富岡製糸場世界遺産伝道師協会 世界遺産情報

「富岡製糸場と絹産業遺産群」は日本で初めての近代産業遺産として2014年6月25日付でユネスコ世界遺産に登録されました。

富岡製糸場お雇いフランス人医師の足跡略記

2020年12月01日 17時07分51秒 | 世界遺産伝道師協会

富岡製糸場創業当初雇い入れたお雇い外国人医師についての論考をまとめたので本ブログに掲載要請がありましたので以下の論考を掲載します。

富岡製糸場お雇いフランス人医師の足跡略記

                                            今井 規雄

 富岡製糸場開業時フランスから雇用した3人の専属医師について、日本でどんな歩みを辿ったのかまとめられた論考は皆無といえる。そこで本稿では素描という形であるが、その足跡を簡単にまとめてみた。

○エミール・マッセ

1836年~1877年。明治3年来日。大学(だいがく)東校(とうこう)(東京大学医学部の前身)の教師となり、2か月後に退任。その後高知藩立吸(ぎゅう)江(こう)病院医師。明治5年3月から医師として富岡製糸場(松浦水太郎家に居留)に勤務(ブリュナを通して雇われたと思われる)、その後兵庫県生野鉱山で診療に当たったのち横浜の病院に勤務、コレラ患者等の治療に当たる。人望も厚かったという。明治10年10月9日マッセ自身もコレラに感染し死去41歳、横浜山手外人墓地に眠る。

※マッセは明治4年8月ころ富岡に居留していたとされる。

 ※松浦家(富岡のまちづくりに当たって宮崎から移住)は江戸時代富岡上町の名主を務め問屋場に指定されていた。松浦水太郎は富岡製糸場建設に協力。北甘楽精糸会社設立に尽力し、「製糸総轄」担当。伊藤小左衛門製糸場世話係繭方(富岡周辺から生産された繭を集め四日市に送る)を努める。 

○フランソワ・マイエ

ブリュナを通して雇われる。明治6年1月着任~明治7年5月退職。富岡製糸場勤務の前は横須賀造船所に勤務(明治4年12月着任)。富岡製糸場を去ったあとは東京開成学校教師や兵庫県生野鉱山の医師・教師(明治8年10月~明治13年9月退任)を務めた。明治13年帰国。     

 ※富岡製糸場は明治6年に8室の病室を備えた工場内病院(名称は「病室」であった)を完成させた。病院を運営するに当たって「病者警戒」(病気になったとき工女が守るべき心得。明治6年6月制定)、「医局規則」(医師の診察を受けるとき守るべきこと。明治6年9月)等規則を制定したが、マイエが在任中あり、マイエが関わっていたものと思われる。富岡製糸場において産業医制度の確立に大きく貢献した人物であったととらえられる。                  

※横田英『富岡日記』(『明治六・七年松代出身工女富岡入場中の略記』)に「大勢部屋に閉じ込めておくから病気になるのだ。夕方から夜8時半まで広庭に出して運動させるように…」とあるが、これはマイエの進言である。マイエは工女たちに健康管理指導もしていたことを証左するものである。

※明治6年6月に昭憲皇后、英照皇太后が行啓されたが、このときのフランス人医師はマイエである。マイエには行啓記念として白縮緬1(いっ)疋(ぴき)(通常の2反)が与えられた。

○ジャンポール・ヴィダル

1830年2月21日南フランス生まれ。フランス陸軍の軍医だった。1872年中国上海に

在住。明治5年8月20日来日(アメリカ船で横浜へ)。

明治6年1月より半年間の契約で、東京芝愛宕町で林欽次が経営する「迎(げい)㬢(ぎ)塾(じゅく)」(フランス語と農業を教授)のフランス語教師として雇われる。その後明治6年3月には築地4番で開業。

明治6年6月より明治7年5月まで1年間、新潟県新潟町の戸長鈴木長蔵に雇用され私立新潟病院(新潟大学医学部の前身)の初代外国人医学教師として着任し治療と医育に携わる。

明治7年7月マイエの後任として富岡製糸場に雇われ、明治8年12月31日まで在職(首長ブリュナの退任に伴い)。その後一時期横浜フランス公使館附属医師を経て、明治9年2月横須賀造船所に雇用。

明治11年4月辞職し、同年5月1日横浜港より帰国。フランスでは一時郷里で開業したが、マザールに移り、1896年1月1日死亡した(66歳)。

  ※ヴィダルは日本の温泉に特別な関心をもった。箱根、熱海、草津、磯部,川原湯等も訪ねていた。

 ※令和元年(2019)12月、県立新潟医学校(私立新潟病院の流れを汲む)創立の礎となった外国人医師ヴィダルはじめ4人の顕彰碑除幕式が新潟県医師会館で行われ、

顕彰碑は県立新潟医学校の跡地である当会館に設置された。 

 

【参考】

○林 欽次…1825(文政7)~1896(明29)幕末明治の教育者。村上英俊(下野生まれ。フランス語研究の先駆的役割を果たした人)にフランス語を学び、開成所教授職並を経て明治3年名古屋藩立洋学校教師。明治5年東京で迎㬢塾を開く。

○鈴木長蔵(ちょうぞう)…1846(弘化3)~1909(明42)明治5年新潟町の第3・第4小区の戸長。

実業家、政治家、衆議院議員、新潟市長等。第四銀行の設立発起人の一人、新潟新聞(新

潟日報の前身)の初代社長。明治6年私立新潟病院(医学町)を設立して取締役となり、

西洋医学の導入・普及などに努めるなど多方面にわたり新潟市の発展に尽力した。

○明治8年12月の富岡製糸場日本人医師

熊谷県衛生局医官…大久保適斎 渡辺節

  生徒…得江清 村上寛策 

→『製糸場見聞雑誌』

○大久保適斎…1840(天保11)~1911(明治44) 明治時代の鍼灸師、当時一流の西洋医学の

外科医。明治10年からは官営新町屑糸紡績所にも関わったとされる。明治12年群馬県

医学校(前橋市)の初代校長・病院長。大久保医院初代院長(明治19年開業)。適塾門

下生。大久保適斎については別稿『富岡製糸場医師―群馬県医学界の祖―大久保適斎』参

照。

○富岡製糸場とお雇い外国人との契約期間は明治5年1月~明治8年12月末まで。明治

8年12月をもって富岡製糸場のお雇い外国人は一人もいなくなる(ブリュナと医師ヴ

ィダルが最後)。

 

まとめにかえて

富岡製糸場のお雇いフランス人医師3人は、日本において明治時代初期、富岡製糸場以外にも多くの病院や企業、学校等に雇用されて活躍し、日本の医学や教育の発展に尽くし、大きく貢献した。

生命をかけて日本人の治療に当たり、命を落として母国に帰れなかった人もおり、日本の地を愛して自らを捧げる3人の姿が髣髴される。

 

 

 

    

 

 

 

 

 

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