(東武動物公園駅)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/82/a297f94b53efd926619a76e7e47d21d4.jpg)
(杉戸宿)
旧日光街道の杉戸宿には、取り立てて紹介するようなものはない。
東武日光動物公園駅を下車して、
東口を旧日光街道の(杉戸宿本陣跡)に向って進む。
動物公園駅を降りたところは宮代町であるが、
電柱には「百間」と書いてある。
「百間」とは妙な地名であるが、どんな読み方をするのかと、
商店の方に聞いてみた。
(百間の電柱)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/0e/55a7804e7ef94cd1c980ef1948446f6e.jpg)
「ここの地名は(百間)と書いて何とお読みするのですか」
「(もんま)と読みます」と答が返って来た。
聞き間違いかと、訊きなおすとやはり地名は{もんま}と読むそうだ。
「ももま」が転じて「もんま」になったと勝手に想像して先を急ぐ。
(杉戸宿本陣跡)の信号をさせつする、これが旧日光道中である。
杉戸宿には旧家が点々として残っている。
(杉戸宿本陣跡前の信号)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/81/b9132f6f3ecd3f491089b41a600e6a6c.jpg)
(大きな木のある古い家の門)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/4e/75257da2cd044d8fe8c46a0ab2eccb32.jpg)
(旧街道にふさわしい家1)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/38/04cfdbce6c4496e7379ef935b38804d2.jpg)
(旧街道にふさわしい家2)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/f3/869fc0613a79fd29392bc9ea46d2c1bc.jpg)
(旧街道にふさわしい家3)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/0a/4acb441d65c731433162b99392965f66.jpg)
(旧街道にふさわしい家4)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/26/37e7a6451720f76a53323ea14dfac2ec.jpg)
(久喜方面と幸手方面の道標)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/06/869fb831df5f33de4925a18a60962e99.jpg)
(宝性院の看板)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/ff/f5fd4534954cd5508f605ebb5b7c2fd3.jpg)
しばらくすると街道の途中に宝性院の看板がある。
看板の前に立つと、左手に立派な山門が見える。
真新しい宝性院の石柱が印象的であった。
その石柱の左手に、
「第十五番 奥の細道 関東三十三箇所霊場」の石柱が建っている。
石柱の背後には、
「芭蕉紀行三百年記念建之」と刻んである。
芭蕉の「おくの細道」紀行の300年を記念して建てたものと思われる。
(真新しい宝性院の石柱と山門)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/6f/cb9fe04f69ad481536686bd8fe61d050.jpg)
(第十五番 奥の細道 関東三十三箇所霊場の石柱)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/09/d9856596ba157da75f47d10f898c88e8.jpg)
(石柱の背面)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/0d/6a668bf6c5f74863a50899df02d6b654.jpg)
山門に近づくと、杉戸町教育委員会の説明板が文字もかすれて立っている。
説明では、
(太政官より明治五年(1872)近代的法規である「学制」が出されると、
ここ宝性院にも杉戸宿・清地村・倉林村の児童を教育するために、
杉戸学校が設立された。児童数は男子117人、女子35人、
教員は五人であった。以下省略)とある。
以後紆余曲折があって、現在の小学校になった模様が、
書き記されていたが、
明治の初めには、
この地区の児童全員が学校に行ったようには記されていなかった。
「男子117名に対し女子35名」は、
女子は勉強する必要なしの時代を表している。
男女の差別は戦後まで歴然として続いていた。
亭主である父が白いものを黒と言うと、
妻の母はそれに抵抗する事が出来なかったのを、
ボクは覚えている。
終戦後、男女も職業も人種も、法律により平等である事が示されると、
父、母の立場が逆転したのを鮮烈に記憶している。
また人種の差別も次第に無くなっていった。
話は戻って、
門前には、三体の石柱があり、
一番左に、「庚申塔」の文字が、
中央には、庚申塔の「青面金剛像と足元には三猿」があり、
右側には、笠つきの庚申塔「青面金剛と三猿」が立っており、
旅の安全を願った証拠だ。
