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黒船哀歌

2023-07-15 05:51:25 | 懐かしのメロディー
黒船哀歌



赤い椿の花かんざしは

下田芸者の心中立て

せめても一度鶴松さんの

膝で泣きたやさめざめと

ああ恋の涙が涸れるまで

・・・・・・.




岸田内閣、支持率30.8%でささやかれる「もう危険水域」の声

岸田内閣にとって、衝撃的な世論調査の結果が出た。時事通信が7月7~10日に実施した世論調査によると、岸田内閣の支持率は前月比4.3ポイント減の30.8%だった。支持率下落は2カ月連続。不支持率は同4.3ポイント増の39.3%で、3カ月ぶりに不支持が支持を上回った。(FLASH)

豪雨災害で大変な日本。

始末は部下に任せ、自身は海外で旅行三昧。

そんな岸田総理でも国民の30%は支持。

そんな国ですニッポンは。

いっそのこと、黒船でも来航して救ってくれないでしょうか、そんなニッポンを。(笑)










































































































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おけさ人生

2023-07-15 03:21:22 | 懐かしのメロディー
おけさ人生



ハ、アリャアリャアリャサ

まいどね まいど皆様 ご存知の

おけさ おけさで まいります

「ハ、 アリャサ」 

佐渡は四十九里 波の上

とかく恋路と 世の中は

思うようには ゆ かないものよ

アリャアリャアリャサでままならぬ

「ハ、アリャアリャアリャサ」

・・・・・・・・
 


「佐渡おけさ」や「チャンチキおけさ」など、新潟県民謡や民謡風歌謡などの曲名にある「おけさ」については、その意味や語源・由来について

諸説入り乱れています。

大きく分けると、猫が化けた娘の名前、人間の娘の名前の二つ。

「おけさ」の語源・由来としてよく紹介されるのは、飼い猫の主人が経済的に困窮し、それを助けるために猫が美女に化けるという「猫の恩返し」のストーリー。

猫が化けた美女の名前は「おけさ」、「お桂(けい)」など。唄や踊りが上手く、彼女が歌っていた歌が「おけさ節」、「おけいさん節」と呼ばれ、

「おけさ」の語源となったと説明されています。

猫が化けた美女のおかげでお店が繁盛するなど、猫の飼い主は経済的に救われるという結末。

実際、『おけさ』の歌詞には、美女に化けた猫に関連して次のようなくだりがあります。

おけさ正直なら そばへも寝しょが

おけさ猫の性で じゃれたがる

新潟の港には、水揚げされた魚を求める野良猫や飼い猫が昔からたくさんいたのでしょうか。

主人想いの献身的な「猫の恩返し」の逸話は新潟各地に伝えられています。





























































































































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稗つきくずし

2023-07-14 09:53:19 | 懐かしのメロディー
稗つきくずし



 青い月夜に いま鳴る鈴は 

あれは恋しい 大八様か 

人目忍んで表に出れば

庭の山椒にゃヨーホイ

風ばかりかぜばかりヨ

・・・・・・・・



元々は、稗(ひえ)を臼(うす)に入れ杵(きね)でつくときに歌った作業歌だった「ひえつき節」・・・

庭の山椒(さんしゅう)の木
鳴る鈴かけてヨーホイ
鈴の鳴る時ゃ
出ておじゃれヨー

鈴の鳴る時ゃ
何と言うて出ましょヨーホイ
駒に水くりょと
言うて出ましょヨー

那須の大八
鶴富おいてヨーホイ
椎葉たつ時ゃ
目に涙ヨー



「ひえつき節」の歌詞と関連する、椎葉村の平家落人伝説について簡単にまとめると次のとおりです。


平安末期1185年の壇ノ浦の戦いで平家は滅亡し、一部の平氏残党が日向国椎葉へ逃れた。

源頼朝の命を受け、那須与一の弟・宗久(むねひさ)、通称:大八郎は、椎葉村へ平氏残党の追討に向かった。

しかしそこでは、平氏残党は既に戦意を喪失し、実直に農耕に勤しむ農夫となって、素朴ながらも村での新たな暮らしを築いていた。

