暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

依然としてデリの花が咲いている

2007年10月08日 10時27分12秒 | 喰う
妙なことだ。 この何週間か寒くなったりポカポカ陽気があったりするもので庭の植えたばかりの躑躅に小さな白と桃色の花がついたと思えば、本当は花が咲けばその香りが喜ばれ主に魚料理につかうディルまでそのまま花を広げ目を楽しませてくれている。

この間、花火の事を書いたことから、その想いが執着していたのだろうか、それを何週かぶりに又写真に撮った。 

ああ、いい天気だった

2007年10月08日 10時22分41秒 | 日常
日本の老母と電話で話し関西ではまだ気温が28度に居座るという地元のだんじり祭りの当日だったが、電話のこちら側、オランダは、私が子どものころ気持ちをわくわくさせて経験したそのだんじり祭りが18度ほどの青空が見える乾いた天気であって、今の28度というのは記憶にない。 経験ではいくらだんじりの綱を一日中引っ張りまわして汗が出ても立ち止まるとそのうちに乾いてしまい、それにしてもそのときに冷たく体が冷えることもなく気持ちのいい乾き方をしたのを覚えている。

秋の遠足、運動会にしても同様である。 その記憶のなかの気候が今日の好天だ。 今日の午後には18度の光のある晴天だった。 一週間ほど前にこの町のまつりで行列の出発点となった並木をはさむ通りは周りの立ち木も紅葉して秋らしくなっている。 自転車でそこを通過するときには頭をもたげて紅葉を通して見上げて青空を眺め光に輝く黄色の葉を頭の上に見るのが今の楽しみとなっている。

けれどこの楽しみもつかの間、くもり空が始まると気分が一度に別のモードに押し込まれることを皆知っていて、町でもどこでも人の顔は今のうちは穏やかなリラックスしたもので微笑みがうかがえる。 

JOC with guests 7-10-7

2007年10月08日 10時20分16秒 | ジャズ
Jazz Orchestra of the Concertgebouw
with Guests

Sun. 7 Oct. 2007 at BIM Huis in Amsterdam

時間の都合で開演一時間以上前に会場に入ったにもかかわらずホールはもうかなりの人がいて勝手が違う。 年配の男女が多い。 80代までありそうだ。 これらの人たちはゲストの数人がそのような年配であり長年聴いてきたこれらジャズメンの現役で生きる姿を伴走するかのような聴衆である。

20代が混じるものの30代40代が中心のオランダ最良質のジャズビッグバンドが長老フリー・インプロヴィゼーション・ピアニストで世界中で一目おかれる魁偉、ミシャ・メンゲルベルグから中堅トランペットのエリック・フルーイマンスまで11人のゲストを招いて、毎月第一日日曜日の宵を定期公演会としてあるそのコマに按配したのはこのホール、ビムハウスを支える基金、援助団体の活動がそれぞれ11周年、25周年を迎えてそれを祝っての催しであったからでもある。 

今晩のゲストがそれぞれの作曲作品を自身がソロをとり、このバンドの指揮者がビッグバンド用に編曲してメンバーには多少の変更があるものの団員の顔ぶれは今までこのバンドに登場したいずれ劣らぬそれぞれが自己のバンドを率いるつわの者達である。 

ゲスト;

Theo Loevendie (cl, ss)
Eric Vloeimans (tp)
Joost Buis (tb)
Peter van Bergen (cl, ts)
Guus Jansen (p)
Misha Mengelsberg (p)
Maarten Ornstein(ts)
Harmen Fraanje (p)
Frank Douglas (el g)
Oene van Geel(violin)
Eric Calmes (el bass)


このビッグバンドの最新CD「Riff's 'n Rhythms] がこの日、バンドの自己レーベル、JOC Recordsより発売されたので手に取るとこれは5月7日ここでの定例演奏会のライブ録音ではないか。 私はこの日はシシリアから来た義姉の娘とその連れ合い、子供達がオランダに滞在していた期間にあたり家族のパーティーのため、予約していた席をキャンセルしたのだがその行けなかった演奏会の録音が新CDとしてこれになって出たのが幸いだ。 このCDのナンバーはほぼ全て指揮者、編曲者のHenk Meutgeert(ヘンク・メウトへエルト)の作になるものであり、第4曲目「China Dance」はいまだ果たせていない中国公演での先方への土産として用意してあるはずのHMの作曲だとみた。 ここでは中国ムードを愛らしくソプラノサックスで奏でる常任サックス、Georg Kaaijが聴ける。 この日も1930年生まれのTheo Loevendie (cl, ss)のサポートとしてアフリカの郷愁を誘うTL自作の佳曲「Tomboektoe」をアルトで彩った。 それに80前のこのリード奏者は自作をソプラノで見事に演奏し、年齢とともに深みを加えていく音楽を我々の目の前に示す見事さを淡々と提示したのだった。

