中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

杉戸山 宝性院(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 27)

2014年03月15日 17時26分39秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(東武動物公園駅)


(杉戸宿)
旧日光街道の杉戸宿には、取り立てて紹介するようなものはない。
東武日光動物公園駅を下車して、
東口を旧日光街道の(杉戸宿本陣跡)に向って進む。
動物公園駅を降りたところは宮代町であるが、
電柱には「百間」と書いてある。
「百間」とは妙な地名であるが、どんな読み方をするのかと、
商店の方に聞いてみた。
(百間の電柱)


「ここの地名は(百間)と書いて何とお読みするのですか」
「(もんま)と読みます」と答が返って来た。
聞き間違いかと、訊きなおすとやはり地名は{もんま}と読むそうだ。
「ももま」が転じて「もんま」になったと勝手に想像して先を急ぐ。

(杉戸宿本陣跡)の信号をさせつする、これが旧日光道中である。
杉戸宿には旧家が点々として残っている。
(杉戸宿本陣跡前の信号)

(大きな木のある古い家の門)

(旧街道にふさわしい家1)

(旧街道にふさわしい家2)

(旧街道にふさわしい家3)

(旧街道にふさわしい家4)

(久喜方面と幸手方面の道標)

(宝性院の看板)


しばらくすると街道の途中に宝性院の看板がある。
看板の前に立つと、左手に立派な山門が見える。
真新しい宝性院の石柱が印象的であった。
その石柱の左手に、
「第十五番 奥の細道 関東三十三箇所霊場」の石柱が建っている。
石柱の背後には、
「芭蕉紀行三百年記念建之」と刻んである。
芭蕉の「おくの細道」紀行の300年を記念して建てたものと思われる。
(真新しい宝性院の石柱と山門)

(第十五番 奥の細道 関東三十三箇所霊場の石柱)

(石柱の背面)


山門に近づくと、杉戸町教育委員会の説明板が文字もかすれて立っている。
説明では、
(太政官より明治五年(1872)近代的法規である「学制」が出されると、
ここ宝性院にも杉戸宿・清地村・倉林村の児童を教育するために、
杉戸学校が設立された。児童数は男子117人、女子35人、
教員は五人であった。以下省略)とある。

以後紆余曲折があって、現在の小学校になった模様が、
書き記されていたが、
明治の初めには、
この地区の児童全員が学校に行ったようには記されていなかった。
「男子117名に対し女子35名」は、
女子は勉強する必要なしの時代を表している。
男女の差別は戦後まで歴然として続いていた。

亭主である父が白いものを黒と言うと、
妻の母はそれに抵抗する事が出来なかったのを、
ボクは覚えている。
終戦後、男女も職業も人種も、法律により平等である事が示されると、
父、母の立場が逆転したのを鮮烈に記憶している。
また人種の差別も次第に無くなっていった。

話は戻って、
門前には、三体の石柱があり、
一番左に、「庚申塔」の文字が、
中央には、庚申塔の「青面金剛像と足元には三猿」があり、
右側には、笠つきの庚申塔「青面金剛と三猿」が立っており、
旅の安全を願った証拠だ。
(宝性院門前の庚申塔)


山門をくぐって右側にある不動堂について
(真言宗智山派の杉戸山 宝性院は、杉戸宿の中央に位置して、
不動堂は弘化三年(1846)に再建されたもの。
由来は、幸手城主 一色宮内大輔義直が、永禄三年(1561)
亡き妻の追福菩提のため一宇を建立し、
「安産不動明王」を安置し、不動寺と号した。
その後、安政四年(1858)春、
成田山・菅谷山の不動明王を祀り、現在三体の不動明王が祀られている。
元和二年(1616)教職大和尚が旅人の安全を願って大伽藍を建立し、
次号を宝性院と改めた。
当時の伽藍は関東大震災で大破したため、弘法太子1100年記念事業として、
昭和九年現在の本堂は再建された。)(杉戸町教育委員会)の説明がある。
(宝性院の不動堂)

(宝性院の本堂)


その後旧日光街道は旧家らしい家を右手に見たりして、
国道四号線に合流する。
ここには左手に、交通安全のお地蔵様が見え、
国道の安全を願って建っている。
しばらく歩くと右側に、赤い鳥居と神社が見えてくる。
赤いのでお稲荷様かと思ったが、
厳島神社の分社であった。
(国道四号線への合流点)

(交通安全のお地蔵様)

(厳島神社の分社)


ややあって(幸手市)の看板があり、ここから幸手市に入る。
(幸手市の看板)




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