自然豊かな椎葉村で農業に励む落人(おちうど)たちの健気な姿に心を打たれた大八郎は、幕府には討伐を果たした旨のウソの報告を行い彼らを助け、

自分自身もこの椎葉村に留まる決意をした。

大八郎は椎葉村で屋敷を構え、彼らに惜しみなく農耕技術を伝えた。さらに、平家の守り神である厳島神社を勧請するなどして落人達を慰めたという。

落人達との交流を深めていくうちに、大八郎は平清盛の末孫とされる鶴富(つるとみ)姫と恋に落ち、逢瀬を重ねた。

何年か経った後、大八郎は鎌倉より帰還命令を受けた。その時、鶴富姫は大八郎の子を身ごもっていた。

大八郎は「男の子なら連れてこい、女の子ならここで育てよ」と太刀と系図を与え、鎌倉へ帰っていった。

その後、鶴富は女子を生んだ。

成人後は婿を取り、その婿が那須下野守を名乗って椎葉を治めたという。


一番と二番の歌詞では、鶴富姫と那須大八郎が逢い引き(あいびき)する際の秘密の合図が描写されています。

まず、鶴富姫の家の前にやって来た那須大八郎は、家の庭にある山椒の木に鈴をかけて鳴らし、自分が来たことを鶴富姫に知らせる。

その鈴の音を聞いた鶴富姫は、「ちょっと馬に水をやってきますね」とウソをついて外へ出て、那須大八郎と落ち合うという手筈。

「ヨーホイ」「ヨー」は歌の調子を整えるための意味のない囃子詞(はやしことば)です。












































































































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戦友

2023-07-13 22:24:24 | 懐かしのメロディー
戦友


ここは御国を何百里 離れて遠き満州の
赤い夕陽に照らされて 友は野末の石の下

思えば悲し昨日まで 真っ先駆けて突進し
敵をさんざん懲らしたる 勇士はここに眠れるか

ああ戦いの最中に 隣に居ったこの友の
にわかにはたと倒れしを 我は思わず駆け寄りて

軍律厳しい中なれど これが見捨てておかりょうか
しっかりせよと抱き起こし 仮包帯も弾の中

おりから起こる吶喊に 友はようよう顔上げて
御国のためだかまわずに 遅れてくれなと目に涙

あとに心は残れども 残しちゃならぬこの体
それじゃ行くよと別れたが 永の別れとなったのか

戦い済んで日が暮れて 探しに戻る心では
どうか生きていてくれと 物なと言えと願うたに

虚しく冷えて魂は 国へ帰ったポケットに
時計ばかりがコチコチと 動いているのも情けなや

思えば去年船出して 御国が見えずなった時
玄界灘に手を握り 名を名乗ったが始めにて

それより後は一本の 煙草も二人分けてのみ
着いた手紙も見せ合うて 身の上話繰り返し

肩を抱いては口癖に どうせ命はないものよ
死んだら骨を頼むぞと 言い交わしたる二人仲

思いもよらず我一人 不思議に命永らえて
赤い夕陽の満州に 友の塚穴掘ろうとは

隈なく晴れた月今宵 心しみじみ筆とって
友の最期をこまごまと 親御へ送るこの手紙

筆の運びは拙いが 行燈の陰で親たちの
読まるる心思いやり 思わず落とすひとしずく





以上が「戦友」の歌詞です。

満州という地名も出てきて大日本帝国が中国大陸に出兵した頃の歌ですが、決して戦意を鼓舞するような好戦的な歌ではありません。

むしろ「満州」は御国を遠く離れた異郷であると冒頭にあるとおり、何で他人の国に入ってまで戦争をしなくてはいけないんだ、そのためにあいつは

死んでしまったんだという反戦・厭戦の気持ちさえ感じられます。

これは反戦歌だと言った左翼系の友人もいました。

もちろん実際に従軍した世代の人たちはそんなことはなかったと言うかも知れませんが、戦後に生まれた我々の世代からみると他の軍歌とは

明らかに異なった雰囲気が感じられます。

当時の軍部でもこのような雰囲気の歌は本当はあまり歓迎しなかったでしょうが、兵隊たちがこのような挽歌を歌う気分は軍部の力をもってしても

抑えきれなかったものとみえます。

ただこの4番の歌詞で「軍律厳しい」とは何事かと横槍が入って、「硝煙渦巻く」と歌い替えたこともあったそうです。













































































































































































       
                       

