中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

粕壁宿(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 24)

2014年02月14日 11時26分50秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(春日部駅前の像)

(春日部宿2)
春日部駅を降りると、駅前はロータリーになっていて、
素敵な彫像が出迎えてくれる。

ロータリーの先へ進むと最初の信号右角に
「ぶらっとかすかべ」と名づけた観光案内所があり、
ここで街案内、日光道中案内を戴く。

信号を渡るとここにも彫像がある。
春日部市の説明では、
「自然の中で詩想を練り歩く若き詩人の姿」と言う。
(詩人の彫像)


日光街道は、次の信号を左折するのであるが、
直進して信号を渡ると、粕壁宿の案内板が目に付く。
この案内板がある場所が、粕壁宿の問屋場があった跡といわれる。
さらに直進すると、左手にしゃれた公衆便所がある。
白壁に「粕壁宿」とあり、浮世絵でこの先にある古利根川が描かれている。

直ぐ目の前に橋があり、大落古利根川をまたいでいる。
橋の横に光る銀色の鉄柱が伸びており、四つに交差した姿は、
巨大な四手網が川にセットされているように見える。
市の説明によると麦藁帽子をイメージしたアーチで、
光と風をテーマにした橋上公園であることが判った。
(浮世絵のある公衆トイレ)

(粕壁宿の案内板)

(古利根川橋と銀色のアーチ)


しかし、ここは日光街道から外れているので、
元の信号まで戻る。
信号を渡って右折すると(春日部駅からくれば左折すると)、
左手に古びた御堂がひっそり建っている。
山中千手観音堂である。

(山中千手観音堂は、江戸時代の俳諧師増田眠牛に由来します。
当時、眠牛は千手観音を背負ってこの地方を行脚していました。
そして、粕壁宿の米問屋伊勢平の家に止宿するようになり、
伊勢平が好意で建てた観音堂で生活し、
眠牛はこの地で一生を終えました。
眠牛を慕う人びとは、
観音堂に墓標を建て千手観音を祀って信仰しました。)とある。
観音堂の脇に眠牛のお墓がある。
(山中千手観音堂)

(増田民牛のお墓)

(米や伊勢平の浮世絵)

(呉服「なべや」のショウウインドウにあった古い写真)


日光道中を先に進むと、伊勢平があり、呉服の「なべや」がある。
また右手には、宿場町を思わせる土蔵や旧家が目に付く。
次の信号に十字架の案内板があり、
直進 北春日部、左 さいたま、右 幸手を表示している。
この標識を右折すると古利根川にかかる新町橋がある。
橋を渡って最初の信号を左折すると、
八坂香取稲荷合社と隣に真言宗智山派 神林山仲蔵院が見えます。
八坂香取稲荷合社の「合社」は、普通「神社」というのに、
どうしてかと思ったら、八坂神社、香取神社、
稲荷神社を合祀しているので、「合社」と言うらしい。
お寺の神林山仲蔵院は、
古いお寺らしく見上げるような大木が見事であった。
(十字架の案内)

(信号脇の旧家)

(宿場町を思わせる旧家)

(宿場町を思わせる旧家2)

(新町橋)

(橋を渡って最初の信号を左折)

(八坂香取稲荷合社)

(神林山仲蔵院)


少し進むと、右折道路があり、右かどに二体の石塔がある。
一つに、「史跡 小渕の一里塚跡」と書いてある。
もう一つには、庚申塔と刻まれているようだ。
一里塚らしきものは何も残っていない。
(小渕の一里塚跡の碑)

(庚申塔)


さらに進むと道路は二股になっており、
右手は旧家の白壁の塀が続き、
中央には、また二体の石塔が建っている。
左手の旧日光道中に面しているお店には、
春日部市が店舗のシャッターに描いた浮世絵、
「桐箪笥製造」の図が描かれている。
中央の二体の石碑、大きい方の前面には「青面金剛」、
左面には「北 日光道」と読める。
一方、小さい自然石の道しるべは、
宝永六年(1709)銘の春日部市最古のものという。
表面が欠けているが、右へは関宿道、左奥州道であったという。
(二股道路)

(右手の白壁の旧家)

(中央の二体の石碑)

(左手の粕壁宿の桐箪笥製造の浮世絵)

(左日光道と見える石碑)


道標にしたがって、左へ進むと国道四号線に合流する。
ここが日光街道(小渕)の信号である。
(国道四号線)




スタート前に(日光・奥州道中を歩く 1)

2013年12月05日 22時06分54秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(日本橋の信号)


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どういう風が吹いて、その気になったのだろうか?
日光・奥州道中を歩いてみようと思い立った。
2014年1月26日のこと。

以前勤めていた会社で、定年になって17年も経つのに、
お祝いを頂戴した。
ボクは会社に余程貢献したらしいと勝手に思っている。
その喜寿のお祝いを、資金の一部にして、歩こうと言うのだ。
なんか、ずいぶん沢山頂戴したようであるが、
少なくも地方に出れば一泊二日ほどの費用に、
都内なら10日ほどの費用に充当できそうである。

(日本橋)


奥州街道は、金売り吉次も、義経も弁慶も歩いた。
芭蕉も歩いたが、芭蕉が憧れる能因法師も、
西行法師も歩いた。

歌人や俳人が歩いたので、斉藤茂吉も歩いた。
奥州街道に沿って、芭蕉の奥の細道があったために、
その後沢山の人たちが、そのあとを追って歩いた。
芭蕉は岩手県の平泉まで行っている。

こんなことを言っているボク本人も、
芭蕉の奥の細道をたどって歩き、
その原形は奥州街道にあるということが判って、
今、歩こうとしている。
奥州街道は一体何処までなのだろうか。

徳川家康が五街道を制定した時には、
奥州道中は、福島県の白河まで、と言う事になっているが、
高野長英が母を訪ねてお別れに行ったのは、
奥州の水沢(今の奥州市水沢区)であることを考えると、
仙台を越えて、岩手に入り、青森の一戸宿から、
北海道の函館奉行所があった函館までを言うのだろうか。

(五街道制定の起点 日本橋)


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いずれにせよ、先のことはボクにはわからないし、
千キロ以上もある先のことは、
あとでその場所に着いてからゆっくりと考えよう。
その前に生命が終りになってしまうかもしれない。
その時はその時、芭蕉ではないが、

・ 旅に病んで 夢は枯野を 駆けめぐり

くらいの境地で行く事にしようと思う。
何処までいけるだろうか。
(日本橋2)




春日部宿(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 23)

2013年11月30日 11時22分44秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(戸井橋と春日部市を示す案内看板)


