交差点は混雑するので、別のルートを選んだ方が良かったかも知れない。何れにしても、今回のコースの到着地は西所沢駅で、次回はこの駅が出発地になる。

ここを南に雑木林の中を南に進むと、道は左右に分かれる。左側の道を行くと堀口天満神社がある。道の左側はトトロの森1号地で、道の右側、神社とその南側の茶畑から成る風景もトトロの里らしい眺めになっている。道を下って横断歩道を渡り、道なりに進んで堰堤の下に出て左へ、大鐘橋で柳瀬川を渡って、その先斜め前方の道に入り、道なりに進んで県道に出て右へ行けば、このコースの到着地、西武球場前駅に出る。

 

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武蔵野三十三観音めぐり・その3

2021-03-24 18:13:29 | 寺社巡拝

【秋津駅から西武園駅・7番札所~8番札所】

 <コース>

秋津駅―梅岩寺―7番徳蔵寺―北山公園―正福寺―狭山公園―8番円乗院―多摩湖―西武園駅:11km。

(1)第7番 徳蔵寺(東京都東村山市諏訪町1-26)

秋津駅を南口に出て武蔵野線の上を渡り左へ。それから、秋津神社の前を右に秋津公園の上を通るようにして柳瀬川に出る。川沿いに戻るように歩き、右へ住宅地の中を行くと、よもぎ橋の上流で柳瀬川に流入している沢ノ堀に出る。その水路の上には蓋がされていて歩けるようになっている。この道を進んで旧所沢街道を渡り、その先で所沢街道に出て左へ、交差点を右に府中街道を進む。右側には梅岩寺が見えてくる。

久米川辻の交差点に出て、ここを右に行き西武新宿線を渡ると、その先に第7番札所の徳蔵寺がある。寺の本尊は白衣観音で、札所の本尊でもある。徳蔵寺には、新田義貞が鎌倉攻めをした時に戦死した3人の名が記された板碑、元弘の碑が保存されており、重要文化財に指定されている。「武蔵野話」の久米村八国山将軍塚の図によると、この板碑はもともと将軍塚近くの八国山の中腹に置かれていたようである。

上野国と下野国から武蔵国国府(府中)に出る官道、東山道武蔵路は、将軍塚近くを経て、徳蔵寺の西側を通っていた。中世になると東山道武蔵路は衰退し、それに代わった鎌倉街道(上道)が、徳蔵寺の北方を東に、そのあと西武新宿線に近いルートで南に向かっていた。徳蔵寺の東側、鎌倉街道沿いには、中世になって久米川宿が設けられた。

徳蔵寺の住職が昭和6年に書いた徳蔵寺周辺の地図には、悲田所位置が記されている。悲田処(悲田所)とは旅人の救護施設のことで、続日本後紀の天長10年(833)の記事に、武蔵国では旅行者が飢えや病に苦しまぬように多摩と入間の郡界に悲田処を置いたとある。悲田処は武蔵国の施設であり、後に朝廷が費用を負担してもいるようなので、悲田処は、官道である東山道武蔵路に対して置かれたと考えられる。悲田処跡地については諸説あるようだが、何れも確かな証拠は無いようである。

 

(2)第8番 円乗院(東京都東大和市狭山3-1354)

徳蔵寺を出て右へ、前川を渡って先に行き北川に出る。北川は柳瀬川の支流であり前川は北川の支流である。北川に沿って左に行き、八国山通りに出て左へ、踏切を渡って正福寺通りを右に行き、道標によって北山公園に行く。この公園は菖蒲の名所で、新東京百景の一つになっており、当ブログでも公園・庭園めぐりの一つとして取り上げたことがある。

一休みした後、正福寺通りに戻って右へ。その先を左に、さらに右に入って国宝の正福寺地蔵堂に立ち寄る。そのあと、正福寺の南側の通り(正福寺通り)を西に向かうと、途中から宅部通りになり、多摩湖線の下を潜れば狭山公園に出る。なお、平成9年に歩いた時は、途中で左に行き雑木林(緑地保護区域)沿いに歩いて宅部通りに出ている。

狭山公園に入って、北川の上流部と、溜池であった宅部池(たっちゃん池)を眺めながら公園内を散策し、南門から外に出る。多摩湖道路を横断して、その先のバス通りを右に行く。狭山公民館入口の交差点を過ぎ、その先の横断歩道を渡って円乗院に向かう。この寺が現在地に建てられたのは慶長の頃で、きりもみ不動を本尊としたという。現在の札所本尊は如意輪観音である。