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逢いたかったぜ

2023-07-13 07:20:42 | 懐かしのメロディー
ちあきなおみ



逢いたかったぜ 三年ぶりに

逢えて嬉しや 呑もうじゃないか

昔なじみの 昔なじみの お前と俺さ

男同志で 酒くみ交す

街の場末の おゝ縄のれん

・・・・・・


原曲は勿論、岡 晴夫さん。


岡 晴夫



昭和14年から戦後の30年代にかけ独得のハナにかかった声で人気を博した岡 晴夫さん。

作曲家の上原げんととコンビで「上海の花売り娘」「港シャンソン」(ともに14年)が大ヒット、ステージはいつも満員で当時としては熱狂的ファンを

つかんでいました。

23年小畑実で予定されていた「憧れのハワイ航路」を替って歌い、最大のヒット曲となり、“岡ッパル”の愛称で一世を風びしています。

キングからマーキュリー、コロムビアへと移り、再びキングへ。30年には上原げんとが特に作った「逢いたかったぜ」でカムバックを期しましが・・・





































































































































































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雨に咲く花

2023-07-12 08:00:29 | 懐かしのメロディー
来生たかお 


およばぬことと 諦めました
だけど恋しい あの人よ
儘になるなら 今一度
ひと目だけでも 逢いたいの

別れた人を 思えばかなし
呼んでみたとて 遠い空
雨に打たれて 咲いている
花がわたしの 恋かしら

(間奏)

はかない夢に すぎないけれど
忘れられない あの人よ
窓に涙の セレナーデ
ひとり泣くのよ むせぶのよ




マスターがこの歌を知ったのは、井上ひろしさんがリバイバルで歌って大流行していた昭和35年(1960)の頃、そう、テレビがぼちぼち普及し始めた頃

だったでしょうか。

昭和35年(1960)・・・と言ってもマスターはまだ子供、曲に興味を持ったのは、ずっと後、社会人になってからですが。(笑)

ただ、曲自体は昭和10年(1935)10月に公開された新興キネマ・高田プロ作品『突破無電』の主題歌として、関 種子さんによって歌われ、

同年12月にレコード発売されています。

さて、原曲が発売された昭和10年(1935)・・・

時代背景からしますと、この歌の「あの人」、今とはおよそ比べものにならないくらい距離的にも、心理的にも遠い「あの人」だったのでしょうね。

それを何とかより近い存在にしようと、出来る限りのことはしたのだけれど・・・
 
それにしても、「およばぬことと諦め」ざるを得ない事情とは?

そして自らを「雨に咲く花」となぞらえざるを得ない事情とは?

いろいろ考えましたが、・・・たどり着いたのは「不倫の恋」?。(笑)

今でこそ「不倫なんて・・・」かもですが、当時は旧民法下での厳しい家制度のもとですから、江戸時代の姦通罪のように発覚すれば市中引き廻しの上、

磔・獄門(はりつけ・ごくもん)とまではいかなくても、家制度を根底から崩壊させる行為として、絶対的タブーだったはずです。
 
いやいや、この歌がリバイバルで昭和30年代半ばに大ヒットしたということは、30年代の社会でもまだ戦前のタブーの名残りが残っていたということかも。(笑)

これだけの名曲、色々な方がカバーされています。

っということで、またまたマスターの独断と偏見で何曲か紹介いたします。(笑)




美空ひばり  


石原裕次郎  


ちあきなおみ 




















































































































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上海帰りのリル

2023-07-10 07:45:21 | 懐かしのメロディー
青江三奈


 倍賞千恵子


 氷川きよし




船を見つめていた
ハマのキャバレーにいた
風の噂はリル
上海(シャンハイ)帰りのリル リル
あまい切ない 思い出だけを
胸にたぐって 探して歩く
リル リル 何処(どこ)にいるのかリル
誰かリルを 知らないか

