(松原四丁目を左折)
(石山駅が見える)
(大津宿 3)
(松原四丁目)の信号を左折すると、右側に「石山駅」が見える。
道路を渡って駅に近づくが、この先の道路が分からない。
幸い駅前のバス停脇に交番があるので、聞くことにした。
「地図を示して今井兼平の墓に行きたいのですが、
道を教えてください。」
そうお願いすると、若いお巡りさんが出てきて地図を見る。
「東海道はこれを真直ぐなのに、
そうお願いすると、若いお巡りさんが出てきて地図を見る。
「東海道はこれを真直ぐなのに、
どうしてこの地図は左折しているのですか?」
と若いお巡りさん。
と若いお巡りさん。
今井兼平のお墓へ行きたいためにこのようになっています。
ボクの持っている地図では、分かり難いらしく、
交番備え付けの住宅地図を持ち出してきた。
それで兼平のお墓を見ると、教えてくれた。
「先ずこの駅に上がってください。改札口を真っ直ぐ北口に出て、
階段を降りたら左へ行く。工場の間を抜けて道なりに行くと、
今井兼平のお墓の看板がありますから、判ります。」
「ご丁寧に、有難うございます。」とお礼を言って交番を出る。
(石山駅の階段が見える)
目の前の「石山駅」の階段を登って、北口階段の方へ出る。
目の前は工場の裏門が見える。
左を見ると工場と工場の間に道路が見える。これを進むと、
道路は道なりに右折し、次に左折し左側の小川と並んで歩く。
曲がりくねった小川の向こうに兼平お墓の薄れた看板が目に入る。
川に沿って道なりに進むと、
(右 兼平庵 左 今井兼平之墓)の立派な案内の石碑が置いてある。
(石山駅北口へ)
(駅北口から見た工場の門)
(駅から左へ)
(右折する工場の間)
(次を左折)
(川沿いを左へ)
(右兼平庵の石碑)
(兼平庵)
今井兼平のお墓がある一角は、公園のような感じさえする。
どなたが手向けられるのか、墓前には新しい花が備えてあった。
周りにある碑を見ると、
建立者が今井何某と今井兼平の遠縁に当たる人のように見受けられる。
中に勝海舟が詠んだ歌が載せられている、
顕彰碑が興味を注いだので、紹介したい。
「粟津原合戦史跡顕彰碑」として、
(元治丙寅のくれの秋粟津の里、
昔兼平が討死せし處を尋ねし時
勝海舟
・染出し粟津の
くろのむら紅葉
ちりての後ぞ
いろいでにけり)とある。
(勝海舟の兼平顕彰碑)
(花がある今井兼平の墓)
(墓の彫刻に今井四郎兼平とある)
大津市指定文化財 史跡 今井兼平の墓としての説明によると、
(今井兼平は、源平争乱で有名をはせた源義仲の乳母子(めのとご)で、
「平家物語」によると、寿永三年(1184)一月二十四日、
粟津合戦で義仲が討ち死にすると、あとを追って自害しました。
兼平の墓は、元は山手の「墨黒谷(すぐろだに)」にあった粗末な塚でした。
関文元年(1661)、時の膳所藩主本田俊次が改めて墓石を建立し、
漢文七年(1667)に次の藩主本田康将(やすまさ)によって、
東海道に近いこの地に移されました。
敷地の奥に一段高く石柵に囲まれた墓石があり、
中央に大きく「今井四郎兼平」その両側には銘文が刻まれています。
現在、周辺には住宅と工場が並び、移築当時の面影はありませんが、
敷地内には墓石の外に、
兼平の末裔によって建立された灯籠や記念碑が数多く残されています。)
(大津市教育委員会)とある。
上野国勢多郡北橘村 今井喜治郎兼保や、
長野県諏訪郡岡谷市 今井喜七などの石碑建立者は、
今井兼平の末裔の方だろうか。
(建立寄進者が今井で末裔の方か)
(寄進者は今井さんだ)
「石山駅」に戻り、今度は兼平の墓方向と反対の右のほうへ出る。
すぐ工場の角を左折し、川沿いの道の次の交差点を左折する。
川の橋の上に旧東海道の案内地図がある。
ここが東海道である。工場脇の道路を歩くと、
所々に街道を思わせる松並木の名残で、
ボクの持っている地図では、分かり難いらしく、
交番備え付けの住宅地図を持ち出してきた。