(春日部宿)
11月19日快晴、気温16℃の予定。
せんげん台駅を降りて、国道四号線に合流している、
日光街道に進む。

すぐ、新方川に架かる戸井橋に出て、ここを渡ると春日部市で粕壁(*)宿に入る。
(*)江戸時代には粕壁と書いた。
少し歩くと、左手に背の高い松ノ木が二本立っているのが見える。
これが村の鎮守の大枝香取神社で、武里観音で知られる歓喜院に隣接して、
寺鎮守として祀られていた。
明治期の神仏分離政策で、境内が分けられ、
その後近隣の神社を合祀し、付近(旧大枝村)一帯の鎮守となった。
五穀豊穣の神として崇められている。

(二本松のある大枝香取神社)

(隣接する歓喜院の門)

(歓喜院)

大枝香取神社を過ぎると直ぐ、武里駅左の案内看板がある。
左方向に行くと武里駅を越えて岩槻に出るようだ。
「宮内庁埼玉鴨場」へ出る前に、道標付庚申塔があって、
「左じおんじ道」(慈恩寺道)の案内があったが、
岩槻にある慈恩寺に行くには左方向が正しいことが分かる。

(武里駅左、と岩槻左の道路標識)

旧日光街道は、国道四号線に合流して単調な道を何処までも進みます。
やがて左に「一ノ割駅」の案内看板を見て、
なお進むと東武野田線のガードをくぐります。
この野田線は先で春日部駅に通じています。
今日は春日部駅から帰宅予定で出てきましたから、
もうまもなく春日部と思って元気付きましたが、
まだまだ先があるようです。

(一ノ割駅)

(東武野田線のガード)


道路の巾が狭くなり、歩道も狭くなるとすぐ
「日本橋から35km」の案内があり、
先の信号が変則の交差点であることが解かる。
交叉点に近づくと、直進は四号線、左折は旧日光街道、春日部駅方向、
右折は松伏町方向である。

(日本橋から35kmの案内、四号線直進、左春日部駅、右松伏町)


正面に「東陽寺」が見え、右手に「東八幡神社参道」の看板が見える。
東陽寺は松尾芭蕉が奥の細道に旅立ち、最初に宿泊した場所と言われる。
看板目当てに東陽寺に入ると、長い階段の先に本堂があり、

階段横に石碑で
「廿七日の夜、カスカベニ泊マル。江戸ヨリ九里余」と書かれており、
左下に曾良と芭蕉の旅姿が描かれている。
これは芭蕉に同行した河合曾良の旅日記の一部である。
(直進左に東陽寺)

(東陽寺)

(直進右手に東八幡神社参道)

(本堂周辺の様子)

(本堂階段横の石碑)

そこで左手を見ると、山門らしきものが見える。
さては反対側から入ったと見える。
山門のほうに行くと、山門から反対側に通り抜けをお断りしますと書いてある。
ボクは逆に反対側から山門へと通り抜けてきた。
出てきた道路が春日部駅に向う道路で、
春日部駅東口行きのバスが通っていった。
(東陽寺山門と六地蔵)

どの当りで左折するかバスの行方を眺めていると、
バスはかなり先の信号で左折している、
疲れた足を引きずって歩き、左折するも駅はさらに奥にあって、
先ずロータリーをぐるりと回って駅入り口に向った。
4:30PMと言うのにあたりは、駅も電気の灯りの方が明るい。
4:38発の急行で家路に着いた。
(春日部駅)



越ヶ谷宿2(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 22)

2013年11月26日 11時01分32秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(新越谷駅)


(新越谷から春日部宿へ)
新越谷駅は、武蔵野線南越谷駅が出来てから、
これと連絡できるように出来た新駅のように思える。

駅を出て、日光街道へ向う。
街道に出ると、左に武蔵野線のガードがあり、潜って進む。
しばらくは、何の変哲も無い町の中を進んでいくと、
道路はY字路になり、左へ行くと道路が細くなる。
旧街道はこの細い方へ進むのであるが、この手前に歩道橋があり、
その右に照蓮院駐車場の看板が見える。

(武蔵野線のガード)

(道路はY字路となり、左が旧日光街道)

(照蓮院の看板)

(山門)

駐車場の先を右折すると山門があり、
門前に「真言宗 照蓮院」の石柱が建っている。
この寺院は、信玄の子 武田勝頼の遺児
 千徳丸の供養塔があることで知られる。

門を入り本堂に向うと、千徳丸供養塔の案内がある。
(瓦曽根(地名)秋山家の祖は、甲斐の国武田氏の家臣秋山信勝であり、
その子長慶は、天正十年(1582)三月、武田氏滅亡の際、
勝頼の遺児千徳丸を伴って、この地瓦曽根村に潜居した。
千徳丸は早世したが、それを悲しんだ長慶は照蓮院の住職となって、
その菩提を弔ったと伝える。
寛永十四年(1637)秋山家墓所に「御湯殿山千徳丸」と
刻まれた五輪供養塔が建立された。――後略)(越谷市教育委員会)
なお、照蓮院のご本尊は越谷市の文化財「木造地蔵菩薩立像」であるという。

(照蓮院の本堂)

(本堂左手の秋山家墓所)

(湯殿山千徳丸の五輪の塔真ん中の小さい墓石)


照連院を出て、Y字路を左へ進む。
ここからが越谷宿で古い建物を見ることができる。
元名主であったのか、黒塀に冠木門の大きな家、
蔵が横にある宿場の風情を残す家(塗師屋)、
その隣の鍛冶忠(以前は鍛冶屋だったのか)、
蓮子格子の家、などなど。

(黒板塀に冠木門の家)

(塗師屋の建物)

(元鍛冶屋?の鍛冶忠)
(蓮子格子の家)


その先で元荒川に架かる大橋にでて、越谷宿はここで終わる。
下流を見るともう一つの橋があり、これは49号線に架かっている。
この橋、元荒川橋の右横に道路があり、
その奥に越谷御殿跡の碑があるというので、
寄り道であるが進む。

徳川家康が日光街道を制定し、越ヶ谷宿に御茶屋御殿を造り、
鷹狩の拠点としていたが、明暦三年(1657)の江戸の大火で、
江戸城も被災したため、このお屋敷を江戸に運び、江戸城を再建した。
その後も家康・秀忠の別荘があったところとして、
「御殿」として今に至っている、と言う。

(元荒川の大橋)

(川下の49号線上に架かる元荒川橋)

(元荒川橋の橋脚)

(元荒川橋の右横の道路へ入る)