年の功というならピアノのMisha Mengelsbergが相変わらずの魁偉をステージの上で楽団員の尊敬と揶揄をうけながらモンク、エリントンに捧げる曲を味わい深か気に楽団員の即興を鼓舞しながら我が道をいくピアノぶりだ。

バップにスイング、ポストコルトレーンからファンクにフリーインプロヴィゼーションと次々にゲスト各自の見せ所をサポートして見事に裏方を演じるこの日のバンドはオランダジャズのこの40年ほどの歴史と現在を一堂に参集させ束ねた力量を静かに見せ何時かこの日の演奏がCDかDVDになって現れるのを期待させるものである。

この日お披露目のCDはこのオーケストラの一面を示すものとして今までのアルバムに新たな一章を加えることとなったようだ。





JOC
http://www.jazzorchestra.nl/

火薬を入れずに発射しようとして失態を見せた

2007年10月08日 10時13分36秒 | 読む
午後の小春日和というのだろうか、いい天気に誘われて射撃大会の5つある射場には年寄り達は現れず予定時間の半時間も早く招き入れられて入れば私一人の貸切で用意が出来れば好きなように始めて終われば出てくればいい、と監視員のデルフトにあるクラブの会長は引っ込んでバーの皿洗い兼バーテンダーの仕事にいそいそと出て行った。 

ここに来るべく予約してあったはずの射手たちは各自家族や孫達と裏庭で日向ぼっこを楽しんでいるのだろう。 そうして私は自分で規約通りの安全工程に則って25m先の紙の的に向かうべく、火打石で発火させる250年ほど前の海賊が持っていたような先込め式のピストルを発射し始めたのだが4発目が発射しない。 おかしい、こういうものは訓練で自動的に手が動き流れ作業で工程を行わなければ30分以内に13発を発射させることは難しい。

先ず、小さな試験管様のプラスチックの透明な筒につめた黒色火薬を筒先から注ぎ、湿らせたガーゼ様の薄布を載せ11mmほどの鉛の丸い弾をプラスチックの槌で叩き込み後はピストルに添えられている棒で押し込み火打石の付いた撃鉄を起こしピストルの銃身の筒に開けられた1mmほどの穴を受けるように小皿が取り付けられておりそこに細かくされた黒色火薬の粉を少々乗せて金属の蓋をかぶせるとその蓋に付いた金属のへら様の部分に下ろされた撃鉄の火打石と当った火花が火薬に引火して音と煙とともに鉛玉を押し出す、というのが仕組みで織田信長の種子島銃と仕組みは大差がない。 先込め式はその充填工程は1860年アメリカの南北戦争でも大差なく、さすがに発火の皿はなく雷管の小さなキャップを発火口に載せて撃鉄で打ち裏側に塗られた化学薬品が打撃のショックで銃身内の火薬を爆発させることとなる。

それで私の4発目だ。 皿からは白煙が立ち上がるものの爆発はない。 1mmほどの穴が何かの具合で詰まっており火が内部に届かなかったのだろうともう一度こまかな火薬を皿に載せ再度引き金を引くが同じことだ。 はて面妖な、そこで残った試験管と弾の数を数えてみると試験管の数が一つ多い。 ということは火薬を込めずに弾を込めている。 これでは100年たっても撃てない。 それどころかこれは問題だ。 どうやって鉛の詰め物を一方しか空いていない筒から取り出すか。 仕方がないのでスイス万能ナイフに付いたねじ回しで幾つかのねじを外し筒だけを取り出し筒先を下に向け床に何度も打ち付けて弾が落ちてくるの待ったがそれぐらいではなんともならない。 

それまでの3発は6,7分の間に発射してあったがこの時点で既に15分ほどが経過している。 1mmほどの穴は直径6,7mmのネジの中に穿たれておりこのネジを外して空いた穴に細かい火薬を注ぎ再びネジを戻し筒を木製部分に固定して通常道理の工程で発火させたら申し訳程度に衝撃があり弾が5mほど飛び出してころりと床に落ちた。 その時点で規定の30分はとうに過ぎており失格とはならないものの的中央から程遠い惨めな3ポイントと4ポイントの穴が3つだけだった。 