(宝性院門前の庚申塔)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/4e/3e205656586cba02048a135660f2849b.jpg)
山門をくぐって右側にある不動堂について
(真言宗智山派の杉戸山 宝性院は、杉戸宿の中央に位置して、
不動堂は弘化三年(1846)に再建されたもの。
由来は、幸手城主 一色宮内大輔義直が、永禄三年(1561)
亡き妻の追福菩提のため一宇を建立し、
「安産不動明王」を安置し、不動寺と号した。
その後、安政四年(1858)春、
成田山・菅谷山の不動明王を祀り、現在三体の不動明王が祀られている。
元和二年(1616)教職大和尚が旅人の安全を願って大伽藍を建立し、
次号を宝性院と改めた。
当時の伽藍は関東大震災で大破したため、弘法太子1100年記念事業として、
昭和九年現在の本堂は再建された。)(杉戸町教育委員会)の説明がある。
(宝性院の不動堂)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/20/fc070017a0bcec251516d86a40b85402.jpg)
(宝性院の本堂)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/32/bc1a94d681a9d58738ed36c2fd8ef3ec.jpg)
その後旧日光街道は旧家らしい家を右手に見たりして、
国道四号線に合流する。
ここには左手に、交通安全のお地蔵様が見え、
国道の安全を願って建っている。
しばらく歩くと右側に、赤い鳥居と神社が見えてくる。
赤いのでお稲荷様かと思ったが、
厳島神社の分社であった。
(国道四号線への合流点)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/b4/36a86b955067b7a88a5742b095c062a3.jpg)
(交通安全のお地蔵様)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/90/8ed1ef4ad89060a6d0b1fa6bd310ebd9.jpg)
(厳島神社の分社)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/25/cf0e0b5ddea8e7305a84b3a23574deb4.jpg)
ややあって(幸手市)の看板があり、ここから幸手市に入る。
(幸手市の看板)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/61/17150dc4b7f08182b812eb0b966b662b.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/82/a297f94b53efd926619a76e7e47d21d4.jpg)
(杉戸宿)
旧日光街道の杉戸宿には、取り立てて紹介するようなものはない。
東武日光動物公園駅を下車して、
東口を旧日光街道の(杉戸宿本陣跡)に向って進む。
動物公園駅を降りたところは宮代町であるが、
電柱には「百間」と書いてある。
「百間」とは妙な地名であるが、どんな読み方をするのかと、
商店の方に聞いてみた。
(百間の電柱)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/0e/55a7804e7ef94cd1c980ef1948446f6e.jpg)
「ここの地名は(百間)と書いて何とお読みするのですか」
「(もんま)と読みます」と答が返って来た。
聞き間違いかと、訊きなおすとやはり地名は{もんま}と読むそうだ。
「ももま」が転じて「もんま」になったと勝手に想像して先を急ぐ。
(杉戸宿本陣跡)の信号をさせつする、これが旧日光道中である。
杉戸宿には旧家が点々として残っている。
(杉戸宿本陣跡前の信号)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/81/b9132f6f3ecd3f491089b41a600e6a6c.jpg)
(大きな木のある古い家の門)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/4e/75257da2cd044d8fe8c46a0ab2eccb32.jpg)
(旧街道にふさわしい家1)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/38/04cfdbce6c4496e7379ef935b38804d2.jpg)
(旧街道にふさわしい家2)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/f3/869fc0613a79fd29392bc9ea46d2c1bc.jpg)
(旧街道にふさわしい家3)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/0a/4acb441d65c731433162b99392965f66.jpg)
(旧街道にふさわしい家4)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/26/37e7a6451720f76a53323ea14dfac2ec.jpg)
(久喜方面と幸手方面の道標)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/06/869fb831df5f33de4925a18a60962e99.jpg)