それで兼平のお墓を見ると、教えてくれた。
「先ずこの駅に上がってください。改札口を真っ直ぐ北口に出て、
階段を降りたら左へ行く。工場の間を抜けて道なりに行くと、
今井兼平のお墓の看板がありますから、判ります。」
「ご丁寧に、有難うございます。」とお礼を言って交番を出る。
(石山駅の階段が見える)
目の前の「石山駅」の階段を登って、北口階段の方へ出る。
目の前は工場の裏門が見える。
左を見ると工場と工場の間に道路が見える。これを進むと、
道路は道なりに右折し、次に左折し左側の小川と並んで歩く。
曲がりくねった小川の向こうに兼平お墓の薄れた看板が目に入る。
川に沿って道なりに進むと、
(右 兼平庵 左 今井兼平之墓)の立派な案内の石碑が置いてある。
(石山駅北口へ)
(駅北口から見た工場の門)
(駅から左へ)
(右折する工場の間)
(次を左折)
(川沿いを左へ)
(右兼平庵の石碑)
(兼平庵)
今井兼平のお墓がある一角は、公園のような感じさえする。
どなたが手向けられるのか、墓前には新しい花が備えてあった。
周りにある碑を見ると、
建立者が今井何某と今井兼平の遠縁に当たる人のように見受けられる。
中に勝海舟が詠んだ歌が載せられている、
顕彰碑が興味を注いだので、紹介したい。
「粟津原合戦史跡顕彰碑」として、
(元治丙寅のくれの秋粟津の里、
昔兼平が討死せし處を尋ねし時
勝海舟
・染出し粟津の
くろのむら紅葉
ちりての後ぞ
いろいでにけり)とある。
(勝海舟の兼平顕彰碑)
(花がある今井兼平の墓)
(墓の彫刻に今井四郎兼平とある)
大津市指定文化財 史跡 今井兼平の墓としての説明によると、
(今井兼平は、源平争乱で有名をはせた源義仲の乳母子(めのとご)で、
「平家物語」によると、寿永三年(1184)一月二十四日、
粟津合戦で義仲が討ち死にすると、あとを追って自害しました。
兼平の墓は、元は山手の「墨黒谷(すぐろだに)」にあった粗末な塚でした。
関文元年(1661)、時の膳所藩主本田俊次が改めて墓石を建立し、
漢文七年(1667)に次の藩主本田康将(やすまさ)によって、
東海道に近いこの地に移されました。
敷地の奥に一段高く石柵に囲まれた墓石があり、
中央に大きく「今井四郎兼平」その両側には銘文が刻まれています。
現在、周辺には住宅と工場が並び、移築当時の面影はありませんが、
敷地内には墓石の外に、
兼平の末裔によって建立された灯籠や記念碑が数多く残されています。)
(大津市教育委員会)とある。
上野国勢多郡北橘村 今井喜治郎兼保や、
長野県諏訪郡岡谷市 今井喜七などの石碑建立者は、
今井兼平の末裔の方だろうか。
(建立寄進者が今井で末裔の方か)
(寄進者は今井さんだ)
「石山駅」に戻り、今度は兼平の墓方向と反対の右のほうへ出る。
すぐ工場の角を左折し、川沿いの道の次の交差点を左折する。
川の橋の上に旧東海道の案内地図がある。
ここが東海道である。工場脇の道路を歩くと、
所々に街道を思わせる松並木の名残で、
松ノ木が所々に残っている。
左の工場に沿って進む。
工場が途切れ信号があるがここは直進する。
(駅を右へ行き、工場角を左へ)
(川沿いの次の交差点をまた左へ行くと東海道)
(川の橋上の旧東海道の案内)
(東海道も工場脇では人通りも無い)
(東海道松並木の名残り)
(東海道松並木の名残り2)
(東海道松並木の名残り3)
(工場が切れ民家となる信号は直進)
すると道路は民家の間を抜けるようになり、
すぐ突き当たって右、また突き当たって左へと、
道路は鉤型になっている。
やがて踏み切りに出る。
(鉤型の道路)
(踏切が見える)
踏切を渡ってすぐ右に「若宮八幡神社」の鳥居と表門がある。
門内を覘くと、拝殿があり、その奥に本殿が塀で囲まれている。
門前にある説明板を見ると、
表門は大津市の指定文化財になっている。
(若宮神社)
(この表門は、膳所城の犬走り門で、