どこで虚けたのだろうか、何度も経験している射撃ブースのテーブルの上にはいつもの材料が並べてあるというのに。 考え事でもしていたのだろうか。 わからない。 ま、気が抜けていたということかもしれないし、陽気と仲間の雰囲気から気持ちも弛んでいたのだろう。 安全に関しては万全なのだが銃に火薬が入っていなければただの厄介な鉄のかたまりでしかない。

立野正裕 「精神のたたかい   非暴力主義の思想と文学」 2007年6月
ISBN-978-4-434-10253-0  542頁

上の書物をアムステルダムからジャズ・コンサートの帰りの夜汽車で読んでいた。

もう30年ほど読んでいる日本の戦争文学の作家との対談の含まれたもので興味深く読んでいる。 自分自身凶器ともなりえる銃器をスポーツ、趣味として普段扱っており、時が時ならばすぐさま戦争や抗争の道具として用いられうるものである。 非暴力主義者にとっては厄介な道具であり20年以上前には銃を両手で折ったデザインのバッジを胸につけていたしそれはまだ机の引き出しのどこかにあるに違いない。

私は自分の銃器を人を殺傷するための道具として使わないだろう。 そのようなことがないことを切に願っている。 個人のレベルだ。 しかし、世界には銃器が氾濫しており大国、小国の武器輸出、軍需産業は衰えることはない。 そこでの非暴力主義であるのだが現在ページを進めているのは第一次大戦欧州戦、特に米国の南北戦争、ゲティスバーグの戦いの様子だった。 

上記書籍109、110ページの記述は。

南北戦争当時、交戦はふつう三十メートルほどの距離を隔てておこなわれた。 最初の一分間で、数百人の敵兵をなぎ倒すことが出来るだろうと北軍の参謀達は見積もった。 ところが実際に斉射をおこなってみると、連隊全体でもせいぜい一人か二人しか殺せないことが判明した。 規則的な斉射の反復によって銃弾を間断なく浴びせれば、敵の陣形は総崩れとなるはずだった。 実際にはそのままぶっ通し何時間たっても、銃火の応酬だけが続いたのである。 

やがて射撃をおこなっている長い横隊に崩れが見え始めた。 黒色火薬のものすごい煙と臭いの中で、兵士たちのあいだに混乱が伝達するのは早い。 銃の響きと負傷者の悲鳴を耳にしているうちに神経までおかしくなる。 機械の歯車のように当時考えられる最高の装備を施され訓練をうた兵士たちである。 整然と自己を律していた兵士達の内部にやおら人間性が戻ってくる。 突然彼らは自分のやりたいことをやり始める。 銃の装填をする者、武器を戦友に手渡す者、負傷者の介抱に余念のない者、煙に巻かれてさまよい出す者、手ごろな窪みに隠れて身を丸めてしまう者。 そしてなかには前線から逃げ出す者もいる。 (ほとんどの国では敵前逃亡は軍法会議にかけられ多くの場合銃殺の刑があたえられる。兵士は前からも後ろからも弾丸が飛んでくる、といわれる) (続)

激戦として知られるゲティスバーグの戦いのあとを調査したところ、戦場から回収された二万七五七五挺のマスケット銃のうち、およそ90パーセント(二万四000挺)は弾薬が装填されたまま放置されていた。 そのうち一万二000挺は一発だけでなく、複数の弾丸が装填されていた。 マスケット銃は弾薬を銃口から詰めるいわゆる先込め式の単発銃である。 にもかかわらず、複数の弾丸が装填されていたのはどういうわけか。 不思議はそれだけではなかった。 さらにそのうち六000挺には、三発から十発もの弾丸が装填されていた。 いちばん装填数の多い銃には二十三発の弾丸が詰め込まれていた。 この事実は何を物語るのか。 調査者グロスマンの記述を要約するとこうなる。

ゲティスバーグの一万二000の兵士達は、戦闘のショックで頭が混乱し、誤って二重装填をしでかして、そのあとに発砲するまもなく全員殺されたのであろうか。 そうではない。 一万二000の半数にあたる六000人は、二重どころか三重四重に装填している。 それでも発砲していない。