円乗院を出て狭山神社を左に見て上がり、右に下って前川を渡り、広い道を上がれば多摩湖に出る。展望を楽しみながら堰堤を歩き、西武遊園地に沿って東に行くと西武園駅に出る。この駅が今回のコースの着地であり、次回の発地となる。

 

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武蔵野三十三観音めぐり・その2

2021-03-15 18:57:17 | 寺社巡拝

【ひばりが丘駅から秋津駅・5番、6番札所】

ひばりが丘駅から5番、6番の札所を経て秋津駅に行くには、一日で回れるコースが設定できそうだが、平成9年に歩いた時は遠回りをしたため、二日で回るコースとなった。

<コース1>

ひばりが丘駅―たての緑道―竹林公園―落合川―5番多聞寺―南沢遊水地―落合川・黒目川合流点―小山台緑地―清瀬駅:8km。

<コース2>

清瀬駅―志木街道―6番全龍寺―清瀬市役所―柳瀬川―清瀬金山緑地公園―空堀川―中里緑地―秋津駅:6km。

 

(1)第5番 多聞寺(東京都東久留米市本町4-13)

ひばりが丘駅を出て学園通りを進み、左に折れて、たての緑道に行く。たての緑道は、戦時中に武蔵野鉄道(現在の西武鉄道)の東久留米駅から、ひばりが丘団地の付近にあった中島航空金属田無製造所へ、軍用機エンジンの鋳型用材料や燃料を運んだ東久留米駅構外線の跡地で、現在は送電線の下の遊歩道になっている。この道を北に向かって歩き、途中で下りて竹林公園に行く。園内の小径をたどって、湧水を見に行き、それからベンチに戻る。竹林公園の内側は竹林によって外界から隔離されている。疲れた体と心を休ませるには良さそうな場所だが、今日はまだ先があるので、ゆっくり休んではいられない。

竹林公園から外に出て竹林公園通りを歩き、落合川に出て老松橋を渡る。それから清冽な川に沿って左に行き、多聞寺通りを経て多聞寺に行く。嘉永年間に建てられた山門をくぐると、正面に本堂。本尊は毘沙門天で、観音めぐりの札所本尊は十一面観音である。

札所本尊の参拝は終えたが、今日はもう少し落合川を歩きたい。それにしても、この川の水は澄んでいる。大量の湧水が流れ込んでいるからだろうか。とりあえず、湧水の多い南沢湧水地まで足をのばし、それから、落合川の右岸を下流へと向かう。西武池袋線の下を潜って、さらに先へ先へと歩きたい気分だが、それも黒目川との合流点が区切りで、今度は左へ黒目川を遡る。西武池袋線の下を潜り、下田橋という人道橋でようやく川と別れ、北側の小山台遺跡公園に上がる。それから、小山通りに出て野火止橋を渡り、先に進んで清瀬駅に着く。

 

(2)第6番 全龍寺(東京都清瀬市中清戸1-524)

清瀬駅の北口から駅前の通りを行き、志木街道に出て右に行く。けやき並木の道をしばらく行くと左側に水天宮が見えてくる。その先を右に入ると、第6番札所の全龍寺がある。全龍寺の本尊は釈迦如来で、札所の本尊は一葉観音になっている。この日の札所めぐりは、これにて終了。後は秋津駅まで歩いて行くだけである。ただ、志木街道を通って秋津駅まで行くのでは物足りないので、志木街道を右に行き、次の交差点を左に市役所通りを進み、柳瀬川通りに出て左へ。次の交差点を右に行って、柳瀬川を金山橋で渡ると清瀬金山緑地公園に出る。ここを右に行けば金山調節池があり、バードウッチングが楽しめそうだが、それは次の機会にして公園内で小休止。