黒いドレスを見た
泣いていたのを見た
戻れこの手にリル
上海帰りのリル リル
夢の四馬路(スマロ)の 霧降る中で
何も言わずに 別れた瞳
リル リル 一人さまようリル
誰かリルを 知らないか

海を渡ってきた
ひとりぼっちできた
のぞみ捨てるなリル
上海帰りのリル リル
暗い運命(さだめ)は 二人で分けて
共に暮そう 昔のままで
リル リル 今日も逢えないリル
 誰かリルを 知らないか




日本の敗戦とともに、大陸や南方各地に散っていた多数の日本人たちが引き揚げてきました。

その混乱のなかでのさまざまな生き別れや死に別れ・・・
 
この歌は、そんな社会情勢を背景として作られたものです。

1951年7月に発売された津村謙の楽曲で、記録的な大ヒットとなり、翌年4月には同名映画も公開されています。

戦前の上海には、英米日などの共同租界とフランス租界があり、多くの外国人が住んでいました。

(租界とは、中国の弱体化につけ込んで、帝国主義列強が強制的に借り上げた治外法権の租借地のこと)

四馬路は、蘇州河の南側にあった歓楽街で、現在は福州路と呼ばれています。

 蘇州河の北側には、虹口(ホンキュ)という街があり、そのあたり一帯に日本人が多く住んでいたそうです。

現在の上海市・・・

中国最大の経済都市で、北京市を凌ぎ同国第1位の経済圏です。

日本経済研究センターは、2035年にはニューヨーク、東京、ロサンゼルスに次ぐ世界第4位の経済規模に成長すると予測しているとか。



























































































































































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かえり船 

2023-07-08 04:20:12 | 懐かしのメロディー
清水 博正


藤圭子



波の背の背に ゆられてゆれて
月の潮路の かえり船
かすむ故国よ 小島の沖じゃ
夢もわびしく よみがえる

捨てた未練が 未練となって
今も昔の 切なさよ
まぶた合わせりゃ まぶたににじむ
霧の波止場の ドラの音

熱い涙も 故国につけば
うれし涙と 変るだろ
かもめ行くなら 男の心
せめてあの娘に 伝えてよ





昭和21年(1946)11月、テイチクから発売され、大ヒットとなった曲「かえり船。

歌っていた田端義夫さんは、気さくな人柄からバタヤンの愛称で親しまれていました。

ギターを胸の高い位置で水平に構え、「オースッ」と威勢よく挨拶してから歌い始めるのが特徴でした。

この歌は敗戦によって南方諸島や台湾、朝鮮、満州、樺太などから引き揚げてきた人びと、いわゆる引揚者の心情を歌ったものです。

筆舌に尽くしがたい苦難を重ねた末、やっとたどり着いた日本。

船からその影を見たとき、万感胸に迫ったことと思います。

帰還前になくした家族や自身が受けた被害、国に残してきた老親や恋人は無事か、家は残っているかなど、さまざまな思いが胸の中で渦巻いたことでしょう。

引揚者が上陸したおもな港は、博多港、佐世保港、舞鶴港、浦賀港、仙崎港、大竹港、鹿児島港、函館港などですが、この歌の舞台になったのは博多港だとか。

一番の歌詞にある「小島」は博多湾外の玄界島だと思われますが、船は湾内の能古島(のこのしま)近くに停泊し、引揚者たちは検疫などを受けたのち、

上陸したと言われています。

交通手段が発達した今、何時でも故郷を満喫して、都市圏に帰られる方も多いでしょう。

お子様、お孫様と楽しい時間を過ごされたおじい様、おばあ様も多いのではないでしょうか。

「じいじ」・「ばあば」、戻ったあとで、「じじい」・「ばばあ」と言われることがないよう、また過ごさなければ・・・。(笑)

「かえり船」、この方を忘れてはいけません。



田端義夫.