(越ヶ谷御殿跡の碑)

(越ヶ谷御殿跡の碑、左横に板碑の案内がある)

(左横に板碑の案内)

この御殿跡の碑の先50mの所に、建長元年の板碑があるというので、
寄り道ついでに、見て回ることにする。
板碑そのものは、建長年間によく造られたもののようで、
我が家の近くの龍福寺にもある。
秩父産の緑泥片岩で出来ている塔婆と言われている。
表面には梵字で阿弥陀三尊が刻まれているのが多いのですが、
ここの板碑はどうも線で描かれた阿弥陀像のようである。

(板碑のある場所)

(板碑にある線描画が仏を表している様)


元に戻って元荒川の「大橋」を渡り、街道を進むと、
左の奥に東武線元越谷駅が見える。
さらに進むと、東武線の高架と平行するが道なりに進むと、
道路は高架下へと左折する。

左折した道路は元荒川の土手にぶつかり、
右へ曲がっていく先に三体の石造物がある。
近寄ると、一番奥の碑の正面に青面金剛と刻まれ、
文字の下に三猿が刻まれている庚申塔である。
左横には難しい文字で「左 じおんじ道 乃じま道」と彫られていて、
道標にもなっている。
埼玉県には有名な慈恩寺(*)がさいたま市岩槻区にあるが、
ここまでの道しるべであろうか。

(大橋を渡る)

(東武線元越谷駅)

(東武線高架と並行する)

(高架を左折する)

(左折して出たところ元荒川の土手が見える)

(土手にある三体の石造物)

(青面金剛の文字と下部に三猿が刻まれている)

(道標左じおんじ道の文字)

(*)埼玉の慈恩寺は、天台宗の寺院。山号は華林山。院号は最上院。
本尊は千住観世音菩薩であり、この寺は坂東三十三箇所の第12番札所である。
戦争中、日本軍が南京で発見した、孫悟空が出てくる西遊記で有名な、
玄奘三蔵法師の頭骨を持ち帰り、
この寺に納められていると言う。

先に進むと、左手に「宮内庁埼玉鴨場」の入り口が見える。
冠木門で宮内庁が管理しているらしく、門は閉ざされている。
鴨の狩猟期間は11月~2月と言うが、
天皇のお客様接待の場として使用されるというが、
今までに使用されたと、ニュースでも聞いたことが無い。
この鴨場、埼玉鴨場というから、他にも鴨場はあるかと、
調べた所、千葉県市川市にもあるという。
(宮内庁埼玉鴨場入り口)

(閉鎖されている埼玉鴨場の冠木門)


街道を進むと東武線の踏み切りに出て、これを越えてしばらくすると、
国道四号線と交差する。四号線はこの先で左折するから、
今歩いて居る旧街道と平行して進み、この先で合流する。

合流して直ぐ東武伊勢崎線「せんげん台」駅左への案内看板が見える。
時間も16時を回ったところでもあり、
早くも日が落ちて、まもなく暗くなりそうで、
「せんげん台駅」から帰宅することにした。

(東武線の踏み切り)

(国道四号線と交差する)

(四号線は直ぐ左折する)

(せんげん台駅入り口)

(東武線せんげん台駅)




越谷宿(旧日光・奥州道中を歩く 21)

2013年11月15日 10時41分09秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(草加松原の松並木)


(草加松原から越谷宿へ)
11月5日気温22℃快晴。東武伊勢崎線松原団地下車 PM14時。
旧日光街道にある千本松原に向う。

右に綾瀬川が流れる松並木の街道に出る。
日光街道は杉並木で有名であるが、
ここは松並木で松尾芭蕉も河合曾良も通った並木だ。

松並木の街道に入ると、芭蕉文学碑が目に付く、
「ことし 元禄ふたとせにや 奥羽長途の行脚 
只かりそめに思いたちて・・・・」で始まる。
天気が良いせいか普段の日なのに結構な人が歩いて居る。

(芭蕉の文学碑)


綾瀬川に架かる橋に立つと、奥のほうに高速道路の高架が見える。
あれが友人に聞いた外郭環状道路と確認する。
松並木の松は、一本として同じ形のものは無く、
あるものはそびえ立ち、またあるものは腹這う、
時には二重三重に重なり合うものあり、
東北大震災で残った一本松のようなものもある。

(重なる松並木と先に見える外郭環状線の高架)

(腹ばう木もあり)

(東北大震災で残った一本松に似たものもある)


地面に松原1000mと表示があり、
ここまで千メートル松並木が続いていることを示している。
その表示が1500mに変った所に、
草加松原がそろそろ終わると、丸い輪の彫像が置かれている。
道路は狭まり、松並木が切れる頃、
左手に「今様 草加宿」の標柱があり、草加宿もここまでを教えている。

左手を走る旧日光街道の車は、外郭環状道路に入るべく信号待ちをしている。
歩行者は外郭環状道路を地下へ潜り抜ければ良い。

(松原の終点、丸い輪の彫像)

(今様 草加宿の碑)
(日光街道の自動車道)

(外郭環状道路を地下へ)


潜り抜けた外郭環状線の基礎部分の壁面に、
奥の細道を想像して描いたタイル絵がある。
説明に、
(草加と「おくのほそ道」
俳聖・松尾芭蕉は紀行文「おくのほそ道」の中で、
元禄二年三月二十七日、江戸深川を出立し、
「その日ようやう草加といふ宿に着きにけり」と記しています。
これを想像して描いたものです。)とある。

(おくのほそ道のタイル絵)

(おくのほそ道のタイル絵2)

(おくのほそ道のタイル絵3と地下通路)


道路は細くなり、綾瀬川に沿って桜が植えられ、
右「松原遊歩道」左「槐戸橋(さいかちどばし)」の標柱が、風雨にさらされ、
半ば消えかかったようにして建っている。

道路は次の橋で交差しているが、車が多くて道路横断が容易ではない。
(さいかちどはし)の橋を横断すると、名前に似合わない、
かわいい鳥の飾りが川沿いに、橋脚にはカブトムシかカナブンが飾られている。

この橋の先にもうひとつの橋が見える。
その橋の右側には木がこんもり盛り上がって見えるが、
おそらくあれが「蒲生の一里塚」に違いない。

(綾瀬川と桜並木)

(槐戸橋の標柱)
(さいかちどばしの橋脚)

(川に沿ってある小鳥の飾り)

(橋のカナブン)

(先に見える橋と一里塚跡)


