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暖房

2019-02-07 00:08:50 | 日記
少年の頃に住んでいた茨城の家は木造平屋建であって、冬になると雨戸を閉め、ガラス戸を閉めても、どこからか隙間風が入って来るような感じがあった。暖房は置き炬燵(電気ではなく木炭を用いる)と火鉢(タドンを使用)、それに夜の布団に湯タンポを入れていた。何を着て寝ていたかはハッキリした記憶がないが、厚木だった。小・中学校の教室には暖房設備はなかった。朝の1時間目の授業は手の指がかじかんで動かないこともあった。そう言えば、かじかむ という言葉を最近は聞かなくなった。いや、最近ではなく、もう何十年も前から聞いていない。

朝、目が覚めると暖房のリモコンスイッチを押す。「25度で運転を開始します」と器械が答える。5分経つか10分過ぎたかと言った辺りで、家人が「1度下げて」と言う。家人は暖房が好きではない。私もその気持ちが理解できる。私の場合は浴室であって、入浴前に部屋を暖められると息が苦しくなるような気がしてしまう。だから家人の指示に従って、「温度を24度に設定しました」にする。わずか1度の差である。しかし、私にとってはその1度が大きい。上半身は暖かいけれど、下半身、足の先辺りが涼しくなった気がするのだ。1度の差は入浴の時によくわかる。私はいつも41度の風呂に入るが、たまに間違えて40度のボタンを押したりすると、途端にぬるくなる。逆に42度にしたりすると、猛烈に熱い。

老人にとって、いちばんありがたいのが床暖房である。穏やかなぬくもりである。上品な感じがする。これは居間と食堂にしかないが、湯上りに床暖房が効いた食堂で晩酌を楽しめるのは贅沢と言える。顔が熱くなる。身体も夏になる。氷を多めに入れた水割りが旨くなる。

2月3日

2019-02-03 18:32:03 | 日記
NHK杯将棋 森内8段 対 三枚堂6段の1戦がおもしろかった。三枚堂という姓も珍しいが、私は初めて観る顔。中盤過ぎまで6段がかなり優勢に見えた。解説の木村8段の意見も同じだった。それを森内さんが受け切った。

昨日、家の洗濯機のことで、ボクちゃんのパパに見てもらった。ボクちゃんも、お兄ちゃんも一緒に来た。ボクのお目当ては猫のヴィヴィである。ペルシャ猫は抱かれるのを嫌がる性質があって、私などは捕まえることすらできないが、昨日はおとなしくちうか、観念したというか、ボクちゃんの腕におさまったそうだ。とにかく、幼い女の子の明るい声を聴くというのは愉しい。

節分であるが、我が家では豆まきができない。ヴィヴィが拾い食いしたら大変だからだ。その代わりにというわけでもないが、昼食に出かけた家人と娘が恵方巻なるものを買って来た。おもしろい流行もあるものだ。いわゆるニッパチでヒマな時期にあたる大阪の鮨屋さんが考え出したものらしいが、要するにただの海苔巻きである。

ネットで知り合った茨城の男のところへ薬大生の女性が訪ねて行って殺され、畑に埋められたというニュースがあった。初めて会う男に殺されるということだけでも、ちょっと信じがたい。ネット上のやりとりだけで、遠い場所から異性に会いに行くだけでも?と思ってしまう。世の中は変わった。

おとといは腰痛でデイケアサロンを休んだ。痛みの強さよりも、行く気にならないという気分的なものが先だった。行かなければならないといった義務感が生じたりするのはもっと嫌いだ。今朝の血圧は122-79。

白いご飯

2019-02-03 18:23:41 | 日記
白いご飯を食べることがほとんど無い。稲荷寿司や握り寿司、海苔巻きなどは時々もらうが、あれは白米製ではあるが、酢飯である。私の言う白いご飯というのは、食卓の中央辺りに皿が2枚あって、それぞれに鮭の焼いたものと卵焼きがあり、3つ4つの小鉢に佃煮やきんぴらごぼう、漬物、納豆などが入っていて、いちばん手前に味噌汁の椀、そしてその横の飯碗に盛られた炊きたての白米飯である。

朝食はパンになる。最上は娘の焼くレーズンブレッドであるが、これは10日に1度ほどか。家人は白パンを好む。白パンにも種類があるようで、時々その説明を聞くことがあるが、私にはその差異がわからない。わかるのは上にのるジャムの味の差だけだ。たまに市販のレーズンものを買って来るが、これはいかにもケチくさい。干しぶどうの価格については知らないが、それにしても粒の数が少ない。この製パン業者の社長は自社で作るものを試食することはないのだろうかと思ってしまう。

