![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/37/110f1f1c51e0333105e8ab1f8b42e988.jpg)
(中山道六十番目、柏原宿)
(柏原宿 3)
柏原宿は中山道を日本橋から数えて60番目の宿場に当る。
そして近江の国(滋賀県)に入って最初の宿場である。
名物は「伊吹もぐさ」だけのようだ。
柏原歴史館を出て、中山道を西に向うと右手に日枝神社があり、
次いで左側に「柏原銀行跡」(現在の滋賀銀行)がある。
同時にここは問屋場の「西荷蔵跡」でもあった。
説明によれば、
(江戸時代もぐさ屋の山根為蔵家は、
同業旅籠屋・呉服屋であった家筋五軒に働きかけて、
自宅別棟に柏原銀行を明治34年(1901)創設した。
中世・江戸期を通し大きな宿場として栄えた柏原村は、
その当時も多くの商店が立ち並び、
国鉄沿線の醒ヶ井・近江長岡と
岐阜県隣村今須村地域の中心地であった。
柏原銀行の支店出張所は、
米原・醒ヶ井・近江長岡・野一色・岐阜県の今須村にも設置された。――後略)
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(日枝神社)
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(柏原銀行跡と西の荷蔵跡)
やがて南北に繋がる道路と交差し、
左側には「やくしえのみち」の道標があり、
左へ進めば、西薬師(泉明院)へつながる。
左奥には木造の火の見櫓が見える。
右折すれば清滝村へ通じる道路で,
約1.2kmに清滝寺徳源院がある。
右折してすぐの一帯は、
お茶屋御殿跡が今は公園になっている。
お茶屋御殿跡について、
(江戸初期の頃、
将軍が上洛する時の宿泊や休息のために建てられた御殿の跡です。
家康・秀忠・家光の3人で合計14回ほど利用されている。)(米原観光協会)
清滝寺徳源院(せいりゅうじとくげんいん)については、
(佐々木京極氏の菩提寺で、
正式には霊通山清滝寺徳源院といいます。
足利尊氏の下で佐々木道誉が活躍したことで栄え、
戦国時代は、江の姉様(浅井三姉妹の次女お初)が京極高次に嫁ぐ。
高次は信長、秀吉、家康の間を渡り歩いて再興、大名となる。
これら歴代の宝教印塔34基が並んでいる。)(米原観光協会)
(徳源院には、立ち寄っていませんが、是非お立ち寄りを)
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(左角に「やくしえのみち」の道標)
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(火のみ櫓)
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(お茶屋御殿跡の小公園)
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(柏原御殿、館跡の石碑)
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(お茶屋御殿跡の小公園2)
お茶屋御殿跡を右に見て通り過ぎると、
左手に郷宿(ごうやど)跡がある。
郷宿とは脇本陣と旅籠屋の中間で、
武士や公用で旅する庄屋などに使用された旅館である。
残っているのは、中山道上、今まで始めて見る。
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(「郷宿」少し分り難いが左手に家)
この先柏原の町を離れて左田圃、右は山が繋がる。
やがて左手に復元された南側の一里塚跡がある。
江戸から数えて115番目であると言う。
一里塚は本来街道沿いにあるが、街道に沿って川があったことから、
街道から離れた所に造られていたという。
現在も少し離れて築かれている。
この辺りが西の見付跡で、
喰い違い土手があるというが良く判らなかった。
この場所で、庄屋や役人が正装して、
御偉い方のお見送りやお出迎えをしたに違いない。
柏原の宿場はここで終わりとなる。
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(柏原の一里塚)
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(街道横に川が流れる)
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(「西の見付」付近)
中山道はここから松並木が続き、
やがて右手に「北畠具行卿墓」参道へ右に入るよう案内がある。
案内書によれば、右に入る道は昔の東山道で、
ここから中山道と別れ山越えをしていく。
いずれにしろ「北畠具行の墓」を見たいと、
山の中へ細い道を進む。
右手の山側には(獅子おどし)の電線が張り巡らされており、
山側にお墓などがあるが、右手の山に入ることが出来ない。
道は左手は畑か空き地か平らで山の間を抜けるようになっている。
昔の東山道であれば頷ける。
かなり入った所で、道路は(獅子おどし)の電線でさえぎられ、
先に進むことが出来なくなっている。
清滝寺徳源院からは南へ500mの所にあるはずであるが、
徳源院からは行けるかもしれない。
大変残念であるが諦めることにする。
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(松並木が続く)
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(北畠具行卿の墓案内板)
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(お墓への道、東山道でもあった)
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(お墓への道2、右手に「獅子おどし」の電線あり)
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(お墓への道3、右手に「獅子おどし」の電線あり)
中山道に戻って、西に向う。
左手は開けた場所であるが、
右側は山が繋がっている。
「鶯が原」という。
太田道灌が江戸から京都への旅日記「平安紀行」に、
鶯の原という所にて、
・聞ままに かすみし春そ しのばるる
名さへなつかし 鶯の原
と残している。
その先には植樹された松並木がある。
あと30年もすれば見ごたえのある松並木になっていることを期待したい。
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(開けた場所「鶯が原」と呼んで時期には鶯の声が聞けた)
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(並び松街道の碑)
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(植樹された松)
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