川沿いに歩いて行くと左手に愛宕神社の鳥居があり、祠もある。
町の鎮守であろうか。
次の橋に出ると、「がもうおおはし」とあり、橋脚に灯籠が据えられ、
壁面には、「舟遊び 綾瀬の月を 領しけり  高浜虚子」
の俳句が刻まれている。
橋の反対側には、「そうかふるさと歩道と川に培ったふるさとのまち」とあり、
川に沿って「あやせ川コース 5・5km」の町の案内地図が描かれている。

(愛宕神社)

(がもうおおはし)

(灯籠と高浜虚子の句碑)

(そうかふるさと歩道の地図)


橋を渡ると予想通り「蒲生の一里塚」が右側にある。
若い男女が木陰のベンチで語らっている。
橋を渡る前は草加市で、渡り終えると越谷市、
何か駄洒落の中を歩いて居るようだ。

「草加、越谷、千住の先」これを受けて「幸手 栗橋 まだ先よ」

(蒲生一里塚)


埼玉県と越谷市の両教育委員会の説明を要約すると、
(「五街道分間延絵図」には、綾瀬川と出羽掘が合流する地点に、
日光街道を挟んで二つの小山が描かれ、愛宕社と石地蔵の文字が記されていて、
「蒲生の一里塚」が街道の東西に一基づつ設けられていたことが分かる。
なお、日光街道上にある塚は、
埼玉県にはこの「蒲生の一里塚」のみで貴重なものである。
塚の上には、ムクエノキの古木のほか松・イチョウが生い繁っている。)とある。
中山道の志村の一里塚は、板橋区志村にあるから、
ここは越谷市蒲生であることが解かる。

(一里塚のエノキなど)



旧日光道中は、この一里塚のまん前の道路に入っていく。
橋を渡ってきたら川沿いに左折する感じだ。
途を進むと、歩道に当たる部分は、元小川があった上を歩くことになる。
街は静かで、穏やかな温もりがあるような感じである。
途中、左側に医院があり、右側に郵便局あって、生活道路の中を歩いていくと、
やがて右に黒い冠木門が見える。

(街道は真ん中の道)

(医院の看板がある暗渠の上を行く)

(郵便局が右手に)

(黒い冠木門)


これが清蔵院である。
その奥に山門が見える。これは越谷市の文化財に指定されていると言う。
山門の建立者は、日光東照宮造営に狩り出された工匠の一人で、
日光造営中にお世話になった因縁から、
東照宮造営の寛永13年(1636)の二年後、国許から再び蒲生に来て、
この山門を作ったという。
今や400年の時を刻む。

(清蔵院の山門)


山門をくぐり本堂に進むと左手に不動堂とその先に池があり、
にこやかなお地蔵様、観世音菩薩、弘法太子像があり、
右手には鐘楼が夕日を浴びている。

(清蔵院の本堂と鐘楼)

(鐘楼の鐘)

(左手の不動堂)

(不動堂先の池の前の地蔵尊、観世音、弘法太子像)

(県道49号線に合流)

(新越谷駅)


清蔵院を出ると旧日光街道に合流し、新越谷駅から帰宅する。
本日、2万歩=約12kmであった。
(越谷市のマンホール)


先日、松尾芭蕉が「おくのほそ道」をこんな姿で歩いたのではと、
想像させる人物に出会った。
東京では珍しい托鉢僧である。

(托鉢僧)





白旗塚史跡公園(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 20)

2013年10月06日 20時09分15秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(竹ノ塚駅西口)


(草加宿)
炎天寺をあとに、竹ノ塚駅に向う。
駅の反対側にまわり、線路沿いに北に向う。
線路沿いと書いたが、正確には線路に沿って道路があるわけでないから、
線路が見える程度で、つかず離れず北へ向うと、
右側に白旗塚古墳公園が見える。
夏の日差しを避けて、木陰で休んで居眠りの方もいらっしゃる。
お手洗いもあり、木陰で一休みも楽しそうだ。

(白旗塚史跡公園)

東京都教育委員会の説明では、
(白旗塚古墳は直径12m、高さ2,5mの円墳ですが、
未調査のため主体部の構造や古墳の年代はわかっていない。)と、
何も解からないが、古墳であることは確かだという、
平成23年3月の新しい説明板が建っている。
(古墳 白旗塚)

(白旗塚古墳)

公園の中央に、お濠に遮られた円形の古墳があり、
中央にお稲荷さんか、源氏の義家と頼義か、何か祀られている。
(あとで知ったことだがもともと祠があったらしい、
発掘未調査のため、詳しくは不明)
その向こうに古墳らしく、船、家、兵士、
とぼけた馬など、埴輪が置かれている。
また自然石に化粧盤を埋め込み、
新編武蔵風土記稿の一部抜粋を載せているので、紹介したい。

(古墳を思わせる埴輪1)

(古墳を思わせる埴輪2)


(「足立編抜粋」白旗塚は
伊興村東の方にあり。この塚あるをもって、
白旗耕地と字(あざな)せり。塚の除地22歩。
百姓持なり。上代八幡太郎義家 奥州征伐の時、
此所に旗をなびかし、軍勝利ありとて、此名を伝へし由。
元来社地にして祠もありしなれど、此塚に近寄るは咎ありとて、
村民畏れて近づかざるによりて、祠は廃絶に及べリ。
また塚の上に古松ありしが、後年立ち枯れて大風に吹き倒され、
根元より兵器共数多出たり。
時に村民来り見て、件の兵器の中より、
未だ鐡性を失わざる太刀を持ち帰りて、
家に蔵せしが、彼の祟りにやありけん。家挙りて大病をなやめり。
恐れて元の如く地下に埋め、しるしの松を植え継ぎし由。
今 塚上の両株是なりと云う。
今 土人この松を二本松と号す。太さ一囲い半許。)
とある。

(新編武蔵風土記稿の石碑)

白旗塚公園を出て、東武線のガードをくぐり、
旧日光街道へ向う。
信号をいくつか越えて左手に動物病院が見えたら、
その信号を左折すると、旧日光街道である。
道なりに進むと、左手に竹ノ塚小学校が見え、
その先で右にカーブする所にある案内標識どおりに進むと、
国道四号線との交叉点にでるが、ここを突き切ってその先で左折。
まもなく「けなが川」にさしかかる。
これが東京都と埼玉県の境で、ここから草加市になる。
橋を渡った先に埼玉県の案内表示板が出ている。
この当りから商店が活発であるように見える。
レストランがあり酒の安売り店があり、車も多くなりにぎやかだ。
草加に近づいたことが解かるせんべい屋さんの看板があちこちに見える。

(旧日光街道、左の動物病院が見える)

(標識どうり直進)

(標識どうり直進)

(道路を直進)

(4号線直進の案内)

(国道4号線交差点を直進)

(けなが川)

(川が境で向こうは埼玉県)

やがて右手に富士浅間神社が見えてくる。
ここが谷塚駅(やつかえき)入り口でさらに進むと、
Y字路になり真ん中に、
「今様 草加宿」の赤い石碑が見える。
ここを左折すると直ぐ信号角に地蔵堂が見え、草加市役所がある。
少し先に進むと、左手に草加駅のロータリーが見えてくる。
(富士浅間神社)

(Y字路を左へ)

(Y字路の真ん中に立っている案内標識)

(見えてきた地蔵堂?)