前から書いているように、夜は主食を食べない。酒を呑みながらベビーチーズ、柿ピー、冷奴(湯豆腐)、かぼちゃのサラダ(ポテトサラダ)と、その日の主菜をツマミにする。昨夜のことで言うと、主菜はカレーだったから、その中身だけを小皿にもらう。ブタ肉とにんじん、じゃがいも、玉ねぎのカレー煮であるが、その辺でもう充分満腹になる。

昼食はまちまちであって、米飯類も食べる。冷凍ピラフなんていうのが旨い。袋入りの冷凍飯と具を炒めるだけで、2,3分で出来上がる。家人は稲荷寿司を作るのが巧い。海苔巻きも楽勝である。また、或る日はランチパック、或る日は炒めうどんと、バラエティ豊かだ。

というわけで、白いご飯を食べない。食べる機会がない。それでもたまには白いご飯を…とは思わない。思わなくなっている。昔は朝食に必ず・・・といったことが頭に浮かぶ日もない。

煙草

2019-02-02 11:09:56 | 日記
昔の映画やドラマを観る。懐かしい顔が出て来る。すでに旅立った名優がいる。私が観るのは犯罪モノが多いので、主役が刑事であったり、犯人であったりする。今と違って携帯電話がない。その代わりと言うか、煙草が多い。かつて、「煙草は動くアクセサリー」という専売公社のテレビコマーシャルがあったが、アクセサリーどころではない。小道具になっている。会議室の場面なんかは紫煙の波に包まれている。演技の面でも煙草が必要であることが少なくない。また、煙草の似合う俳優もいた。その代表がハンフリー・ボガードだった。あれはカッコよかった。

煙草は旨い。一仕事終えてそれがうまくいって、さてというときの一服は旨い。ホテルのバーや、屋台のおでん屋の雰囲気にも合う。別に旨くも感じないのに習慣で吸ってしまうのが将棋と麻雀だった。ヘボ将棋でも千点百円の麻雀でも頭を使う。策を練るほどの頭は無いのだが、それでもカン(瞬間的思考)を働かそうとする。ついでに、やたらと煙が欲しくなる。

たいていの友人が煙草をやめた。以前にも書いたが、煙草をやめられるのは、意志の強い人ではない。反対に、やめられない人は意志が弱いわけではない。友人のM君はいまでも煙草を友としている。意志云々ではなく、M君は本当の愛煙家なのである。肩身の狭い思いをしながらでも吸わずにはいられないのである。M君にとって紫煙の味は幸福なのだ。私における酒と同じである。私にとっての酒は幸福である。もし世の中に嫌酒運動なんていうのが広まったとしたらと考えると、愛煙家の諸姉諸兄には「大変そうですが、頑張っていますね」と声をかけたい。

パンパンガール

2019-02-02 10:27:30 | 日記
黄昏のスキヤキ橋の豚娘、恥しらたきとネギる青春。誰の作だったかは忘れたが、この歌の意味をすぐに理解できる人はもう少ないだろう。夕方になると、東京・数寄屋橋広場に、ちょっと濃いめの化粧をした日本人の娘が現れる。目的は進駐軍のアメリカ兵に春を売ることである。日本の男たちはみんな貧乏だった。米を買う金もない家庭もあった。米兵は金を持っていた。そこへやって来る日本女性との間に商談は簡単に成立した。女性達は、いわゆるプロの売春婦ではない、ごく普通の家庭の女性が多かった。でも、その商売に馴れて来れば、素人→プロと言えなくはない。彼女達はパンパンガールと呼ばれていた。それがこの歌の意味である。

パンパン刈りという言葉があった。パンパンガールの一斉検挙のことであって、警察が抜き打ち的に行っていたようだ。松本清張さんの作品に『ゼロの焦点』というのがある。元パンパンだった女性の悲劇が物語の焦点になっている。繰り返すが、パンパンガールの悲劇の元は、貧困にある。家庭の貧困にある。日本国の貧困にある。日本国の敗戦にある。ムダな戦争にある。

『星の流れに』という歌があった。今ではもうカラオケ店にも用意されていないかもしれない。これはパンパンガールの悲哀をつづったものである。第3章は「飢えて今頃妹はどこに ひとめ会いたい お母さん ルージュ悲しや唇噛めば 闇の灯影の侘しさよ こんな女に誰がした」である。