明治三年(1870)の膳所城取り壊しの際に移築されました。
大棟の背面に初妻造りの両袖の屋根を突き出した高麗門で、
正面向って右側に脇門を設けています。
門の規模は普通ですが、各部材の木割りも大きく堂々とした建物です。
屋根は本瓦葺で、大棟の両側にシャチと鬼瓦をあげ、
軒丸瓦には旧膳所城主 本田氏の立ち葵紋が見られます。――後略)とある。
(大津市教育委員会)
以上は表門についてであるが、
若宮八幡神社についての由緒を要約すると、
(向って右側の脇門)
(壬生の乱の三年後白鳳四年(675)に天武天皇が、
宇佐八幡のご神託「近江の湖水のほとり「粟津」に、
我が子仁徳を祀り崇敬すべし」により造営された。
以来、湖水の浜辺800mの間では禁猟となり、
漁夫は恐れて別浦(特別の浦)と呼び、
後に「別保」と呼び現在の地名として残る。
社殿の完成は白鳳八年(679)で、
九州宇佐市の宇佐八幡宮についで古い神社で、
粟津の森八幡宮、次に若宮八幡宮、明治になって若宮八幡神社となる。
神社の社殿は延喜十七年(917)に雷で全焼、その後、寿永三年(1181)
源頼朝と義仲の粟津の合戦で焼失、頼朝再建するも、
応仁の乱(1467)でまた焼失。
その後復興され膳所城主 本多公が境内建物修繕等を行った。)
左の工場に沿って進む。
工場が途切れ信号があるがここは直進する。
(駅を右へ行き、工場角を左へ)
(川沿いの次の交差点をまた左へ行くと東海道)
(川の橋上の旧東海道の案内)
(東海道も工場脇では人通りも無い)
(東海道松並木の名残り)
(東海道松並木の名残り2)
(東海道松並木の名残り3)
(工場が切れ民家となる信号は直進)
すると道路は民家の間を抜けるようになり、
すぐ突き当たって右、また突き当たって左へと、
道路は鉤型になっている。
やがて踏み切りに出る。
(鉤型の道路)
(踏切が見える)
踏切を渡ってすぐ右に「若宮八幡神社」の鳥居と表門がある。
門内を覘くと、拝殿があり、その奥に本殿が塀で囲まれている。
門前にある説明板を見ると、
表門は大津市の指定文化財になっている。
(若宮神社)
(この表門は、膳所城の犬走り門で、
明治三年(1870)の膳所城取り壊しの際に移築されました。
大棟の背面に初妻造りの両袖の屋根を突き出した高麗門で、
正面向って右側に脇門を設けています。
門の規模は普通ですが、各部材の木割りも大きく堂々とした建物です。
屋根は本瓦葺で、大棟の両側にシャチと鬼瓦をあげ、
軒丸瓦には旧膳所城主 本田氏の立ち葵紋が見られます。――後略)とある。
(大津市教育委員会)
以上は表門についてであるが、
若宮八幡神社についての由緒を要約すると、
(向って右側の脇門)
(壬生の乱の三年後白鳳四年(675)に天武天皇が、
宇佐八幡のご神託「近江の湖水のほとり「粟津」に、
我が子仁徳を祀り崇敬すべし」により造営された。
以来、湖水の浜辺800mの間では禁猟となり、
漁夫は恐れて別浦(特別の浦)と呼び、
後に「別保」と呼び現在の地名として残る。
社殿の完成は白鳳八年(679)で、
九州宇佐市の宇佐八幡宮についで古い神社で、
粟津の森八幡宮、次に若宮八幡宮、明治になって若宮八幡神社となる。
神社の社殿は延喜十七年(917)に雷で全焼、その後、寿永三年(1181)
源頼朝と義仲の粟津の合戦で焼失、頼朝再建するも、
応仁の乱(1467)でまた焼失。
その後復興され膳所城主 本多公が境内建物修繕等を行った。)
(若宮神社由緒)
(拝殿と本殿)
(立ち葵紋の瓦)
(脇門と常夜灯)
若宮八幡神社を出て、
少し先の左手にある「旧東海道」の案内地図の看板を見て右折する。
その先は長い直線の道路を歩く。
途中、瓦ヶ浜駅の踏切を渡り、
(拝殿と本殿)
(立ち葵紋の瓦)
(脇門と常夜灯)
若宮八幡神社を出て、
少し先の左手にある「旧東海道」の案内地図の看板を見て右折する。
その先は長い直線の道路を歩く。