(地蔵堂の後ろが草加市役所)

(草加駅の案内)

(にぎやかな草加駅)


草加宿は、この後草加松原までを、「芭蕉の道を歩く」につながりますので、
下記を参照願います。
(草加~草加の千本松原「芭蕉の道を歩く 9~12」)
URL:(http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2009/05/post_994e.html)





やせ蛙の小林一茶と炎天寺(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 19)

2013年09月29日 14時49分19秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(島根二丁目のバス停)
(草加宿へ)
国土安穏寺を出て旧日光街道を行く。
バス停(島根二丁目)があり、
先を見ると「島根 鷲神社」左矢印の大きな看板が目に付く。
もっと先の信号は良く見ると島根鷲神社前と書いてある。
看板を見て左折しようとしたら、左折道路入り口の右側に
大きく「鷲神社参道」の石柱が立っている。

(島根鷲神社左の看板)

(鷲神社参道の石柱)

(石の玉垣に囲まれた鷲神社と鳥居)

左折道路を行くと石の玉垣に囲まれた立派な神社が右手にあった。
入り口には石の鳥居が置かれている。
明神型石造りの鳥居には、享和二年(1802)の銘があるという。
(足立区教育委員会)
また足立区の案内板によれば、
(鷲神社の南に古代の海岸線と言われる所があり、
島の根のような微高地は一度も洪水に遭わず、
周囲が田畑の時代は、水面に森が映り、浮島明神の森と言われました。
神宿るこの木々は、祖先から子孫へ大切に受け継がれた宝です。)とある。
これで地名の「島根」が生まれた事がわかる。
(神社本殿と後ろの森)


旧日光街道に戻って進むと(六月二丁目)の信号に出る。
六月とは面白い町名と思いながらさらに進んで、
竹ノ塚三丁目の信号に出たら鋭角に左折し進むと、
広い通りの交叉点に出るが、
直進するとY字路に出るので右方向に行き、
最初の露地を左折すると、
梅島の交番のお巡りさんが教えてくれた俳句寺、
正式名称 炎天寺が小公園の向こう側に見える。
炎天寺の右となりに八幡神社の登り旗も見える。
(炎天寺)

(八幡神社)

なるほどお巡りさんが教えたように、門前に俳句碑が建っている。

・日洩れては急ぐ落葉や炎天寺
誰の句かボクには作者名が読めないが立派な句碑である。

(句碑)
門をくぐると。右手に小さな池があり、
池の中央には蓮の葉を模した島の上に、
太った蛙と痩せ蛙が相撲をとっている彫像がある。
すぐ上にある句碑が、日本人なら誰もが知っている俳句、

・やせ蛙 まけるな一茶 是にあり  一茶
が刻まれている。

(小さな池)

(やせ蛙とデブ蛙の相撲の図)
(やせ蛙の句碑)


この右側の池のほとりに、

・蝉鳴くや 六月村の 炎天寺  一茶
の句碑が、その右横に庚申塔や灯籠もある。
参道に沿って、小林一茶の銅像があり、
奥に本堂が見える。

(蝉鳴くやの句碑と庚申塔)

(小林一茶像)

(本堂)
(本堂全景)

本堂の前には、やせ蛙ではなく、
でっぷり太った蛙が背中に子蛙を乗せて、
聖徳太子像の横に鎮座している。
その脇に炎天寺の歴史として案内板があるので紹介しておきたい。
(当山は平安期の末に創建されたもので、
天喜四年(1058)炎天続きの旧暦六月、
奥州の安倍一族の反乱を鎮圧に赴く
源頼義・八幡太郎義家父子の率いる軍勢が野武士と激しく戦い、
極めて苦戦となったが、京の石清水の八幡宮に祈念し、
ようやく勝利を得ることが出来た。
そこで寺の隣に八幡宮を建立、地名を六月村と改め、
寺の名を、源氏の白旗(幡)が勝ったので幡勝山、
戦勝祈念が成就したので成就院、
気候が炎天続きであったので炎天寺と改められた、
と伝えられる源氏ゆかりの寺で、
江戸後期の俳人 小林一茶がいくつかの名句を残している。
・ やせ蛙  負けるな 一茶是にあり(文化13年四月)
・ 蝉鳴くや 六月村の 炎天寺      (同年九月))
とある。

(やせ蛙でなくでっぷり太った蛙)
(子蛙も背中に)

(隣の八幡宮の鳥居と社殿)


地名やお寺の名前の由来は、あまりにも とって付けたようで、
信じがたいが、一茶も俳句を詠んでいることだし、
お隣に八幡宮もあることだし、信じることにしよう。
炎天寺を出て、気になる隣の八幡神宮をのぞくと、
立派な社殿が、三つの鳥居の向こうに鎮座している。
神社の入り口には、松の枝が見事に伸びている。
いわゆる「見越しの松」である。

門に枝を伸ばしている松は、大昔に流行った演歌の「お富さん」に、
♪粋な黒塀 見越しの松に・・・・♪とあるように、
「見越しの松」といって、松が入口にある家は、
かなりな旧家か、お大尽の家だと母に教わったことがある。

見越しの松)


そんな松が、八幡宮の入口にある。
神社の中へ足を踏み入れると、松の由来について説明がある、
要約すると、
(奥州征伐のみぎり、この地で賊と戦う。
時に陰暦六月(今の八月)炎天下で悪戦苦闘する。
源義家 神の助けを祈り、旗のぼりを建て、士気を鼓舞し軍を整え、
勇戦して賊を壊滅した。よって旗を立てたところに壇を設け、
応仁天皇を祀り凱歌を唱えた。
その旗のぼりを立てた場所がこの松という。
以後この松を「旗掛けの松」と伝承され、
時は変れど代々村人に受け継がれてきた)という。
これで町名の「六月」の由来が解けた。

(旗掛けの松=見越しの松)



千住新橋から国土安穏寺へ(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 18)