そのあと、園内の雑木林を抜け柳瀬川の遊歩道を歩く。清瀬橋の手前で右に小金井街道を渡り、新柳瀬橋で柳瀬川を渡って左へ、空堀川に架かる境橋に出る。境橋は渡らずに空堀川沿いに進み、くるまや橋の次の石田橋を渡る。石田橋の上流側には、左からせせらぎ公園の流れが合流してくるが、その流路は昭和の終り頃まで空堀川が流れていた所で、当時の柳瀬川との合流点は、清瀬橋に近い位置にあった。その後、空堀川の合流点は少し上流の、現在の境橋の下流の位置に移された。最近になって、合流点はさらに上流の、くるまや橋と石田橋の中ほどに移され、柳瀬川から新合流点の間に新たな水路が設けられたという。そして、この新たな水路から、それ以前の合流点までの間は新柳瀬川と称されるようになったらしい。石田橋から先、左手に中里緑地を眺めながら歩く。三郷橋、梅坂橋を過ぎて、薬師橋に来る。ここで、橋を渡って西に行き秋津駅に出る。次回の出発地となる駅である。

 

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武蔵野三十三観音めぐり・その1

2021-03-08 18:53:05 | 寺社巡拝

武蔵野三十三観音霊場は、昭和15年に考古学者の柴田常恵氏が中心となって制定したもので、番外として霊巖寺を加え34の観音の寺から成っている。当時は多くの信者が、これらの寺を巡拝したとされているが、戦中から戦後にかけて一時荒廃し、忘れ去られていたらしい。その後、昭和45年に古寺巡礼の中で紹介されてから次第に知られるようになり、平成6年に練馬高野台駅が開設されてからは西武鉄道も宣伝に努めるようになった。西武鉄道では武蔵野三十三観音霊場めぐりのリーフレットを作成したが、それには各札所の所在地が記載されていたので、歩いて巡るコースを考えてみようと思った。ただ、巡拝の全行程が100kmを越えていたため、鉄道の駅を起終点とする複数のコースに分割する事にした。このコースを歩いたのは平成9年(1997)のことで、当初は1番の札所から33番の札所まで一筆書きのように歩く積りだったが、結果的には鉄道でつなぐ区間も含むことになった。その当時の資料が今も残っていたので、今回、その資料と記憶を頼りに、今と昔の地図を見比べながら、武蔵野三十三観音めぐりとして投稿することにした。

 

【練馬高野台駅からひばりが丘駅・1番~4番札所】

<コース>

練馬高野台駅―1番長命寺―石神井川―石神井公園―2番道場寺―3番三宝寺―三宝寺池―牧野記念庭園―大泉井頭公園―文理台公園―4番如意輪寺―ひばりが丘駅

:11km。

(1)東高野山長命寺(東京都練馬区高野台3-10)

練馬高野台駅は、武蔵野三十三観音の第一番札所・長命寺の下車駅でもある。この駅が開業する以前は、最寄り駅は石神井公園駅であったから、ずいぶん便利になった。長命寺の奥之院は高野山を摸して建てられていたため東高野と呼ばれ、江戸の人々の信仰を集めた寺でもあったという。江戸の人々は一日に40kmぐらいは歩いたので、長命寺は日帰り圏ではあったが、頼めば泊めてもくれたらしい。

駅を北側に出て、笹目通りを北に行き、次の信号で左に行くとすぐに長命寺の前に出る。寺の表門に相当する南大門には広目天と増長天の像が身構えている。どちらの像も、膨らみのある体躯に不釣り合いな大きい顔が付いていて、切って貼ったような目を見開いている。どこかユーモラスな像だが、時を経るに従い厳しい顔つきになっていくのだろう。門の裏側には多聞天と持国天、合わせて四天王が南大門を守護する構えである。

 門を入ると正面に本堂。先に進んで本堂に一礼。それから、観音堂に移って何がしかの賽銭を入れる。武蔵野33観音巡りのスタートとあって、少々長めに参拝。札所本尊の十一面観世音菩薩像の姿は覚えていないが、こちらの願いは届いているのだろう。それから、石橋を渡って奥の院の道を御影堂まで行く。閻魔には近づかず、井戸は覗かずに寺の外へ。

笹目通りに戻って南に行き石神井川に出る。川沿いの遊歩道、和田堀緑道、そして石神井公園。歩きなれた散歩道である。ボートの間をすり抜けてくるカルガモ、どこからか聞こえてくるカイツブリの鳴き声、石神井池沿いの、いつもの道を、いつものように歩く。

 

(2) 道場寺(東京都練馬区石神井台1-16)