しかもこの事実は第二次大戦期までの兵士についても同様に看取し得るとグロスマンは書いている。 第二次大戦中、八十パーセントから八十五パーセントの兵士達が敵に発砲できなかったというのである。 それは南北戦争において偽装発砲に終始した兵士達の場合と、同じ理由にもとづくものだった。 すなわち、兵士は敵を殺そうとしなかったのである。 発砲すらしなかったのだから、殺すことはもとより、発砲そのものに対しても抵抗をおぼえていたと考えなければならない。 逆に言えば、この抵抗感が兵士の内部にはたらいたため、彼らは敵に向けて発砲することができなかったのである。 (引用完)

この部分での著者立野の引用はデイヴ・グロスマン「戦争における「人殺し」の心理学」からであり、グロスマンは米国陸軍に二十三年間奉職した元陸軍中佐、ウエストポイント陸軍士官学校で心理学および軍事社会学教授、アーカンソー州立大学で軍事学教授を歴任、キロロジー、つまり殺人学の研究者である。

私はこの書物にとりついたばかりのところであるのだが、既に100ページあまりでトルストイがガンジーに与えた影響、映画に現れた非暴力主義、DHローレンスの発禁処分になった著書は性描写というよりもその非暴力主義が政府の政策に反するものであったものもあったことが明らかにされ、狩猟をこのんだヘミングウエーの著作、「武器よさらば」「誰がために鐘は鳴る」での非暴力主義、戦線離脱についての言及もある。 その後、大岡昇平、花田清輝、大西巨人、サイード、チョムスキーなどの著作に言及することとなる、と目次にある。

今日はからずも趣味の射撃で起こった空打ちに関連して、その逆に装填したものを発砲しなかった記述を読み、想いが幾分か重なった。 状況はまるで違うものの起こりうることである。 現に、先週にテレビで示されたアフガニスタン復興を目的のNATO参加国オランダ兵がタリバン兵たちと銃撃を交わす場面が8時のニュースで示され、家庭に戦場の模様が生々しく衝撃的に伝えられたのだが、これは圧倒的に数の少ない劣勢のオランダ軍を増強させるためのメディア操作であるとの批判もあるなか、政府は増援を決めて二ヶ月ほどのあいだに援軍を送り込むこととなる。 この兵士達には上記に示した未発砲などということは起こりえないし、訓練の段階で基本的には「敵」を限定するのに厳重な規定があり上官の命令でしか発砲してはいけないということが言われているがこれも基本的にはこの数世紀変化のない軍規である。 湾岸戦争時オランダ軍兵士の市民への発砲があり死亡事件を起こしているが軍法会議による軍法、通常のオランダ刑法どちらを優先させるかで話題になったことがこの5,6年の内にあったがいずれにせよ兵士は無罪となり市民が死んだ。

大戦中、日本兵の行動がどのようなものだったのか興味のいくところである。 また、現在防衛庁から防衛省となった国の軍隊である。 日本は世界の中でどのような働きをするにしても経済援助だけではすまされない趨勢のなか、支援の内容が国会の懸案となっている現在である。 世界の中で国連安全保障理事会常任理事国になりたい日本であり、湾岸戦争ではオランダ軍と肩をならべ、もし、オランダ軍が攻められ敵が迫ってきた場合それにわざわざ巻き込まれ援護の弾丸を発砲、と言明をだした将校がいてそれに対応するのに大臣は、法の中で事態の処理をおこなう、と国会に下駄を預けたコメントを出したのはつい先日である。  

紛争地帯では世界はエネルギー確保のために血をながす。 その抗争にためには幾つかの名目があり、それらは民主主義であり反テロであり反イスラム教過激派である。 必要な場合には、と言い、当該国に軍靴で踏み込み異国が偃武を試みる。 日本は後方支援といい、地域復興の医療、人的物的支援を行って来たが果たしてそれがいつまで思うように続くのだろうか。 かつて価値も規範も違う鬼畜の国、日本が大戦後、西洋民主主義を習得し慣らされ現在に至ったと厭戦気分の漂う国内にイラク派兵継続理由としてアメリカ流民主主義をまたぞろ持ち出したのはブッシュ大統領である。 そのスピーチにしてもまだ2ヶ月ほど前だったのではないか。 

民主主義についての再考が今世界中のメディアでおこなわれており、今夜もイギリスのBBCテレビ放送で日本の選挙の様子が、オランダのドキュメンタリーでは中国の武漢近郊の小学校低学年で級長選挙の父兄を巻き込んだ生々しい様子が社会のミニチュアとして照射されていた。