現地学習会「富岡製糸場にかかわる用水・用材と周辺の文化財」を訪ねて
5月27日(月)9時10分、富岡市生涯学習センターの駐車場から26名の参加者が5台の車に分乗し、最初の目的地の貫前神社に向かいました。曇ってはいても雨の心配がない感じの天気で現地学習には最適な日和です。
今回は富岡市出身で、この地域の研究もされ歴史・地理等にも詳しい徳江伝道師に講師をお願いしました。
貫前神社に着きました。総門前の左右に一対の青銅製の立派な燈籠が建っています。高さは約4m、正面に「献燈」の文字が彫られ裏面に「慶応元乙丑歳(1865年)九月・・」とあります。そして驚くのは、左右の燈籠の基部周りに燈籠造営に関わった献金者の住所・氏名・献金額が上下二段にびっしりと彫られていることです。右側の燈籠に536名、左側の燈籠に1007名、合計1543名で献金総額が4790両という大きな額になっています。主な献金者は、富岡出身の松浦三左衛門・古沢小左衛門・坂本治兵衛、前橋出身の下村善右衛門・勝山宗三郎、大間々町出身の不入屋金七(本姓 上野)、高崎出身の野沢屋惣兵衛(本姓 茂木)、児玉郡神川村出身の亀屋善三郎(本姓 原)、新里村出身の吉村屋幸兵衛(本姓 吉田)とそうそうたるメンバーが列記されています。県内各地の養蚕農家や生糸商人、そして江戸や横浜の生糸・絹を扱う商人が養蚕や生糸生産の繁栄を願って建てたものだそうです。上野国一之宮として貫前神社がいかに尊崇の対象になっていたかがわかります。
総門から石段を下って拝殿にお参りし、次の妙義神社を訪ねます。妙義神社入り口の石段の手前に大きさは貫前神社のものと同程度と思われる青銅製の一対の燈籠が建っています。その火袋に「奉献永代御神燈 養蚕倍盛 商売繁栄 諸国 糸繭商人 諸商人 養蚕」と彫ってあります。元治元(1864)年で貫前神社とほぼ同時期の建立です。建立の中心人物は磯部の萩原音吉ほか3名で、諸国の糸繭商人や養蚕家など223人の寄進で建てられたそうです。
(参考文献「今井幹夫著『甘楽富岡史帖』」)
本殿への石段を見上げると鬱蒼とした杉の大木群が目に入ります。約140年前に富岡製糸場建設の用材として樹齢500年を越す杉の巨木がこの付近から切り出されたのです。氏子達から天狗さまのたたりがあると大反対されたのを尾高淳忠が説得に説得を重ね、その熱意に氏子が折れたという逸話が残っています。伐採の後は植林されているので、それらしき傷跡は見られません。総門近くの大きな3本杉に囲まれた三角形の空間が最近パワースポットとして話題になっています。時代の変遷を感じます。
昼食は「道の駅みょうぎ」とその周辺の食堂で適宜摂りました。道の駅内にある観光案内所には各種案内のパンフレットに加え、世界遺産のパンフレットがきれいに並んでいます。市川武男伝道師が数か所の施設を開拓し、時折様子を見ながら補充して回っているそうで頭が下がります。
次に富岡市一ノ宮にある北甘変電所を訪ねました。1919(大正8)年、一の宮変電所として建設された県内最古の鉄筋コンクリートの建造物です。当時の会社は西毛電気(株)で翌9年に富岡町と近隣町村に電力供給を始めました。大正13年長野電灯(株)西毛支社一の宮変電所、そして関東配電(株)北甘変電所となり、昭和26年から東京電力(株)北甘変電所となります。かつては富岡製糸場にも電力を供給していました。現在も無人ながら現役の変電所です。変電所とは言えシャレた大正の雰囲気を感じさせる外観は魅力的でした。現在公開していないのですがいつか機会があれば内部も見学したいものです。
変電所前の道を北へ100mの所に丹生川が流れ、稗田橋があります。丹生川はそこから200m下流で高田川に合流しています。かつて富岡製糸場で使用する水を供給していた用水「浅岡堀」は稗田橋の10メートルほど上流付近から取水していたようですが、はっきりした痕跡はありません。文献で「浅岡堀」は元禄以前に存在していたことがわかっているといいます。昔はしっかりした護岸がなく、川の流れはあちこちと動いていたので取水口の確認も難しいのです。現在の「甘楽用水」がほぼ「浅田堀」の後継となっていますが、取水口は約500mほど上流にあります。豊富な水量の甘楽用水は市街地に向かって勢いよく流れていました。
丹生川の堤防の脇に大きな桑の木があり、熟した実がたくさんついていまいた。数名の参加者が摘んで口に入れました。初めて食べたという人、数十年ぶりに口にした人、嬉しそうに懐かしそうに顔をほころばせていました。
最後に貫前神社からすぐ東の一峰公園に向かいました。東西に長い丘陵の上にあるこの公園は桜の名所で多くの人で賑わうといいます。南に鏑川や稲含山が見渡せ気持ちの良い公園です。この公園の一角に形は小さいが富岡製糸場物故者慰霊碑があり、お参りをして出発地の富岡市生涯学習センターに戻りました。
最後に、各地で興味深く分りやすい説明をしてくださった徳江伝道師に感謝いたします。
(Y.I 記)