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いつでも君のこと好きだったよ

高安国世『街上』の鑑賞

2018-09-17 20:47:57 | 日記

 塔の7月号8月号の方舟欄(読者からの投稿ページ)に「高安国世『街上』を読む」という投稿が掲載されている。


 『街上』は私が塔に入って間もない頃、大阪歌会の大先輩とお話ししたときに、「高安さんの歌集はなにがいいですか」ときいたら、即答で「『街上』と『虚像の鳩』」と答えられ、他の歌集に比べて早い時期に読み、印象深い歌集のひとつとなっている。それで、この投稿を読んだのだけれど、正直びっくりした。


 全体で11首、歌が引用してある。そして、短く感想が添えられている。え、こんな歌だったかな。私のイメージとかなり違う。


 全歌集から『街上』の引用された歌を「連」で読み直す。そこで、引用されていた11首のうち4首に引用ミスを見つけて、全歌集と『街上』では表記が違うんだろうかと思って、事務所へ行ったときに確認したら、やはり、全歌集と『街上』の歌はまったく同じだった。古い歌集は特に、校正でそこまであたることはできないから、書く人が十分注意する必要があると思う。ひとつを例にあげると、「或る国の幻覚」が「或る国の厳格」になっている。しかも歌をそのまま文章にも書いているのでそこも違っている。


 高安さんの歌を知らない人も増えているので、残念でならない。


 でも、私が違和感を覚えたのは、添えられた感想というか鑑賞があまりにも自分の都合のいいように解釈されているところ。


 たとえば、


 ・腕組みて車道を歩く低く地に下りたる者の心となりて


 に対して、「高安氏もデモなどに参加し、時の政権にたいし批判的な立場であったと考えられる」と書かれている。


 これはデモ? 時の政権にたいして批判的な立場? 「腕組みて」の歌と上記の鑑賞だけを読んだら、高安さんが学生たちといっしょに腕を組んで車道を歩いてデモ行進している、というふうになる。私は「歩く」で切って読んで、憂鬱な気持を抱えながら一人腕組みしながら車道を歩いている、というふうに読んだ。


 この「遡る芥」という一連の最終7首をまとめて書いてみる。

 ・潔癖の正義感ついに我になし青年君ら我を置き去れ

 ・劇映画見ているうちに浄まりゆく我をはかなきものと思いぬ

 ・はじめて見る我に忽ち顔寄する犬のまなこにわが捉わるる

 ・光透くれんげの花のいつしかに我に幻シャルトルの窓

 ・汗垂り笑い学生ら駈けすぎしあと動きそむ警官のトラック十数台

 ・花かざし進む幾万その笑顔を疑わずいる幾分(いくぶん)かよし

 ・腕組みて車道を歩く低く地に下りたる者の心となりて


 1首めからは勢いある青年らから距離をおいているのがわかる。5首目と7首の歌を引いて「デモに参加した」と鑑賞されているのだが、前後の歌にはそんな緊迫感はないように思う。


 最後に自戒もこめて高安さんの言葉を転記しておく。

 

 一つの論を立てるのはよい。だが自縄自縛に陥らぬ闊達明敏さが必要である。 自ら規定したものに違わざらんとして些かでも自由を束縛し、真意をまげるに到れば不幸である。(1947.0916『高槻』第2巻第9号)『抒情と現実 今日の短歌 明日の短歌』(高安国世)

 

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