風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

記憶の川を泳いでいる

2024年07月05日 | 「2024 風のファミリー」

 

大気が湿っぽい今頃の季節になると、ふるさとの川で魚釣りばかりしていた少年のころを思い出す。さまざまな魚たちの、その素早い動きやなめらかで冷たい触覚は、いまでも手の平から滲み出してくる。
雨の匂いがすると、私はすぐに近くの川に飛び出していく。魚が呼んでいるというか、魚のにおいに引き寄せられるというか、釣り少年の本能がかきたてられるのだった。
そんなときは川上で雨が降っていて、川の水が急に濁りはじめて水かさも増してくる。大岩の脇の淀みを目がけて釣竿を振ると、そこには、水の濁りに異変を感じた魚たちが、避難のためかエサ取りのためか、いっぱい集まっているのだった。

ウグイのことを、その地方ではイダといい、まだ若い小型のものはイダゴと呼ばれた。大型のイダはもっぱら夜釣りで、小型のイダゴは昼間の川でもよく釣れた。
エノハと呼ばれていたのは、一般的にはヤマメのことで、ヤマメの幼魚をシバコといった。荒い瀬にひそんでいる美しい魚で、めったに釣れない貴重種だった。エノハとは榎の葉っぱからとった呼称で、シバコとは柴の子ということかと想像する。昔の人は木々の葉っぱの化身とでも思ったのかもしれない。

魚類図鑑などでみるカマツカのことは、カマスカと呼ばれていた。砂地が彼らのテリトリーで、砂に埋もれて目だけ出してじっとしている。箱メガネで覗きながらヤスで突いて捕ることもあった。
ドンコはドンカチとも呼ばれ、大岩の下などに潜んでいて、釣り落としても幾度でも食いついてくる愚鈍な魚で、釣りの初歩はドンコ釣りと決まっていた。
ハヤとかオイカワのことは、ハエと呼ばれていた。俊敏な動きで川の流れをかき回していた。ハエの成魚で口のまわりや腹部が赤くなったものは、アカブトと呼ばれ、岸辺のネコヤナギの陰などに潜んでいることが多かった。ハエに似たアブラメというのもいた。鱗はなく肌にぬめりがあって、食べても美味しかった。

鯉はコイ、鮒はフナで、ウナギやドジョウにも特別な呼び名はなかった。
その川にはなぜか、アユはいなかった。海から遠く、その頃はまだ放流もしていなかったからかもしれない。
川の瀬に張り付いている虫を餌にして、瀬釣りといって、瀬から瀬を渡りながら竿を振る。釣り糸につけた小さな綿くずの動きで魚信をキャッチして合わせる。そのタイミングが難しかったが面白さでもあった。瀬の深さや流れ方によって、釣れる魚はおおよそ決まっていたから、その川のことは知り尽くしていた。

川のそばに、四軒家と呼ばれる集落があった。
沖縄出身のトウマ(當間)さんという人が住んでいて、馬車で材木を運ぶ仕事をしていた。若い色白の奥さんが、家の裏の川でよく洗い物をしていた。そのあたりは川幅も広くて、浅瀬にはアヒルが数羽いつも泳いでいた。そこではシラハエと呼ばれる銀色の魚がよく釣れた。
ある日、馬車引きのトウマさんが、なにやら叫びながら血相を変えて走り回っていた。あとで知ったのだが、奥さんが川の浅瀬に顔を浸すようにして死んでいたのだった。いつものように、洗い物をしていて貧血を起こしたらしいとか、自殺をしたのかもしれないとか、おとなたちの間で噂がたっていた。

そんなことがあったりして、川が少し遠くなりつつあった。私もそろそろ、子どもの釣りから卒業する年頃だった。
川の瀬も狂気じみた魚が集まって朱色に染まる季節だった。魚たちは腹を真っ赤にして産卵をする。魚たちがより魚になるための、賑やかなのに静寂でもある、近づきがたい川の祝祭が始まっていた。
梅雨が明けると炎天の夏。川の魚たちは、岩陰やネコヤナギの下に静かに身をひそめる。大きな瀬も小さな瀬も、変わらずに流れ続けるだろう。私が釣竿を捨てたその時から、たくさんの銀色の魚が、記憶の川を泳ぎはじめるのだった。




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