東京蒲田にある下請けのA社に着いたのが朝の7時だった。30分後には製品を納入するトラックが出発する必要があった。 まさに緊急を要する仕事であって、A社は2日続けの徹夜だった。 「お食事は?」、やっとトラックが出発し、A氏夫人が私に訊いた。「ええ、家でコーヒーを1杯のんで来ましたから」と応えると、「ちょうどよかったですわ、いま作ったばかりのサンドウィッチがあります」と夫人が笑顔にない、台所の方へ向かった。これはもう40数年前の話だが、今でも私の記憶に鮮明である。この、「いま作ったばかり」というのが実に響きがいい(タイムリーな)言葉だったからだ。もちろん、それは私達(私ともう1人の同僚がいた)のために、早くから用意されていたはずであって、それをそのまま「用意してありますよ」と言うのでは、いい言葉ではなく普通になってしまう。 A夫人は、社長のA氏とともに、おもしろみのある明るい人物だった。 素敵な言葉に出会うことが時々があるが、その大きな要素に、タイムリー(適時)があると思っていて、それをさらっと言ってのける人達を尊敬せざるを得ない。世に言う名言というのは、たいていが文字で知るものだが、適時語は、耳から入って脳の一隅に残る。そして、何かのきっかけで、甦るものだと思う。
以前にも少し書いたが、祖母は、金色のもの(特にアクセサリーや時計など)が嫌いで、シルバー系(プラチナなどを含む)を、オシャレの基本にしていた。 小学校の1年生か2年生だった頃の或る日、友人の家で、彼の祖母らしい老女と出会い、その口唇が開くたびにズラリと並んだ金歯が見えて、気持ち悪いというか、怖いというか、とても下品に映ったのを憶えている。 そのこともあって、私も大人になってからも腕時計やネクタイピンに金色のものを選ぶことはなかった。 この前の父の日に、長女が、銅製のタンブラーをプレゼントしてくれた。普通のグラスより大きめで、底の部分から上部に向けて徐々に広がって行く形、外側が手打ち加工された波状になっているのが味わいだ。私は金盃で酒を呑んだことはないが、銀盃はある。 この初体験の銅盃は、味を変える。燗酒は熱すぎてダメだが、水割りには合う。巧く言えぬが、ウィスキーに重厚さが増す気がする。もちろん冷たさは、並みのグラスより何倍か勝る。 おさまっていた化粧箱の恰好から推して、高価なものなのだろうが、私はプレゼントに関しては家族にも値段は訊かない主義だ。金銀銅はすぐにオリンピックのメダルを連想するが、それを手にした選手が口に咥えたり齧ったりするポーズをとるのが(自然にそうしたくなるのだろうけれど)、なぜか好きになれない。