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新型肺炎

2020-02-23 12:00:51 | 日記
おととい、3カ月に1度の健康診断で近くの病院へ行った。次女が手伝いに来てくれた。外出用の歩行器が変わった。いままでのものは自転車型でハンドルを押すスタイルだったが、今度は上半身をもたれかけられる作りなので、うんとラクになった。わずかの差異でも腰痛人間にとっては、九楽が分かれる。

病院の玄関を入った途端、廊下の端に立つ男性から、「手の消毒をお願いします」と声がかかる。男性の前には銀色のスプレーのようなものが立っていて、それが消毒用アルコールの容器だった。家人に冷たい液をかけてもらう。手拭きは不要でアルコールはすぐにとぶ。待合室の雰囲気もいつもと違う。患者も病院側の白衣の人間もすべてマスクを着けている。オールマスクである。患者たちは、なるべく他人と接しないように距離を置いて腰かけている。別に病院側がその辺のことをアナウンスしているわけではない。皆さん自然にそうしているのだ。毎日毎日のテレビが先生になっているのだ。私の内科担当のK医師は早口であり、歯切れも悪いので、説明が聞き取りにくいのだが、そのK師が大きなマスクを着けているので、何を言っているのかほとんどわからない。それでも家人とは会話が成立するから不思議だ。ま、あれこれの検査も無罪放免でほっとする。

新型肺炎の広まりは、いつまで続くのか。テレビに出て来るセンセイ方は、同じような不安を並べ、同じような予防法を繰り返す。私はこれから先の風評拡大がいちばん怖いと思っている。昨日、治療に来てくれた重田名人が、「あのA病院には1人(陽性患者が)いるらしいと、ゆうべ居酒屋で誰かが話していましたよ」と言っていた。

そのとき、どこに

2020-02-23 11:54:19 | 日記
いつまでも有ると思うな 親と金。無いと思うな 運と災難。この後半部にある災難は天災であれ人災であれ、常に運がつきまとう。もっと言えば、そのとき、どこにいたかである。

何年前になるか、中越大地震のとき、2,3日経ってから、新潟・魚沼市に住むYさんにお見舞いの電話をかけた。Yさんは同人誌の先輩、年齢は私より2つ上で、県立堀之内高校の教師をされていて、教え子に俳優の渡辺謙君がいるのが自慢のひとつ、と笑っておられた。Yさんの話によると、地震の被害は50メートル離れていると大きな差があったそうだ。私はすぐに、自分が経験したB29の空襲と伊勢湾台風のことを思い出した。前者では、隣家が丸焼けになるのを見た。後者のことは以前に書いたとおり、床上浸水があと30センチ進めば祖父の命を救えなかったかもしれぬという恐怖を味わった。大地震も同じなのだと思い、Yさんと、運の話をした。

私には、兄代わりの叔父(父の弟)が3人いた。3人とも、大東亜戦争に兵隊として召集された。いちばん年下のT雄は、終戦の日、伊豆の大島にいた。同志社大学を繰り上げ卒業して陸軍に入った。その年のうちに復員した。下から2番目のN雄は台湾へ行った。慶應大を出てまもなく海軍に入った。昭和21年の春に福音した。一番上のS雄は甲種合格だったから、開戦前から海軍へ行き、開戦わずか半年後のミッドウェー海戦で還らぬ身となった。すべて、そのときどこに、である。

2020-02-23 11:47:46 | 日記
東京2020。東京五輪のマークがテレビに映し出される。これ、トウキョウニイゼロニイゼロと読む。この読み方が私にはわからない。なぜ、ニイレイニイレイでないのかがわからない。ニイゼトは和洋混読である。日本でやるオリンピックなのだから、0はレイでいいではないか。音だってニイレイの方が澄んでいてキレイではないか。あるいはニセンニジュウだっていい。ニイゼロニイゼロよりはマシだ。このゼロとレイのことは以前にも書いた。0.5は、日本人の100人中90人がレイテンゴと発音する。ゼロテンゴは少ない。それが、1.0となると、レイとゼロが半数ずつになる。音に対する感覚の問題なのだろうが、私はゼロよりレイの方が好きだ。

詳しくは知らないが、散歩番組とでも言うようなものがあって、5,6人の男女がアチコチを歩く。鮨店がみつかるまで歩くのだそうだ。そんなテレビをおもしろがって観る人がいるというのが、私にはわからない。考えてみれば(考えてみなくても)目的の店は必ずみつかるに決まっている。そうでなければ、番組そのものが成立しない。テレビ局(制作者)が充分に下調べしてある道を、歩きまわる。それだけの話だ。本当に面白いですか?

