暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

母の法要を行った

2018年06月05日 03時54分06秒 | 日常

 

2018年 6月 2日、3日 (土、日)

去年7月30日に大阪で母の葬儀が行われてはいたが自分は手術後の療養のために医者から半年は旅行を止められていたのでオランダにいて臨終・葬儀・事後一切のことを叔父叔母夫婦に任せていた。  不思議なことに母の葬儀は日本、オランダの7時間の時差はあるとは言え、同日同時刻にオランダの姑の葬儀と重なっており、姑の葬儀の後会場で身内のものだけになったときに母の葬儀がこの日の同時刻に日本でも行われていたことを話し,後日改めてオランダでも何らかの法要を行うことを伝えていた。 

今年の一月の末から二月にかけて息子、娘、家人とともに日本に旅行し二分骨した主要部を四天王寺に納骨、一部を散骨して残った遺骨を伴ってオランダに戻ってきた。 遺骨をどうするかは兎も角としてオランダの家族に母の葬儀か法要、現代的に言えば「偲ぶ会」は必要でありそれを何時にするか家族で話し合い、例年我々の誕生日を一束ねして気候のいい今頃に家族・親戚・知人を招いてパーティーを行っているのでそのことも合わせればいいとして計画を進めた。 何か月か前にほぼ30年ほど懇意にしているオランダの禅寺、ナイメヘン近郊にある高堤山睡蓮寺の住職本覚是真和尚に法要の労を執っもらい、結局30人余りがそこに集まった。 3週間ほど前には寺に出かけ法要のあらましを詰めて母親の法名ももらっていた。 

前日午後寺に着くとほぼ準備はできていた。  家人に娘は以前ここに来たことはあるし娘は何回か参禅に来ていたが山門、門を入っての六地蔵、睡蓮や杜若の咲く池、枯山水はそのときにはまだなかったのでそれを見て驚いていた。 これらは皆和尚が自分でこしらえたものだ。 あれこれの話をしてからその日の宿舎である市内のラブラドルの老犬二匹と住む82になる老人の家に出向き荷物を解いた後、娘とボーイフレンドの待つトレンディーな川沿いのレストランに出かけた。 そこはオランダでも名の知れたインスタント食品の工場跡に幾つかのレストランが入ってミシュランの星を目指す若者たちが味を競わせているところなのだという。 工場跡のだだっ広い空間に無造作にテーブル・椅子を並べ大きなキッチンが丸見えの巨大ともいえる空間だった。 以前マーストリヒトの消防署を改造したレストランで食事をしたことがあるがそこにはピンポン台が置かれて遊べたけれどここにはトイレに行くとそこは工場のトイレそのままを小ぎれいに改造したものだが、その近くにはビーチ・バレーボールのコートが4面取れるほどの大きな砂場があって若者たちのカフェー、バーが周りにあり若者向けのイヴェント会場なのだろう。 町はずれにあるからここに来るものは自転車か車に限られていて50代から上の客は疎らだった。 食事もきびきびとした給仕たちのサービスも申し分なく娘のチョイスと彼女の勘定支払いに感謝した。

翌朝は嘗ては70年代にキリスト教会からインドネシアに派遣されその後教師となり定年してからはサイクリング友の会でB&Bをしているヴィムが作る朝食を摂りながら家の近郊の村の70年前の様子を聴いた。 彼は若い時自分が4週間に一度はチーズを買いに前を通る修道院で修行したのだった。 家人が電話をかけたけれど繋がらなかったのでネットのメールにしたから繋がったというとスマホの電話がかからなくここ何週間か泊り客がないというので息子が見てみるとシムカードが何かの具合でブロックされていたのだという。 80を越した老人にスマホはちょっとしたことであちこち分からなくなるから面倒だと笑いながら言い、今度コンピューターで書いたインドネシア時代の思い出に次いで二冊目の本が出版されると言い、息子にPCに繋ぐ新しいキーボードを見てもらっていた。 老犬もぼちぼち怪しいし自分の動きも怪しくなってきているので妹の住むアルフェンの介護施設に申し込みをしているのだと言う。 いつになるか分からないけれど2年以内に引っ越しをすることになるのではないかと言った。 そこなら今日寺に来る義弟夫婦たちが住む町でもあり、ライデンから15kmほどしか離れていないので偶には会いに行けるだろうと言って別れた。

10時に寺に着くと前日張ってあったテントに長テーブルを用意し30人ほど坐れるよう用意してあったところにカップと皿を配膳して11時からポツポツと来る30人に出すコーヒーなどの茶菓子や借りてきたコーヒーメーカーで人数分のコーヒーや紅茶、日本茶、ケーキや菓子を用意した。 麗らかな天気に恵まれ手伝いの僧侶が案内役となって到着した来客を我々とともに接待し1時間ほど寺の中を見たり我々を通じて家族と知人たちの仲をとりもち相互に談笑するよう努め12時に本堂に導かれて式次第となる。 日本人は自分だけの中、参列者の殆どが寺が何なのかその経験もなく興味津々でありながら法事の意味をキリスト教の葬儀に参列してきた彼らの経験から類推して興味津々の様子で畳の上に正座する。 とても正座の経験もなく座れないので座禅の際に持ちる分厚い丸い座布団を立てて馬の鞍のようにして跨るように座る。 座れない者は本堂の後ろにある廊下に置いたパイプ椅子に腰かけて参列する。 

鐘と太鼓が連続的に鳴らされ4人の僧侶を従えて住職が入場し僧侶のうち一人が母の遺骨を仏壇に設置しその下段に位牌を置く。 戒名は日本で葬儀の際与えられていたけれどある事情から自分の村の宗派ではなくそれは自分自分の納得する法名でもなかったので是真和尚に達磨宗の戒名を頼んで母の納得するであろう名前を付けてもらい和尚が自ら位牌を作っていてくれたのだった。 曹洞系達摩宗の読経が続きその中の般若心経では自分が何度も読んできたものであもあるので彼らに唱和した。 4人の助っ人僧侶のうち2人は和尚が日本に派遣して小浜の仏国寺で得度させた者であとの二人は修行中の者たちだ。 自分を除いてすべてオランダ人たちの中で日本式の法事が執り行われているというのは妙なものだが或る意味この場は日本以上に宗教的なものだといえるだろう。 釈迦牟尼以来八十幾つの聖人が続く中で大拙湛玄和尚の次に母の戒名が書かれた仏祖世伝証が自分に手渡され僧たちが焼香した後退出した。 そこで自分は参列の皆にこれまでの経緯と参列の礼を言い次の間で息子が亡母の幼い時から去年までの写真をプロジェクターで見せて思い出を語るので自分の焼香の例につづいて次の間に移るよう要請した。 60枚ほどの家人が選んだ母の写真は戦中・戦後の歴史の一端を示すものであり参列の皆には息子の説明と共に興味深いものだったに違いない。 このあと外に出てテントでの食事の際には式典と写真には感銘を受けたという感想が多く聞かれた。 小さなこども何人かが六地蔵の頭に飽きずに柄杓で水をかけるのを眺めるのは奇妙な経験だ。 息子、娘の友人たちも3,4人ずつ来ていて彼らにとっても会ったこともない友人の祖母の法事というのは稀な経験であり忘れがたいものだったと別れる際には言われた。 三時半を周って再会を約束して皆ポツポツと寺を去った。 1時間ほど後かたずけをして我々も寺を去り帰宅した。 行きも帰りもそれぞれ1時間半ほど息子が運転したけれど夜になり流石に疲れが出て就寝するとぐっすり翌朝9時まで熟睡した。