(宝性院の看板)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/ff/f5fd4534954cd5508f605ebb5b7c2fd3.jpg)
しばらくすると街道の途中に宝性院の看板がある。
看板の前に立つと、左手に立派な山門が見える。
真新しい宝性院の石柱が印象的であった。
その石柱の左手に、
「第十五番 奥の細道 関東三十三箇所霊場」の石柱が建っている。
石柱の背後には、
「芭蕉紀行三百年記念建之」と刻んである。
芭蕉の「おくの細道」紀行の300年を記念して建てたものと思われる。
(真新しい宝性院の石柱と山門)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/6f/cb9fe04f69ad481536686bd8fe61d050.jpg)
(第十五番 奥の細道 関東三十三箇所霊場の石柱)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/09/d9856596ba157da75f47d10f898c88e8.jpg)
(石柱の背面)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/0d/6a668bf6c5f74863a50899df02d6b654.jpg)
山門に近づくと、杉戸町教育委員会の説明板が文字もかすれて立っている。
説明では、
(太政官より明治五年(1872)近代的法規である「学制」が出されると、
ここ宝性院にも杉戸宿・清地村・倉林村の児童を教育するために、
杉戸学校が設立された。児童数は男子117人、女子35人、
教員は五人であった。以下省略)とある。
以後紆余曲折があって、現在の小学校になった模様が、
書き記されていたが、
明治の初めには、
この地区の児童全員が学校に行ったようには記されていなかった。
「男子117名に対し女子35名」は、
女子は勉強する必要なしの時代を表している。
男女の差別は戦後まで歴然として続いていた。
亭主である父が白いものを黒と言うと、
妻の母はそれに抵抗する事が出来なかったのを、
ボクは覚えている。
終戦後、男女も職業も人種も、法律により平等である事が示されると、
父、母の立場が逆転したのを鮮烈に記憶している。
また人種の差別も次第に無くなっていった。
話は戻って、
門前には、三体の石柱があり、
一番左に、「庚申塔」の文字が、
中央には、庚申塔の「青面金剛像と足元には三猿」があり、
右側には、笠つきの庚申塔「青面金剛と三猿」が立っており、
旅の安全を願った証拠だ。
(宝性院門前の庚申塔)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/4e/3e205656586cba02048a135660f2849b.jpg)
山門をくぐって右側にある不動堂について
(真言宗智山派の杉戸山 宝性院は、杉戸宿の中央に位置して、
不動堂は弘化三年(1846)に再建されたもの。
由来は、幸手城主 一色宮内大輔義直が、永禄三年(1561)
亡き妻の追福菩提のため一宇を建立し、
「安産不動明王」を安置し、不動寺と号した。
その後、安政四年(1858)春、
成田山・菅谷山の不動明王を祀り、現在三体の不動明王が祀られている。
元和二年(1616)教職大和尚が旅人の安全を願って大伽藍を建立し、
次号を宝性院と改めた。
当時の伽藍は関東大震災で大破したため、弘法太子1100年記念事業として、
昭和九年現在の本堂は再建された。)(杉戸町教育委員会)の説明がある。
(宝性院の不動堂)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/20/fc070017a0bcec251516d86a40b85402.jpg)
(宝性院の本堂)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/32/bc1a94d681a9d58738ed36c2fd8ef3ec.jpg)
その後旧日光街道は旧家らしい家を右手に見たりして、
国道四号線に合流する。
ここには左手に、交通安全のお地蔵様が見え、
国道の安全を願って建っている。
しばらく歩くと右側に、赤い鳥居と神社が見えてくる。
赤いのでお稲荷様かと思ったが、
厳島神社の分社であった。
(国道四号線への合流点)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/b4/36a86b955067b7a88a5742b095c062a3.jpg)
(交通安全のお地蔵様)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/90/8ed1ef4ad89060a6d0b1fa6bd310ebd9.jpg)
(厳島神社の分社)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/25/cf0e0b5ddea8e7305a84b3a23574deb4.jpg)
ややあって(幸手市)の看板があり、ここから幸手市に入る。
(幸手市の看板)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/61/17150dc4b7f08182b812eb0b966b662b.jpg)
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