伝えたんく

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鉄牛和尚

2015-05-20 23:47:47 | 言いたんく

鉄牛(てつぎゅう)和尚は千葉県では、社会事業としての椿の海の干拓に力を入れた。

その後人々に乞われて椿の海跡池近くに福聚寺を建てて、この地で亡くなっている。



福聚寺境内にある「椿海古図」 


フルネームは鉄牛道機(てつぎゅうどうき 1628.8.25-1700.10.2)。

金子みすゞで有名な山口県の長門生まれという説がある。

鳥取で修業し、京都は宇治にある黄檗宗万福寺の創建に従事した。

その他京都の寺を立て直し(中興)たり、小田原の紹太寺、江戸の弘福寺を開山した。

さて、鉄牛和尚の登場だが、江戸時代に人口増加で食糧事情が悪化したことで、江戸の町人・杉山三郎衛門が幕府に干拓を申請した。

しかし、この申請は椿海を水源としている下流の村々が渇水による被害を受けるという理由で許可されなかった。

続いて、白井治郎右衛門が友人の幕府大工頭内刑部左衛門とともに再度申請、この際辻内は自分が帰依していた鉄牛に援助を求めた。

ここで鉄牛和尚の登場である。

鉄牛は幕府首脳に進言し、下流の村々の反対があったが人口が激増していた江戸の町の食料事情もあって強行。

ところが白井は破産し、辻内の病没すると資金難もあり事業継続が困難となった。

そこで鉄牛和尚は老中稲葉正則と談判して6,000両の融資を受ける事に成功し、改めて辻内の婿養子・善右衛門と江戸商人の野田市郎右衛門・栗本源左衛門に工事の継続が命じられた。

3年間にのべ8万人もの人々が動員されて工事が完成したのである。



東庄町県民の森の上(福聚寺境内)からかつての椿海を見渡す。

写真奥に見える台地の右端までは3㎞離れている。
この写真の右側に椿海は広がっていた。 

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