(追記)

清水 博正は、群馬県渋川市出身の全盲の演歌歌手です。

幼少時から祖父母の影響で演歌に親しみ、小学生になり地元の日帰り温泉のカラオケステージで歌うようになると、高い歌唱力で地元で有名になりました。

盲学校在学中の16歳の時、群馬県藤岡市で行われた「NHKのど自慢」で神野美伽の「雪簾」を歌ってチャンピオンになっています。

翌年2007年3月に行われた「NHKのど自慢2006年度グランドチャンピオン大会」でグランドチャンピオンを受賞。

当時審査員だった弦哲也とたかたかしにスカウトされ、2008年、在学中にテイチクエンタテインメントから演歌歌手としてデビューしました。





































































































































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ふるさとの燈台

2023-07-05 07:37:57 | 懐かしのメロディー
天童よしみ



真帆片帆 歌をのせて通う
ふるさとの小島よ 燈台の岬よ
白砂に 残る思い出の いまも仄かに
さざなみは さざなみは
胸をゆするよ

漁火の 遠く近くゆるる
はるかなる小島よ 燈台のわが家よ
なつかしき 父のまた母の膝はゆりかご
いつの日も いつの日も
夢をさそうよ

歳ふりて 星に月にしのぶ
むらさきの小島よ 燈台の灯よ
そよ風の 甘き調べにも 想いあふれて
流れくる 流れくる
熱き泪よ




ふるさとの燈台、原曲はもちろん田端 義夫さん。

第二次世界大戦前から21世紀初頭まで現役歌手として活躍、愛称はバタヤン。

水平に構えて持つ、アメリカのナショナル・ギター社製エレキギターと独特の哀愁を帯びた歌声、「オーッス!」という威勢のよい挨拶がトレードマークで、

広く国民に親しまれた方です。

1月1日生まれだそうですから、とても目出度い方でもあります。

明治、大正、昭和初期生まれの方で、彼を知らない人はいない、それくらい親しまれた歌手 田端 義夫さん。

この、「ふるさとの燈台」は昭和24年に発売されています。



田端義夫







「一兵卒」小沢氏、「最後の大勝負」展望は 衆院選にらみ動き始めた

立憲民主党の小沢一郎衆院議員(81)が次期衆院選をにらんだ動きを活発化させている。旧民主党政権時代に党幹事長を辞任し「一兵卒」と自称して以降、影響力の低下が指摘される小沢氏。80歳を超え「最後の大勝負」(小沢氏周辺)に挑む老兵は果たして展望を開くことができるのか。
通常国会最終盤の6月16日。小沢氏は立憲の同僚議員たちと「野党候補の一本化で政権交代を実現する有志の会」を発足させ、国会内で記者会見を開いた。会の賛同者に名を連ねたのは53人。立憲に所属する衆院議員の過半数を占めた。(毎日新聞)

沈みかけてる日本の政治に灯りを灯す小沢市の燈台・・・

期待してます。

2年後に予定されてる万博、恐らく、客の来ない万博になるのは間違いありません。

50か国に及ぶ各国からは未だ建築申請はありませんし、日本館もどこも。

まぁ、維新は仕方なく税金を使って建てることにすると思いますが、払わされる大阪府民、いくら「アホ」と呼ばれることに慣れてると言っても、

ここまで「アホ」にはなり切れないでしょう。(笑)