2013年09月27日 10時36分47秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(千住新橋南口)

(千住新橋の歩道)

(千住新橋の北詰、交通案内板)

(草加宿へ)
千住新橋を渡り終えると、「直進 草加 春日部」「斜め左西新井 西加平」の
案内看板がある。国道4号線で行けば直進して草加へ行くが、
旧街道をたどるには、橋の北詰めを左折して土手の上を行くことになる。
右側に高速道路が走っているが、その道路の高架が土手と水平になるあたり、
河川敷から上がってくる左側の階段が土手の上にやってきて、
そのまま土手を横切って右へ降りていく、
そんな場所に下りの階段がある。
(千住新橋の北詰を左折した所を土手の上から)

(荒川土手を行く)

(右手の高速道路と土手が平行になるところ)

(土手の左の階段)

(右手の階段を降りて旧日光街道へ)

階段をおりきると、信号のある交叉点になっていて、
道路向こう角に、お寺―善立寺がある。
振り返ると、今降りてきた土手の階段がよく解かる。
(階段下の交差点、右手に見えるお寺)

(お寺は善立寺という)

(振り返って見える階段)

先に進むと、信号があり道路は旧日光街道らしく、穏やかで静かな感じがする。
しばらくすると、左手に阿弥陀堂のような建物があるのに気づく。
お堂の横には赤い帽子を戴いた地蔵尊が白い衣を着込んでこちらを向いている。
お堂は、東を向いて建っており、石不動尊とあり、
右手にお地蔵さん、左側に石柱がある。
石柱には、「八彦尊道 是より二丁」とある。

(穏やかな旧日光街道)

(「八彦尊道 是より二丁」の石柱)

「八彦尊道」って何だろうと疑問に思いながら先に進む。
交差点があり、逆Y字路になっていて、「Y」の間に標柱が建っている。
今来た道が旧日光街道を指している。
向こう側の道路はというと「左東武鉄道旧線路跡」とある。
旧日光街道を直進すると、東武「梅島駅」のガードを潜り抜けるが、
東武鉄道の線路が以前ここを通っていた跡らしい。
(旧日光道中の石柱)

(反対側に「左東武鉄道旧線路跡」とある)

(東武梅島駅ガード)

右角に交番があり、年配のお巡りさんが居たので、
先ほどの「八彦尊道」についてお訊ねしたが、
場所を聞いたと勘違いされて、
地図を持ち出して先ほどのお堂の場所を教えてくださった。
そうではなくて「八彦尊道 是より二丁」の
「八彦尊道」はどの道を指すのかを知りたいと聞くと、
「多分、お堂を左へ行く道と思います。」の回答であった。
お礼を言って、しばらく世間話をしたら、
手帳のようなものを持ち出して、
「この先国土安穏寺があり、三代将軍徳川家光が鷹狩や日光参詣の折、
立ち寄ったお寺であり、御成門やお手植の松などがあるし、
その先に俳句寺と地元の人が呼んでいるお寺もありますよ。」と教えてくれた。
お礼を言って、旧街道を進む。

梅島駅を過ぎて1kmほど歩くと、
歩道の左側に石碑があり、左折する道路がある。
左折する道路の入り口両側に石碑があり、
左側には、「国土安穏寺」の文字が見える。
右側の石碑は「南無妙法蓮華経」とある。
その手前に足立区教育委員会が建てた黒い標柱に、
「将軍家 御成橋 御成り道松並木跡」と書いてある。

(左折する道路の両側にある石柱)

(左の石柱に国土安穏寺と刻まれている)

(右手の石柱「南無妙法蓮華経」と「将軍家 御成橋 御成り道松並木跡」の標柱)

標柱のお隣りで、年配のご主人が庭木の手入れをなさっていたので、
「この当りに松並木があったのでしょうか?」とお訊ねすると、
「良く知りませんが、私のお婆ちゃんの時代には、
近辺は一面の田んぼで、田に水を引く川がこの道路にあったのだそうです。
その道路脇に松並木があったのではないかと・・・」という話。
旧日光街道沿いに小川が、今は地下を流れているようで、
松並木があったのかもしれない。

左折して「国土安穏寺」へ向う。
かなり歩いてもお寺が見えないので、
丁度庭先の枯葉を掃除している年配のご婦人に聞くと、
「国土安穏寺は、もっとさきでしょうか?」
「安穏寺さんは、この先の石の垣根のあるところです」と答えられた。
お礼を言いながら、オヤッと驚いた。
最近聞きなれない言葉「安穏寺さん」と「さん」付けされたことにである。

少し東京を離れると、お寺は偉大な場所であるに違いない。
町で名士は、町長さん、お寺さん、学校の先生、駐在のお巡りさんなどが、
お祭りや、運動会の役員席に今でも収まる。
尊敬の意味を込めて「さん」付けで呼ばれるのであろう。

国土安穏寺は直ぐ先の右手にあった。
手前に通用門があり、その先に立派な仁王門が見える。
門扉には徳川家の葵の紋がついていて、扁額には「天下長久山」とある。
お寺の正式名称は「天下長久山国土安穏寺」という。
日蓮宗の寺院である。
足立区観光交流協会によると、
(応永17年(1410年)に日蓮ゆかりの日通聖人が開いたと伝える古刹です。
開基は室町時代後半に、
足立の領主の一人であった千葉氏一族の千葉満胤と伝えられています。
葵の寺紋を許され、朱印を賜るなど、
徳川将軍家から厚く信任されていた寺で、
旧日光街道に近く、歴代将軍が位牌所や御膳所として立ち寄りました。)とある。

(安穏寺の通用門)

(安穏寺の仁王門)

(葵のご紋)

(仁王門裏の大わらじ)

通用門から入り、仁王門の裏側へ出ると大きな草鞋がかかっており、
朱塗りの門には葵の紋が入っている。
通用門の正面は方丈で、柳の木が枝をたれている。
その柳の木の根元には、今時珍しい二宮金次郎像があり、
例の薪を背負って本を読む姿で、
戦前の小学校には必ず勤勉な金次郎の銅像が在ったものだ。
中学に入って国語の時間に読んだ、
二宮尊徳の訓え「それ実地実行を尊ぶ」の考えを、
今でも忘れていない。
その左横に、「徽軫灯篭(ことじとうろう)」がある。

(*)徽軫灯篭=形が楽器の琴の糸を支え、音を調整する琴柱(ことじ)に似ているため、その名が付いたと言われています。)

これを見ると金沢の兼六園の灯籠が有名で、思い出す。

(方丈とその前にある柳の木)