途中、瓦ヶ浜駅の踏切を渡り、
左に「篠津神社」を見て、道路は突き当たり。
歯科医院宅にぶつかる。
医院宅の塀沿いに「晴好雨奇亭址」の石碑がある。
(旧東海道の案内を右折)
(長い直線道路)
(瓦ヶ浜駅)
(県社 篠津神社を左に見て)
(突き当たりの歯科医院)
(歯科医院脇の「晴好雨奇亭址」の石碑)
「晴好雨奇亭」とは頼山陽が命名したもので、説明によれば、
(ここには奥村菅次寿景(1788~1840)
歯科医院宅にぶつかる。
医院宅の塀沿いに「晴好雨奇亭址」の石碑がある。
(旧東海道の案内を右折)
(長い直線道路)
(瓦ヶ浜駅)
(県社 篠津神社を左に見て)
(突き当たりの歯科医院)
(歯科医院脇の「晴好雨奇亭址」の石碑)
「晴好雨奇亭」とは頼山陽が命名したもので、説明によれば、
(ここには奥村菅次寿景(1788~1840)
膳所の名金工師は琵琶湖を一望する景勝地のここに居を構え、
金銀銅鉄類をはじめ櫓時計、鉄砲などを製作。
頼山陽、貫名海屋なども度々来遊した。
頼山陽はここを晴好雨奇亭と名づけ額を揮毫している。)とある。
(*)筆者注:貫名海屋(ぬきなかいや)江戸時代後期の儒学者、
頼山陽、貫名海屋なども度々来遊した。
頼山陽はここを晴好雨奇亭と名づけ額を揮毫している。)とある。
(*)筆者注:貫名海屋(ぬきなかいや)江戸時代後期の儒学者、
書家、文人画家。頼山陽などと親交があった学者。
歯科医院を左折すると踏切があり、駅名は京阪電車中ノ庄駅であるが、
ここは渡らない。
手前左に(日本キリスト教会 膳所教会)があるので、これを右折する。
右折向こう側に和菓子や「音羽軒」がある。
右折手前右にも案内地図がある。
(先に見える踏切は渡らない)
(中ノ庄駅に来たら来過ぎ)
(和菓子屋 音羽軒手前を右折)
右折後は長い直線道路で、500mほど行くと広い交叉点に出る。
(飽き飽きするほどの長い直線道路)
歯科医院を左折すると踏切があり、駅名は京阪電車中ノ庄駅であるが、
ここは渡らない。
手前左に(日本キリスト教会 膳所教会)があるので、これを右折する。
右折向こう側に和菓子や「音羽軒」がある。
右折手前右にも案内地図がある。
(先に見える踏切は渡らない)
(中ノ庄駅に来たら来過ぎ)
(和菓子屋 音羽軒手前を右折)
右折後は長い直線道路で、500mほど行くと広い交叉点に出る。
(飽き飽きするほどの長い直線道路)
西国の第十二番札所で正法寺ちゅうお寺が
あるんですよ。
何せ毎月17日だけはバスが出るらしいけど
他の日は石山寺から歩いて往復3時間ぐらいとか。
17日はボケ封じとかで特別の日なんだそうです。
石山寺は何度も行ってるんですがこの正法寺だけは辺鄙な処にあるもんですな。
コメント有難うございます。
西国33札所めぐりは手間隙掛かるでしょうね。
最初に願かけて、願いを達成できるよう札所を巡るのですね。
例えば極楽往生したいとか、酒乱を直したいとか、
三年間生存率30%を宣告されて、それ以上生き永らえたいとか、不可能を可能にするような大それた願いを懸けるのでしょうね。
そんな願いをもって見たいですね。
武士の時代に向けて…とは云え、余りにも非情。
果たした役割をおもうと、末裔の人々のおもいは
せめてお墓がなれれば浮かばれない…
花を添える人も…ありがたいですね。
コメント有難うございます。
平家物語も語りつがれた物語ですからどこからどこまで本当かしらと思いますが、
面白おかしく語りついだのでしょうね。
事実とは違っていても・・・
人生楽しくって丁度良い所でしょう。
何時もお顔出し有難うございます。
花の写真は早朝の露の滴る姿が美しいです。
陽の影も其の時間によりますが風情が違いますね。
其の逆で仏像の写真は影がなく兄は始めのころは苦労したようです。
コメント有難うございます。
光によって、被写体の素顔が変わり、
和やかな雰囲気も硬くなることがあるようですね。