羽生PAのトイレ
変態でもおたくでもありません。
そこに使われている水が「再生水」という表示を撮ったついでの写真であります。
言い訳写真であります。
と書きながら、今年春の岡山の旅では、倉敷の大原美術館内の撮影が不可ということで、トイレの写真を撮って鬱憤を晴らした私です・・・
さて、お題のどっちがいいのかなぁです。
このようなトイレはかわいいと思います。
よく見ると、手すりがついていてね。
あの手すりを持てば自然に前に出るし。
ただね、自分が子どものころは父親に高い所に持ち上げてもらって大人用で用足しできるのが嬉しかったのを覚えています。
それって道路を手を引いて歩いてもらっている感覚なのかとも思います。
実際、子どもの手をつながなかったり、つないでいても子供が車の通る側を歩いていたりするのを見て悲しいなあと思います。
乳母車に乗っている赤ん坊が一生懸命母親を見ている時に、母親も子どもの顔を見て微笑むという風景は減ってきました。
母親が無表情で目を離さないのは、携帯電話です。
だからね、このようなトイレは一長二短だと思うのです。
便利だけれど、「親の心が子どもから離れる。」、「子どもの心も親から離れる。」のだと。
みなさんはどう思いますか?