もともと大阪府民には「東京には負けない」という根性家が多いですから。

関西での人気集団「維新」もここまで、「最後の大勝負」に出た小沢さん、応援します。























































































































































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船頭小唄

2023-06-27 00:22:24 | 懐かしのメロディー
森繁久彌


青江三奈



おれは河原の 枯れすすき
同じお前も 枯れすすき
どうせ二人は この世では
花の咲かない 枯れすすき

死ぬも生きるも ねえお前
水の流れに なに変わろ
おれもお前も 利根川の
船の船頭で 暮らそうよ

枯れた真菰に 照らしてる
潮来出島の お月さん
わたしゃこれから 利根川の
船の船頭で 暮らすのよ

なぜに冷たい 吹く風が
枯れたすすきの 二人ゆえ
熱い涙の 出た時は
汲んでおくれよ お月さん





1921年(大正10年)1月30日に民謡「枯れすすき」として野口雨情が詞を作り、同年、これに中山晋平が曲を。

1922年(大正11年)に神田春盛堂から詩集「新作小唄」の中で、「枯れ芒」を改題し「船頭小唄」として掲載され、1923年(大正12年)、ヒコーキレコードから

女優・中山歌子によって初めて吹き込まれました。

その他オリエントレコードからも演歌師の鳥取春陽、田辺正行、木津豆千代、ニットーレコードで高橋銀声などが歌っていました。

この歌の大流行の最中、関東大震災が起こり、雨情の暗い歌詞、晋平の悲しい曲調から、この地震を予知していた童謡だったのではという説も流布されたそうです。

それはそれとして、哀調を帯びたこの歌は、そうした人びとの気持ちにマッチしたのでしょう、永く歌われることとなりました。

同じ中山晋平作曲の「カチューシャの唄」などと共に、歌謡曲草創期を彩る傑作の1つではないでしょうか。




































































































































































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明日はお立ちか

2023-06-18 00:40:13 | 懐かしのメロディー
明日はお立ちか



明日はお立ちか お名残り惜しや
なまじ逢わねば 泣くまいに
こころとこころ つないだ糸は
なんで切れましょ 切れやせぬ

想うばかりで 口には言えず
握るこの手を 忘れずに
お山も今朝は 泪で曇る
君を見送る 峠道

時計みつめて 今頃あたり
汽車を降りてか 船の中
船酔いせぬか 嵐は来ぬか
 アレサ夜空に 夫婦星




この歌が発表されたのは1942年(昭和17年)のことで、第二次世界大戦(1939年~1945年)の最中。

歌った小唄勝太郎のレコーディング時の歌詞は、妻が夫を戦地に送り出す気持ち、・・・軍事歌謡とも言える歌でした。

出だしの歌詞のあとに続くのは「大和男児の晴れの旅」と続きます。

1964年(昭和39年)には、歌詞を作者本人の「佐伯孝夫」が書き直して「三沢あけみ」の歌でレコード発売されてヒットしています。

歌詞の一部を書き直したのは時代に合わせただけではなく、戦時下での歌詞には思うように表現できないこともあり不本意な部分があったのかも知れません。



































































































































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哀愁の街に霧が降る

2023-06-15 18:02:57 | 懐かしのメロディー
山田真二  哀愁の街に霧が降る



日暮れが青い灯(ひ)つけてゆく
宵の十字路
泪色した 霧がきょうも降る
忘られぬ瞳よ
呼べど並木に消えて
ああ 哀愁の街に霧が降る

花売り娘の花束も
濡れる十字路
のこる香りに あまく思い出す
過ぎし日のあの夜は
カラーフィルムのコマか
ああ 哀愁の街に霧が降る

せつなく降る降る身も細る
霧の十字路
窓を漏れくる 唄もすすりなく
なつかしのブローチ
肌につめたく沁みて
ああ 哀愁の街に霧が降る



少年は、ラジオから流れてくる都会調ムード歌謡を聞きながら、霧降る街角で花を売っている少女や、テラスという場所でため息をついている銀座娘、

あれこれ想像していました。

それから数年して、少年は東京に出ましたが、花売り娘やテラスでため息をついている女性には一度も出会いませんでした。(笑)