いろいろなテレビがわからなくなって来た。我が家はいつも、テレビ朝日がつけっぱなしになっている。昼食時には『やすらぎの刻』というドラマをやっていて、これはテレビ朝日自慢の一級品らしいのだが、私にはよくわからない。どこがおもしろいのかがわからない。石坂浩二さんが憂鬱そうな顔でウロウロしている場面が多い。昔の俳優が出て来る。わかるのはその辺までである。何を描こうとしているのかが読み取れない。いよいよ私も認知症の列に並んでいるのだろう。今は後列の方かもしれないが、1日1歩、3日で3歩前へ進んでいるのだろう。ま、84歳ならば、それが当然か。

介護

2020-02-23 11:40:47 | 日記
夜中に背中を叩かれた。天の手だ。慌てているような叩き方だ。「シビンが無い」という声がかぶさって来た。ボンヤリした頭で事の次第を理解する。寝る前に夫のシビンをトイレに持って行って、中身を棄てた。そのときに本体を忘れて来たのだ。「ちょっと待って」と声をかけ、急いで起き上がる。トイレを往復する間、我慢しろと願う。間に合わなければ、夫はシビンを入れてあるプラスチックの箱を使用するだろう。それをやられると、後始末が面倒になる。壁時計の針は短針が2と3の間、長身が6の位置にある。シビンに限らす、介護というのは厄介なものだ。ま、食事とトイレは自分でできるようだが、入浴は助けが要る。自分では湯船の蓋が開けられない。それに、老病人は風呂での事故死が多いらしい。食事もよくこぼすのでエプロンを使わせている。それでも、ズボンの前部を汚してしまう。ノロノロと時間をかけて酒を呑む。どうせ少し赤い顔になって眠くなるのだから、安い酒でいいだろうと思うのだが、ジョニ黒を欲しがる。止むを得ず、私がリュックサックを背負って酒屋へ行くことになる。

あれこれと病気が多い夫がなぜ84年も生きて、毎日酒を呑んでいられるのかが不思議でならない。本当は10年前の夏に、夫は胸部大動脈瘤破裂で死んでいたのであり、そのことはオペニ立ち合った数人のドクターが証言しているのだ。ところが、それが奇跡的に生還した。「死んだはずだよ お富さん」が生き返ったのである。そして、エッサオー源治店と介護が始まったのだ。そして、時々、夜中に起きたりするのだ。

以上は今日2月17日の家人のブログである。家人が文章を書くのは面倒だと言うので、夫である私が代筆した。


チョコレート

2020-02-23 11:30:39 | 日記
秋の一日、六甲山に登った。祖父母と叔父と叔母、それに祖父の会社の人達も一緒だった。目的は松茸狩りであって、山の中腹の一部分を借り切ってあった。その部分には松茸が樹の下にあって、すぐにはみつからないように枯れ葉などがのせてあり、それを発見するのが楽しみになっていた。近くに「あけぼの」という料理店があり、そこの世話できのこ狩りでとったものに牛肉や野菜などを加えてすき焼きを作り、山中の宴会になった。歌や踊りはなかったと思うがにぎやかだった。祖父は専売局から天下りして、神戸の樟脳会社の社長を務めていた。宴会の最中もオジサン社員たちが代わる代わる祖父母の席へ来て、徳利を差し出していた。子供は私だけだったから、みんなにチヤホヤされていた。酒を呑まない女性(男性社員の奥さん)たちに、祖母が、大きな平たい箱に入ったチョコレートを渡した。モロゾフのチョコレートだった。昭和14年か15年か、まだ日本は平和だった。最近でもモロゾフのチョコレートはある。私はその名を聞くと80年前を思い出す。

バレンタインデーに、長女から森伊蔵のチョコレートをもらった。ピストルの弾丸の先端を切り取ったような形のチョコレートの中に、焼酎が入っていて、つまり焼酎ボンボンであり、これが旨い。水割りのツマミにしてはモッタイナイので、水割りは他のツマミで呑み、最後のヒトクチのジョニ黒をストレートにする。文字どおりヒトクチだから、20CCほどか。まずは森伊蔵を口に入れる。すぐにチョコレートが溶け、上等な焼酎が舌の上に転がる。そこへ20CCのジョニ黒を放り込む。旨い!こういうのを幸福の味と言うのだろうか。贅沢の味と言うのだろうか。ま、私の頭に浮かぶ形容はその程度だ。森伊蔵のチョコレートは6個入っている。まだ5日楽しめる。