(柳の根方の二宮金次郎像)

(「徽軫灯篭(ことじとうろう)」)

さらに進むと、右手に本堂があり、
本堂手前に家光お手植えの立派な手入れの行き届いた松がある。
その左側に鐘楼があり、観音さま、旧本堂の巨大な鬼瓦が置かれている。
さらに進むと、墓地に進入するが、
目に付くのは掃除小僧と居眠り小僧の石像。
いかにも愛くるしい、それでいて穏やかな表情をしている。
この小僧の像の左に古い建物があり、近づくと祖師堂とある。
この堂の後ろにある朱塗りの門が御成門であったらしい。
面から見ると葵の紋付きの扉があるようであるが、見損なった。
堂の右に高村光雲作の祖師像が置かれている。
(本堂)

(徳川家光お手植えの立派な松)

(鐘楼)

(旧本堂の鬼瓦と観音像)

(掃除小僧)

(居眠り小僧)

(祖師堂)

(高村光雲作の祖師像)




安養院とかんかん地蔵(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 17)

2013年09月26日 13時16分44秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(安養院)


(千住宿3)
千住新橋へ出る手前に安養院がある。
赤い山門はいつも閉まっているが、右手前に安養院の石塔があり、
左手には三体の地蔵尊が立っている。
中央は地蔵さんであるが、
手前の二体は庚申塔で青面金剛(しょうめんこんごう)に、
足元には三猿が彫刻されている。

(門前の三体の地蔵尊)

庚申塔は、60日に一回巡ってくる庚申の日の夜、
人の胎内にいるといわれる三咫(さんし)の虫が、
人が眠ると胎内から抜け出て、
天帝に犯した悪事を告げに行くと言う教え(*)から、
この庚申の日の夜を眠らないで明かす行事が催された記念碑という。

(*)この教えは道教の中にあるといいます。
当初、貴族の中で流行したものが、庶民にまで浸透しました。
貴族は詩歌管弦で徹夜をしたが、庶民にはこのような嗜みが無かったので、
勢い飲み食いを持ち寄ってのドンちゃん騒ぎで徹夜した、と言われます。
お寺では、庚申塔に青面金剛が、神社では猿田彦神が彫刻されているようです。
ここで言う悪事とは、アジやサンマの命を食べたとか、
キュウリやネギの植物の命を奪ったとか、
蚊や蝿を殺したとかもは入っていて、
その悪事が300を越すと天帝が命が奪うという。

安養院の山門をくぐると解かり易いが、門は閉まっているので、
左手の通路から入ると、正面に庫裏がありその手前に芭蕉の句碑がある。

・ゆくはるや 鳥啼きうをの 目に泪  芭蕉翁  
とある。
(芭蕉句碑)

その右手、山門を入ってくれば正面に本堂がある。
また、左手に延びる南門に通ずる道があるので南門に向うと、
右側に三体の地蔵尊が建っている。
(本堂)

(三体の地蔵尊、右手奥に見えるのが山門)

右の二体は、「仲直し地蔵(なかよしじぞう)」と、
可愛らしい名前のついたお地蔵さんで、
製作年代も古く、左が寛文4年(1664)、右側が寛文10年(1670)とあります。
足元にあるのは道祖神で、夫婦がに並んでいるようにみえます。

(なかよし地蔵)

左の一体は「かんかん地蔵」といいます。
名前も奇妙であるが、地蔵本体も頭から胸にかけて、
剥ぎ取られているという奇妙な地蔵です。
石で叩くとかんかんと音がして、叩いた石で地蔵のかけらが落ちると、
それを財布に入れて置くと願い事がかなうそうです。
叩いてみたくなりますが、まだ叩いていません。

安養院を後にして、荒川土手に向います。
旧日光道中の道標に書いてあるように、左に向うと荒川の土手にぶつかる。
芭蕉が歩いた時代には、荒川もこの土手も無かった。
洪水が多い荒川の河川工事で放水路が作られ、今の荒川になっており、
荒川はこのまま河口まで流れて海にそそぐ。
本来の荒川は、隅田川と名を変えて海にそそいでいる。
後で出来た荒川放水路がなかった頃は、
まっすぐ道路が繋がっていただろうと推測される。

(日光街道はこの道を左折)

(右カドに道標「西へ旧日光道中」)

(荒川土手)

街道は土手に沿って進むと国道4号線のガードをくぐって、
出たところにある螺旋階段を登り、土手の上に出る。
見晴らしがきく河川敷では、元気に野球をやる子供の姿が見える。
目の前に立派な千住新橋があり、その橋の歩道を渡り、
対岸の土手の上を左折するのが旧日光街道である。

(国道4号線のガードをくぐる)

(螺旋階段を登って出た荒川土手)

(河川敷の野球)

(千住新橋)

(千住新橋の歩道)

(千住新橋)



千住の森鴎外とほんちょう商店街(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 16)

2013年08月21日 19時50分00秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(ほんちょう通り商店街のアーケードとトポスのスーパー)

(足立都税事務所)

(森鴎外旧居橘井堂跡(もりおうがいきゅうきょきっせいどうあと)


(千住宿2)
千住宿に入ってスーパー(トポス)の先を右折すると、
右側に足立都税事務所があり、事務所の回りに植え込みがあるが、
その植え込みに「森鴎外旧居橘井堂跡(もりおうがいきゅうきょきっせいどうあと)」の碑がある。
同じならびに、「千住の鴎外碑」が建っている。

この碑には鴎外作短編「カズイスチカ」(オランダ語で診療記録を言う)
の一節を刻んでいる。
(翁は病人を見ている間は、全幅の精神を以って病人を見ている。(中略)
花房はそれを見て、父の平生(へいぜい)を考えて見ると、
自分が遠い向うに或物を望んで、
目前の事を好い加減に済ませて行くのに反して、父はつまらない日常の事にも全幅の精神を傾注しているということに気が附いた。宿場の医者たるに安んじている父の レジニアション(resignation=諦観)の態度が、
有道者の面目に近いということが、朧気(おぼろげ)ながら見えて来た。
そしてその時から遽(にわか)に父を尊敬する念を生じた。)とある。
(千住の鴎外碑)

そのほかに、足立区教育委員会による
の説明板があるので、少し長いが近代文学の父について、
書かれており記憶に残しておきたいと思い、紹介しておきたい。

(森鴎外旧居 橘井堂森医院跡
森鴎外の父静男は、元津和野藩亀井家の典医であったが、
、明治維新後上京し明治十一年(1878)南足立郡設置と共に、
東京府から郡医を委嘱されて千住に住んだ。
明治4年郡医を辞し、橘井堂医院をこの地に開業した。
鴎外は19歳で東京大学医学部を卒業後、
陸軍軍医副に任官し、千住の家から人力車で陸軍病院に通った。
こうして明治17年ドイツ留学までの四年間を千住で過ごした。
その後父静男は、明治25年本郷団子坂に居を移した。

