写真は東庄町にある鎌田貯水池にある碑だ。
「疏水潤白里芳水満椿海」とある。
かつて千葉県に干潟市という市があった。
現在は旭市と合併してない。
そもそも干潟というのは、海水面の時間による干満の変動で陸地と海水面下を繰り返す地形のことだ。
「椿の海」とは何か。
かつてこの地にあった約5.1平方キロメートル(東京ドーム390個分)の大きさがあったと言われた湖である。
現在の東庄町、旭町、匝瑳市の境界付近にあったそうだ。
正確な面積は分からないが、相当な広さがあったことは確かである。
現在の千葉県と江戸時代のものをレイヤーで重ねてみた。
→の先がかつての椿の海と言われている所だ。
鎌田貯水池は、湖の北に尖がっている辺りにある。
ただ地図には湖ではなくて椿海(干潟)とある。
当時の治水の技術では、十分な工事はできなかったと思われるのと、海からは近い所で6㎞離れているので干潟に近かったと思われる。
ここを埋立て干潟百万石としたのは、当時の江戸が人口の増加に対して十分な農地が無かったということだ。
ここを農地に変えるために、江戸の町人、白石治郎右衛門と、大工の棟梁であった辻内刑部左衛門は、鉄牛禅師に助けを乞うたのだ。
この鉄牛については、千葉県の歴史でもあまり重要に取り扱われないことが不満なゆきたんくであるので鉄牛について触れてみることにする。