![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/c9/d545bd24b5b9974b6b8a3b9fd71aea38.jpg)
(史跡 蓮華寺の石塔)
(番場宿 2)
「史跡 蓮華寺」の石塔の奥には、高架の高速道路が見え、
その奥に山門らしきものが見える。
山門に近づくと、観光客らしき数人が門の前を通り過ぎて行く。
門の右側が駐車場になっており、タクシーが今のお客様を乗せて出て行った。
山門は「勅使門」と言い一段高い所にある。
勅使門は、勅使が参内されたとき通られる門で、普段は閉じている。
この勅使門の左横に小さな溝があり「血の川」と称される。
これは六波羅探題北条仲時公以下四百三十余名が自刃したとき、
血が川となって流れたものという。
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(蓮華寺の勅使門)
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(「血の川」の案内)
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(血の川)
浄土宗本山 八葉山 蓮華寺によれば、
(元弘三年五月九日(およそ680年前)
足利尊氏と京都の合戦で破れ、
鎌倉に落ち延びる六波羅探題北条仲時公は、
北朝の天子光厳天皇、後伏見・花園の二上皇を奉じて中山道を下り、
番場の宿場に着いたとき、
南朝軍の佐々木京極道譽らの重囲に陥り、
やむなく蓮華寺に玉輩(ぎょくれん=天皇を載せた手車)を移し、
大いに戦いたるも、
再び戦いに敗れついに本堂前庭において、
仲時以下四百三十余名ことごとく自刃した。
時の第三代住職同阿上人は深く同情して、
その姓名と年齢および仮の法名を一巻の過去帳に認め、
さらに供養の墓碑を建立してその冥福を弔う。
その墓は境内にあり、
過去帳は重要文化財として蓮華寺に所蔵されている。)とある。
門の中に入ると、机が通路においてあり、
「見学料300円を箱に入れて印刷物をお取りください」とある。
幸い小銭で300円あったから良いものの、
小銭のない方は如何すれば良いのだろう。
紙幣を出してもお釣りを下さる人は見廻した所誰もいない。
お布施と思って紙幣を箱に入れてしまえばそれまで。
無神論者のボクにはお布施とは思えないが・・・
目の前の立派な本堂に会釈をすると、
本堂にかかっている「蓮華寺」の扁額は、
後水之尾天皇の御宸筆(元録11年)であると、説明にある。
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(蓮華寺の本堂、屋根の菊のご紋が見えるだろうか?)
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(後水之尾天皇筆の蓮花寺の扁額)
自刃した六波羅探題の北条仲時以下430名余の五輪塔は、
本堂を右に廻った山の中腹に在る。
山道は整備されていて、3人並んでも登れる道路である。
ご婦人2名と男性1名の先客があり、
御参りをして山を降りていった。
左手に並んだ五輪塔の数は圧倒的な量で、
どれが仲時公のものか分からない。
お城の石垣のように石垣が組まれ、
その上に三段に渡ってずらりと並んでいる。
感想を述べれば(壮観)の一語に尽きる群墓である。
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(430余名の墓)
(蓮華寺は約1300年の昔 聖徳太子が創建せられ、
法隆寺と称していたが、建治2年(1276)落雷により焼失。
その後弘安7年(1284)の夏、一向上人が諸国行脚の錫を止めて、
念仏を宣布して広く民衆を化導せらる。
時の領主 鎌刃城主の土肥三郎元頼は深く一行上人に帰依して、
堂宇を再興し、「八葉山 蓮華寺」と改称した。
歴代天皇の帰依厚く、花園天皇より勅願寺院として勅許を賜り、
寺紋として菊の紋を下賜される。)と蓮華寺の説明にある。
現在は浄土宗に帰属して浄土宗本山になっている。
境内に斉藤茂吉の歌碑があり、
・松風の 音きくときは 古の(いにしへの)
聖の如く 我は寂しむ
とある。
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(斉藤茂吉の歌碑)
コメント有難うございます。
自分が率いる人達を、あるいは国を、上手に治めるのは容易な事ではないと思われます。
反対の人を抑えるには、消し去るしかないのでは、民主主義に反します。
反対する人をも納得させて平和にことを運べる人が上に立つことの大切さのように思えます。
今も昔もそれは同じと思いますが・・・
このお墓は、自刃した430名の名前を探し出し、
後の住職が建てた供養塔といいます。
あんまりお寺ではそういうこと感じないのですが
おそらく ひどく残酷なシーンの連続だっただろうと想像してしまうからでしょうか?
お墓の写真は撮るんじゃない・・・と娘に叱られて辞めた覚えがあります。
人の上に立つと言うことは 殺戮の過程を経ないとだめなんでしょうかねぇ
今思い出しても 背中がぞぞーっとします。