中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

本庄歴史民族資料館(旧中山道を歩く 59)

2005年09月06日 21時13分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(開善寺の門)


(本庄宿3)

本庄城址から中山道に戻る手前を右に入ると、開善寺がある。
墓地には、田村家本陣の墓、その前に小笠原信嶺夫妻の墓がある。

この開善寺は、山号を畳秀山と称し臨済宗の禅寺で、
天正十九年(1591)本庄城主小笠原信嶺が開基し、
球山宗温和尚の開山で、本尊は、聖観世音菩薩である。
和尚は、城主信嶺の夫人久旺院尼の兄に当たる人で、
武田信玄の弟武田逍遙軒の子で、仏門に入り甲斐の国
永岳寺にあったが、信嶺に招かれ当寺を開山した。
という。(本庄市教育委員会)

(田村家本陣の墓)

(本庄城主 小笠原信嶺夫妻に墓)

本庄駅入り口の信号から、中山道を西に進んだ
100mほど先の右側に田村本陣、左側に内田本陣が
あったとされるが、今ではそれを示すものは何も残っていない。

さらに進み、中央二丁目の信号を右折し、消防署手前を
さらに右折すると、本庄市立資料館があり、資料館の前に
いかにも古そうな門、田村家本陣の門が移築されている。
これは本庄市の指定文化財となっている。

(田村家本陣の門)

(この門は、本庄宿の北本陣といわれた田村本陣の門です。
本陣とは宿場を往来する大名や幕府役人などの公用旅館のことです。
田村本陣があったのは、現在の中央一丁目六の区域で、
寛永19年(1642)から宿泊記録が残っています。)
(本庄市教育委員会)
なお、この門は歴史民族資料館になっている旧本庄警察署の建物と共に
本庄新八景の一つに数えられている。

(旧本庄警察署の建物を利用した歴史民族資料館。いかにも物々しい)

歴史民族資料館の幕末の本庄宿の資料に拠れば、
以下の通りになっている。

宿の長さ28町50間(約3168m)
人口  4554人
総軒数 1212軒


この時の板橋宿は
宿の長さ 15町49間
人口  2448人
総軒数 573軒
(中山道宿村大慨帳による)

中山道最大の宿場町に発展したのは訳がある。
それは養蚕にあった。

(江戸時代は宿場町として繁栄しましたが、
明治時代に入ると「養蚕の町本庄」と言われるほど、
更なる発展を成し遂げました。
明治七年富岡官営製糸工場長の尾高惇忠(あつただ)が
生繭の買い入れを、本庄宿の依頼したことに始まる。
市場の開設と共に、製糸工場や繭の取引に必要な金融機関、
商店が急速に発展し、周辺の村々では、
養蚕がますます盛んになり町と村が経済的にリンクし、
安定した経済基盤が確立された結果です。)
(本庄市教育委員会)
明治以降の発展の様子を、歴史民族資料館で展示している。




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1 コメント

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宿が3㌔も続いているのは壮観でしょうね。 (salasala)
2005-09-09 22:54:18
宿が3㌔も続いているのは壮観でしょうね。
客とり競争も面白いだろうと想像します。
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