
(久禮の一里塚跡)

(番場宿の中へ入っていく)
(番場宿)
久礼の一里塚跡から民家が並ぶ街道を歩くが、
街の中で「問屋場跡」の石碑が他の宿場以上に多く、
民家の前にその石碑は建っている。
郵便ポストのある家の軒先には、
「中山道番場宿」の手書き看板がある。

(番場宿問屋跡の一つ目の碑)

(ポストのある家の番場宿の手書き看板)
石塀の前にある二番目の「問屋場跡」の石碑を見て通り過ぎると、
次に「中山道 番場宿」の大きな石碑が右にある。
そこは小公園になっていてベンチも置いてある。
いよいよここから宿場の中に入って行く。
すぐ右に「米原 汽車 汽船道」の石碑がある。
これは「問屋場跡」の石碑が多いのと何か関係がありそうである。

(石塀の前の問屋場)

(石塀の前の問屋場跡の二番目の碑)

(番場宿の大きな石碑)

(米原道の碑)
続いて「脇本陣跡」の碑が二階家前の花壇の石のうえにあり、
続いて三番目の「問屋場跡」の碑が、瀟洒な二階建ての家の前にある。
四番目の「問屋場跡」の碑は、左手の倉庫らしき建物の横にあり、
その向かい側には、「本陣跡」の碑があり、
その後ろには最近建ったらしい近代的な家がある。
五番目の「問屋場跡」の碑の横には、
「明治天皇番場御小休所」の碑もある。
六番目の「問屋場跡」の碑は、
茶道教室を開いていらっしゃる家の前にある。
いずれも建物に昔の面影は殆んど残ってない。

(脇本陣跡の碑)

(三番目の問屋場跡の碑)

(倉庫横の問屋場跡の4番目の碑)

(本陣跡の碑)

(五番目の問屋場跡の碑と「明治天皇番場御小休所」の碑)

(六番目の問屋場跡の碑)
(古代より東山道の宿駅として町を形成してきた番場宿は、
江戸時代に琵琶湖の水運が発達して、米原に湊が開設されると、
中山道から湊へ通じる道が作られ、積荷の往来が盛んになり、
問屋場が六軒も必要になるほどの繁盛振りを示した。)(米原市)
これで番場宿に問屋場跡が多いということが分かり、
{米原 汽車 汽船道}の石碑も、
米原港への道標であったことが分かる。
少し進むと左手に、「南北朝の古戦場 蓮華寺」・
「瞼の母 番場の忠太郎地蔵尊」と墨書された縦長の大看板がある。
近づくと手前左手に「史跡 蓮華寺」の石塔があり、
高速道路をガードでくぐった奥のほうに山門らしきものが見える。
蓮華寺である。

(「南北朝の古戦場 蓮華寺」と「瞼の母」番場の忠太郎の看板)

(史跡 蓮華寺の石塔と奥に見えるか山門)
六番目の「問屋場跡」の碑は、
茶道教室を開いていらっしゃる家の前にある。
いずれも建物に昔の面影は殆んど残ってない。

(脇本陣跡の碑)

(三番目の問屋場跡の碑)

(倉庫横の問屋場跡の4番目の碑)

(本陣跡の碑)

(五番目の問屋場跡の碑と「明治天皇番場御小休所」の碑)

(六番目の問屋場跡の碑)
(古代より東山道の宿駅として町を形成してきた番場宿は、
江戸時代に琵琶湖の水運が発達して、米原に湊が開設されると、
中山道から湊へ通じる道が作られ、積荷の往来が盛んになり、
問屋場が六軒も必要になるほどの繁盛振りを示した。)(米原市)
これで番場宿に問屋場跡が多いということが分かり、
{米原 汽車 汽船道}の石碑も、
米原港への道標であったことが分かる。
少し進むと左手に、「南北朝の古戦場 蓮華寺」・
「瞼の母 番場の忠太郎地蔵尊」と墨書された縦長の大看板がある。
近づくと手前左手に「史跡 蓮華寺」の石塔があり、
高速道路をガードでくぐった奥のほうに山門らしきものが見える。
蓮華寺である。

(「南北朝の古戦場 蓮華寺」と「瞼の母」番場の忠太郎の看板)

(史跡 蓮華寺の石塔と奥に見えるか山門)
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