(倉賀野宿脇本陣)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/3d/c3bb76cf5bbfd0d3e8c08ac64fbefa61.jpg)
(倉賀野宿)
岩鼻代官所を後に、旧中山道をおよそ3キロほど歩くと
倉賀野の追分に出る。
いつも思うのであるが、中山道は「京都発江戸へ下る」発想で
すべての案内標識が出来ている。
旧中山道は右、あるいは左、国道17号線に案内はある。
この倉賀野追分も、京都方向から東京に向かって、
「左 日光道、右 江戸道」の道標、常夜灯、阿弥陀堂が
見事に見えるのである。ここから例弊使街道は始まる。
しかし、東京方面から行くと、阿弥陀堂があり、よくよく見ると
常夜灯があり、その先に道標があり、「追分です」とでも
教えられなければ見過ごしてしまいそうだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/a8/a970ce4f8dea61ef9cb3a2b76be9a6fd.jpg)
(日本橋方向からは阿弥陀堂がまず目に付く)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/24/f05420f801e8007c663236128a809563.jpg)
(次に常夜灯が見える)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/99/424b4162f45046d78b46b06b8f880df1.jpg)
(常夜灯)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/43/e39cd10db8fec670318d0e1ea1784717.jpg)
(京都方向から行くと、追分が良く目に付く)
例弊使街道とは、徳川家康の命日 四月十八日に日光東照宮の
祭礼に、朝廷より派遣される勅使が通る道だ。
慶応三年(1867)の最後の例弊使派遣まで、221年間、
一回の中止も無く継続された。また、常夜灯は県内では王者の
風格を持っており、文化十年(1814)に建てられ、
道標の役割を果たしていた。(高崎市)
勅使は京都から中山道を下ってここ倉賀野まで来て、
例弊使街道を通り日光へ行くのである。 間違ってまっすぐ行き、
本庄宿まで行ってしまわないように、ここに道標・常夜灯・
阿弥陀堂を造った。
さて東京から京都へ向かっているボクは、中山道をさらに進む。
中山道の左側を流れる烏川は下流に行くと利根川になるが、
川に架かる共栄橋を渡る道を左折して、橋の手前で河川敷に降りる。
河川敷は広い緑地公園になっており運動場もある。
橋の下に「倉賀野河岸跡」「倉賀野河岸由来」の碑がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/78/80dc09a9ff396f8f554881af061a054c.jpg)
(倉賀野河岸跡と倉賀野河岸由来の碑)
由来によれば、
当河岸は江戸時代初期より利根川の最上流河岸として上野、信濃、越後の
広大な後背地を控え江戸との中継地として繁栄を極めたり。
三国の諸大名、旗本の蔵米を初め麦、たばこ、織物、木材など
特産物は碓氷三国両峠の嶮を牛馬の背で越え、当河岸より江戸へ、
また帰り舟には、塩、干魚、荒物等の生活必需品や、江戸の文化を
内陸地へ伝えその恩恵に浴さしめぬ・・・とある。
元禄時代の最盛期には、上り下りの船で七万個の荷駄を運び、
舟問屋十軒、舟150艘あまりあった。
しかし、明治に入り高崎線の開通に伴い、その使命に幕を閉じた。
橋の上流がその河岸の名残を留めているように思われるが、
今は石で覆われた岸壁があるだけである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/3d/c3bb76cf5bbfd0d3e8c08ac64fbefa61.jpg)
(倉賀野宿)
岩鼻代官所を後に、旧中山道をおよそ3キロほど歩くと
倉賀野の追分に出る。
いつも思うのであるが、中山道は「京都発江戸へ下る」発想で
すべての案内標識が出来ている。
旧中山道は右、あるいは左、国道17号線に案内はある。
この倉賀野追分も、京都方向から東京に向かって、
「左 日光道、右 江戸道」の道標、常夜灯、阿弥陀堂が
見事に見えるのである。ここから例弊使街道は始まる。
しかし、東京方面から行くと、阿弥陀堂があり、よくよく見ると
常夜灯があり、その先に道標があり、「追分です」とでも
教えられなければ見過ごしてしまいそうだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/a8/a970ce4f8dea61ef9cb3a2b76be9a6fd.jpg)
(日本橋方向からは阿弥陀堂がまず目に付く)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/24/f05420f801e8007c663236128a809563.jpg)
(次に常夜灯が見える)
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(常夜灯)
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(京都方向から行くと、追分が良く目に付く)
例弊使街道とは、徳川家康の命日 四月十八日に日光東照宮の
祭礼に、朝廷より派遣される勅使が通る道だ。
慶応三年(1867)の最後の例弊使派遣まで、221年間、
一回の中止も無く継続された。また、常夜灯は県内では王者の
風格を持っており、文化十年(1814)に建てられ、
道標の役割を果たしていた。(高崎市)
勅使は京都から中山道を下ってここ倉賀野まで来て、
例弊使街道を通り日光へ行くのである。 間違ってまっすぐ行き、
本庄宿まで行ってしまわないように、ここに道標・常夜灯・
阿弥陀堂を造った。
さて東京から京都へ向かっているボクは、中山道をさらに進む。
中山道の左側を流れる烏川は下流に行くと利根川になるが、
川に架かる共栄橋を渡る道を左折して、橋の手前で河川敷に降りる。
河川敷は広い緑地公園になっており運動場もある。
橋の下に「倉賀野河岸跡」「倉賀野河岸由来」の碑がある。
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(倉賀野河岸跡と倉賀野河岸由来の碑)
由来によれば、
当河岸は江戸時代初期より利根川の最上流河岸として上野、信濃、越後の
広大な後背地を控え江戸との中継地として繁栄を極めたり。
三国の諸大名、旗本の蔵米を初め麦、たばこ、織物、木材など
特産物は碓氷三国両峠の嶮を牛馬の背で越え、当河岸より江戸へ、
また帰り舟には、塩、干魚、荒物等の生活必需品や、江戸の文化を
内陸地へ伝えその恩恵に浴さしめぬ・・・とある。
元禄時代の最盛期には、上り下りの船で七万個の荷駄を運び、
舟問屋十軒、舟150艘あまりあった。
しかし、明治に入り高崎線の開通に伴い、その使命に幕を閉じた。
橋の上流がその河岸の名残を留めているように思われるが、
今は石で覆われた岸壁があるだけである。
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