井草通りを渡る。三宝寺池は後回しにして左へ、次の角を右に入り、石神井城址の手前の三叉路を左に折れる。雰囲気の良い道である。左側は道場寺で塀の上には三重塔が姿を見せている。道の先は旧早稲田通りで、道場寺の塀の角には地蔵尊が祀られている。旧早稲田通りの南側には柵のある歩道がある。しかし、北側には歩道らしきものが無い。地蔵尊にちょっと頭を下げてから、左手の道場寺の入口に向かって、塀沿いに歩く。車に注意しながら。

道場寺の開創は天平の頃と言うが確かなことは分からない。石神井を本拠地とした豊島氏が応安の頃に菩提寺として建立したというが、多分そうなのだろう。山門を入るとすぐ左手に総欅造りの三重塔。内部を公開することもあるらしいのだが、今は閉じて何も見えない。

山門から正面に見えるのが本堂で、堂内には釈迦如来を中心に薬師如来と聖観音を脇侍とする釈迦三尊が安置されているという。本堂の前で拝めば、札所本尊の聖観音に届くのだろう。三十三カ所+一カ所の札所を無事に回れることを、今は祈るだけ。

 

(3)第3番 三宝寺(東京都練馬区石神井台1-15)

道場寺を出て車に注意しながら進み、文政10年に建てられた御成門から三宝寺に入る。家光が鷹狩の途中で立ち寄ったのが名の由来で、梵鐘や2件の板碑とともに三宝寺の文化財になっている。まずは本堂で拝礼。三宝寺の本尊は不動明王だが、三十三観音の札所の本尊は如意輪観音になっている。本堂から左に行く。建てられたばかりの根本大塔には五色の幕がかけられていた。ただ、平成9年に歩いた時には、平和大観音がどうだったか、観音堂があったかどうかは、記憶が定かでない。

境内を一通り巡ってから外に出る。旧早稲田通りを少し歩き、氷川神社の参道に入って、神社の前を左に行き、その先で石神井公園に入る道をたどり、三宝寺池の前に出る。池を半周して西側に上がり日銀の運動場(現在は石神井松の風文化公園)の横を北に行き、富士街道を渡って北に進み、学芸大の敷地に沿って北から西に向かい、学芸大通りを渡る。疲れたら、ここを北に行けば大泉学園駅に出られる。

 

(4)第4番 如意輪寺(東京都西東京市泉町2-15)

 

学芸大通りを渡って牧野記念庭園に出る。その先、大泉二中の裏を抜け、大泉南小を通り、白百合遊園を過ぎて、右折し左折すると白子川に出る。左に行くと大泉井頭公園。公園の先、白子川が暗渠に変わる所から右へ行く。大泉二小の角を右折して300m程先を左に入る。畑の残る道を歩いて、かえで通りに出て左に、その先を右に、田園教場と明保中との間の道を歩いて文理大公園に出る。ここらで小休止ということに。

文理大公園を出て中町の交差点を左へ行き、保谷市役所前の交差点を渡って、西に行く道に入り、畑の残っている道を歩く。北原や谷戸を源流とし、如意輪寺沿いに流れていた新川は、この道に沿って流れており、保谷市役所近くを経て東南に流れていた。この道を先に進むと泉小があり、歩道橋を渡れば、如意輪寺の前に出る。

この辺り今は、平成9年に歩いた時とは変わってしまっている。平成13年、保谷市と田無市は合併して西東京市となり、保谷市役所は西東京市役所保谷庁舎となり、平成15年には伏見通りが、保谷庁舎付近から先に伸びて北町まで開通する。現在、如意輪寺に行くには、中町の交差点を左へ行き、保谷庁舎前の交差点を渡って右に、次の角を左に入ることになる。

如意輪寺は、ロウバイ、ウメ、サクラなど花の多い寺として知られている。花に負けず劣らず目立っている山門をくぐって、本堂で本尊の大日如来に拝礼。そのあと、札所本尊の如意輪観音が安置されている観音堂に詣でる。ここの観音は保谷観音とも呼ばれていたらしい。

如意輪寺を出て北に向かい、横山道という古道との交差点を左に入り、尉殿神社の参道を歩き、社前の道を左に東禅寺の裏手を右に折れて、畑の残る道を北に進み、その先を線路に沿って左に行けばひばりが丘駅に出る。この駅は、次のコースの起点でもある。

 

 

 

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