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吝(ケチ)

2021-03-14 11:35:40 | 日記
家人はケチである。貶しているのではない。そのおかげで、我が家の台所は60年間保ってきたのだ。ケチというのは、持って生まれた性格だ。たとえ、明日3億円の宝くじに当たったとしてお、金の使い方が粗くなることはないだろう。高級ホテルにハイヤーで乗り付けて、7万円のステーキを食べることはない。そんなことは考えもしない。

家人が餃子を作る。200グラムのひき肉を使う。そのとき、20グラムほどを残し、小さく丸めてビニールで包んで冷凍する。何日か経って、娘が発見する。すでに冷傷(しもやけ)していて、役に立たないから捨てる。こういうことが何度もあった。20グラムのひき肉を家人が残したのはなぜか。たぶん、あとで何かに使えるかも・・・ということだろうが、そのとき、シモヤケのことは予想しないのか。そういう理屈ではないのだ。つまり、ケチの精神が自然に働くのである。自然に手が動くのだ。このことは同じようなケチ精神をお持ちの方なら理解していただけるはずだ。

病院の医師や看護師さんにお礼をすることがある。もちろん、現金だ。支払い担当は私だ。病気になったのが私だから当然だ。たとえば3年前、胆石でダウンしたときは土曜日だった。休みだった外科医が医院からの電話で駆けつけてくれて手術してくれた。私は当然にお礼をさしあげた。その封筒を見て、家人が、いくらなのかという顔をした。「お医者さんは仕事なのよ」とも言った。それが仕事なのだから、御礼無用と言う意味なのだろう。それも1つの理屈だ。ケチには必ず理屈があるのだ。くりかえすが、それを貶すつもりはない。できない。家人のその精神によって、今夜も私はジョニ黒が呑めるのだ。

入浴

2021-03-14 11:27:38 | 日記
幼い頃は祖父と風呂に入るのが習慣だった。祖父が会社から帰ると夕食前に2人で裸になった。祖父は不器用だったのか、私の頭を洗うときに、よく石鹸が目に入ってしまい、私が騒ぐと、面倒くさがって、「今日は石鹸を使わないで洗おう。母さん(祖母のこと)には内緒だよ」と言ったりした。私もその方がよかったから秘密は守られた。祖父が留守の日は祖母が面倒をみてくれたが、その祖母も留守の日があった。祖父母揃って、お呼ばれ(どこかの家の晩餐に招かれる)の時だ。私はその日が大好きだった。当時、我が家には3人の女中さんがいたのだが、その中でいちばん年下のおチヨが入浴係をやってくれるからだった。もちろん一緒に入浴するのではなく、ただ体を洗ってもらうだけのことだが、おチヨの手が気持ちよかった。おチヨも、他の2人もいなくなったのは、昭和17年の初め頃で、大東亜戦争が始まったからだった。

現在の我が家の浴槽は実にありがたい造りである。船形になっているので、ゴロンと寝て入れる。私は腰の具合が悪いので、深い造りのモノでは困る。中に何かの台でも置かないと立ち上がれないだろう。いや、現在の形でも、立ち上がるには全身の力を要する。浴槽の右手と左前方に金属のパイプがついている。湯の底には足裏のすべり止めのゴム布を置いている。まず、右のパイプは右手で握り、両足を揃え、ヒザを合わせて立つ。そこで、半身を起こし、左手も右のパイプを握って、足裏を踏ん張って立つ。やっと立ち上がる。ソロソロと2,3歩左に寄って、左パイプをつかんで、なんとか船から脱出する。快いごろ寝の入浴は、言うまでもなく、晩酌の味につながっている。おチヨさんは、まだ元気だろうか。

空襲

2021-03-14 11:13:42 | 日記
午後3時頃、警戒警報のサイレンが鳴る。ウォーンという音がゆっくりと鳴る。このウォーンが慌ただしく連続して鳴るのが空襲警報だ。私がすんでいた兵庫県の芦屋市で米軍の爆撃機B29の姿が上空に見られるようになったのは、終戦の年の終わり頃からだった。午後3時に飛来するのは偵察である。たいてい2機でやって来る。晴れた日には美しい飛行機雲を大空に描いていく。

午後6時半に再度警戒警報が響く。敵B29約50機が潮岬南東海上を北上中。奈良県、和歌山県、空襲警報発令中部軍監区司令長官発令のラジオ放送が流れる。大阪府、兵庫県、京都府が警戒警報から空襲警報にかわるのは間もない。警報といっても、対抗手段はない。守備力はない。つまりは、B29のやりたい放題だった。

芦屋のような住宅地に落ちるのは焼夷弾であって、爆弾ではない。焼夷弾は放火弾である。落下して燃える。当時はたいていが木造家屋であるから、悪い言い方をすれば燃料である。町のあちこちに火の手が上がる。我が家は、老いた祖父母と17歳の叔母と私の3人家族だった。家屋に直接焼夷弾が落ちたことはなかったが、右隣が全焼、左隣が半焼した。我が家に飛び火しなかったのは、単なる運に過ぎない。それでも、近所から死者は出なかった。私が近所の大人に連れられて裏山に逃げた話は以前に書いた通りである。

3月10日は76年前の東京大空襲の日である。東京下町が空襲を受け、多数の死者が出た。焼け野原に焼死者を積み上げた山がいくつもできた。サラリーマン時代の先輩であるNさんは、その夜、その場にいた一人だった。屍の山のことを淡々と話していた。もちろん、故意に、淡々と語ったのである。生き残ったのは偶然だとも言っていた。3.11から10年・・・という報道は多いが、76年前を振り返る報道は少ない。