黒のスーツは、いまや日本人男性のユニフォームのようになっている。政治家達を見ていても、黒を着ていないのは麻生太郎さんぐらいのものだ。あの、右へ習え~はどこから始まったのか。 私は黒の背広を着たことがない。そんなものが短髪肥満の人間に似合うはずもなく、チャコールグレー(ネクタイも同じ)で葬儀に出席した。この墨灰色のダブルというのは便利なもので、ネクタイを替えれば祝い事にも通用した。黒で思い出すのが、ラグビーのニュージーランド代表「オールブラックス」で、あれは、いかにも強そうに見える。 茄子紺と呼ばれる色があるのを知ったのは50歳頃だっただろうか。 それまで私は、ナスはムラサキの代表だと思っていた。家人にそのことを言うと、「ムラサキはこれでしょ」と言って、風呂敷のようなものを見せてくれた。 なるほどそうかとは思ったが、その判別の区切りはよくわからなかった。そういえば、明治大学の校旗は、たしか紫紺だった。そうなると、もう私にはわからない。 性的魅力を利用して異性を誘うことを色仕掛けと言い、男女の秘め事を色艶ごとと言うけれど、そういう場合の色は、カラーではなくムードのようなものを言うのかと思うが、一方で女性のセクシーさを、ピンク、桃色ナントカと表現したりする。いや、この辺にしておこう。要するに、私は、色のことは、之不可解 なのだ。
3月下旬あたりの、まだ少し寒さのあるときに、たとえばレストランや乗り物の中などで、自分だけが額にうっすらと汗をかいて、それを手で拭っているのに気付く~といったことがよくあったのを思い出す。 子供の頃のことは忘れてしまったが、20歳を過ぎるあたりからは一級の汗かき人間になった。かつて阪神タイガースの一時代を築いた村山実投手も大汗型体質であって、もし彼がそういう体質でなかったら、もっと活躍できたはずという評もあったが、汗をかくのは健康に良いのは当然とはいえ、かき過ぎるというのもまたシンドいものなのだ。 通勤用とヨソユキ用のオーバーコート、それにトレンチコートを持っていて、特にトレンチコートが好きだったから、たとえばちょっとポカポカとした冬の休日に家人と外出するときなどに、それを着ようとすると、「こういうときのために、いい方のオーバーがあるじゃない」と言われたりした。たしかにその通りなのだが、伊達の薄着なる言葉もあるように、厚手のコートばかりの街をトレンチコートに慶大ラグビー部のタイガー色のマフラーで歩いてみたいというキザ心があった。 しかしそれだけではなかった。若い頃(還暦前まで)の私は、よほどの日を除けば、冬の寒さはたいしたことはなかった。 いま(7月27日午後6時)、私はエアコン温度28度の部屋に扇風機を2メートル横でまわし、半袖シャツに短パン姿でこれを書いているが、額にも、髪のない頭にも汗がある。 扇風機の届かない場所でテレビを観ている家人は、先刻から「ああ、気持ちいい」と涼しげだ。 「暑いなぁ」と言うと「お酒を呑んでいるからよ」という答えが来るから、黙っている。 山盛り氷を入れた水割りが旨い。
中国では、俗に親孝行法と呼ばれる法律があり、たとえば、親から離れた土地で働いている子供に、「1年に一度は必ず親元に帰ること」などを定めているそうだが、こういうことって、法律で決めるというのはどうだろうかと思ってしまう。親子関係といっても、必ずしもすべてが良好というわけではないし。 「孝行は いつでもできる 長寿国」というのは、20年ほど前に私が作った川柳で、むろん「孝行のしたいときには親はなし」の名句を裏返しただけのものだが、選者が同感してくれたのか、新聞に載った。 そして、自分が生き過ぎの年齢になって、そのことを実感している。 私は現在でも、家人もやがては娘達の力を借りなければ生きることはできない。 それに反して私は親孝行をしてこなかった。父は早死にしたが、母は長寿だった。母の老後は妹が看た。 孝行のひとつに、立派な人間になることがあるかと思うが、私は立派どころか、誰の役にも立たぬままに旅立ちの時を待っている。 家人の名は孝子であって、たとえば旅行案内のペーパーがほしくて電話して、そのとき自分の名を、「親孝行の孝です」と説明すると、旅行会社から「高子様」と書かれた封書が届く。私が、「どこかに大屋高校という学校があるのではないか」と言い、笑い話になるが、これでわかるのが、親孝行という3文字語はすでに死語になっているということだ。
中国では、俗に親孝行法と呼ばれる法律があり、たとえば、親から離れた土地で働いている子供に、「1年に一度は必ず親元に帰ること」などを定めているそうだが、こういうことって、法律で決めるというのはどうだろうかと思ってしまう。親子関係といっても、必ずしもすべてが良好というわけではないし。 「孝行は いつでもできる 長寿国」というのは、20年ほど前に私が作った川柳で、むろん「孝行のしたいときには親はなし」の名句を裏返しただけのものだが、選者が同感してくれたのか、新聞に載った。 そして、自分が生き過ぎの年齢になって、そのことを実感している。 私は現在でも、家人もやがては娘達の力を借りなければ生きることはできない。 それに反して私は親孝行をしてこなかった。父は早死にしたが、母は長寿だった。母の老後は妹が看た。 孝行のひとつに、立派な人間になることがあるかと思うが、私は立派どころか、誰の役にも立たぬままに旅立ちの時を待っている。 家人の名は孝子であって、たとえば旅行案内のペーパーがほしくて電話して、そのとき自分の名を、「親孝行の孝です」と説明すると、旅行会社から「高子様」と書かれた封書が届く。私が、「どこかに大屋高校という学校があるのではないか」と言い、笑い話になるが、これでわかるのが、親孝行という3文字語はすでに死語になっているということだ。
5千円札の肖像は樋口一葉である。肖像は写真などをもとに人の手で描かれるそうだ。一葉の生涯はわずか20数年だったようだが、紙幣に印された画は40歳ほどに見えるし、彼女が病身であったためか、札全体に明るい印象が無い。紙幣に描かれる人物は誰がどのように選ぶのかは知らぬが、たぶん、歴史上に名のある~というのが基本になっている気がする。ならば、人気者を選ぶ方法もあるのではないか。織田信長札、坂本龍馬札なんていうのは好まれるだろうし、もっと言えば、美空ひばり札だって悪くない。 2千円札が発行されたのは西暦2000年記念だから、今から13年前になるかと思うが、そのとき娘に新札を1枚もらって、そのまま使わずに現在も財布の中に入っている。別に珍品として値上がりすることもないし、ただ使わずにいただけのことだ。 これは勝手な想像だが、国庫のどこかに、刷りたてのままんべむっている2千円札が山のようにあるのではないか。2千円札の図柄は流通紙幣の中では抜群に美しい。しかし、なぜか人気がない。 いま私の財布の中にある数枚の千円札は、家人にサマージャンボ宝くじを買って来てもらったときの釣り銭だ。つまり、その札は誰かが宝くじ売場に支払ったものだろうし、その誰かはスーパーで買い物をしたときの釣り銭を使ったのかもしれない。と考えると、お金というものは、人の手から人の手へ、ある場所からある場所へと実に複雑でかつ長い旅をしていることになり、もしお金にココロがあったら、さぞ面白い経験をしているのだろうなぁと思う。