少年は勿論、マスター。































































































































































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武田節

2023-06-08 10:19:25 | 懐かしのメロディー
武田節/三橋美智也



甲斐の山々 陽に映えて
われ出陣に憂いなし
おのおの馬は 飼いたるや
妻子につつが あらざるや あらざるや

祖霊まします この山河
敵にふませて なるものか
人は石垣 人は城
情けは味方 仇は敵 仇は敵

(詩吟)
ときこと 風のごとく しずかなること林のごとし
しんりゃくすること火のごとく うごかざること山のごとし

躑躅ケ崎の 月さやか
うたげを尽くせ 明日よりは
おのおの京を めざしつつ
雲とおこれや 武田節 武田節



作曲:明本京静、作詞:米山愛紫、三橋美智也の歌唱でレコードはミリオンセラーを記録し大ヒット。

昭和36年(1961)に発表された、いわゆる新民謡で、戦後に作られた新民謡のなかでは、とくに成功したものの1つです。

山梨県では、地域の集まりなどでよく歌われ、実質的に県民歌の役割を担っているという話を聞いたことがあります。

人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり

この格言は、武田家の戦略・戦術を記した軍学書「甲陽軍鑑」(こうようぐんかん)のなかで、「ある人が信玄公の御歌として言う」として紹介されている一節。

意味合いとしては、人心こそ強固な城以上の価値があり、城があっても人の心が離れてしまえば何もならないということ。

人に情をもって接することこそ国の守りの要であり、人に恨みや害意をもって接してはならないという教訓です。






































































































 































































































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あゝモンテンルパの夜は更けて  渡辺はま子

2023-06-06 02:43:20 | 懐かしのメロディー
あゝモンテンルパの夜は更けて  渡辺はま子



モンテンルパの 夜は更けて
つのる思いに やるせない
遠い故郷 しのびつつ
涙に曇る 月影に
優しい母の 夢を見る

燕はまたも 来たけれど
恋しい吾が子は いつ帰る
母の心は ひとすじに
南の空へ 飛んで行く
さだめは悲しい 呼子鳥

モンテンルパに 朝が来りゃ
昇る心の 太陽を
胸に抱いて 今日もまた
強く生きよう 倒れまい
日本の土を 踏むまでは




フィリピンの日本人戦犯が作詞作曲した曲「あゝモンテンルパの夜は更けて」・・・

渡辺はま子さんがレコード化したのは1952年。

そして、日本国政府の厚生省復員局と渡邊さんの奔走で、モンテンルパ市のニューピリビット刑務所へ慰問コンサートが実現したのです。

そこで歌われたのがこの曲「あゝモンテンルパの夜は更けて」・・・

強く生きよう 倒れまい
日本の土を 踏むまでは


そして、歌手として戦争に手を貸した悔恨からでしょう、フィリピン政府当局に減刑、釈放を嘆願したのです。

すると、渡辺はま子さんの美声、そして熱心な嘆願に心を打たれたのでしょうか、当時のフィリピンの元首であったキリノ大統領、100人余の日本人戦犯の

釈放を決断します。

ちなみに、モンティンルパは、フィリピン共和国ルソン島にある自然に恵まれた、若者たちで活気のあるビジネス都市。

モンテンルパの人々が故郷と胸をはって呼べる市、それがモンテンルパ市です。


















































































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緑の牧場 近江俊郎

2023-06-03 05:41:08 | 懐かしのメロディー
緑の牧場 近江俊郎



朝だ 霧が晴れたよ 緑の牧場
可愛い山羊の背(せな)から 陽が昇る
ああ 夢が燃えたつ 歌も朗らかな朝だ
青い小径たどれば さえずる小鳥
誰かどこかで呼んでる 楽しい牧場

朝だ まねく角笛 緑の牧場
そよぐポプラ並木に 陽が昇る
ああ 晴れて明るい 風も爽やかな朝だ
露を散らし駈けくる 子山羊の首の
鈴ものどかに響くよ 楽しい牧場

朝だ 雲が流れる 緑の牧場
仰ぐ森の彼方に 陽が昇る
ああ やさし瞳に 光うららかな朝だ
遠く呼べば答える 山彦こだま
胸の泉に花咲く 楽しい牧場



昭和23年(1948)1月、NHKからラジオ歌謡として放送された「緑の牧場」、。童謡『牧場の朝』にも似た、さわやかな歌です。
 
昭和30年代の前半ぐらいまで、子どもは歌謡曲を歌ってはいけないとされていました。

この歌のような健康的な歌も、例外ではなく、歌謡曲はおとなの歌であり、子どもは音楽の教科書に載っているような童謡や唱歌、外国民謡だけを歌うべきだと

されていたのです。
 
もっとも、それに従っている子どもは、あまりいませんでしたが。(笑)


















































































































































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