千住で始まった文筆活動(明治14年)
千住に居住している頃、明治14年9月17日付「読売新聞」に、
「千住 森 林太郎」の本名で投稿欄に一文を寄せ、
当時の一流文筆人を堂々と批判する文章を発表するなど、
文筆活動を始めていた。
明治23年には「舞姫」を「森鴎外」の名前で発表した。
また、千住仲町に隠棲していた元幕府医学館教授 
佐藤應渠(おうきょ)のもとに通い漢詩の手ほどきを受けていた。
漢詩作品も数多く、発表された作品の中には
「訪應渠先生千住居」「呈應渠先生」「訪應渠先生居偶作」などがある。
これら漢詩は、佐藤應渠をたたえると共に、應渠が医療活動をしていたことや、
詩作に精通していたことを伝える内容ともなっている。
これらの作品は明治24年頃に精力的に発表されているが、
この年、鴎外は29歳、医学博士となっている。

千住から医師開業免許状申請書を出す
明治24年10月23日付で、南足立郡千住1丁目19番地から、
医師開業免許状を申請した。

「千住の鴎外碑」の碑文
鴎外は、明治42年、47歳の時に文学博士となった。
「カズイスチカ」は、鴎外が自省を込めて書いた作品という。
かって千住宿の町医者であった父静男が、
毀誉褒貶(きよほうへん)に無頓着で、
貧富の差無く真摯に患者に接していた姿を思い起こし、
改めてその生き方に感銘し敬愛の念を深めていった
自分自身のことを題材にした作品である。)(足立区教育委員会)とある。

さて、旧日光街道に戻って、少し進むと左に折れる道があり、
のぞくと、突き当たりに赤い門が見える。
(奥に見える赤門寺)

山門に「三宮神山」とあり、
左手には「浄土宗 勝専寺」と書かれた石碑がある。
足立区教育委員会の説明板によれば、
(三宮神山大鷲院勝専寺は、「赤門寺」と通称で親しまれた浄土宗寺院で、
京都知恩院を本山とする。
寺伝では文応元年(1260)勝蓮社 専阿上人を開山、
新井政勝を開基とし草創されたという。
江戸時代に日光道中が整備されると、ここに徳川家の御殿が造営され、
徳川秀忠・家光・家綱らの利用があった。
また日光門主等の本陣御用を務めた記録も見られ、
千住宿の拠点の一つであったことが知られる。
加えて当寺は、千住の歴史や文化に深くかかわる
多くの登録文化財を今に伝えている。
木造千手観音立像は千住の地名起源の一つとされ、
開基新井政勝の父正次が、荒川から引き上げたという伝承を持つ。
――後略)とある。

(三宮神山の扁額がある勝専寺)

(その本堂、千住の地名由来の千手観音立像がある)


この説明の中に、木造閻魔大王があることや、
山門の扁額の「三宮神山」の文字は、
巻菱潭(かんりょうたん=明治の著名書家)の揮毫であり、
足立区の文化財であることも記されている。

旧日光街道を進むと、左手に100円ショップがあるが、
その店先に「千住宿本陣跡」の碑があり、
碑のある左手に狭い道路に本陣と「見番横丁」の説明板がある。
見番とは、芸者が所属し、客席への取次ぎや精算を行う場所で、
芸者などを手配する場所があった横丁であったようです。

どの街道にも日本橋から第一の宿場には、遊女も芸者も沢山いたようで、
江戸を離れる旅人は、第一の宿場に親せき縁者が集まって、
旅の安全を祈って送り出したからで、
送別会を行う場所が第一の宿場だったからです。
(「千住宿本陣跡」の碑)

(見番横丁の説明板)


その先の右側に「北千住宿場町通り 千住 街の駅」がある。
ここは千住の観光センターのような所。
千住の歴史など教えてくださるから一度お立ち寄りください。
千住宿の案内地図などが常備されている。
ここで本陣跡が解からずお訪ねしました。
本陣跡の碑は100円ショップの前で、
ショップを訪ねる自転車がずらりと並んで、
その蔭にかくれていました。
(街の駅 千住宿)

その先同じく右側に、千住ほんちょう公園があり、
この公園の入り口に、高札場があった場所のようです。
この高札場は次の宿場 草加宿側の高札場になります。
ここでは子供たちが大声で遊びに興じていました。
(高札場跡のほんちょう公園)

この先、左手に千住絵馬屋 吉田屋があります。
この絵馬屋 吉田屋は江戸時代より絵馬を作り続けて、
八代目として現在に至っております。
手書きで書く絵馬屋は、現代では殆んど見かけなくなり、
貴重な存在になっています。
その向かい側に千住宿の名残として「横山家住宅」が、
古い建造物として一首独特の風格を残しています。
明治になる前に、敗退する彰義隊が切りつけた玄関の柱の傷あとや、
戦時中、焼夷弾が屋根を貫けた風雪の百数十年を物語る旧家です。
(絵馬の吉田屋)

(絵馬の吉田屋2)

(絵馬の吉田屋3)

(横山家住宅)


千住宿はこの先で終り、次の信号の右角に、
道標があり、「東へ 旧水戸佐倉道」「北へ 旧日光道中」と刻まれています。
さらに直進すると荒川の土手になりますが、
手前の右側に道標があり、
「西へ 日光道中」「北へ 旧下妻道」とあり、
ここを左折すると荒川の土手にぶつかる。
その上を千住新橋で荒川を渡る。
(信号、右角に旧水戸佐倉道の道標)

(東へ 旧水戸佐倉道の道標)

(日光道中は直進する)

(手前左奥に安養院が見える)

(安養院山門)

江戸時代には、ここに川は無く、勿論橋も無かったので、
道路を直進して日光街道に進んだ。

川が曲がりくねって氾濫が多い荒川を直線に直し、
洪水を避ける治水工事をしたのが、明治になってからで、
これを荒川放水路と呼んでいたが、
いつの間にか、北区の岩淵水門から下流の旧荒川を隅田川と呼び、
荒川放水路を荒川と呼ぶようになった。

旧日光街道は荒川をまたぐ千住新橋を進む。

(旧日光道中はここで左折、千住新橋へ)

(「西へ旧日光道中、北へ旧下妻道」の道標)